若葉side


 記憶がなくなることがこんなに怖いなんて、思ってもいなかった。
 忘れた期間はたった2か月ほどだと思う。

 高3になり『やったぁ、甘音くんと同じクラスになれた』と、飛び跳ねながら喜んだのは覚えている。

 高校で再会してからずっと僕を無視し続ける紅亜くんに一度だけ勇気を出して
『甘音くんと3人でお花見しよう、小学生のころみたいに。僕がメロンクリームソーダを作るから』
と誘ってはみたものの『時間の無駄』と冷たく拒否られ悲しかったことも、苦い記憶として刻まれている。

 甘音くんへの恋心が募りすぎて、ダダ洩れしてるんじゃないかと不安でたまらなくて、勇気を出して告白してみようかなと悩んでいたことまではっきりと。

 でも4月中旬以降の記憶はない。
 甘音くんに彼女ができたことを紅亜くんから聞いたのは、病院で目覚めた後のこと。

 記憶がない時期の僕は失恋をして悲しんでいたらしいけど、僕は甘音くんに告白なんてしてないよね?
 大丈夫、臆病すぎるほど僕は恋にへたれなんだ。
 告白なんて自分から絶対にできない人種……だとは思うけど。

 過去の自分が甘音くんに告白していませんように。
 絶対にしていませんように。


 不安を抱えながら校舎に入る。

「若葉、おはよ」

 背後から大好きな声が聞こえ、しまおうとしていた靴を落としそうになってしまった。

「あっ甘音くん、おはよ」

 甘音くんの顔をさりげなくチラ見。
 今朝も変わらず穏やかスマイルを僕に向けてくれていて、心が安眠枕を抱きかかえる。
 そうだよね、僕は告白なんてしていないよね。
 もし記憶喪失になる前の僕が恋心を伝えていたのなら、甘音くんだって気まずくて僕と距離をおくだろうし。

「頭を打ってから1週間以上たったけど、痛いところはない?」

「大丈夫だよ、心配かけて本当にごめんね」

「幼なじみなんだから心配くらいさせてよ。若葉って痛みを我慢しちゃうところがあるから、ほんと無理しないでね」

「ありがとう」

 腕を優しくぽんぽんされた。
 嬉しいはずなのに心臓がしめつけられるのは『甘音くんには彼女がいる。彼女にはバニラアイスみたいな極上に甘い言葉をかけるんだろうな』と、敗北感に襲われてしまったから。

 甘音くんの優しい手のひらを独占している女の子が、この世のどこかにいる。
 彼女と甘音くんが微笑みあう姿なんて見たくないから、うちの高校の生徒ではありませんように。

 「昨日の放課後、我が家に遊びに来てたよね。邪魔したら悪いかなって思って若葉に声をかけなかったんだけど、俺って失礼じゃなかった?」

 「そんなそんな」と慌てて両手を振った僕は、「こっちこそ、甘音くんに挨拶もせず家に上がり込んじゃってごめんね」と軽く頭を下げた。

 「なんで若葉は泣きそうな顔をしてるの?」

 真剣な顔で問われ、「え?」と固まってしまった。
  
 知らなかった、今の僕は泣きそうな顔をしてるんだ。
 鼻頭がツーンとするなとは思った。
 心臓にも強くかみしめていた唇にも、ジクジクとうずく痛みがある。

 この痛苦しい病を僕は知っている。
 子供のころから患ってきた『恋の病』で間違いない。
 
「俺のことは気にせず、いつでもうちに遊びに来てね」

 やっぱり好きだな、陽だまりのように温かい甘音くんの微笑み。

 ……って、甘音くんに対してこんな桜色の感情を抱いちゃダメだ。
 僕がいま付き合っているのは双子の弟のほう、紅亜くんなんだもん。

 2か月分の記憶がすっぽりなくなってしまったせいで、紅亜くんを好きになった時の自分をどうしても思い出せない。
 甘音くんへの恋心を捨てきれないまま紅亜くんの恋人という特等席を陣取ってしまっている僕は、人としてどうなのだろうか。

 早く記憶が戻って欲しい。
 紅亜くんを好きになった本当の自分に戻りたい。
 そうしたら甘音くんへの恋心なんて、僕の中から消え去るに違いないから。

 罪悪感が膨れ上がっていく。
 紅亜くんを裏切っていると思うと、苦しくてたまらない。
 


             *

「若葉が授業中に当てられて答えられなかったとこって、記憶がない頃に習ったとこだったよな」

「俺もそれ思った。あの先生、配慮足らなすぎ」

 お昼休みは教室の最前列の机を借り、男子4人でお弁当を食べている。
 
「俺らのことまで忘れ去られてたら、マジ泣いたわ」

「中間テストの結果が最悪だったことまで忘れてる若葉がうらやましいんだけど」

「4人ともテストダメダメだったしな」

 翔太(しょうた)くん、龍之介(りゅうのすけ)くん、大地(だいち)くんの口から同時にため息がこぼれ、3人の感情シンクロにクスっと笑ってしまった。

「そっかそっか、僕が記憶喪失になったのって、ダメダメな中間テストの結果を忘れたかったからか」

「んなわけあるか」

 頭を軽くはたかれ「アハハ、大地くん酷いじゃん」と、僕の笑い声が教室中を駆ける。

「おい大地、若葉の頭は傷つけるな」

「うわっそうだった! 悪い若葉、いつものノリで頭パンって」

「アハハ大丈夫だよ。今日の朝ね、寝ぼけてベッドから落ちちゃったんだ。頭打ったけど、いつメンの顔と名前と告白してフラれた女の子の名前まで、みんな分はっきりと覚えてたし」

「若葉、おまえひどい奴だな」

「俺らがフラれた記憶こそ、deleteボタン指ポチで瞬間抹消しろっつーの」

「アハハごめんってば。面白すぎて涙出た、楽しすぎて笑い止まんない」

 片方の手でお腹を抱え、もう片方の手でにじんだ涙をぬぐう僕に、翔太くんが哀愁を漂わせながらぼそり。

「若葉がいつも通り笑ってると、なんか安心するよな」だって

 翔太くんに同意するように、「ほんとそれ」と龍之介くんと大地君がオーバーにうなづきだして。

(たくさん笑いあえる素敵な友達に巡り合えてよかった)

 この高校を選んだ中学の時の自分に、感謝を伝えたくなる。
 小6で引っ越していった甘音くん紅亜くん兄弟とも、この高校に入ったから再会できたんだよね。
 高校受験、必死に頑張ってよかった。
 
「あっ、あの子」

 目の前に座る翔太くんの視線に誘導された。
 振りかえった僕の瞳に映ったのは、窓ぎわの席で一人本を読んでいる甘音くんの姿。

 教室でお昼を食べるなんて珍しいなと思ってはいた。
 生徒会長としての任期を終えた今も、引継ぎやらなんやらでお昼は生徒会室でとっていたから。

 黒髪ロングの美女が、甘音くんの机の横まで来て歩みを止めた。
 胸元にファイルを抱え、申し訳なさそうに頭を下げている。

「甘音先輩、お昼休みにお邪魔しちゃってごめんなさい。生徒会のことで確認したいことがあって」

 さすが優雅な微笑み王子。
 甘音くんは相手の心を陽だまりぽかぽかなお花畑にする天才なんだろうか。

「先輩の教室に入るのって勇気がいるよね。廊下を歩くだけでも視線が気になったりするし」

 読んでいた本を閉じ「(すず)ちゃんはえらいね」と、彼女を目を見て微笑んだ。
 
 翔太くんが「2年の新生徒会長か。ああいう一生懸命な後輩、マジでストライク」と狙いを定めれば、「甘音みたいな完璧生徒会長って感じじゃないからこそ、助けてあげたくなったりするんだよな。誰かさんみたいに」と、大地くんはなぜか僕の方を見てニコニコしている。
 翔太くんも龍之介くんも「わかる」と頷いて。
 僕だけが消化不良みたいな顔で「ん?」と首をかしげて。

 甘音くんのことは気なるが、後ろを振り向き続けているのは不自然か。
 僕は体を正面に戻した。
 でも僕の耳は欲望に素直すぎ。
 甘音くんに背を向けているにも関わらず、甘音くんのどんな小さな声も拾ってしまう。

「生徒会長に選ばれたからって、そんなに一生懸命詰め込まなくてもいいよ」

 甘音くんは誰に対しても優しいな。

「私は甘音先輩みたいに学園のアイドルじゃないんです。努力して生徒の皆さんに認めてもらわなきゃいけないんです」

 新生徒会長も責任感が強くていい子そう。

「俺は学園のアイドルなんかじゃないよ」

「本当のことじゃないですか。優しい甘音先輩も孤高の紅亜先輩も、双子そろってみんなの憧れで」

「フフフ、鈴ちゃん大げさ」

「本当に申し訳ないんですけど、今日の放課後に生徒会室に来てもらえませんか。教えて欲しいことが山ほどあって」

「遠慮なくなんでも聞いて」

「でも放課後の時間をいただいちゃったら、甘音先輩は大学受験の勉強ができなくなっちゃうんじゃ……」

「新しい生徒会メンバーが自分たちらしく生き生きと生徒会運営ができるよう手助けするところまでが、生徒会長の役目だと思ってるから。俺だって後輩に頼られるのは嬉しいよ」 

「ありがとうございます」

「じゃあ放課後にね」

 二人の会話が聞こえなくなったのに、心が異常なほどざわつきだす。

 嫌だな、甘音くんとあんなかわいい子が生徒会室で二人きりになるなんて。

 失恋の痛みに襲われ目をつぶるも、紅亜くんの顔が脳裏に浮かび、浮気をしてしまったような罪悪感にむしばまれてしまう。

 何気なく振り返ったと同時、新生徒会長と視線が絡んだ。
 えっ、睨まれてる? 
 まさかね。学年が違ううえに、今まで話したことないし。

入口の外に立ち「失礼します」と教室内に向って一礼し顔を上げた彼女と、再び目が合う。

 また睨まれた気がするけど、気のせいかな?

「あぁ、そういうこと」

 敗北者にような顔で翔太君がため息をこぼした。

「あの二人、絶対付き合ってる」

自信満々で断言され「甘音くんと新しい生徒会長が?」と、僕は驚きを隠せない。

「生徒会のことで教えて欲しいことがあるなんて、スマホにメッセ送れば済む話じゃん。新旧の生徒会長同士が連絡先を交換してないなんてありえないし。クラスや学年が一緒とかならわかる、でもあの子後輩だよ。わざわざ先輩のクラスにまで来たってことは、隠れて付き合ってるスリルを味わいたかったか、好きな人の顔を一目でもいいから見たかったか、私の恋人は甘音先輩なんですっていう無言アピールか」
 
 あの子が甘音くんの彼女なの?
 そう言われてみると、そうとしか思えなくなってきた。
 甘音くんが彼女に向ける瞳が、いつも以上に優しく揺れていた気がする。
  
 僕には生徒会長選挙中の記憶がない。
 だから新生徒会長がどんな子かは全くわからない。
 でも生徒の投票で会長に選ばれたんだ、責任感があり好感度が高い子で間違いないだろう。

 生徒会長の仕事の引継ぎ作業中に、二人は惹かれあったのかな。
 僕が記憶喪失になる2か月以上前から、甘音くんはすでに彼女に惚れていた可能性だってある。

 わかってるよ。
 僕には紅亜くんっていう恋人がいる。
 甘音くんへの恋心は捨て去らなきゃいけない。

 でも……
 どうしても甘音くんを目で追ってしまうんだ。
 僕に微笑みかけてくれるだけで、大好きという気持ちが沸き上がってしまうんだ。

 甘音くんへの想いを断ち切りたい。
 どうやったら記憶が戻るの?
 なんでもするから、お願いだから、紅亜くんを大好きだった自分に戻してください。
 
「どうした若葉、唇なんかかみしめて」

 前から心配声が飛んできて、慌てて顔に笑顔を貼り付ける。

「ちょっとだけ、頭がズキズキしただけ」

 嘘をついてごめんね、ズキズキ痛むのは心の方なんだ。
 

「保健室行った方がよくないか」と心配され「もう大丈夫」と微笑んでみた。
 ぎこちない笑顔しか顔にはりつけられない。
 作り笑いを浮かべる自分が嫌で嫌でたまらない。

「あんなかわいい彼女と付き合えるなら、俺も生徒会長やっときゃよかったわ」

「甘音と生徒会長選挙で戦うなんて無理。体育館のステージで国宝級イケメンの隣に並ぶとか、もはや拷問」

「この高校で甘音の隣に立ってイケメンオーラを放てるのは、紅亜くんぐらいじゃね」

「双子と幼なじみの若葉もそう思うよな?」

 突然飛んできた質問に、異常に戸惑ってしまう。
 初恋の相手と恋人の話題なだけに、なんて答えていいかわからない。
 心の余裕がない僕は、無駄にへらへらと笑ってそして一言。

「紅亜くんはカッコいいからね」

「だよな」と、笑いながらうなづいてくれると思った。
 それなのに翔太君たち3人の表情筋は硬い。
 戸惑っているように視線を左右に泳がせている。

 どうかしたの?と聞こうとした瞬間、僕の首がいきなりホールドされた。
 誰かの片腕が僕の首に絡みついている。
 真横に人の気配を感じ、椅子に座りながら視線をゆっくり上げていくと……くっ、紅亜くん?

 ここ教室だよ。
 クラスメイトが僕たちを見ているよ。
 それなのになんでゼロ距離なの? 

 落ち着かなきゃと、浅い呼吸を繰り返す。
 今の僕と紅亜くんは、誰がどう見ても恋人同士って感じじゃないから大丈夫。
 紅亜くんは下僕の首に腕を巻き付けるヤンキーっぽいし。

 

「おまえら3人ってさ、いつも若葉と仲良すぎじゃね」

 不機嫌顔でイラつき気味の声を飛ばす紅亜くん。
 龍之介くんは「高1から同じクラスだし」と、緊張気味に答えている。

 首のホールドが解けた。
 代わりにごつごつした紅亜くんの手のひらが、僕の頭にのっかっている。

「友達どまりってことならまぁいっか。これからも若葉と仲良くしてやって」

 髪をくしゅくしゅされ顔を上げると、紅亜くんの口角が少しだけ上がっていてビックリ。
 笑ってる、ちょっとだけだけど、学校で終始冷たい表情を浮かべているあの紅亜くんが。


「午後の授業終わったら、若葉が俺の教室に来い」

「小動物カフェに連れてってくれるんだよね」

「オマエがハムスターにヒマワリの種を食べさせたいって言ったんだろーが。恋人の願いくらい叶えてやる」

「こっ……こいびとぉぉぉぉぉ?!」

 僕は叫んだ。
 いや違う、叫びそうになったけど、慌てて口を押さえ言葉を飲み込んだ。
 教室中に響いた悲鳴は、僕たちの会話を聞いていたクラスメイトたちのもの。
 天井が揺らぎそうなくらいの声量だったから、教室にいた全員による驚きの大合唱だったに違いない。

 このままじゃ、僕たちが付き合ってることがみんなにバレちゃう。
 何か言わなきゃ、みんなの誤解をとくなにか……
 って言っても、僕たちが付き合っているのは本当のこと。
 恋人ではありませんなんて言ったら紅亜くんを傷つけちゃうし。

 オロオロする僕が目に入っていないんだろうか。

「っつうことだから、若葉を俺から奪おうとするなよ」

 とんでもない不発弾を残し……いやいや大爆発させ、不機嫌顔で教室を出て行った紅亜くん。
 彼の気配がなくなった瞬間、みんなが目をキラキラさせながら僕のところに駆けてきた。

「若葉くんって紅亜くんと付き合ってるの?」

 椅子に座ったまま、返答に困る僕。
 だんまりを決めこむ主役は置いてけぼりで、勝手に話が盛り上がっていく。
 嘘をつく罪悪感に負け、僕はしぶしぶ頷いた。

 みんなに幻滅されたよね。
 男好きの変な人だって……

「あいつに選ばれるなんて、すげーな若葉」

 ……え?

「そういうのは隠さず教えろって」

 ……あれ?

「みんなは気持ち悪いとか思わないの? 僕たちはその……男同士で付き合ってて……」

「そりゃ俺だってビックリはしたけどさ、都守紅亜の相手が若葉なら納得っつーか」

「わかるぅ」

「恋愛なんてさ、本人たちが一緒にいたいなら同性でも宇宙人でも誰でもいいじゃん」

 ……みんな。


 僕は愚か者だ。
 優しいクラスメイト達を信じていなかった。
 男同士で付き合ってることをカミングアウトしたら、変な目で見られる。
 みんなが僕から離れて行ったら嫌だなと、最悪な未来を想像して怖くなっていた。

 まずはいつメンの3人に、意識がない僕の手を握ってくれていた紅亜くんの優しいところを話してみようかな。
 今日紅亜くんが小動物カフェに連れて行ってくれるから、放課後デートの報告も一緒に。
 

 この時、僕は全く気づいていなかった。
 僕と紅亜くんのことで盛り上がるクラスメイト達の中、甘音くんだけが悲しそうに唇をかみしめていたことを。