私のお兄ちゃんが自殺したのは、私が高校に入学して、少し経ってからだった。
 お兄ちゃんは成績優秀で、大学も成績優秀者として卒業を修めたと、うちの親たちはそりゃもう鼻高々だった。
 小学校の時点で既に優秀だったお兄ちゃんは、成績優秀だからとそのまんま中学受験を勧められ、成績優秀者しかもらえない返金不要の奨学金をもらって中高と卒業し、有名大学でも卒業して、私でも名前の知っている大企業に就職を決めたのだった。
 立派なお兄ちゃんと、みそっかすの妹。
 そう扱われることに慣れてしまった私は「ああ、そう。はいはい」くらいのものだったんだけれど。別に死んで欲しいと思ったことは一度もなく、お兄ちゃんの唐突な死を、私はどう受け止めていいのかがわからなかった。
 順風満帆過ぎるお兄ちゃんが折れてしまったのは、お兄ちゃんの就職先がブラックだったのか、職場環境が駄目だったのか、それとも頭がよ過ぎるから、頭の悪い人の気持ちがわからず、そのまま頭の悪い誰かの神経を逆撫でしてしまったのか。
 私は真新しい制服で線香の匂いを嗅ぎながら、家が壊れていくのを茫然と見ていた。
 お母さんはお兄ちゃんが死んだショックで寝込み気味になり、お父さんは酒の量が増えた。おじいちゃんおばあちゃんも初孫が死んだショックで体を壊しているのを、叔父や叔母、従兄弟たちが微妙な顔で見守っている中、当事者一家の私だけが、どこに感情を置けばいいのか、感情の置き場所を求めて困り果てていた。
 入学して数週間で忌引きを使ったせいか、はたまた私が喪服を着た親戚一同と歩いていたのが見られたのか、気付けばお兄ちゃんの自殺は学校中に広まってしまった。ここだけの話でSNSの通話ツールで拡散され、拡散が早過ぎて全くここだけの話じゃなくなってしまった奴だ。

智佐(ちさ)、大丈夫?」

 友達にそう尋ねられても、こちらとしても反応に困る。
 私自身、お兄ちゃんについてどうこうと思うところがない訳ではないけれど、それより後のことのほうが大変だから、なんとも言えないのだ。
 お母さんが塞ぎ込んでいるから、私が家事をしないと家が無茶苦茶になって満足に機能しない。お兄ちゃんの遺品整理だってしないといけないから、休みの日にはお兄ちゃんの下宿先に行って荷物の片付けをしている。
 そんなこと言ってもなあ、仕方ないじゃない。
 私は笑顔を貼り付けて、こう言うしかない。

「ヘーキ。心配してくれてありがとう」

 平気じゃない。助けてほしい。
 それを言って助かったことがない以上、言える訳がなかった。

****

「はあ……」

 お兄ちゃんの遺品整理や、家事全般に追われている間に、季節は梅雨になっていた。最近は梅雨がなくなったとは言われているものの、それでも六月になったら全体的にじめっとして雨の日が続く。
 私は雨だれの音を耳にしながら、図書館に来て、本を読んでいた。
 どうにも土日はお兄ちゃんのアパートの片付け、平日は家事全般に追われていたら、友達の流行りも最近人気なSNSのトピックも見ることができず、授業だってひいこら言いながらかろうじて追いついているのだから、友達と話がだんだんと合わなくなってきた。
 そう考えると、人気のない図書館に、たくさんの本は私の気持ちをかろうじて和ませることのできる場所だった。
 古典的な文学。『若草物語』とか『赤毛のアン』とか『秘密の花園』とか、昔ながらの文学を読んでいると、少しだけ思考を現実から空想に飛ばすことができた。
 家に帰ったら、また家事をしないといけない。いい加減洗濯機を回さないと、着る服がなくなっちゃうもんな。そう思いながら、私はその日の借りる本で、分厚いファンタジー小説を借りようとしたとき。その小説の後ろのほうから紙がはみ出ていることに気付いた。

「うん?」

 ときどき図書館の本に、なにかが挟まっていることがある。
 しおり替わりに使ったらしい昔のレシートとか、誰かと本を一緒に借りたのか手紙とか、誰かと本の感想を共有したかったのか本の感想文とか……これはときどきネタバレが含まれているから勘弁してほしい……。
 私はその紙を引っ張り出してみると、どうもルーズリーフをメモサイズに切り取った紙だった。

【ひとのことをかってにふこうあつかいすんな】

 人のことを勝手に不幸扱いすんな。
 走り書きで書き殴られたその文に、頭をガツンと殴られたような気がした。思わずそのルーズリーフを捲ってみるものの、誰が書いたものなのかがわからない。
 これはなんだろう。誰かに助けてほしかったのかな。それとも、ただの独り言を書き殴っていたら、見つかりそうになって咄嗟に隠したのかな。
 こんなもの、普通だったら見なかったことにして、そのまんま本棚に差して見なかったことにするけれど。でも。
 私は元々その本を借りようと思っていたのが一点。知らない人の書き殴りに共鳴してしまったのが一点。
 私は鞄からペンを引っ張り出すと、そのルーズリーフの下に書いた。

【気持ちはわかるよ】

 そう書いて、インクが乾いたのを確認してから、そのルーズリーフを挟み直して、本棚に差し込んだ。

「誰かに気持ちが届いたって、気付くといいなあ……」

 読みたかった本だけれど、また来たときに読めばいい。
 私は急いで家に帰ると、洗濯に励むことになった。あれだけ気乗りせず、重かった体が軽いのは、この学校のどこかに類友がいるかもしれないという淡い期待からだった。