あの日から、葵は少しずつこの世界の生活に慣れ始めていた。カインや家族たちは、まるで宝物を扱うように葵を大切にしてくれた。それは、前の世界では決して得られなかった、優しさに満ちた日々だった。

しかし、その平穏は長くは続かなかった。

ある夜。城下町から帰った護衛たちが、慌ただしく屋敷に駆け込んできた。
カインと父・アークがすぐに呼び出され、厳しい表情で話を聞いている。葵も居間の隅で、そっと耳を傾けていた。

「……『黒の教団』の動きが活発化しています。」
「黒の教団……?」
エミルが不安げに呟く。エディが顔をしかめながら説明してくれた。

「黒の教団っていうのはね、『聖花の恩寵』を狙って、昔から王家や貴族に牙をむいてきた連中だよ。聖女の力を手に入れれば、国をも滅ぼせるって信じてるんだ。」

「……!」
葵は小さく息を呑んだ。

「そして──情報によれば、奴らはすでにアオイを“聖女の転生体”と確信して動き出しているらしい。」
カインが、低く、震える声で言った。その顔には、葵が今まで見たことのない、鋭い怒りが浮かんでいた。

「大丈夫だよ、アオイ姉ちゃん!俺たちがいるから!」
エディが明るく励ましてくれるが、葵はただ、胸の奥がひりひりと痛んだ。自分がいるせいで、みんなに危険が及ぶかもしれない。

──その夜。葵は眠れなかった。
月明かりが差し込む窓辺に座り、静かに外を見つめる。

(私がここにいるせいで、みんなに迷惑がかかるなら──)

そんな考えが、心に忍び寄る。

そのとき。

「……アオイ?」

静かにドアが開き、カインが入ってきた。彼は、寝間着のまま、葵の隣に腰を下ろした。

「眠れないのか?」
「……うん。」

カインは、そっと葵の頭を撫でた。優しく、包み込むように。

しばらくの沈黙のあと、カインは静かに口を開いた。

「……アオイ、俺は誓う。」

「え……?」

カインは、左手の指輪を外し、それを葵の小さな手に乗せた。月明かりに照らされたそれは、青い宝石がきらめく美しい指輪だった。

「これは『誓約の指輪』。命を懸けて守ると誓った者に贈る、我が家に伝わる証だ。」

「そんな……そんな大事なもの、私には……!」
葵は慌てて手を引こうとしたが、カインがしっかりと手を包んだ。

「お前がいるだけで、俺たちは救われるんだ。だから、二度と自分を責めるな。お前は、俺たちの光だ。」

カインの瞳は、真剣だった。葵の、どんな言葉よりも深く、彼の気持ちが伝わってきた。

──涙が、止まらなかった。

この世界で、こんなにも自分を大切に思ってくれる人がいる。それだけで、葵の心は救われていった。

「ありがとう……カイン兄さん。」

小さな声で、葵は囁いた。カインは微笑み、そっと葵を抱き寄せた。

月明かりの中で、ふたりの影は、ひとつに重なった。

しかし。
その夜、屋敷の外では──
黒いローブをまとった一団が、静かにその機をうかがっていた。

「聖女の転生体、葵……必ず手に入れてみせる。」

冷たい声が、夜の闇に溶けていった。