その日、お父さんが帰ってきた。お父さんはお母さんが全く家事できなくなってしまったのを、腫れ物を障るような感じで扱っている。
「ただいま……智佐、お母さんは?」
「お帰り。今日もお母さん、元気なかったよ?」
「そうか……」
病院に行ったり、カウンセリングに行けばって言うのは簡単だけど。でも。
薬飲んで寝て、体が元気になったら余計にお兄ちゃんが死んでしまった現実に耐えきれずに自棄を起こしそうで怖い。前に図書館で読んだ本にも、落ち込んでいる人が一時的に元気になったときが一番危険ってことが書いてあったように思える。
私は黙って夕食の用意をしている中、お父さんが「なあ」と言う。
「なに」
「智佐のほうは大丈夫なのか?」
「……どうだろ」
私、なんにも期待されてないしなあ。
お兄ちゃんが優秀過ぎたんだ。お兄ちゃんの受験勉強中は、私は静かに邪魔にならないようにしてなさいと、スマホを渡され部屋に押し込められて放ったらかしにされていた。お兄ちゃんの就活中も「落ちたとか滑ったとかは駄目」と私のドラマ鑑賞とかもあれこれ言われるものだから、部屋でスマホ点けて動画サイト見るしかなかった。仕方ないから流行曲も全部動画サイトで見ていた。
お母さんもお父さんも私のこと放ったらかしにしていたから、今更気が付いたようにかまわれても困る……というか。
お兄ちゃんのようにはなれない私に、お兄ちゃんみたいなものを期待されても鬱陶しいし、今更親面されてもものすごく迷惑。なによりも。
……特にお兄ちゃんと会話した覚えもないから、今更「お兄ちゃんが死んで寂しいね」とか言われても、どの面下げて言ってるんだとしか言えない。
それを素直に言う訳にもいかず、私はひとまず麻婆豆腐と卵スープを出した。
「冷めるよ」
「ありがとうな」
ご飯をよそって出しながら、もやもやしたものを考えた。
この出口のない環境、どうしたらなんとかなるんだろう。誰にどうこう言っても駄目で、私はただ、息を吐き出していた。
****
私は薄情なのかもしれない。ほとんどしゃべったことのないお兄ちゃんが死んで「可哀想」と言われても、そっちの方面だと全然可哀想じゃないって思ってる。
むしろ現状のほうが大変なんだよと言っても、友達との付き合いに全然乗れない無愛想扱いされるのも嫌で、ただ毎日をなんとなくやり過ごしている。
いい加減中間テストがはじまるし、家事をどうにかして手抜きできないだろうか。あんまりやったことないけど、一週間つくりおきをして、なんとかテスト勉強する時間確保できないかな。
そう思いながら、図書館に足を向けて後悔する。普段は全然人のいない図書館に閲覧席だけ鮨詰め状態になっているのを見て、げんなりする。
司書さんが目を光らせているおかげで、騒いで勉強中断させる集団はいないものの、なんとなく人の気配が多くて鬱陶しい。それでもとりあえず勉強しないとと、私はなんとか参考書とノートを広げて勉強をはじめる。
数学と英語の授業を終え、暗記科目のメモ帳をつくったところで、一旦休憩で本棚に足を向けた。本を読もうかなと思っていたら、またあのファンタジー小説が本棚に刺さっていることに気付いた。
私はそれを引っ張り出して、ルーズリーフを見た。
少しだけ目を見開く。
【わかる。ぜんぜんわからないきもちを
かってにだいべんするなよとおもう】
相変わらず漢字が不自由みたいだけれど、今までで一番長文が返ってきたことに、少なからず心が躍った。
私はそのルーズリーフを抜き出すと、いそいそと自分の席に戻って返事を考えはじめた。
誰もかれもがテストの結果に夢中でこちらを見ないから、おかげでゆっくりと返事の内容を捏ねくり回すことができた。
【人が人の代わりになんてなれる訳ないもんね】
そこまで書いて、私はまじまじと文字を見た。
癖字ではあるし、漢字が全然書けないものの、読みにくくはない文字を書いている子。女子なのか男子なのかはわからないけれど、こんな風に鬱屈している気持ちを誰かと共有したがるのは女子なのかなとぼんやりと思った。
どんな子だろう。私はルーズリーフに書いた文字のインクが乾いたのを確認してから、あのファンタジー小説に挟んでおいた。
私みたいに、誰かの替わり扱いされたり、腫れ物扱いされているのかもしれない。勝手に不幸のカテゴリーに入れられて、しんどい想いをしているのかもしれない。もしかしたら、私と同じように、友達との付き合いから切り離されてしまったのかもしれない。
こうやってルーズリーフで手紙のやり取りをしている子だから、もしかすると気が合うんじゃないかな。
そうは思ったものの。
ネットリテラシーの授業でたびたび言われるのは【名前のない相手にひとりで会うのは危険】だということ。
校内の図書館で手紙のやり取りをしているんだから、普通に生徒では? とは思うけれど。もしかすると手紙では親切に見せかけたヤバい子かもしれないし、人の不幸をばら撒いてせせら笑っている子かもしれない。
だとしたら、この手紙の子に【会わない?】って書くのは危険なんだろうな。
そこまで思って、私はルーズリーフを挟んだ本を、本棚に差し直した。
まとめづくりをして、試験勉強に集中しよう。そう思いながら。
「ただいま……智佐、お母さんは?」
「お帰り。今日もお母さん、元気なかったよ?」
「そうか……」
病院に行ったり、カウンセリングに行けばって言うのは簡単だけど。でも。
薬飲んで寝て、体が元気になったら余計にお兄ちゃんが死んでしまった現実に耐えきれずに自棄を起こしそうで怖い。前に図書館で読んだ本にも、落ち込んでいる人が一時的に元気になったときが一番危険ってことが書いてあったように思える。
私は黙って夕食の用意をしている中、お父さんが「なあ」と言う。
「なに」
「智佐のほうは大丈夫なのか?」
「……どうだろ」
私、なんにも期待されてないしなあ。
お兄ちゃんが優秀過ぎたんだ。お兄ちゃんの受験勉強中は、私は静かに邪魔にならないようにしてなさいと、スマホを渡され部屋に押し込められて放ったらかしにされていた。お兄ちゃんの就活中も「落ちたとか滑ったとかは駄目」と私のドラマ鑑賞とかもあれこれ言われるものだから、部屋でスマホ点けて動画サイト見るしかなかった。仕方ないから流行曲も全部動画サイトで見ていた。
お母さんもお父さんも私のこと放ったらかしにしていたから、今更気が付いたようにかまわれても困る……というか。
お兄ちゃんのようにはなれない私に、お兄ちゃんみたいなものを期待されても鬱陶しいし、今更親面されてもものすごく迷惑。なによりも。
……特にお兄ちゃんと会話した覚えもないから、今更「お兄ちゃんが死んで寂しいね」とか言われても、どの面下げて言ってるんだとしか言えない。
それを素直に言う訳にもいかず、私はひとまず麻婆豆腐と卵スープを出した。
「冷めるよ」
「ありがとうな」
ご飯をよそって出しながら、もやもやしたものを考えた。
この出口のない環境、どうしたらなんとかなるんだろう。誰にどうこう言っても駄目で、私はただ、息を吐き出していた。
****
私は薄情なのかもしれない。ほとんどしゃべったことのないお兄ちゃんが死んで「可哀想」と言われても、そっちの方面だと全然可哀想じゃないって思ってる。
むしろ現状のほうが大変なんだよと言っても、友達との付き合いに全然乗れない無愛想扱いされるのも嫌で、ただ毎日をなんとなくやり過ごしている。
いい加減中間テストがはじまるし、家事をどうにかして手抜きできないだろうか。あんまりやったことないけど、一週間つくりおきをして、なんとかテスト勉強する時間確保できないかな。
そう思いながら、図書館に足を向けて後悔する。普段は全然人のいない図書館に閲覧席だけ鮨詰め状態になっているのを見て、げんなりする。
司書さんが目を光らせているおかげで、騒いで勉強中断させる集団はいないものの、なんとなく人の気配が多くて鬱陶しい。それでもとりあえず勉強しないとと、私はなんとか参考書とノートを広げて勉強をはじめる。
数学と英語の授業を終え、暗記科目のメモ帳をつくったところで、一旦休憩で本棚に足を向けた。本を読もうかなと思っていたら、またあのファンタジー小説が本棚に刺さっていることに気付いた。
私はそれを引っ張り出して、ルーズリーフを見た。
少しだけ目を見開く。
【わかる。ぜんぜんわからないきもちを
かってにだいべんするなよとおもう】
相変わらず漢字が不自由みたいだけれど、今までで一番長文が返ってきたことに、少なからず心が躍った。
私はそのルーズリーフを抜き出すと、いそいそと自分の席に戻って返事を考えはじめた。
誰もかれもがテストの結果に夢中でこちらを見ないから、おかげでゆっくりと返事の内容を捏ねくり回すことができた。
【人が人の代わりになんてなれる訳ないもんね】
そこまで書いて、私はまじまじと文字を見た。
癖字ではあるし、漢字が全然書けないものの、読みにくくはない文字を書いている子。女子なのか男子なのかはわからないけれど、こんな風に鬱屈している気持ちを誰かと共有したがるのは女子なのかなとぼんやりと思った。
どんな子だろう。私はルーズリーフに書いた文字のインクが乾いたのを確認してから、あのファンタジー小説に挟んでおいた。
私みたいに、誰かの替わり扱いされたり、腫れ物扱いされているのかもしれない。勝手に不幸のカテゴリーに入れられて、しんどい想いをしているのかもしれない。もしかしたら、私と同じように、友達との付き合いから切り離されてしまったのかもしれない。
こうやってルーズリーフで手紙のやり取りをしている子だから、もしかすると気が合うんじゃないかな。
そうは思ったものの。
ネットリテラシーの授業でたびたび言われるのは【名前のない相手にひとりで会うのは危険】だということ。
校内の図書館で手紙のやり取りをしているんだから、普通に生徒では? とは思うけれど。もしかすると手紙では親切に見せかけたヤバい子かもしれないし、人の不幸をばら撒いてせせら笑っている子かもしれない。
だとしたら、この手紙の子に【会わない?】って書くのは危険なんだろうな。
そこまで思って、私はルーズリーフを挟んだ本を、本棚に差し直した。
まとめづくりをして、試験勉強に集中しよう。そう思いながら。



