☆。.:*・゜
水や自然が綺麗だと有名な、北のとある街の端にある小さな店、『シマエナガカフェ』。僕はここでアルバイトをしている。
――このカフェは魔法が宿っていて、過去の後悔した出来事を理想のシーンに変化させてそれを再現したり、逢いたい理想の時間に会えたりできる場所だと噂されていた。
つまり、誰かを幸せにするということだ。
そういえば、まだカフェが建っていなかった頃、ここを通りすがる時に母が言っていたことがある。
この土地には、昔から不思議な力が宿っていているのだと――。
当時はまだ幼く、たしか小学校に入学する前だったから、母の話を素直に信じた。成長して、ふと噂を思い出した時には作り話だなと思った。そして今は、再び信じている。
会いたい理想の時間に出会う方法は簡単だ。カフェのオーナーに理想を伝え、それから、過ごしたい相手と一緒に貸切予約をして、ただ一緒にいればいい。
壁にある大きなコルクボードには、幸せそうな老若男女たちが微笑む写真が、オレンジ色のライトに照らされながら飾られていた。
✩.*˚
シマエナガカフェは、五年前に亡くなった白井柊(しらいしゅう)の母、白井若菜(しらいわかな)の兄である高畑剛(たかはたごう)が経営しているカフェ。
現在大学生の柊は、叔父である剛に誘われて、週末、ここでバイトをしていた。
カフェを経営している剛は四十代半ばの、容姿端麗な自由人。東京で暮らしていたが五年前に若菜が亡くなった時、地元に帰ってきた。柊の父親は仕送りをしてくれてはいるが、ずっと離れて暮らしている。親も子も、お互いの生活に興味はなく連絡もめったに取り合わない。柊にとって剛は、母がいなくなってから唯一身近に感じている大人だった。
歌で稼ぎ、飽きたら絵を描いて稼ぐ。伸び伸びと広く自由な生き方をしていて、さらに器用で才能もある。思い描いたものを実行する能力のある剛さんに、ひっそりと憧れている。僕にとって眩しく明るい毎日を過ごしているように見えていた剛さんだけど、共に過ごしていると、別の少し暗い面も見えてくる。たまにどこか遠くを見つめ、黒い影がちらついているような表情にもなったりする。だけど、そんな陰な部分も含めて、僕は剛さんに憧れている。
憧れている一方で、剛さんと対比した自分には何もやりたいことがなくて、ずっと立ち止まっている気がしていて……周りから取り残されている感が強くなり、焦りも感じ始めていた――。
*
営業時間のお手隙時間、ふと、シマエナガカフェの窓から外を覗く。ここからは、真っ白で静かな雪景色の街並みと青く染まった空が見える。遠くの山々は青い空に溶け込むように美しく、食事をしながら風景も楽しめる場所。そして店内も、ウッド調で統一された内装で、自然な雰囲気が漂っている。木の温もりとコーヒーの甘く苦い香り、流れるオルゴールの癒される曲も、ひとつひとつが訪れる人々の心を穏やかに包んでいた。
――ここは、本当に外とは別の世界のようで、気持ちが落ち着ける場所だ。
自分の住んでいるアパートの部屋も落ち着くといえば落ち着く。でも部屋はひとりでいられるからであって、現実感は拭えないままの場所。やっぱりカフェだけは何かが違う。
「店員さん、コーヒーふたり分、おかわりお願いできますか?」
「かしこまりました」
風景を眺めながら、たそがれていると、カフェを貸し切っている、晴れやかな表情をした二十代のふたり組の女性から注文を受けた。柊はコーヒーを淹れる。
女性たちはどんよりした雰囲気でこの店の中に入って来た。表面上だけ仲良しな雰囲気で、ふたりの間には大きな壁があるようにも感じていた。だけどここで過ごした今は、まるで魔法がかかったかのように――いや、今魔法の中にいるのか。カフェに入ってきた時よりも、明るい雰囲気に変化していた。
そういえば、そろそろ棚にストックしてあるコーヒー豆がなくなりそうだったな――。
「剛さん、コーヒー豆そろそろ買ってきますか?」
柊は食器を整理していた剛に問う。
「あぁ、お願いしよっかな。他にも生クリームとか……頼みたいものがあるから、あとでメモして渡すね」
「分かりました」
「あ、そうそう、今後、オシャレな食器を増やそうと思うんだけど、選んでみる?」
「僕なんかが選んでもいいんですか?」
「いいよ、柊はセンスあると思うし。選ぶの楽しいから。やってみな?」
柊はセンスを褒められると、嬉しくて気持ちが高ぶってきた。
――このカフェの食器が、僕の選んだやつになる。選んだ皿に料理が盛られて、客のテーブルの上に並べられるのか。カフェに合う、いいデザインのを選ばないとだな。雪模様なんてどうだろうか……選ぶ時は、剛さんからアドバイス貰いながら選ぼうか。
柊は、「やります」と宣言すると、剛は笑顔でこくんと頷いた。
柊は客の様子をちらりと見る。そして充足感を感じながら、コーヒーをカップに注いだ。甘さと苦味のある香りが立ち込める。客の元へ届けるとカウンターに戻り、剛の横に立った。
「今日も、シマエナガカフェが役に立ちましたね」
「役に立つ、か」
剛は、春風のような微笑みを柊に見せた。
***
一月中旬。朝早くから来た常連客が帰った後、白井柊は外に出た。何もはおらず、白くて薄い生地のワイシャツ姿のままだったから、店の中との寒暖差にぶるっと震える。シマエナガが、カフェ前にある餌箱で餌をついばんでいる。ドアに掛けてあるシマエナガの形をした白い札の端をつかむと、茶色で書かれた「OPEN」を裏返して「CLOSE」にした。
カフェと周辺を眺める。さらさらと降る雪、冷え切った時にする独特のスーッとする香り。真っ白な風景をはじめ、五感で受け取れるものが全て、心を浄化してくれるような気がしていた。それは今、カフェにいるからなのか。
――寒いけど、温かいな。
手に白い息をはぁっと吹きかけると、店の中に戻った。
「今日の貸切のお客様は、中野様たちだから、和風プレートとチーズケーキですね、多分」
「そうだね」
後悔している過去があり、理想の時間を過ごすために、今日このシマエナガカフェを予約したのは、仲の良い、気品のある五十代の元夫婦のふたり。
柊はプレート用の皿とケーキ皿をキッチン台の上にふたつずつ並べた。
――今日の和風プレートのメインは、カレイの煮付け。普段作らないし、きっかけがないと食べない煮付けだけど、剛さんがまかないとして作ってくれるお陰で、僕も食べることができている。そして、とても美味しい。
少し経つとカランと音がしてドアが開き、中野圭(なかのけい)が先に入りドアを支えると、相楽奈津美(さがらなつみ)も店の中に入ってきた。
いつも貸切を予約した客が入ってくる瞬間、明るい太陽のような爽やかな風の気配と共に、金色に輝く粉がきらきらとカフェ全体に舞う。それはきっと、ハッピーエンドを奏でる舞台の始まりのような時だからだろうか。柊はこの瞬間が好きだった。
「いらっしゃいませ。十時から十二時まで貸切ご予約の中野様ですね」
「はい、そうです」
カウンターで剛が確認をすると、中野が答える。
「当店のシステムはご存知ですね」
「はい。存じ上げております」
「では、ごゆっくりと幸せな時間をお過ごしくださいませ」
確認を終えると、会釈をする中野と奈津美。迷うことなくふたりは店の奥の角に座り、お揃いのような黒いコートを同じタイミングで脱いだ。奈津美のふんわりとした茶色の髪が柔らかく光を反射し、中野のごつごつとした手がテーブルにそっと触れる。
このふたりは、柊がここでバイトをはじめた二年前から、何度も貸切を予約して来店し、毎回同じような会話をして帰っていく。
「お兄さん、和風プレートとコーヒー、チーズケーキも。全部ふたつずつでお願いします」と予想通りの注文を中野がした。
「かしこまりました。チーズケーキとコーヒーは、いつお持ちいたしますか?」
「プレートと一緒のタイミングで大丈夫です」
柊は注文をメモし、間違いがないかふたりに確認すると、調理をする剛に伝えた。
柊はカウンターに戻り、豆を挽く。コーヒーマシンの軽い蒸気音が店内に響き、豆の香りがさらに濃密に広がる。チーズケーキを冷蔵庫から取り出して白い皿に乗せる。ミントの葉をケーキの真ん中に添えた。完成した料理とそれらを一緒にトレイに乗せ、テーブルまで運ぶ。近くに寄ると、奈津美の微笑みと中野の優しい視線が交錯する瞬間を目にした。言葉では言い表せない、長い期間をかけて積み上げられたふたりだけの世界が、そこにはあるような気がした。
柊はふたりを見つめ、口元が自然と緩み、目を細めた。心のどこかで、ふたりの絆に羨ましさと温かさを感じていた。
奈津美が「ありがとうございます」と穏やな声で言うと、柊は「ごゆっくりどうぞ」と、声のトーンを合わせて頭を下げた。
その後、柊と剛はランチの仕込みをする。するとふたりの、いつもの会話が耳に入ってきた。柊の視線は今日も自然にそっと、ふたりのもとへいく。
「ねえ、相談があるのだけど……」と奈津美が上目遣いで中野に言うと「どうした? 何でも言って!」と中野は勢いよく身を乗り出した。
「ふふっ、いつもと違う反応!」
「だって、奈津美が相談するなんて……珍しいから」
奈津美は弱々しく笑ったあと眉尻を下げ、中野に申し訳なさそうに伝えた。
「……あのね、私、もう限界かもしれない」
中野は顔をこわばらせ、息を呑む。
「大丈夫? 奈津美にとって何が限界なのかすごく心配で気になるから、今すぐに教えてほしい」
傍から見ると大袈裟だと捉えられるほどの中野の言い方。奈津美は中野を見つめると、唇をぎゅっと結んだ。そして目元に滲む涙を堪えるようにしながら、ゆっくりと話し始める。
「……あのね、優里が夜、泣き止まなくて、もう限界かも。夜、私も眠れなくて、最近特に泣き止まないし。全部が辛くて、限界がきてしまって……久しぶりに今、実家に優里を預けているけれども親に迷惑掛けてないかな?って気が気じゃないし――」
奈津美は深いため息をつくと、うつむいた。
テーブルに置かれたコーヒーの蒸気が、奈津美の顔をぼんやりと包んでいく。そのまま消えてしまうのではないかというほどに。
中野は深くうなずき、目を閉じる。静かにふっと息を吐いた。息がかかったのか、タイミングよく奈津美を包んでいた蒸気は消えた。そして目を開けた中野は、静かな声で奈津美に語りかけた。
「俺は、優里が生まれてから仕事や自分のことで精一杯だった。奈津美の気持ちに気がつけなくて、ごめんな。会社に頼んでしばらく休みをもらう。ふたりのそばにいて、優里の世話もするし、家事も一緒にやる。奈津美は、ひとりじゃないから……一緒に頑張っていこう?」
奈津美は驚いたように目を見開き、しばらく言葉を失った。やがて、大粒の涙がこぼれ落ち、安堵の表情が浮かんできた。
「ありがとう……。聞いてくれるだけで良かったのに……ありがとう、ありがとう……」
一気に奈津美の涙が溢れ出した。
柊がこのふたりの事情を剛から初めて聞いたのは、同じような会話をしていたふたりを初めて見た日だった。柊はあの頃をふと思い出す。
*柊、過去の記憶
二年前、今日のように雪が降る日。ふたりが帰った後に剛が柊にふたりの話をした。
「さっき来たふたり、実は元夫婦なんだよ。また来ると思うから、知っていてほしい」
「今もご夫婦のように見えたけど……元、ですか?」
柊は皿を洗いながら片眉を上げ、剛と目を合わせる。剛は、カウンターに飾られている小さなシマエナガの木彫りをそっと撫でながら、穏やかに答える。
「そう。あの女性、奈津美さんの頭の中はね、さっき一緒にいた男性、中野さんの記憶だけが綺麗になくなってしまったんだ。だけど不思議なことに、このカフェでは過去の、ある特定の時だけがよみがえる。奈津美さんが、産後の辛さを中野さんに打ち明けようとした時の記憶だよ」
「でも今、中野さんの記憶だけが奈津美さんの頭の中からなくなったとか、そんな風には全く見えなかったような……ふたりの関係はすごく親しそうにも見えたし……」
「だよね。もう一度、最初からやり直して、今みたいになったんだ。中野さんの方からアプローチしてね。上手く説明できないから、とりあえず閉店したら、観てみる?」
「観る?って、何を――」
「中野さんが下見に来た日をここで」
「そんなこと、出来るんですか?」
閉店後、本当に柊は見ることができた。
柊がバイトを始めたその日から、いつもまかないとして、剛が柊の晩飯を用意していた。その日はハンバーグプレートがテーブルに並べられた。
柊は一人暮らしで、ひとりだと適当に食事を済ますタイプだから、並べられたハンバーグプレートは、貴重な栄養源である。しかも剛は料理がとても上手くて、作る料理はとても美味しくて。実はまかないを食べられる時間がいつも楽しみだった。
剛は電動スクリーンを下ろすと、店内の明かりを消した。映像が良く見える席に柊が座ると、高畑が指をパチンとならす。するとスクリーンに店内の映像が映った。
「なんか、剛さんが魔法をかけたから、ここに映像が現れた感じですね」
「だろ? まぁ、ただ俺は防犯カメラに残しておいた映像の再生ボタンを押しただけなんだけどね」
今もだけど、カフェは常に特別な魔法がかかった場所みたいに、不思議な場所で。スクリーンに映っている映像は多分、防犯カメラではない。なぜなら、僕は本当に剛さんのことを魔法使いだと思っているから。多分、ここに来る子供たちも剛さんのことを魔法使いだと思っている。袖から手作りの花を出したり、コップの中に入れたコインを消したり、手品を子供に披露しているから。
大きく映る映像の中では、中野がひとりできょろきょろと挙動不審な動きをしながらカフェの中に入ってきた。
「いらっしゃいませ」と剛が言うと、ふたりは目を合わせた。
窓から見える外の景色は暗くて、店内はオレンジ色の明かりがついている。入口から一番近い席に中野は座った。他にも二組の客がいるから、これは貸切予約をした時間ではないのだろう。
「あの、コーヒーをお願いします」と、中野は注文を取りに来た剛に言う。
「かしこまりました。少々お待ちください」
ふたりの小さい声での会話も鮮明に聞こえ、声が僕の元まで綺麗に届いている。
剛が中野の席から離れようとした時だった。「あのっ、すみません……」と、中野は少し切羽詰まりぎみの表情で剛を呼び止めた。
「ここって、後悔していた時に心だけ戻れて、その時に言いたかった言葉が言える場所、ですよね?」
「はい、そうです」
「あの、言いたい人がいるのですが、どうすれば……」
「言いたい日の一ヶ月以上前に、お客様とお相手のお名前、そして何をお伝えしたいのかを私に教えてください。そしてこのカフェの貸切ご予約をしていただければ――」
中野は顔をしかめて疑うような目で剛を見上げた。
「……それだけですか?」
「はい、それだけです」
中野は顎に手をやり、考え込む。
「……今、予約しても大丈夫ですか?」
「はい、大丈夫です」
剛はこくんと頷くと、中野は辺りを見回した。
「周りが気になりますか?」
「いえ……」と否定しながらも「あの、相手は自分の元妻だった人なんですけどね――」と、中野は小声で話し始めた。
剛は周りに聞こえないように気を遣い、中野の向かいの席に座り、ぐっと顔を中野の近くまで寄せた。
元妻の奈津美と別れた原因が、娘の優里が生まれた時に、自分は仕事のことで精一杯で、全く家族と向き合わなかったからだと、中野は剛に説明をした。
「最初は奈津美の、自分への愛が冷めた理由が全く分からなくて『どうして急に愛が冷めて、別れを切り出したのか?』と聞いたら『急にではなくて、少しずつ積み重なって……』と答えたんですよね。もうその時には、手遅れでした」
中野は眉間に皺を寄せ、深いため息をついた。そして話を続ける。
「奈津美が離婚を決意するのに決定的だったのは、娘が生まれて少し経った時でした。奈津美に家事育児、全てを任せていましたから、奈津美に限界が来て……辛くて。でも最後の望みだと、自分に相談してくれたのです。でもその時の自分は、全く奈津美の話を聞いてやることができなくて……もう、本当にずっと、後悔しています」
話はそれだけではなかった。
「別れてからも養育費だけ支払い、会うことはなく。しばらくしてから、隣町の駅で奈津美と優里に偶然再会しました。娘の優里は高校生になっていて、別れてからそんなにも経っていたのだなと感じました。自分は奈津美と別れてから時間は止まったまま――」
中野の言葉が詰まると剛は「大丈夫ですか?」と声を掛けた。
「はい、大丈夫です。そして、衝撃的なことが起こりました。優里は別れた時に幼かったので仕方がないとして、奈津美の記憶力は低下していて……奈津美は私のことを、何一つ覚えていなかったのです」
――ずっと想っている人が、自分のことを全く覚えていない。考えただけで苦しくなった。僕の場合は剛さんや、大学の数少ない友人たち、連絡はあまりとっていないけれども父親……そして、もしも母が生きていてそんな状況だったら?
映像を観ながら柊は想像した。そして胸の辺りが痛くなって、胸をぎゅっと押さえた。
「じゃあ、今も?」
「はい、夫婦として一緒にいた時のことは、全く覚えてません。でも、奈津美は恋人がいなく、自分も独り身だったので、何とかもう一度、奈津美と深く関わりたいと思い、次は失敗しないように、奈津美と親しくなっていきました」
「……」
「短くまとめますと、自分が後悔していることは、まだ夫婦だった頃に奈津美から受けた、産後の悩みに寄り添えなかったことで……」
「では、奈津美さんがまだ記憶があった時の、優里さんが生まれた後に戻り、真剣に話を聞き、返事もしたいということですね」
「そんな難しいこと、可能でしょうか?」
「はい、もちろんです。このカフェでは、訪れる人たちの心の奥底にある、過去に話したかった、伝えたかったなという願いが、特別な力で叶うのです。あの時こうしていれば、こうされたかったと、お互いの心のどこかにあったものがここで交差する時に、理想の時間は生まれますから」
「願い……それは全てですか?」
「いいえ、例外もあります。その力は、純粋な後悔や愛から生まれるものですから、悪意や強制には働きません」
*現在の時間
脳内は現実に戻る。今の中野さんと奈津美さんは穏やかに、終始笑顔で会話をしていた。毎回ふたりを見て少し羨ましく、理想の関係だなと思う。自分にはこんなにそばに寄り添えるような人はいない。いつか現れるのだろうか――。
ふたりが帰ったあと、柊はテーブルを拭きながら、剛に尋ねてみた。
「そういえば、剛さんはいつもお客さんから貸切予約の問い合わせがあって、願いが叶うのか聞かれた時、絶対に否定をしませんよね。お客さんと出会った時点で何かが分かっていたりするんですか?」
「あぁ、ここで叶わないような願いがある人は、ここには来ないからね」
自信満々に答える剛。柊も剛の自信を見ていると、同じように思えてきた。
「あと、剛さんはシマエナガカフェ……いや、なんでこういう場を作ろうと思ったんですか?」
剛は手を止め、深くため息をついた。窓から見える外では、静かに雪が降り始めていた。
「実はね、大切な人を失った時に、その人に言えば良かったなって思うことがあってね……」
剛の声は低くなる。そして目を閉じ黙った後、静かに続きを語った。
「消えない後悔がきっかけで俺は、このシマエナガカフェを営業することに決めた」
「……剛さんの、後悔?」
「そう、そして考えた。俺みたいに、心に残って消えないような後悔をしている人たちの『変えられない過去』を再び見つめ直し、現実では残ったままだけど、せめて頭の中にあるものを理想に塗り替えながら再体験し、未練や後悔を少しでも癒せる場所にしたいと思ったんだ」
〝地元を離れてとにかく好き勝手自由に生きている人〟と、母から剛さんの情報を刷り込まれてきた。でも、剛さんが今ここを営業しているのは、見知らぬ誰かのためで――。
「だから『シマエナガカフェは、後悔している過去をやり直し、理想の時間に逢える場所』なんてフレーズにして、ここの噂も流したんだよ」
剛は遠くを見つめながら、温かい眼差しで語った。窓の外を何となく見ると太陽が現れ、静かに降る雪をダイヤモンドのように輝かせていた。
柊は、ひとつだけ剛に聞かなければならないと思うことがあった。
「違う人の話かもしれないですが、剛さんの、その、亡くなった人の話って、僕の母ですか?」
剛は柊をじっと見つめると、無言で頷いた。
「俺は自分勝手に生きすぎて、自由だけを求めて家族とわだかまりを残したまま地元を離れて……ここに戻ってきた時には、突然倒れた若菜はもう何も話せない姿で。喧嘩をしたままの状態で俺を嫌ったまま、この世からいなくなってしまった。喧嘩する前は、何回も『一度戻ってきてほしい。きちんと話をしたいし、家族とも話をしてほしい』と言っていた。あの時、もっと耳を傾けていれば……」
虚ろな目になる剛に対して、柊は何も言えなかった。
***
三月下旬。今日は朝早くから貸切の予約が入っている。カフェの清掃を終えると、柊は外に出た。餌箱には餌がなく、食べた跡だけが残っている。
雪が溶け始め、アスファルトが見えてきた。コートがいるかいないか、迷う時期だ。毎年この時期は落ちているたくさんの小さなゴミがとても気になってしまう。ビニール袋、お菓子を包んでいたもの、そして今、目の前には空き缶が……アスファルトと共に現れるゴミは、いつ雪の下に埋まったのだろう。
カフェの前に落ちている空き缶を拾い、CLOSEの札がそのままなのを確認すると中に戻った。
少し経つと、カランと音がなりドアが開いた。
「いらっしゃいませ。八時から十時まで貸切ご予約の相楽様ですね」
「は、はい、そうです。娘は今、電話終わったら来ます」
「かしこまりました」
カウンターで剛が確認をすると、ぎこちなく奈津美が答えている。柊はちらっと窓から見える、駐車されたばかりの白い車の運転席に女がいるのをぼんやり確認した。
「当店のシステムはご存知ですね」
「は、はい……」
「では、ごゆっくりと幸せな時間をお過ごしくださいませ」
シマエナガカフェはテーブルが8つある。奈津美はしばらく座る席を迷い、結局中野といつも座っているカフェの奥の席を選んだ。
カランと再びドアの音がなる。相楽奈津美の娘、優里が入ってきた。中野と奈津美のここでの会話の中では優里はまだ赤ん坊だったが、実際かなり成長している。柊と同じ歳だった。
「いらっしゃいま……あっ」
「あっ」
柊と優里は同時に、はっとした。
「お久しぶりだね」と、優里が柊に声を掛けると「うん、久しぶり」と、瞳を小刻みに揺らしながら柊は答えた。
「私たち、離れたところに住んでるわけじゃないのに、中学卒業してからは全く会わなかったよね」
ふたりは幼稚園からの同級生だった。小中同じ学校で、高校は別々のところへ。
――実はスーパーですれ違ったことがあるのに、気づかれなかったことはある。その時は一方的に話しかけようか、ずっと店内で考えていたな。
その言葉は呑み込み「そうだね」と、笑顔を返した。
「優里ちゃんのお母さん、あっちの席にいるよ」
柊は平然を装いながら奈津美を指さす。軽く微笑み、柊に会釈をした優里はそこに向かう。ふたりは向かい合わせになって座った。メニューを確認してそれぞれが食べたいものや飲みたいものを呟いている。
奈津美さんは月に数回一緒に訪れていた中野さんと一緒にいる時よりも、リラックスしているように感じた。
「人間観察って、本当に面白いよね。少しの変化でどのくらいの親密度かとかが、分かるようになると、特に」
「そうですね」
前は今ほど、誰かの気持ちに興味を持つことはなかったかもしれない。あんまり気持ちに余裕がなかったから――。
最近余裕がある気がするのは、ここ以外でも連絡をくれたりして、色々と剛さんが僕のことを気にかけてくれるからだろう。
「ミックスグリルのプレートにしようかな。いつもあの人、私の健康を気遣って、カロリーとか気にして和風を選ぶのよ」
「そうなんだ……お父さん、すごくお母さんのこと好きだよね?」
「うん。特に最近の動向……すごく私の事が好きだと思う――」
仲良さげに声を出して笑うふたり。
「和風もおいしそうだね」
「うん、毎回違う料理なんだけどね、全部美味しいの」
「どれにしようかな……朝だからサンドイッチにしようかなと思ったけれど。ミックスのやつエビフライとか唐揚げとかも入ってて美味しそうだから、同じのにしよっと」
ふたりは一緒にミックスグリルプレートとプリン、そしてコーヒーを注文した。
和気あいあいと会話が進んでいく親子。柊は、同級生の優里だからなのか、いつもよりも気になり、ひとつひとつの会話に聞き耳を立てていた。聞いていると、優里が柊の息が止まるような言葉を発した。
「そういえば、お母さんがお父さんのことを全部思い出したってこと、お父さんにいった?」
「ううん……まだ言ってないの。だから一週間前にここに来た時、言おうとしたんだけどね、タイミングが分からなくて……まだ言わなくてもいいかな?って思って、演技しちゃった」
こないだカフェに来た時、中野さんの全てを、奈津美さんが思い出していた――?
一週間前に中野さんと奈津美さんはここに来た。いつものように産後の話をしていた。ふと思い出してみると、その時、奈津美さんは一切の涙を見せなかった気がする。
「いつ言うの?」と、親子の会話は続いている。
「どうしよう、産後の恨みはまだ完全に消えてはいないし。それにもっと前の恨みも。いっぱい恨みが蓄積されてるな……全ての恨みが解消した時、かな?」
恨みの話をしているのに、くくっと奈津美は嬉しそうに笑う。
「そっか。お母さん、お父さんの話をしている時、いつも幸せそうだね?」
「そう?」
ふたりは視線が混じりながら、晴れた日の雪みたいに、優しく笑っていた。
「なんか、色々あるよね」
「……そうですね」
剛の言葉に、柊はそう返した。
時間はあっという間に過ぎていき、ふたりは相変わらず和気あいあいと食事をしている。突然、奈津美の手は止まった。そして温かい視線を優里にやる。
「優里、生まれた時から今もずっと……愛しているよ」
「どうしたの突然。なんか、照れる。あ、もしかして、それがお母さんが言えなくて後悔していた言葉?」
「そう。なかなか言えなかったなって、ふと思って。ここでだったら、あらたまってきちんと言えるかな?って」
「なんか不思議。お父さんの時の話を聞いていたけど……時間は特に戻ってなくない?」
「……だね!」
「でも今、理想の時間に会える時だよね? だから、普段言えないこと言っちゃおうかな! 私もね、お母さんが大好きだよ! 生まれた時から、ずっと!」
ふたりを見ていた柊と剛は目を合わせ、微笑みあった。
ここで働いていると、色々なドラマを観る。そして自分と重ね合わせる。亡くなった母はよく「柊が大好きだよ」と言ってくれていた。たくさん笑い合ったし、怒ってもくれた。きちんと向き合ってくれて、愛してくれていたんだなと思う。だけど、母が消えてしまってからもずっと、まだまだ愛されていたいとワガママなことを願ってしまう――。
「剛さん、僕は、まだたくさん母に甘えたかったんだと思う――」と柊が呟くと、剛はしばらく無言で優しく、柊をじっと見つめていた。
***
五月の初め。この地域では、満開の桜が辺り一面に咲きほこる時期。
「ここの席から桜が見れるんだね、すごく綺麗」
奈津美と一緒に来た日から、貸切予約なしに気まぐれでカフェに来るようになった優里は、今日ひとりで来ていた。
「柊くん、一緒にここに座ってお花見しない?」
「えっ、今?」
「うん、今」
「でも、今バイト中だしな……」
柊はチラリと剛を見て、様子を伺った。
「優里ちゃん、客は他に誰もいないし、今から貸切予約にしますか?」
「はい、お願いします!」
剛が問うと、優里はそう答えた。
急に貸切予約にするなんていいのか?
「柊、優里ちゃんのところに座ってもいいよ。不安そうな顔してるけど、大丈夫だよ。バイト代はこの時間もきちんとあげるから」
不安な顔になったのは、バイト代のことが原因ではないけど……。
貸切ってことは、優里の〝逢いたい時間に会える〟のか? だけど、願いが叶うために貸切予約をする時には、一か月前に予約しないとだし。
とりあえず剛にお辞儀をすると、優里の向かいに座った。桜を眺めて、頬杖をつきながら優里は言った。
「私ね、小学校の時、身体弱くて遠足行けなかったんだ……」
「そうだったよね、遠足以外にも学校を休む日が多かったのも、覚えている」
「だから今、同級生……というか、柊くんと、あの頃に気持ちを戻して、遠足をしてみたい。遠足じゃなくて、花見になるのかな?」
「いいけど……外じゃなくて、ここでいいの?」
「うん!」
ここで、お花見……花を見ながら優里ちゃんはご飯を食べることになるから、室内でも遠足にはならないとしても、花見ってことになるのか? いつもと同じ場所で食べるご飯も、気持ちや相手、環境次第で味が変わるような気がするし、遠足だと思えば遠足にもなるのかも。
――久しぶりだな、遠足。
「なんか、楽しくなってきたかも」
「私も!」
「ふたり、何食べる?」と、剛が注文を取る。
「僕も食べてもいいんですか? どうしよう……」
「柊くん、給食のカレーライス好きだったよね」
「……何で覚えてるの?」
「何となく? 私、カレーライスにしようかな?」
「でもここはカレーライスはなくて。あっ、スープカレーならあるよ」
「美味しいの?」
「うん、剛さんの作るスープカレー、めちゃくちゃ美味しいよ」
剛さんが作る料理は全部が美味しいけれど、僕はスープカレーが一番好きかもしれない。
「じゃあ、それにしようかな。あとは、アイスコーヒーかな?」
「僕も同じで」
「すみません、スープカレーと、アイスコーヒーふたつずつお願いします!」
優里は剛に注文した。
「かしこまりました」
いつもと何も変わらない様子で注文を受けてくれた剛さん。なんか、剛さんに接客されると照れる?というか、変な感じがする。
そして、スープカレーとご飯がテーブルに来た。いつもと違って誰かと一緒に座り、運ばれる側にいるのは本当に不思議な気持ちがする。だけど、嫌ではなくてむしろ楽しい。
それは相手が優里ちゃんだからか――。
カレーのスパイスの香り、クタクタに煮込まれて柔らかい鶏肉に玉ねぎと人参。
「遠足や花見は外でやるイメージだけど、桜を見ながらカフェでスープカレーを食べる花見も、良いよね」と優里は笑った。ほくほくしながらふたりは、あっという間に完食させた。
「はぁ、ご馳走様でした。私、こんなに早く食べ終われたの久しぶりかも。美味しかった」
「剛さんのスープカレー、満足してくれたようで、良かった」
「本当にお花見遠足をしていた気分になっちゃった! 噂通り、ここすごいね! 本当に魔法がかかったみたいだった」
優里は満足そうに目を細めながら天井を見上げ、柊も優里と同じように天井を見上げた。
天井が青空のように見えていた。
「実はね、柊くんだけだったんだ……」
「何が?」
「……あのね、小学四年生の時の、遠足に行けなかった時にね、柊くんが『一緒に行きたかったね、来年は行こうね!』って言ってくれたの。あの時、はにかむだけで何も返事できなかったけれど、私も一緒に行きたいって、心からそう思ってたんだよ。結局は次の年も、私の身体が弱かったせいで行けなかったんだけどね……」
その言葉の記憶はある。それはあの時、優里ちゃんと一緒に遠足行けたらいいのになと、心からそう思っていたから。
「僕がそう言ったのって、遠足の次の日だよね? 周りが遠足の話を教室でしていた時、優里ちゃんがちらちら話をしている方向を寂しそうに見ていたから……」
「そうそう、その時。柊くんだけが気にかけてくれてたんだよ、私のことを」
――そのお陰で、今の時間があるのかな。
カフェの中なんだけど、貸切にした時から、春の心地よい風がずっと頬に当たる気がしているし、爽やかな花の香りも微かにしている気がした。貸切予約をした当事者たちは、こんは風に感じられてるんだ。
これは、幸せで有意義な時間だ――。
やっぱりここには不思議な力が本当にある。なぜあるのか。そして、なぜ剛さんは不思議な力があるカフェを営業しているのか。
考えていると、一瞬強い風が吹き半透明なピンク色の花びらが一枚、カフェの中で舞った。
「また来年も、もっと先も……ずっと、こうやって柊くんと一緒に遠足花見ができたらいいな」と、照れながら優里は気持ちを柊に伝えた。
「僕も、一緒にいたい」
柊が答えると、半透明なピンク色の花びらは一気に増え、強い花の香りと、たくさんの花びらがふたりを包み込んだ。
***
じりじりとした暑い日は過ぎていく。木々の枯葉が絨毯に変わる日々も終わり、今年も辺り一面が真っ白に輝く季節がきた。
今日、カフェには柊と剛以外に優里もずっといる。優里は客のいない時にコーヒーの作り方を柊から学び、柊と一緒に剛から料理も学んでいた。たまに店の手伝いをするようにもなり、優里は客なのか店員なのかはっきりしない状態で、よくこの店に滞在するようになった。
優里がキッチンで立っている姿を見ながら、柊はふと、母の若菜がキッチンに立つ姿を思い出していた。
あの頃の温かい料理の香り、笑顔……もしも母が今ここにいたら、どんな風に動いて、どんな言葉を僕にかけてくれるだろうか――。
ぼんやりと優里を眺めていると、「どうしたの?」と、優里が柊に声を掛ける。
「いや、なんでもない。すっかりカフェの店員だなって、思っていただけだよ」
「店員に見える? 嬉しいな!」
忙しい時間が過ぎ、十七時になる。この季節だと、もう辺りは暗い時間。
客は誰もいない。何となくぼんやりと外を眺めていると、ふと、あることが頭に浮かんできた。
「ここのカフェ、店員の僕たちが貸切にしたらどうなるんだろう……」
「柊と、俺?」
柊が独り言のように呟くと剛が反応した。
「はい、そうです」
「やってみようか?」
「いや、冗談ですよ……僕たちが客になったら営業できないじゃないですか!」
手を両手で振り、否定する柊。
「私が料理作ったりします、か?」
柊と剛は同時に目を見開いて、ぱっと優里を見た。少し悩んだ後、剛が言った。
「客もいないし、料理も上達してきたし、優里ちゃんに任せてみようか」
「がんばります!」と、優里は目を輝かせた。
「おふたりは、何を注文しますか?」
「俺、オムライスとアップルパイがいいな。あとはコーヒーも」
「……じゃあ、僕も剛さんと同じで」
優里はニコリと笑い、「かしこまりました!」とハキハキ言うと、キッチンへ向かった。柊と剛も後をついて行く。
優里は腕をまくり、冷蔵庫から卵と玉ねぎなどを取り出し、料理を作る準備を始めた。柊からコーヒーの淹れ方や接客のコツを学び、剛からも料理の技術を吸収していたため、凛としてキッチンに立っていた。
キッチンで忙しそうに動く優里の姿を見ながら柊は、安心感を覚えた。幼い頃の弱々しい優里ではなく、今の彼女は力強くて、たくましい。
剛と柊は目を合わせると、客としてテーブルに着き、純粋な気持ちでカフェの雰囲気を楽しむことにした。
キッチンから漂ってくる、フライパンで玉ねぎを炒める音や香り。それらが店内に広がり、いつものカフェの温かい雰囲気が、さらに深まっていく。
柊と剛は窓の外の雪景色を眺めながら、静かに会話を交わす。
「剛さん、僕たちがこのカフェで逢いたいと思っている景色って、どんな景色なんでしょう」
剛は考え込み、遠くを見るような目をした。
「俺の場合は、妹の若菜ともう一度会って……ただきちんと向き合いたい、かな。自分勝手に生きてきたくせに、いなくなってから向き合いたいとか、そう思うのも、自分勝手すぎるけど。まぁ、もういない人と過ごすのは無理だけどな」
剛は静かにため息をついた。
柊は窓の外の雪を見つめながら、母の声が聞こえてくる幻を想像した。『柊、大好きだよ』と。
――あの温かい言葉が、今も耳の奥に残っている。もしも母がここにいて、剛さんと一緒に今、笑顔で食事ができたなら……。
「僕ももう一度、母に逢いたいです。生きていた時みたいに、母と一緒にただご飯を食べながら、笑い合いたい――」
しばらくすると、優里がオムライスをトレイに乗せ、テーブルに近づいてきた。トレイの中には鶏出汁のキャベツスープとアップルパイ、コーヒーも一緒に乗せてある。それらがテーブルに並んだ。
香ばしいケチャップの香りやスープの温かい湯気が店内に広がっていく。完璧に仕上げられた料理を眺めると、柊と剛の顔に自然と笑みが浮かんだ。
「見た目、剛さんが作ったのと似ていて……美味しそう。いただきます!」
ふたりが食べようとすると、突然店内が暗くなった。雪あかりでほのかに明るかった外の雪景色も全く見えなくなる。代わりに、ふわふわと小さな金色の明かりが店内に舞い始めた。その光は、まるで星屑のようにキラキラと輝き出し、店内の空気が神秘的なものに変わった。
そして、その光が一箇所に集まると、ぼんやりと女の影が現れた。それはだんだんとはっきりとした形に変わり、見覚えのある人になる。
母が今、目の前に――。
若菜は優しく微笑み、柊と剛を見つめた。
柊は息をのんだ。母の温かい眼差しが柊の心にじんわりと入り込んでいき、柊の胸が温かくなってきた。
「柊、元気?」
生前と変わらない姿、話し方。
幻の風景だという考えが薄れていく。
「ひ、久しぶり。元気だよ! 母さんは?」
「私も、元気だよ」
何年も一緒に過ごしていたはずなのに、すぐに母の存在には馴染めなくて、少し人見知りをしてしまった。この、今、見えている母は、人ではなくて、母の幻影かもしれない、いや、幻影だ。でも、母の手がテーブルの上に置かれ、その手のひらに軽く触れた瞬間、母の手の温もりが実在するように感じられた。
話したいことがたくさんあると思っていたのに、実際母を目の前にすると言葉が喉に詰まる。ただ母の微笑みをじっと見つめるしかできなかった。
「ふたりと一緒に食事をしても、いい?」
柊と剛は「う、うん」と同時にぎこちなく頷いた。優里は驚きながらも、温かい笑顔で若菜を迎え入れた。
若菜が柊の隣に座ると、若菜の目の前に、もう一つオムライスとスープ、アップルパイが自然と現れる。
若菜の笑顔、剛の穏やかな表情、柊の喜び、そして優里の新鮮な驚きが交錯し、店内は今までで一番温かい空気に包まれた。
食事の間は終始、穏やかだった。食事が終わると、若菜の姿が徐々に薄れていく。
「柊は、これからも幸せでいてね」
若菜は優しく柊に言った。生きている時と全く変わらず、見えているのか分からないぐらいに目を細めた笑顔で。いつも誰よりも子供の幸せを願っていた母。柊は言葉を失い、ただ頷くしかできなかった。
柊は涙がこぼれそうになり、胸から溢れた温かさが身体全体に流れていく。
続けて若菜は剛の方を見た。
「兄ちゃん、約束を果たしてくれて……柊を幸せにしてくれてるみたいで、本当にありがとう。地元に戻ってきて家族と向き合ってくれて、嬉しかったよ!」
「まだ、両親とは完全に和解してないけどな」
そしてしばらく無言になった後、続けて言った。
「若菜、今までごめん。そして、これからも柊のことは任せて! 絶対に、幸せにするから!」
「ありがとう、お兄ちゃん」
深くお辞儀をする若菜。にやっとしながら剛も目を潤ませ、深く頭を下げた。
「柊、本当に幸せに生きてね? それがお母さんの一番の願いだから。大好きだよ」
若菜の姿が何も見えなくなる。
「僕も、大好きだから……一生、大好きだから!」
柊が思い切り叫んだ。
店内は再び明るくなり、雪あかりが綺麗な雪景色が窓の外に広がった。三人は満足げに、微笑み合った。
***
一緒に若菜と過ごした日からは、あっという間に時が過ぎていった。
「そういえば、中野さんと奈津美さん、最近来ないね」
「あのね、最近ふたりで料理一緒に作るのにはまってるの。だから外食とか、全くしてなくて……」
「そうだったんだ……」
「そうそう、そういえば、お母さん、お父さんに記憶を思い出したこと、全部言ったの」
「言ったんだ!」
どうなるのか気になっていたけれど、一番理想的な展開かもしれない。
「そしてね、もう一度、家族として一緒に暮らすことになったんだよ!」
「そうだったんだ……ここに来なくなったけど『おめでとう』で大丈夫だよね」
「うん、もちろん、大丈夫だよ」
「今度またふたりで来てくださいって伝えといて?」
「うん、分かった」
「なんか、仲の良い家族っていいな――」
ふぅっとため息をつくと、テーブルを拭いていた剛さんの視線を強く感じた。
「柊、俺はお前を息子のように思ってる。実の親のようにはなれないかもだけど……」
「ありがとう、剛さん」
テーブルを拭いている手を休め、剛は続けて言った。
「柊は大切な家族だし、信じてくれそうだから、秘密を教えようかな……実は、若菜が亡くなった日、俺の夢の中に若菜が現れたんだ」
「剛さんの夢の中に?」
「そう。夢の中では、今みたいに、ここのカフェで俺と柊が働いていた。そこに若菜が現れて『ここで、人々の後悔や未練を癒す場所を作ってほしい』と伝えてきた。その時は、自分の潜在意識がそうしたいと思ってるんだと思って、自分の意思だと思っていたんだけど……今思えば、本当に若菜の意思だったのかもな。それがきっかけで、俺はこの地元に戻り、シマエナガカフェをオープンさせたんだ」
剛さんの夢の中に現れた母は、本物のような気がする。このカフェの魔法は、母の願いが形になったものだったのか――。
「そして、柊を幸せにしてほしいとも言っていた」
剛さんの夢の中でも母は、僕のことを気にかけてくれていたんだ――。
「母がカフェに現れてくれた日、過ごしたい日が過ごせて、本当に幸せだったな……」
「俺も過ごしたいと願っていた時間が過ごせた。若菜との再会、そして柊を幸せにする約束を果たすと報告できたこと」
僕と剛さんの願いもこのカフェで叶った。母の、そして母の願いを叶えた剛さんのお陰で――。
なんだか、ぐるぐるとして、最後にはひとつに繋がったような。
「このカフェ、ずっと続けてほしいな」と柊は小声で呟いた。
「もちろん、続けようと思っている」
「私も手伝うよ!」
柊の呟きにふたりは答えた。
――母の願いをついで、もっと多くの人を癒したい。このカフェで長く働きたい。剛さんは、ずっとここに僕がいることを賛成してくれるだろうか。まずは、料理の練習をもっとたくさんしないとだな。
柊はシマエナガカフェで、さらに温かい光で照らされた未来を過ごせる想像をした。
☆。.:*・゜
水や自然が綺麗だと有名な、北のとある街の端にある小さな店、『シマエナガカフェ』。僕はここでアルバイトをしている。
――このカフェは魔法が宿っていて、過去の後悔した出来事を理想のシーンに変化させてそれを再現したり、逢いたい理想の時間に会えたりできる場所だと噂されていた。
つまり、誰かを幸せにするということだ。
そういえば、まだカフェが建っていなかった頃、ここを通りすがる時に母が言っていたことがある。
この土地には、昔から不思議な力が宿っていているのだと――。
当時はまだ幼く、たしか小学校に入学する前だったから、母の話を素直に信じた。成長して、ふと噂を思い出した時には作り話だなと思った。そして今は、再び信じている。
会いたい理想の時間に出会う方法は簡単だ。カフェのオーナーに理想を伝え、それから、過ごしたい相手と一緒に貸切予約をして、ただ一緒にいればいい。
壁にある大きなコルクボードには、幸せそうな老若男女たちが微笑む写真が、オレンジ色のライトに照らされながら飾られていた。
✩.*˚
シマエナガカフェは、五年前に亡くなった白井柊(しらいしゅう)の母、白井若菜(しらいわかな)の兄である高畑剛(たかはたごう)が経営しているカフェ。
現在大学生の柊は、叔父である剛に誘われて、週末、ここでバイトをしていた。
カフェを経営している剛は四十代半ばの、容姿端麗な自由人。東京で暮らしていたが五年前に若菜が亡くなった時、地元に帰ってきた。柊の父親は仕送りをしてくれてはいるが、ずっと離れて暮らしている。親も子も、お互いの生活に興味はなく連絡もめったに取り合わない。柊にとって剛は、母がいなくなってから唯一身近に感じている大人だった。
歌で稼ぎ、飽きたら絵を描いて稼ぐ。伸び伸びと広く自由な生き方をしていて、さらに器用で才能もある。思い描いたものを実行する能力のある剛さんに、ひっそりと憧れている。僕にとって眩しく明るい毎日を過ごしているように見えていた剛さんだけど、共に過ごしていると、別の少し暗い面も見えてくる。たまにどこか遠くを見つめ、黒い影がちらついているような表情にもなったりする。だけど、そんな陰な部分も含めて、僕は剛さんに憧れている。
憧れている一方で、剛さんと対比した自分には何もやりたいことがなくて、ずっと立ち止まっている気がしていて……周りから取り残されている感が強くなり、焦りも感じ始めていた――。
*
営業時間のお手隙時間、ふと、シマエナガカフェの窓から外を覗く。ここからは、真っ白で静かな雪景色の街並みと青く染まった空が見える。遠くの山々は青い空に溶け込むように美しく、食事をしながら風景も楽しめる場所。そして店内も、ウッド調で統一された内装で、自然な雰囲気が漂っている。木の温もりとコーヒーの甘く苦い香り、流れるオルゴールの癒される曲も、ひとつひとつが訪れる人々の心を穏やかに包んでいた。
――ここは、本当に外とは別の世界のようで、気持ちが落ち着ける場所だ。
自分の住んでいるアパートの部屋も落ち着くといえば落ち着く。でも部屋はひとりでいられるからであって、現実感は拭えないままの場所。やっぱりカフェだけは何かが違う。
「店員さん、コーヒーふたり分、おかわりお願いできますか?」
「かしこまりました」
風景を眺めながら、たそがれていると、カフェを貸し切っている、晴れやかな表情をした二十代のふたり組の女性から注文を受けた。柊はコーヒーを淹れる。
女性たちはどんよりした雰囲気でこの店の中に入って来た。表面上だけ仲良しな雰囲気で、ふたりの間には大きな壁があるようにも感じていた。だけどここで過ごした今は、まるで魔法がかかったかのように――いや、今魔法の中にいるのか。カフェに入ってきた時よりも、明るい雰囲気に変化していた。
そういえば、そろそろ棚にストックしてあるコーヒー豆がなくなりそうだったな――。
「剛さん、コーヒー豆そろそろ買ってきますか?」
柊は食器を整理していた剛に問う。
「あぁ、お願いしよっかな。他にも生クリームとか……頼みたいものがあるから、あとでメモして渡すね」
「分かりました」
「あ、そうそう、今後、オシャレな食器を増やそうと思うんだけど、選んでみる?」
「僕なんかが選んでもいいんですか?」
「いいよ、柊はセンスあると思うし。選ぶの楽しいから。やってみな?」
柊はセンスを褒められると、嬉しくて気持ちが高ぶってきた。
――このカフェの食器が、僕の選んだやつになる。選んだ皿に料理が盛られて、客のテーブルの上に並べられるのか。カフェに合う、いいデザインのを選ばないとだな。雪模様なんてどうだろうか……選ぶ時は、剛さんからアドバイス貰いながら選ぼうか。
柊は、「やります」と宣言すると、剛は笑顔でこくんと頷いた。
柊は客の様子をちらりと見る。そして充足感を感じながら、コーヒーをカップに注いだ。甘さと苦味のある香りが立ち込める。客の元へ届けるとカウンターに戻り、剛の横に立った。
「今日も、シマエナガカフェが役に立ちましたね」
「役に立つ、か」
剛は、春風のような微笑みを柊に見せた。
***
一月中旬。朝早くから来た常連客が帰った後、白井柊は外に出た。何もはおらず、白くて薄い生地のワイシャツ姿のままだったから、店の中との寒暖差にぶるっと震える。シマエナガが、カフェ前にある餌箱で餌をついばんでいる。ドアに掛けてあるシマエナガの形をした白い札の端をつかむと、茶色で書かれた「OPEN」を裏返して「CLOSE」にした。
カフェと周辺を眺める。さらさらと降る雪、冷え切った時にする独特のスーッとする香り。真っ白な風景をはじめ、五感で受け取れるものが全て、心を浄化してくれるような気がしていた。それは今、カフェにいるからなのか。
――寒いけど、温かいな。
手に白い息をはぁっと吹きかけると、店の中に戻った。
「今日の貸切のお客様は、中野様たちだから、和風プレートとチーズケーキですね、多分」
「そうだね」
後悔している過去があり、理想の時間を過ごすために、今日このシマエナガカフェを予約したのは、仲の良い、気品のある五十代の元夫婦のふたり。
柊はプレート用の皿とケーキ皿をキッチン台の上にふたつずつ並べた。
――今日の和風プレートのメインは、カレイの煮付け。普段作らないし、きっかけがないと食べない煮付けだけど、剛さんがまかないとして作ってくれるお陰で、僕も食べることができている。そして、とても美味しい。
少し経つとカランと音がしてドアが開き、中野圭(なかのけい)が先に入りドアを支えると、相楽奈津美(さがらなつみ)も店の中に入ってきた。
いつも貸切を予約した客が入ってくる瞬間、明るい太陽のような爽やかな風の気配と共に、金色に輝く粉がきらきらとカフェ全体に舞う。それはきっと、ハッピーエンドを奏でる舞台の始まりのような時だからだろうか。柊はこの瞬間が好きだった。
「いらっしゃいませ。十時から十二時まで貸切ご予約の中野様ですね」
「はい、そうです」
カウンターで剛が確認をすると、中野が答える。
「当店のシステムはご存知ですね」
「はい。存じ上げております」
「では、ごゆっくりと幸せな時間をお過ごしくださいませ」
確認を終えると、会釈をする中野と奈津美。迷うことなくふたりは店の奥の角に座り、お揃いのような黒いコートを同じタイミングで脱いだ。奈津美のふんわりとした茶色の髪が柔らかく光を反射し、中野のごつごつとした手がテーブルにそっと触れる。
このふたりは、柊がここでバイトをはじめた二年前から、何度も貸切を予約して来店し、毎回同じような会話をして帰っていく。
「お兄さん、和風プレートとコーヒー、チーズケーキも。全部ふたつずつでお願いします」と予想通りの注文を中野がした。
「かしこまりました。チーズケーキとコーヒーは、いつお持ちいたしますか?」
「プレートと一緒のタイミングで大丈夫です」
柊は注文をメモし、間違いがないかふたりに確認すると、調理をする剛に伝えた。
柊はカウンターに戻り、豆を挽く。コーヒーマシンの軽い蒸気音が店内に響き、豆の香りがさらに濃密に広がる。チーズケーキを冷蔵庫から取り出して白い皿に乗せる。ミントの葉をケーキの真ん中に添えた。完成した料理とそれらを一緒にトレイに乗せ、テーブルまで運ぶ。近くに寄ると、奈津美の微笑みと中野の優しい視線が交錯する瞬間を目にした。言葉では言い表せない、長い期間をかけて積み上げられたふたりだけの世界が、そこにはあるような気がした。
柊はふたりを見つめ、口元が自然と緩み、目を細めた。心のどこかで、ふたりの絆に羨ましさと温かさを感じていた。
奈津美が「ありがとうございます」と穏やな声で言うと、柊は「ごゆっくりどうぞ」と、声のトーンを合わせて頭を下げた。
その後、柊と剛はランチの仕込みをする。するとふたりの、いつもの会話が耳に入ってきた。柊の視線は今日も自然にそっと、ふたりのもとへいく。
「ねえ、相談があるのだけど……」と奈津美が上目遣いで中野に言うと「どうした? 何でも言って!」と中野は勢いよく身を乗り出した。
「ふふっ、いつもと違う反応!」
「だって、奈津美が相談するなんて……珍しいから」
奈津美は弱々しく笑ったあと眉尻を下げ、中野に申し訳なさそうに伝えた。
「……あのね、私、もう限界かもしれない」
中野は顔をこわばらせ、息を呑む。
「大丈夫? 奈津美にとって何が限界なのかすごく心配で気になるから、今すぐに教えてほしい」
傍から見ると大袈裟だと捉えられるほどの中野の言い方。奈津美は中野を見つめると、唇をぎゅっと結んだ。そして目元に滲む涙を堪えるようにしながら、ゆっくりと話し始める。
「……あのね、優里が夜、泣き止まなくて、もう限界かも。夜、私も眠れなくて、最近特に泣き止まないし。全部が辛くて、限界がきてしまって……久しぶりに今、実家に優里を預けているけれども親に迷惑掛けてないかな?って気が気じゃないし――」
奈津美は深いため息をつくと、うつむいた。
テーブルに置かれたコーヒーの蒸気が、奈津美の顔をぼんやりと包んでいく。そのまま消えてしまうのではないかというほどに。
中野は深くうなずき、目を閉じる。静かにふっと息を吐いた。息がかかったのか、タイミングよく奈津美を包んでいた蒸気は消えた。そして目を開けた中野は、静かな声で奈津美に語りかけた。
「俺は、優里が生まれてから仕事や自分のことで精一杯だった。奈津美の気持ちに気がつけなくて、ごめんな。会社に頼んでしばらく休みをもらう。ふたりのそばにいて、優里の世話もするし、家事も一緒にやる。奈津美は、ひとりじゃないから……一緒に頑張っていこう?」
奈津美は驚いたように目を見開き、しばらく言葉を失った。やがて、大粒の涙がこぼれ落ち、安堵の表情が浮かんできた。
「ありがとう……。聞いてくれるだけで良かったのに……ありがとう、ありがとう……」
一気に奈津美の涙が溢れ出した。
柊がこのふたりの事情を剛から初めて聞いたのは、同じような会話をしていたふたりを初めて見た日だった。柊はあの頃をふと思い出す。
*柊、過去の記憶
二年前、今日のように雪が降る日。ふたりが帰った後に剛が柊にふたりの話をした。
「さっき来たふたり、実は元夫婦なんだよ。また来ると思うから、知っていてほしい」
「今もご夫婦のように見えたけど……元、ですか?」
柊は皿を洗いながら片眉を上げ、剛と目を合わせる。剛は、カウンターに飾られている小さなシマエナガの木彫りをそっと撫でながら、穏やかに答える。
「そう。あの女性、奈津美さんの頭の中はね、さっき一緒にいた男性、中野さんの記憶だけが綺麗になくなってしまったんだ。だけど不思議なことに、このカフェでは過去の、ある特定の時だけがよみがえる。奈津美さんが、産後の辛さを中野さんに打ち明けようとした時の記憶だよ」
「でも今、中野さんの記憶だけが奈津美さんの頭の中からなくなったとか、そんな風には全く見えなかったような……ふたりの関係はすごく親しそうにも見えたし……」
「だよね。もう一度、最初からやり直して、今みたいになったんだ。中野さんの方からアプローチしてね。上手く説明できないから、とりあえず閉店したら、観てみる?」
「観る?って、何を――」
「中野さんが下見に来た日をここで」
「そんなこと、出来るんですか?」
閉店後、本当に柊は見ることができた。
柊がバイトを始めたその日から、いつもまかないとして、剛が柊の晩飯を用意していた。その日はハンバーグプレートがテーブルに並べられた。
柊は一人暮らしで、ひとりだと適当に食事を済ますタイプだから、並べられたハンバーグプレートは、貴重な栄養源である。しかも剛は料理がとても上手くて、作る料理はとても美味しくて。実はまかないを食べられる時間がいつも楽しみだった。
剛は電動スクリーンを下ろすと、店内の明かりを消した。映像が良く見える席に柊が座ると、高畑が指をパチンとならす。するとスクリーンに店内の映像が映った。
「なんか、剛さんが魔法をかけたから、ここに映像が現れた感じですね」
「だろ? まぁ、ただ俺は防犯カメラに残しておいた映像の再生ボタンを押しただけなんだけどね」
今もだけど、カフェは常に特別な魔法がかかった場所みたいに、不思議な場所で。スクリーンに映っている映像は多分、防犯カメラではない。なぜなら、僕は本当に剛さんのことを魔法使いだと思っているから。多分、ここに来る子供たちも剛さんのことを魔法使いだと思っている。袖から手作りの花を出したり、コップの中に入れたコインを消したり、手品を子供に披露しているから。
大きく映る映像の中では、中野がひとりできょろきょろと挙動不審な動きをしながらカフェの中に入ってきた。
「いらっしゃいませ」と剛が言うと、ふたりは目を合わせた。
窓から見える外の景色は暗くて、店内はオレンジ色の明かりがついている。入口から一番近い席に中野は座った。他にも二組の客がいるから、これは貸切予約をした時間ではないのだろう。
「あの、コーヒーをお願いします」と、中野は注文を取りに来た剛に言う。
「かしこまりました。少々お待ちください」
ふたりの小さい声での会話も鮮明に聞こえ、声が僕の元まで綺麗に届いている。
剛が中野の席から離れようとした時だった。「あのっ、すみません……」と、中野は少し切羽詰まりぎみの表情で剛を呼び止めた。
「ここって、後悔していた時に心だけ戻れて、その時に言いたかった言葉が言える場所、ですよね?」
「はい、そうです」
「あの、言いたい人がいるのですが、どうすれば……」
「言いたい日の一ヶ月以上前に、お客様とお相手のお名前、そして何をお伝えしたいのかを私に教えてください。そしてこのカフェの貸切ご予約をしていただければ――」
中野は顔をしかめて疑うような目で剛を見上げた。
「……それだけですか?」
「はい、それだけです」
中野は顎に手をやり、考え込む。
「……今、予約しても大丈夫ですか?」
「はい、大丈夫です」
剛はこくんと頷くと、中野は辺りを見回した。
「周りが気になりますか?」
「いえ……」と否定しながらも「あの、相手は自分の元妻だった人なんですけどね――」と、中野は小声で話し始めた。
剛は周りに聞こえないように気を遣い、中野の向かいの席に座り、ぐっと顔を中野の近くまで寄せた。
元妻の奈津美と別れた原因が、娘の優里が生まれた時に、自分は仕事のことで精一杯で、全く家族と向き合わなかったからだと、中野は剛に説明をした。
「最初は奈津美の、自分への愛が冷めた理由が全く分からなくて『どうして急に愛が冷めて、別れを切り出したのか?』と聞いたら『急にではなくて、少しずつ積み重なって……』と答えたんですよね。もうその時には、手遅れでした」
中野は眉間に皺を寄せ、深いため息をついた。そして話を続ける。
「奈津美が離婚を決意するのに決定的だったのは、娘が生まれて少し経った時でした。奈津美に家事育児、全てを任せていましたから、奈津美に限界が来て……辛くて。でも最後の望みだと、自分に相談してくれたのです。でもその時の自分は、全く奈津美の話を聞いてやることができなくて……もう、本当にずっと、後悔しています」
話はそれだけではなかった。
「別れてからも養育費だけ支払い、会うことはなく。しばらくしてから、隣町の駅で奈津美と優里に偶然再会しました。娘の優里は高校生になっていて、別れてからそんなにも経っていたのだなと感じました。自分は奈津美と別れてから時間は止まったまま――」
中野の言葉が詰まると剛は「大丈夫ですか?」と声を掛けた。
「はい、大丈夫です。そして、衝撃的なことが起こりました。優里は別れた時に幼かったので仕方がないとして、奈津美の記憶力は低下していて……奈津美は私のことを、何一つ覚えていなかったのです」
――ずっと想っている人が、自分のことを全く覚えていない。考えただけで苦しくなった。僕の場合は剛さんや、大学の数少ない友人たち、連絡はあまりとっていないけれども父親……そして、もしも母が生きていてそんな状況だったら?
映像を観ながら柊は想像した。そして胸の辺りが痛くなって、胸をぎゅっと押さえた。
「じゃあ、今も?」
「はい、夫婦として一緒にいた時のことは、全く覚えてません。でも、奈津美は恋人がいなく、自分も独り身だったので、何とかもう一度、奈津美と深く関わりたいと思い、次は失敗しないように、奈津美と親しくなっていきました」
「……」
「短くまとめますと、自分が後悔していることは、まだ夫婦だった頃に奈津美から受けた、産後の悩みに寄り添えなかったことで……」
「では、奈津美さんがまだ記憶があった時の、優里さんが生まれた後に戻り、真剣に話を聞き、返事もしたいということですね」
「そんな難しいこと、可能でしょうか?」
「はい、もちろんです。このカフェでは、訪れる人たちの心の奥底にある、過去に話したかった、伝えたかったなという願いが、特別な力で叶うのです。あの時こうしていれば、こうされたかったと、お互いの心のどこかにあったものがここで交差する時に、理想の時間は生まれますから」
「願い……それは全てですか?」
「いいえ、例外もあります。その力は、純粋な後悔や愛から生まれるものですから、悪意や強制には働きません」
*現在の時間
脳内は現実に戻る。今の中野さんと奈津美さんは穏やかに、終始笑顔で会話をしていた。毎回ふたりを見て少し羨ましく、理想の関係だなと思う。自分にはこんなにそばに寄り添えるような人はいない。いつか現れるのだろうか――。
ふたりが帰ったあと、柊はテーブルを拭きながら、剛に尋ねてみた。
「そういえば、剛さんはいつもお客さんから貸切予約の問い合わせがあって、願いが叶うのか聞かれた時、絶対に否定をしませんよね。お客さんと出会った時点で何かが分かっていたりするんですか?」
「あぁ、ここで叶わないような願いがある人は、ここには来ないからね」
自信満々に答える剛。柊も剛の自信を見ていると、同じように思えてきた。
「あと、剛さんはシマエナガカフェ……いや、なんでこういう場を作ろうと思ったんですか?」
剛は手を止め、深くため息をついた。窓から見える外では、静かに雪が降り始めていた。
「実はね、大切な人を失った時に、その人に言えば良かったなって思うことがあってね……」
剛の声は低くなる。そして目を閉じ黙った後、静かに続きを語った。
「消えない後悔がきっかけで俺は、このシマエナガカフェを営業することに決めた」
「……剛さんの、後悔?」
「そう、そして考えた。俺みたいに、心に残って消えないような後悔をしている人たちの『変えられない過去』を再び見つめ直し、現実では残ったままだけど、せめて頭の中にあるものを理想に塗り替えながら再体験し、未練や後悔を少しでも癒せる場所にしたいと思ったんだ」
〝地元を離れてとにかく好き勝手自由に生きている人〟と、母から剛さんの情報を刷り込まれてきた。でも、剛さんが今ここを営業しているのは、見知らぬ誰かのためで――。
「だから『シマエナガカフェは、後悔している過去をやり直し、理想の時間に逢える場所』なんてフレーズにして、ここの噂も流したんだよ」
剛は遠くを見つめながら、温かい眼差しで語った。窓の外を何となく見ると太陽が現れ、静かに降る雪をダイヤモンドのように輝かせていた。
柊は、ひとつだけ剛に聞かなければならないと思うことがあった。
「違う人の話かもしれないですが、剛さんの、その、亡くなった人の話って、僕の母ですか?」
剛は柊をじっと見つめると、無言で頷いた。
「俺は自分勝手に生きすぎて、自由だけを求めて家族とわだかまりを残したまま地元を離れて……ここに戻ってきた時には、突然倒れた若菜はもう何も話せない姿で。喧嘩をしたままの状態で俺を嫌ったまま、この世からいなくなってしまった。喧嘩する前は、何回も『一度戻ってきてほしい。きちんと話をしたいし、家族とも話をしてほしい』と言っていた。あの時、もっと耳を傾けていれば……」
虚ろな目になる剛に対して、柊は何も言えなかった。
***
三月下旬。今日は朝早くから貸切の予約が入っている。カフェの清掃を終えると、柊は外に出た。餌箱には餌がなく、食べた跡だけが残っている。
雪が溶け始め、アスファルトが見えてきた。コートがいるかいないか、迷う時期だ。毎年この時期は落ちているたくさんの小さなゴミがとても気になってしまう。ビニール袋、お菓子を包んでいたもの、そして今、目の前には空き缶が……アスファルトと共に現れるゴミは、いつ雪の下に埋まったのだろう。
カフェの前に落ちている空き缶を拾い、CLOSEの札がそのままなのを確認すると中に戻った。
少し経つと、カランと音がなりドアが開いた。
「いらっしゃいませ。八時から十時まで貸切ご予約の相楽様ですね」
「は、はい、そうです。娘は今、電話終わったら来ます」
「かしこまりました」
カウンターで剛が確認をすると、ぎこちなく奈津美が答えている。柊はちらっと窓から見える、駐車されたばかりの白い車の運転席に女がいるのをぼんやり確認した。
「当店のシステムはご存知ですね」
「は、はい……」
「では、ごゆっくりと幸せな時間をお過ごしくださいませ」
シマエナガカフェはテーブルが8つある。奈津美はしばらく座る席を迷い、結局中野といつも座っているカフェの奥の席を選んだ。
カランと再びドアの音がなる。相楽奈津美の娘、優里が入ってきた。中野と奈津美のここでの会話の中では優里はまだ赤ん坊だったが、実際かなり成長している。柊と同じ歳だった。
「いらっしゃいま……あっ」
「あっ」
柊と優里は同時に、はっとした。
「お久しぶりだね」と、優里が柊に声を掛けると「うん、久しぶり」と、瞳を小刻みに揺らしながら柊は答えた。
「私たち、離れたところに住んでるわけじゃないのに、中学卒業してからは全く会わなかったよね」
ふたりは幼稚園からの同級生だった。小中同じ学校で、高校は別々のところへ。
――実はスーパーですれ違ったことがあるのに、気づかれなかったことはある。その時は一方的に話しかけようか、ずっと店内で考えていたな。
その言葉は呑み込み「そうだね」と、笑顔を返した。
「優里ちゃんのお母さん、あっちの席にいるよ」
柊は平然を装いながら奈津美を指さす。軽く微笑み、柊に会釈をした優里はそこに向かう。ふたりは向かい合わせになって座った。メニューを確認してそれぞれが食べたいものや飲みたいものを呟いている。
奈津美さんは月に数回一緒に訪れていた中野さんと一緒にいる時よりも、リラックスしているように感じた。
「人間観察って、本当に面白いよね。少しの変化でどのくらいの親密度かとかが、分かるようになると、特に」
「そうですね」
前は今ほど、誰かの気持ちに興味を持つことはなかったかもしれない。あんまり気持ちに余裕がなかったから――。
最近余裕がある気がするのは、ここ以外でも連絡をくれたりして、色々と剛さんが僕のことを気にかけてくれるからだろう。
「ミックスグリルのプレートにしようかな。いつもあの人、私の健康を気遣って、カロリーとか気にして和風を選ぶのよ」
「そうなんだ……お父さん、すごくお母さんのこと好きだよね?」
「うん。特に最近の動向……すごく私の事が好きだと思う――」
仲良さげに声を出して笑うふたり。
「和風もおいしそうだね」
「うん、毎回違う料理なんだけどね、全部美味しいの」
「どれにしようかな……朝だからサンドイッチにしようかなと思ったけれど。ミックスのやつエビフライとか唐揚げとかも入ってて美味しそうだから、同じのにしよっと」
ふたりは一緒にミックスグリルプレートとプリン、そしてコーヒーを注文した。
和気あいあいと会話が進んでいく親子。柊は、同級生の優里だからなのか、いつもよりも気になり、ひとつひとつの会話に聞き耳を立てていた。聞いていると、優里が柊の息が止まるような言葉を発した。
「そういえば、お母さんがお父さんのことを全部思い出したってこと、お父さんにいった?」
「ううん……まだ言ってないの。だから一週間前にここに来た時、言おうとしたんだけどね、タイミングが分からなくて……まだ言わなくてもいいかな?って思って、演技しちゃった」
こないだカフェに来た時、中野さんの全てを、奈津美さんが思い出していた――?
一週間前に中野さんと奈津美さんはここに来た。いつものように産後の話をしていた。ふと思い出してみると、その時、奈津美さんは一切の涙を見せなかった気がする。
「いつ言うの?」と、親子の会話は続いている。
「どうしよう、産後の恨みはまだ完全に消えてはいないし。それにもっと前の恨みも。いっぱい恨みが蓄積されてるな……全ての恨みが解消した時、かな?」
恨みの話をしているのに、くくっと奈津美は嬉しそうに笑う。
「そっか。お母さん、お父さんの話をしている時、いつも幸せそうだね?」
「そう?」
ふたりは視線が混じりながら、晴れた日の雪みたいに、優しく笑っていた。
「なんか、色々あるよね」
「……そうですね」
剛の言葉に、柊はそう返した。
時間はあっという間に過ぎていき、ふたりは相変わらず和気あいあいと食事をしている。突然、奈津美の手は止まった。そして温かい視線を優里にやる。
「優里、生まれた時から今もずっと……愛しているよ」
「どうしたの突然。なんか、照れる。あ、もしかして、それがお母さんが言えなくて後悔していた言葉?」
「そう。なかなか言えなかったなって、ふと思って。ここでだったら、あらたまってきちんと言えるかな?って」
「なんか不思議。お父さんの時の話を聞いていたけど……時間は特に戻ってなくない?」
「……だね!」
「でも今、理想の時間に会える時だよね? だから、普段言えないこと言っちゃおうかな! 私もね、お母さんが大好きだよ! 生まれた時から、ずっと!」
ふたりを見ていた柊と剛は目を合わせ、微笑みあった。
ここで働いていると、色々なドラマを観る。そして自分と重ね合わせる。亡くなった母はよく「柊が大好きだよ」と言ってくれていた。たくさん笑い合ったし、怒ってもくれた。きちんと向き合ってくれて、愛してくれていたんだなと思う。だけど、母が消えてしまってからもずっと、まだまだ愛されていたいとワガママなことを願ってしまう――。
「剛さん、僕は、まだたくさん母に甘えたかったんだと思う――」と柊が呟くと、剛はしばらく無言で優しく、柊をじっと見つめていた。
***
五月の初め。この地域では、満開の桜が辺り一面に咲きほこる時期。
「ここの席から桜が見れるんだね、すごく綺麗」
奈津美と一緒に来た日から、貸切予約なしに気まぐれでカフェに来るようになった優里は、今日ひとりで来ていた。
「柊くん、一緒にここに座ってお花見しない?」
「えっ、今?」
「うん、今」
「でも、今バイト中だしな……」
柊はチラリと剛を見て、様子を伺った。
「優里ちゃん、客は他に誰もいないし、今から貸切予約にしますか?」
「はい、お願いします!」
剛が問うと、優里はそう答えた。
急に貸切予約にするなんていいのか?
「柊、優里ちゃんのところに座ってもいいよ。不安そうな顔してるけど、大丈夫だよ。バイト代はこの時間もきちんとあげるから」
不安な顔になったのは、バイト代のことが原因ではないけど……。
貸切ってことは、優里の〝逢いたい時間に会える〟のか? だけど、願いが叶うために貸切予約をする時には、一か月前に予約しないとだし。
とりあえず剛にお辞儀をすると、優里の向かいに座った。桜を眺めて、頬杖をつきながら優里は言った。
「私ね、小学校の時、身体弱くて遠足行けなかったんだ……」
「そうだったよね、遠足以外にも学校を休む日が多かったのも、覚えている」
「だから今、同級生……というか、柊くんと、あの頃に気持ちを戻して、遠足をしてみたい。遠足じゃなくて、花見になるのかな?」
「いいけど……外じゃなくて、ここでいいの?」
「うん!」
ここで、お花見……花を見ながら優里ちゃんはご飯を食べることになるから、室内でも遠足にはならないとしても、花見ってことになるのか? いつもと同じ場所で食べるご飯も、気持ちや相手、環境次第で味が変わるような気がするし、遠足だと思えば遠足にもなるのかも。
――久しぶりだな、遠足。
「なんか、楽しくなってきたかも」
「私も!」
「ふたり、何食べる?」と、剛が注文を取る。
「僕も食べてもいいんですか? どうしよう……」
「柊くん、給食のカレーライス好きだったよね」
「……何で覚えてるの?」
「何となく? 私、カレーライスにしようかな?」
「でもここはカレーライスはなくて。あっ、スープカレーならあるよ」
「美味しいの?」
「うん、剛さんの作るスープカレー、めちゃくちゃ美味しいよ」
剛さんが作る料理は全部が美味しいけれど、僕はスープカレーが一番好きかもしれない。
「じゃあ、それにしようかな。あとは、アイスコーヒーかな?」
「僕も同じで」
「すみません、スープカレーと、アイスコーヒーふたつずつお願いします!」
優里は剛に注文した。
「かしこまりました」
いつもと何も変わらない様子で注文を受けてくれた剛さん。なんか、剛さんに接客されると照れる?というか、変な感じがする。
そして、スープカレーとご飯がテーブルに来た。いつもと違って誰かと一緒に座り、運ばれる側にいるのは本当に不思議な気持ちがする。だけど、嫌ではなくてむしろ楽しい。
それは相手が優里ちゃんだからか――。
カレーのスパイスの香り、クタクタに煮込まれて柔らかい鶏肉に玉ねぎと人参。
「遠足や花見は外でやるイメージだけど、桜を見ながらカフェでスープカレーを食べる花見も、良いよね」と優里は笑った。ほくほくしながらふたりは、あっという間に完食させた。
「はぁ、ご馳走様でした。私、こんなに早く食べ終われたの久しぶりかも。美味しかった」
「剛さんのスープカレー、満足してくれたようで、良かった」
「本当にお花見遠足をしていた気分になっちゃった! 噂通り、ここすごいね! 本当に魔法がかかったみたいだった」
優里は満足そうに目を細めながら天井を見上げ、柊も優里と同じように天井を見上げた。
天井が青空のように見えていた。
「実はね、柊くんだけだったんだ……」
「何が?」
「……あのね、小学四年生の時の、遠足に行けなかった時にね、柊くんが『一緒に行きたかったね、来年は行こうね!』って言ってくれたの。あの時、はにかむだけで何も返事できなかったけれど、私も一緒に行きたいって、心からそう思ってたんだよ。結局は次の年も、私の身体が弱かったせいで行けなかったんだけどね……」
その言葉の記憶はある。それはあの時、優里ちゃんと一緒に遠足行けたらいいのになと、心からそう思っていたから。
「僕がそう言ったのって、遠足の次の日だよね? 周りが遠足の話を教室でしていた時、優里ちゃんがちらちら話をしている方向を寂しそうに見ていたから……」
「そうそう、その時。柊くんだけが気にかけてくれてたんだよ、私のことを」
――そのお陰で、今の時間があるのかな。
カフェの中なんだけど、貸切にした時から、春の心地よい風がずっと頬に当たる気がしているし、爽やかな花の香りも微かにしている気がした。貸切予約をした当事者たちは、こんは風に感じられてるんだ。
これは、幸せで有意義な時間だ――。
やっぱりここには不思議な力が本当にある。なぜあるのか。そして、なぜ剛さんは不思議な力があるカフェを営業しているのか。
考えていると、一瞬強い風が吹き半透明なピンク色の花びらが一枚、カフェの中で舞った。
「また来年も、もっと先も……ずっと、こうやって柊くんと一緒に遠足花見ができたらいいな」と、照れながら優里は気持ちを柊に伝えた。
「僕も、一緒にいたい」
柊が答えると、半透明なピンク色の花びらは一気に増え、強い花の香りと、たくさんの花びらがふたりを包み込んだ。
***
じりじりとした暑い日は過ぎていく。木々の枯葉が絨毯に変わる日々も終わり、今年も辺り一面が真っ白に輝く季節がきた。
今日、カフェには柊と剛以外に優里もずっといる。優里は客のいない時にコーヒーの作り方を柊から学び、柊と一緒に剛から料理も学んでいた。たまに店の手伝いをするようにもなり、優里は客なのか店員なのかはっきりしない状態で、よくこの店に滞在するようになった。
優里がキッチンで立っている姿を見ながら、柊はふと、母の若菜がキッチンに立つ姿を思い出していた。
あの頃の温かい料理の香り、笑顔……もしも母が今ここにいたら、どんな風に動いて、どんな言葉を僕にかけてくれるだろうか――。
ぼんやりと優里を眺めていると、「どうしたの?」と、優里が柊に声を掛ける。
「いや、なんでもない。すっかりカフェの店員だなって、思っていただけだよ」
「店員に見える? 嬉しいな!」
忙しい時間が過ぎ、十七時になる。この季節だと、もう辺りは暗い時間。
客は誰もいない。何となくぼんやりと外を眺めていると、ふと、あることが頭に浮かんできた。
「ここのカフェ、店員の僕たちが貸切にしたらどうなるんだろう……」
「柊と、俺?」
柊が独り言のように呟くと剛が反応した。
「はい、そうです」
「やってみようか?」
「いや、冗談ですよ……僕たちが客になったら営業できないじゃないですか!」
手を両手で振り、否定する柊。
「私が料理作ったりします、か?」
柊と剛は同時に目を見開いて、ぱっと優里を見た。少し悩んだ後、剛が言った。
「客もいないし、料理も上達してきたし、優里ちゃんに任せてみようか」
「がんばります!」と、優里は目を輝かせた。
「おふたりは、何を注文しますか?」
「俺、オムライスとアップルパイがいいな。あとはコーヒーも」
「……じゃあ、僕も剛さんと同じで」
優里はニコリと笑い、「かしこまりました!」とハキハキ言うと、キッチンへ向かった。柊と剛も後をついて行く。
優里は腕をまくり、冷蔵庫から卵と玉ねぎなどを取り出し、料理を作る準備を始めた。柊からコーヒーの淹れ方や接客のコツを学び、剛からも料理の技術を吸収していたため、凛としてキッチンに立っていた。
キッチンで忙しそうに動く優里の姿を見ながら柊は、安心感を覚えた。幼い頃の弱々しい優里ではなく、今の彼女は力強くて、たくましい。
剛と柊は目を合わせると、客としてテーブルに着き、純粋な気持ちでカフェの雰囲気を楽しむことにした。
キッチンから漂ってくる、フライパンで玉ねぎを炒める音や香り。それらが店内に広がり、いつものカフェの温かい雰囲気が、さらに深まっていく。
柊と剛は窓の外の雪景色を眺めながら、静かに会話を交わす。
「剛さん、僕たちがこのカフェで逢いたいと思っている景色って、どんな景色なんでしょう」
剛は考え込み、遠くを見るような目をした。
「俺の場合は、妹の若菜ともう一度会って……ただきちんと向き合いたい、かな。自分勝手に生きてきたくせに、いなくなってから向き合いたいとか、そう思うのも、自分勝手すぎるけど。まぁ、もういない人と過ごすのは無理だけどな」
剛は静かにため息をついた。
柊は窓の外の雪を見つめながら、母の声が聞こえてくる幻を想像した。『柊、大好きだよ』と。
――あの温かい言葉が、今も耳の奥に残っている。もしも母がここにいて、剛さんと一緒に今、笑顔で食事ができたなら……。
「僕ももう一度、母に逢いたいです。生きていた時みたいに、母と一緒にただご飯を食べながら、笑い合いたい――」
しばらくすると、優里がオムライスをトレイに乗せ、テーブルに近づいてきた。トレイの中には鶏出汁のキャベツスープとアップルパイ、コーヒーも一緒に乗せてある。それらがテーブルに並んだ。
香ばしいケチャップの香りやスープの温かい湯気が店内に広がっていく。完璧に仕上げられた料理を眺めると、柊と剛の顔に自然と笑みが浮かんだ。
「見た目、剛さんが作ったのと似ていて……美味しそう。いただきます!」
ふたりが食べようとすると、突然店内が暗くなった。雪あかりでほのかに明るかった外の雪景色も全く見えなくなる。代わりに、ふわふわと小さな金色の明かりが店内に舞い始めた。その光は、まるで星屑のようにキラキラと輝き出し、店内の空気が神秘的なものに変わった。
そして、その光が一箇所に集まると、ぼんやりと女の影が現れた。それはだんだんとはっきりとした形に変わり、見覚えのある人になる。
母が今、目の前に――。
若菜は優しく微笑み、柊と剛を見つめた。
柊は息をのんだ。母の温かい眼差しが柊の心にじんわりと入り込んでいき、柊の胸が温かくなってきた。
「柊、元気?」
生前と変わらない姿、話し方。
幻の風景だという考えが薄れていく。
「ひ、久しぶり。元気だよ! 母さんは?」
「私も、元気だよ」
何年も一緒に過ごしていたはずなのに、すぐに母の存在には馴染めなくて、少し人見知りをしてしまった。この、今、見えている母は、人ではなくて、母の幻影かもしれない、いや、幻影だ。でも、母の手がテーブルの上に置かれ、その手のひらに軽く触れた瞬間、母の手の温もりが実在するように感じられた。
話したいことがたくさんあると思っていたのに、実際母を目の前にすると言葉が喉に詰まる。ただ母の微笑みをじっと見つめるしかできなかった。
「ふたりと一緒に食事をしても、いい?」
柊と剛は「う、うん」と同時にぎこちなく頷いた。優里は驚きながらも、温かい笑顔で若菜を迎え入れた。
若菜が柊の隣に座ると、若菜の目の前に、もう一つオムライスとスープ、アップルパイが自然と現れる。
若菜の笑顔、剛の穏やかな表情、柊の喜び、そして優里の新鮮な驚きが交錯し、店内は今までで一番温かい空気に包まれた。
食事の間は終始、穏やかだった。食事が終わると、若菜の姿が徐々に薄れていく。
「柊は、これからも幸せでいてね」
若菜は優しく柊に言った。生きている時と全く変わらず、見えているのか分からないぐらいに目を細めた笑顔で。いつも誰よりも子供の幸せを願っていた母。柊は言葉を失い、ただ頷くしかできなかった。
柊は涙がこぼれそうになり、胸から溢れた温かさが身体全体に流れていく。
続けて若菜は剛の方を見た。
「兄ちゃん、約束を果たしてくれて……柊を幸せにしてくれてるみたいで、本当にありがとう。地元に戻ってきて家族と向き合ってくれて、嬉しかったよ!」
「まだ、両親とは完全に和解してないけどな」
そしてしばらく無言になった後、続けて言った。
「若菜、今までごめん。そして、これからも柊のことは任せて! 絶対に、幸せにするから!」
「ありがとう、お兄ちゃん」
深くお辞儀をする若菜。にやっとしながら剛も目を潤ませ、深く頭を下げた。
「柊、本当に幸せに生きてね? それがお母さんの一番の願いだから。大好きだよ」
若菜の姿が何も見えなくなる。
「僕も、大好きだから……一生、大好きだから!」
柊が思い切り叫んだ。
店内は再び明るくなり、雪あかりが綺麗な雪景色が窓の外に広がった。三人は満足げに、微笑み合った。
***
一緒に若菜と過ごした日からは、あっという間に時が過ぎていった。
「そういえば、中野さんと奈津美さん、最近来ないね」
「あのね、最近ふたりで料理一緒に作るのにはまってるの。だから外食とか、全くしてなくて……」
「そうだったんだ……」
「そうそう、そういえば、お母さん、お父さんに記憶を思い出したこと、全部言ったの」
「言ったんだ!」
どうなるのか気になっていたけれど、一番理想的な展開かもしれない。
「そしてね、もう一度、家族として一緒に暮らすことになったんだよ!」
「そうだったんだ……ここに来なくなったけど『おめでとう』で大丈夫だよね」
「うん、もちろん、大丈夫だよ」
「今度またふたりで来てくださいって伝えといて?」
「うん、分かった」
「なんか、仲の良い家族っていいな――」
ふぅっとため息をつくと、テーブルを拭いていた剛さんの視線を強く感じた。
「柊、俺はお前を息子のように思ってる。実の親のようにはなれないかもだけど……」
「ありがとう、剛さん」
テーブルを拭いている手を休め、剛は続けて言った。
「柊は大切な家族だし、信じてくれそうだから、秘密を教えようかな……実は、若菜が亡くなった日、俺の夢の中に若菜が現れたんだ」
「剛さんの夢の中に?」
「そう。夢の中では、今みたいに、ここのカフェで俺と柊が働いていた。そこに若菜が現れて『ここで、人々の後悔や未練を癒す場所を作ってほしい』と伝えてきた。その時は、自分の潜在意識がそうしたいと思ってるんだと思って、自分の意思だと思っていたんだけど……今思えば、本当に若菜の意思だったのかもな。それがきっかけで、俺はこの地元に戻り、シマエナガカフェをオープンさせたんだ」
剛さんの夢の中に現れた母は、本物のような気がする。このカフェの魔法は、母の願いが形になったものだったのか――。
「そして、柊を幸せにしてほしいとも言っていた」
剛さんの夢の中でも母は、僕のことを気にかけてくれていたんだ――。
「母がカフェに現れてくれた日、過ごしたい日が過ごせて、本当に幸せだったな……」
「俺も過ごしたいと願っていた時間が過ごせた。若菜との再会、そして柊を幸せにする約束を果たすと報告できたこと」
僕と剛さんの願いもこのカフェで叶った。母の、そして母の願いを叶えた剛さんのお陰で――。
なんだか、ぐるぐるとして、最後にはひとつに繋がったような。
「このカフェ、ずっと続けてほしいな」と柊は小声で呟いた。
「もちろん、続けようと思っている」
「私も手伝うよ!」
柊の呟きにふたりは答えた。
――母の願いをついで、もっと多くの人を癒したい。このカフェで長く働きたい。剛さんは、ずっとここに僕がいることを賛成してくれるだろうか。まずは、料理の練習をもっとたくさんしないとだな。
柊はシマエナガカフェで、さらに温かい光で照らされた未来を過ごせる想像をした。
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