「俺は別に、悲しくなんて…」


いや、悲しかった、のか…?

誰からも名前を呼んでもらえなくて、俺はここにいるのにまるでここにいないかのようで。

…悲しいと、そう思っていたのかもしれない。


「…悪かった、オト」


気づいた時には、自分でも驚くくらい素直にオトに謝っていた。

名前を呼ばれない悲しみは、誰よりも一番よく俺がわかっていたから。

自分の日頃の行動が招いた結果だとしても、世界で一つだけの自分の名前を誰からも呼ばれないことは悲しい。


「うん。やっぱり嬉しい。名前ってその人のことをちゃんと見てるよ、って認める証拠でもあると思うの。だから、響輝は今、私のことをちゃんとここにいる存在として認めてくれたってこと。嬉しいな」


ただ名前を呼んだだけなのに、本当に嬉しそうにオトが微笑むものだから、なんだか気恥ずかしくなって残っていたコーヒーを一気に飲み干し席を立つ。


「…帰る」

「えーもう帰っちゃうの?じゃあまたね、響輝」


金だけ置いて、ぷいっとオトに無言で背を向けると足早に喫茶店を出ていく。


オトに名前を呼ばれた。

それだけのことで、なぜか胸のあたりがじんわりと温かくて、この感覚がなんていうものなのか考えてみてもわからなかった。