「とりあえず保健室、行くぞ」

 須田くんは言い聞かせるようにゆっくりしゃべった。
 でもわたしは反射的に首を横に振る。声以外ぐあいは悪くないのだから、保健室なんか行けないよ。

「いいから」

 すこし迷った末に須田くんはわたしの腕をつかんで立ち上がらせた。その反対の手で制服のポケットを探りかけ――。

「くそ、ハンカチ持ってねえっ」

 小さくうめく。
 わたしがグズグズと泣きはらした顔をしてるから気にしてくれたんだ。
 わたしはあわてて自分のハンカチを出して目を押さえる。びしょびしょのマスクも外した。すると須田くんはホッとしたようにつぶやいた。

「……顔にケガしてるんじゃないんだな。よかった」

 そして歩き出すのは保健室に行くつもりだろう。まだ腕を取られていたわたしは足をふんばり抵抗する。

「……でも林原、キツいんだろ? このまま五時間目、教室で受けられんの?」

 う。それはちょっと無理かも。動きを止めたわたしを須田くんは説得にかかる。

「もうすぐ休み時間終わるし……行方不明になるのはやめといたほうがいいと思う。早退するにしても先生に言わなきゃ。職員室に行くか?」

 ぶんぶん。わたしは大きく否定した。そんな人の多いところ嫌。

「だよな。だからいったん保健室にかくまってもらえよ」

 そう言って歩きはじめる須田くんは、わたしを連れてスロープを行った。保健室のある一階まで、いちばん人のすくないルートを選んでくれているんだ。
 気づかわれて、わたしは我がままを反省する。素直に隣を歩き出したら須田くんは腕を放してくれた。

「……綾野(あやの)って、なんかカンジ悪くないか」

 いきなり言われてびっくりする。
 それは咲季ちゃんのことだ。綾野咲季。
 こっちをチラリと見る須田くんに、わたしは首をかしげてみせた。どうしてそんなこと言うの?

「だって林原のこと頭ごなしにさ。いなくてもいいとか……」

 目をそらし、遠慮がちに小さくブツブツ言っている。
 やっぱり須田くんはさっきの話を聞いていたんだ。教室でしゃべっていたんだから、そりゃ耳に入るよね。でもそれを怒ってくれるなんて、どうして?
 訊きたいのに声を出せないことが、とてももどかしかった。須田くんとちゃんと話したい。
 
「あいつ、前も言ってたろ。歌のおねえさんのことで」

 ヒクッとわたしは息をのんだ。そして咳こむ。のどの違和感が急にひどくなった。

「ゴホッ、ケホッ!」
「え、おい」

 止まらなくなる。ゲホゲホいいながら急いでマスクをした。まだ涙で湿っていて気持ち悪かった。


 須田くん、あの日も聞いてたんだね。わたしがした最後の会話を。
 思い出すと苦しくて、咳とあいまって呼吸困難になる。胸を押さえながらなんとか保健室にたどりついた。


「あれれ、どうしたのかな?」

 保健の先生はわたしと須田くんを見て、空いていたベッドにすぐ通してくれた。わたしの状態は養護教諭にも共有すると、登校を相談した時に担任から言われている。

「えーと、なんか苦しそうなんで連れてきたんですけど……」
「そっかそっかありがとう。同じクラス?」
「はい、二年三組の須田です。あ、こっちは林原さん」
「うん、いちおう話は聞いてるから大丈夫」

 おばさんの先生はどっしりと笑う。教室に戻るのは無理そうかと訊かれてうなずいたら、須田くんが荷物を持ってくると申し出てくれた。そんなの悪いよと言いたいのに、伝える手段がないまま須田くんは出ていってしまった。

「まあ、ありがたいから任せておきましょ。ええっと、彼は……カレなの?」

 先生にコソッと訊かれ、ぶんぶん首を横に振る。そんな誤解されたら須田くんに申し訳なくて、わたし死んじゃいそう。
 あわてていると先生はメモとペンを出してくれた。わたしが話すための必需品だ。
 保健室で休ませてもらうなら何があったのか伝えなくちゃいけない。でもどうしてこんなに苦しいのか、泣いてしまったのか自分でもよくわからなかった。
 困っていたら、すぐに須田くんが戻ってくる。わたしのカバンの上に、机の中にあった教科書ノート、ペンケースを積み重ねて抱えていた。

「はい、これで全部だと思うけど」

 わたしはペコペコ頭を下げた。カバンを勝手に開けちゃまずいと思って、こういう運び方をしてくれたんだ、きっと。

「んじゃ」

 ぶっきらぼうに言うと、須田くんはさっさと出ていった。もう昼休みが終わる。

「親切な子だねー。さてさて林原さん、今日は早退する?」
「……」

 わたしはすこし考えた。
 気持ちはとても楽になって薬も飲まずにすみそうだけど、今さら教室に戻るのは……まぶたも腫れてるだろうし。メモに書く。

〈かえります〉

「うん、それでいいよ。じゃあ職員室に連絡するわ。で、そうすると明日からはどうしようか、てなるんだけど」

 明日。
 そうか。わたしは軽くくちびるをかんだ。

 声が出ないのは、学校で何かがつらかったからじゃないのか。そうお母さんは心配していた。だからしばらく欠席でいいと言ってくれたのに、休むのも怖くて無理に登校したのはわたし。それなのにまんまと一日目で失敗してしまった。

「欠席してると不安になるみたいだって親ごさんから聞いてるよ。たしかに出席日数がギリギリになっていくのは怖いよねえ。でも、しゃべらないでクラスにいるのも嫌でしょ。何かあってもヒョイヒョイ言い返せないし」

 先生は「しゃべらないで」と言ってくれた。しゃべれない、じゃなく。

「ひとつの手としては、しばらくここの隣の保健相談室に登校してみるのがあるわ。配慮が必要な時は、みんなが使っていい部屋なの」

 いわゆる保健室登校、だろうか。でもそんなの保健の先生には迷惑じゃないかな。それに教科書を読んでいるだけじゃ勉強も進まないかも。今日は授業だけなら教室にいても平気だったんだけど。
 どうすればいいのかグルグル考えながら、とりあえずわたしはカバンに教科書をしまった。その時ノートに知らない紙切れがはさまっているのに気づく。教室で会話するために持ってきたノートから、何かがはみ出していた。
 なんだっけ、これ。
 引っ張り出したら、ちぎられた紙片になぐり書きしてあった。


〈林原は 歌う人だとおもう〉

 ――わたしは、歌う人。


 心臓が速くなった。
 これを書いたのは……もしかして須田くん? 自分のノートか何かにメモし、渡してくれたのだろうか。

 保健室に来る前のことを思い出す。『歌のおねえさんになんかなれっこない』と咲季ちゃんに言われた時の記憶で、わたしは呼吸を乱して咳こんだのだった。須田くんは咲季ちゃんの言葉をあまり良く思っていないみたいだったけど……。


『俺、おまえの歌、好きだ』


 冬の公園で聞いた須田くんの言葉がよみがえる。
 あれはその場しのぎのごまかしじゃなく、本当の気持ちだとわたしは信じた。

 須田くんはわたしの夢を否定しない。
 このメモで、わたしに〈歌え〉と伝えてくれたんだ。

「……もちろん、欠席して様子をみてもいいのよ。一日ゆっくり休んだら元気出るかもしれないし」

 わたしの反応をうかがってくれる先生に、わたしは文字で答えた。

〈学校は来たいです〉

 学校に来て、須田くんと話したい。わたしの歌をどう思っているのか訊きたい。
 でも今はしゃべれないから――せめて手紙とかを渡してみよう。今日助けてくれたお礼として。

〈明日は、ほけん相だん室に来てみてもいいですか〉

「もちろん。じゃあ、そう手配しておくからね」

 手紙なら、教室に行かなくても須田くんに渡す方法はある。下駄箱に入れておけばいいんだ――とても古典的だけど。