◇
近頃おかしな客がいる。いや、正しくはおかしな通行人だ。唄は不本意ながら見慣れてしまった人影を今日も眺める。
一週間程前だろうか、彼を見かけたのは。この界隈には珍しい、スーツ姿のサラリーマンだ。決まって十九時頃、彼は店の前を通る。最初はこの辺りに用事があると思っていたが、この辺りで彼が必要とする店はあまり無いことに気が付いた。そして決まって、唄の店で一瞬立ち止まって、また歩き出すのだ。
もう四回は見かけている。もしかしたら、気付いていないだけでもっと通っているかもしれない。何の用事があるのか知らないが、あまりうろつかないでほしい。
「と言っても、悪いことをしているわけじゃないから、こっちから注意はできないのよね」
客が怖がるといけないので、早いところ謎の行動を止めてほしいものである。
──ちょっと探りをいれてみよ。
今日は最後の客がちょうど帰ったところなので、もう店を閉めようと考えていたところだ。ちょうどいいので、店の外に出て看板を片付けることにした。
幸か不幸か、ドアを開けたところで件の男と目が合った。さり気なく会釈をしてみると、心なしか嬉しそうにこちらへ寄ってきた。邪見にもできず、愛想笑いを浮かべて待つ。
「あの、すみません。この辺にスーパーはありますか?」
「スーパーですか。それなら、ここを真っすぐ行って突き当たりを右に曲がって、五分くらい歩けばありますよ」
「そうですか。有難う御座います」
予想外にサラリーマンは爽やかに去っていった。変に絡まれることもなかった。もしかして、最近この辺りに越してきて仕事帰りに散歩をしていただけだったのか。唄は肩透かしを食らい、息を吐いて看板を店内に仕舞った。
「なんだ、変な人じゃないのか。よかった」
以前、ネイルの客がパートナーを連れてやってきたことがある。その時はネイルオフだけだったので三十分強の作業であった。その間、彼は店内を見て回っていたのだが、客と唄の会話が聞こえ、唄が男性であることを知った。
その時の彼の顔はひどいものであった。まるでゴミ捨て場のゴミを見るような、汚いものを見る瞳。声には出さなかったものの、彼の気持ちがありありと伝わってきた。
自分が社会においてマイノリティに属していることはよく理解している。心無い声を浴びせられたこともある。だから、今日の彼も何か言ってくるのではないかと思ったのだ。
それが外れて唄は心底安心した。
「私だって男のくせに、妙に男を避けちゃうのよねぇ。経験って嫌」
窓ガラスに映った自身の顔を見つめる。顔を斜めにさせてにこりと笑ってみる。
「うん、可愛い唄ちゃん。今日は飲んじゃお。ビールあったかしら~」
唄は二階の自宅に上がり、鼻歌を歌いながら冷蔵庫から冷えたビールを取り出した。
ソファに座ってビールを呷る。喉を通る爽快感に一日の疲れも飛ぶ。
「この勢いで、本当に女になろうかな……なんてね」
唄は戸籍では男で、手術も何もしていない。ただ、見た目を女性らしくしているだけだ。本当は、完全な女性になりたいと思っている。でも、思いとどまっているのは、もらった体を傷つけたくないと思っているからだ。
古臭い考えなのは承知だ。今は整形だって流行っている。そこまで気にする程のことでもないのかもしれない。それでも、気にしてしまう。
「この恰好を許してくれる優しい人たちだからこそ、躊躇しちゃうのよ」
唄は空になったビール缶をテーブルに置き、冷蔵庫に手を伸ばした。
近頃おかしな客がいる。いや、正しくはおかしな通行人だ。唄は不本意ながら見慣れてしまった人影を今日も眺める。
一週間程前だろうか、彼を見かけたのは。この界隈には珍しい、スーツ姿のサラリーマンだ。決まって十九時頃、彼は店の前を通る。最初はこの辺りに用事があると思っていたが、この辺りで彼が必要とする店はあまり無いことに気が付いた。そして決まって、唄の店で一瞬立ち止まって、また歩き出すのだ。
もう四回は見かけている。もしかしたら、気付いていないだけでもっと通っているかもしれない。何の用事があるのか知らないが、あまりうろつかないでほしい。
「と言っても、悪いことをしているわけじゃないから、こっちから注意はできないのよね」
客が怖がるといけないので、早いところ謎の行動を止めてほしいものである。
──ちょっと探りをいれてみよ。
今日は最後の客がちょうど帰ったところなので、もう店を閉めようと考えていたところだ。ちょうどいいので、店の外に出て看板を片付けることにした。
幸か不幸か、ドアを開けたところで件の男と目が合った。さり気なく会釈をしてみると、心なしか嬉しそうにこちらへ寄ってきた。邪見にもできず、愛想笑いを浮かべて待つ。
「あの、すみません。この辺にスーパーはありますか?」
「スーパーですか。それなら、ここを真っすぐ行って突き当たりを右に曲がって、五分くらい歩けばありますよ」
「そうですか。有難う御座います」
予想外にサラリーマンは爽やかに去っていった。変に絡まれることもなかった。もしかして、最近この辺りに越してきて仕事帰りに散歩をしていただけだったのか。唄は肩透かしを食らい、息を吐いて看板を店内に仕舞った。
「なんだ、変な人じゃないのか。よかった」
以前、ネイルの客がパートナーを連れてやってきたことがある。その時はネイルオフだけだったので三十分強の作業であった。その間、彼は店内を見て回っていたのだが、客と唄の会話が聞こえ、唄が男性であることを知った。
その時の彼の顔はひどいものであった。まるでゴミ捨て場のゴミを見るような、汚いものを見る瞳。声には出さなかったものの、彼の気持ちがありありと伝わってきた。
自分が社会においてマイノリティに属していることはよく理解している。心無い声を浴びせられたこともある。だから、今日の彼も何か言ってくるのではないかと思ったのだ。
それが外れて唄は心底安心した。
「私だって男のくせに、妙に男を避けちゃうのよねぇ。経験って嫌」
窓ガラスに映った自身の顔を見つめる。顔を斜めにさせてにこりと笑ってみる。
「うん、可愛い唄ちゃん。今日は飲んじゃお。ビールあったかしら~」
唄は二階の自宅に上がり、鼻歌を歌いながら冷蔵庫から冷えたビールを取り出した。
ソファに座ってビールを呷る。喉を通る爽快感に一日の疲れも飛ぶ。
「この勢いで、本当に女になろうかな……なんてね」
唄は戸籍では男で、手術も何もしていない。ただ、見た目を女性らしくしているだけだ。本当は、完全な女性になりたいと思っている。でも、思いとどまっているのは、もらった体を傷つけたくないと思っているからだ。
古臭い考えなのは承知だ。今は整形だって流行っている。そこまで気にする程のことでもないのかもしれない。それでも、気にしてしまう。
「この恰好を許してくれる優しい人たちだからこそ、躊躇しちゃうのよ」
唄は空になったビール缶をテーブルに置き、冷蔵庫に手を伸ばした。


