なにものでもないぼくたちへ

 あれから一週間、実に平和な日常を送っている。堂本さんからは一度メッセージが送られてきた。唄さんに謝ったこと、二度と暴言を吐かないなら店に来る許可を得られたことが書かれていた。

 随分寛容だなぁ。まあ、店に来ていいってだけだから、唄さんにはただの客でしかないのかもしれないけど。

 堂本さんは唄さんとどうなりたいのだろう。そこまでは僕が顔を突っ込んでいい話ではないから聞かないけど、いつか良い友だちになれることを祈っておこう。

 廊下で例の女子とすれ違う。小声で挨拶をされたので同じように返す。くしゃっと笑顔で彼女は去っていった。これだけ見ると控えめでイイコなんだよね。若さが暴走しちゃったってところかな。でも、その一言で傷付く人がいる。それを彼女も気付いてくれるといい。

 ほんの少しずつだけど、良い方向に向かっている気がする。今日は僕にも良いことがありそうだ。

 授業も部活も何事もなく終わる。朝川さんとも会話した。これが平和な日常か。このまま毎日が進んで、受験も無難に終わるといいなぁ。

 そこでふと思った。無難、か。そうだ。無難なんだ。僕の思い描く理想は。本当は、もっと奥の底が存在しているのに、そこに蓋をして見ないようにしている。いつかは言わないといけないと思っている。でも、逆に何故言わなければならないのかとも思っている。

 家族なのだから、共有すべきだと思う反面、家族でもプライバシーというものがあるとも理解している。

 だから、僕の趣味嗜好を全て曝け出す必要は無い。

 でも、それが逃げている気がしてならない。

 何が正解なんだろう。このままでいいのか、誰か背中を押してほしい。本当は自分が自分の手を引くべきだ。僕は僕の足で歩いていかないと。なんて、思うだけなら簡単だ。

 帰り道、まだ空は明るい。僕の心も明るい。今ならいけるんじゃないかって気になる。僕の心を家族に──なんて。

 キキィ──ッ。

 そんな時だった。耳をつんざく音を聞いたのは。右を向くと、車が僕の目の前にいた。慌てる運転手さんの顔がよく見える。左手にはスマートフォンが握られていた。

 僕は冷静だった。これは轢かれてしまう。逃げなくては。でも、僕の頭とは裏腹に、一瞬の出来事に対して体は動かなかった。

 駄目だ。

「わ……」

 体が宙に浮いている。不思議な感覚。痛みは無い。無いけど、ないから、死ぬのかな。今日、全然良いことなかった。はずれちゃった。

 スローモーションが終わり、僕の体は地面に叩きつけられた。やっと痛みが襲ってくる。全身が痛い。痛すぎるのに、痛すぎて声すら出ない。助けを求めたくても、手が動かない。

 運転手が降りてきた。この世の終わりみたいな顔をして僕に何か話しかけている。でも、聞こえない。耳がうまく機能していないらしい。自分の体なのによく分からない。しばらくして、救急車がやってきた。その頃には痛みも引いて、僕は眠気に襲われた。
『…………』

 翌朝土曜日。僕は怖い顔をした朝川さんと病室で対面していた。

 昨日の放課後、交通事故により救急車で運ばれた。幸い左手首の骨にヒビが入っただけで、それ以外は打撲と診断された。脳震盪を起こしていたものの、病院に着く頃には意識も取り戻していた。

 信号無視をした運転手さんはこちらが申し訳なくなるくらい泣いて謝っていた。まあ、あちら側が悪いので賠償はしてもらうと親が言っていたけど、僕は利き手じゃなくてよかったなぁとぼんやり思うくらいで終わった。実感が湧かなかっただけだと思う。だって、朝川さんが慌ててお見舞いに来てくれてからずっと、心臓が五月蠅いくらい叫んでいる。

「もう、心配したよ」

 ようやく表情が和らいだ朝川さんに安心する。たいした怪我じゃなかったけど、朝川さんを困らせてしまったのが何より心苦しい。

「ごめん、朝っぱらから来させちゃって」
「謝らないで。頼田君は悪くないじゃない」
「たしかにそれはそう」

 二人で声を出して笑う。なんか面白くなってきた。今日一日は検査入院するからつまらなかったけど、朝川さんが来てくれただけでこんなにも違うのか。

 いつもと同じ朝川さん。表情豊かな朝川さん。意外とよく笑う朝川さん。ああ。

「好きだなぁ」
「えっ」
「あっ」

 僕は慌てて口を押さえたけれども遅い。すでに言葉はぽろりと落ちている。

 この事実に、朝川さんより僕が驚いていた。視線を泳がせていると、朝川さんの方が先に動き出した。

「ね、今の言葉。友だちとはまた違う意味ってことで合ってる?」

 ずい、と寄ってきた顔が眩しくて、僕は目を瞑りそうになるのをどうにか堪えながら頷いた。

「ごめん。今言うつもりはなかったんだけど、ぽろっと出ちゃった」
「あは。自然に出ちゃうくらい私のこと好きってことでいい?」
「うん。いい、いいよ」

 もうこうなったら本音で言うしかない。半ばやけになった僕を見て、朝川さんはけらけらと笑った。朝川さんが笑ってくれるなら、それで十分です。

「そっか。そっかあ」

 窓から差す光が感慨深気に呟く横顔を照らす。彼女は今何を考えているのだろう。それすら分からないのに、僕たちはお互いとても近いところにいる。

──ごめん。せっかくの楽しい関係に水を差して。

 そう言おうと思ったけれども、心の中で留めておいた。こんなことを言われるのは望んでいない。いつだって、僕たちはお互いを向いていた。

 どんな返事でもいい。もしもNOを突き付けられて今の関係から遠のくことになっても、それは僕の責任だ。でも、ちょっと、いやかなり悲しい。

 手に汗を滲ませながら待っていると、朝川さんがちょいちょいと手招きをした。これが最後の距離かもしれない。緊張した面持ちでそっと上半身を前に出した。すぐ目の前にある瞳が細まる。

「親友で恋人。いいね、それ」

 朝川さんが小声ではっきりと言った。僕の心が爆発した。

「それって」
「うん、そう。私も同じってこと」
「親友で、恋人……!」

 僕はなんて現金なんだ。

 今の今まで暗い未来を覚悟していたというのに、たった一言で頭の中が満開の花畑で埋まってしまった。

 でも、だって、だってさあ。仕方ないじゃないか。好きな人が、僕を好きなんだ。

「嬉しい! ありがとう!」
「あはは。結構照れるね、これ。人のこと好きになったの初めてだから、こういうの全部初体験」
「僕もだよ」
「それは嬉しい」

 二人して手を取り合う。途中でヒビが入っていることに気が付いて痛みに悶えて、また二人で笑った。

 これからも僕は僕だけど、さっきまでの僕とは違うものになった。

 ありがとう。僕、前へ向いて進めそう。
 退院して一週間。まだヒビが治っていないけれども、着替えの時以外はあまり苦労せず学校生活を送れている。

「おはよ」

 階段を上ろうとしたところで後ろから声をかけられた。朝川さんだ。一緒に階段を上る。恋人になっても、朝川さんとは何も変わらず楽しく過ごせている。考えてみれば、二人でしたいことはすでにしていた。恋人という名前が増えただけだ。あまり急がず、二人のペースでずっと歩いていけたらいいな。そんなことを思っていたら、途中で朝川さんが僕の後ろに身を隠した。

 見上げると中井先生が下りてきた。なんか、前にもこんなことあったな。

「お早う御座います」
「おはよう」

 中井先生がちらりと僕の後ろを見遣ったけれど、何も言わず一階に下りていった。僕たちが二階に着いたところで朝川さんが息を吐く。

「そんなに苦手なんだ」
「あれ、お父さん」
「え、あ、そうなんだ」

 もう見えなくなった背中を思い出す。似てるかな、分からなかった。それにしてもよそよそしい気がする。あれ、名字……。
すぐにその答えが返ってきた。

「元、だけどね」
「そっか」
「うん」

 情けない僕は気の利いた一言も言えなかった。二人で空き教室の前まで歩いていく。

「ね、つまんない話、ちょっとだけ聞いてくれる?」
「いいよ」

 朝川さんは前を向いたまま話し始めた。

「私の顔、お母さんに似てるんだって。高校受かったことをお父さんに電話したら、明らかに声が沈んでたの。あ、私の顔見ると思い出すんだって。私の顔見たくないんだろうなって思っちゃって」

「もしかして、マスクしてる理由って」
「うん」

 それで話はおしまいになった。

 マスクをしていたのは自分の都合なのだと軽く考えていた。その奥に何があるかなんて、他人だから踏み込まない方がいいと壁を作っていた。

 いつも自由で、前向きな朝川さんにもこんな悩みがあったなんて。傍にいたのに全然気が付かなかった。

 なんて、勝手に傷付く僕が恥ずかしい。知り合ってまだ何か月も経っていない人間に悩みを早々打ち明けてくれるわけがない。僕が彼女に打ち明け過ぎなだけだ。

 でも、もう知っている。

 こうして朝川さんは壁だけのそこに窓を作ってくれた。これからは僕も友だちとして、恋人としてできる限り歩み寄りたい。

 朝川さんは、この高校にお父さんがいるって知っていて受験したんだと思う。きっと、お母さんに付いていった朝川さんは、本当はお父さんのことを嫌っていない。

「僕の独り言、聞いてくれる?」
「いいよ」

「僕は朝川さんが優しいことを知ってる。家族にすら気を遣う優しい子だって。でも、それでずっと隠さなくても、誰も文句は言わないと思う。もし言う人がいたら僕が盾になる。だから、いつか、その気分になったらでいいから、朝川さんの笑顔を学校でも見たいな」

「ふふ、ありがと」

 勝手な僕の希望をつらつら垂れ流してしまった。マスクの下で笑ってくれたから、とりあえずいいか。

 教室が見えて、朝川さんが先に入った。一瞬、後ろを振り向いて言う。

「私、頼田君がいて学校が楽しくなったよ」
「僕も」

 初めて秘密を打ち明けた親友。二年生になっても、ううん、卒業しても一緒にいられたら素敵だな。

 その日の朝川さんはなんだか面白かった。授業中、初めて手を挙げて発言していたし、前の席の人からプリントを渡された時わりと大きい声でお礼を言っていた。前の人びっくりしてた。僕も驚いた。

「朝川さんって、思ったより怖くないかも」

 十分休み、そんな声が聞こえてきた。朝川さんは席にいない。うん、怖くないよ。心の中で同意してみる。

 その日は熱い中の部活で大汗を掻いて、帰宅したらすぐシャワーを浴びた。これから毎日暑いんだろうな。

 部屋でごろごろしていると、朝川さんからメッセージが届いた。

『頼田君ってすごいね』
「え、何が?」

 急な言葉に困惑する。僕がすごいことなんて、今日までずっとなかった。朝川さんの方がずっとすごいよ。思ったまま返せば、すぐに朝川さんから返ってきた。

『頼田君に今日言われたこと、本当に嬉しかったの。そしたら、なんで顔を隠して、優しくない、もう離れた人の顔色ずっと窺ってるんだろうって笑えてきちゃった。ありがとう』

 ああ、先生のことか。ようやく合点がいった。でも、僕はただ思ったことを伝えただけで、前を向いて考えられるようになったのは朝川さん自身の力だ。僕は朝川さんの真似をして、ほんの、ほんの少し背中を押してみただけ。だから、最初から自分自身の力なんだよ。

『お礼に、明日は私が頼田君に元気あげるね』

 そんな言葉で会話が終了した。

 朝川さんが元気をくれるらしい。

 なんだろう、言い方からして物ではなさそう。

「なんでもいいか。朝川さんがくれるんなら、何だって嬉しいし」

 単純な僕は明日を楽しみにして早々寝ることにした。
「あ、待ち合わせすればよかった」

 翌朝、いつもの電車、いつもの時間。僕は高校が見えたところで気が付いた。せっかく元気をもらえるのに、学校で生徒が沢山いたら渡してもらえないかもしれない。

 登校時間は同じくらいだから、教室に行くまでに会えたらいいなぁ。

「頼田くーん」

 そんなことを考えていたら、後ろから朝川さんの声がした。学校で朝川さんが大きな声を出すことはない。もしかして、これが“元気”かな? 振り向いた僕はそれが間違いだということを身をもって理解させられた。

「あ!」

 朝川さんより大声を出してしまった僕が固まる。朝川さんの周りがざわざわし始めた。

「なあ、あれ誰!? 可愛い!」

 うんうん、可愛いよね。朝川さん。僕だけが知っているはずだったのに、何故皆驚いているかと言うと。

 朝川さんが。

 マスクをしていないから!

 口をパクパクさせていたら、僕に追いついた朝川さんが僕に手を振った。

「おーい、びっくりした?」
「う、うん、すごく、今も」
「あはは、大成功。元気になった?」
「うん」

 昨日の夜からいろいろ予想していたけど、どれも違っていた。まさか、僕の一言で入学以来続けていたマスクを外すなんて思ってもみなかった。

「ふふ」
「ありがとう」
「それはこっちの科白だよ。ありがと」
「うん」

 素顔で登校した朝川さんは、朝日にも負けない眩しい笑顔だった。僕にとって一番の光だ。これ以上の人は見つからない、そう思える程に。

 その日の朝川さんはなかなかに人気者だった。大っぴらに声をかける人はほとんどいなかったけど、遠巻きに見ているのは本人じゃない僕でも分かった。みんな分かりやすいなぁ。

 ちょっと寂しい気もするけど、それ以上の嬉しさがある。だって今日、二人の関係に新しいものが加わったから。

 部活のある僕と違って朝川さんは早く帰っていった。帰り際、教室で僕にバイバイってするものだから、数人の男子にどういう関係か聞かれた。親友だと答えておいた。これも合ってる、よね。

「濃い一日だった」

 まるで今日が五十時間あったみたいな充実感。朝川さんはすごい。あの一歩は大きな一歩だ。

 僕も変えられるかな。変わらないものもあれば、変わっていくものも、変えたいものもある。人間って不思議だ。

 そんなことを考えたら、急に心臓の鼓動が速くなった。

 胸に手を当てる。びっくりするくらい、手のひらに伝わってくる。

「生きてるもんね。生きてるんだから、もっと自由にしてもいいか」

 僕だってこうして人生を歩いている。時には間違うことだってあるけれど、進んでみないと何も分からない。朝川さんは身をもって教えてくれた。それなら僕も。ここからまた始めるんだ、新しい人生を。

「ただいま」
「おかえりー」

 いつもの調子のお母さんの声。僕を育ててくれている、暖かい声。いつだって味方をしてくれていた。もしかしたら、冷たい言葉が返ってくるかもしれない。でも、笑顔で抱きしめてくれるかもしれない。

上手く行くことばかりじゃないって知っている。少しくらいつまずいたっていいじゃないか。未来は無限にあるんだから。

「お母さん。あのさ、聞いてほしいことがあるんだけど」

     了

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