「真白⋯⋯ねえ、ましろんだけは僕の味方だよね?」
どれほど呆然としていたのだろう。
気が付けば薄暗くなってきた空の中で鈍く光る一番星が彼の瞳に映っていた。ゆらりゆらりと揺れている彼の瞳。8月がもうすぐ終わろうとしている中、伊丹が、伊丹の中にいるタミが一瞬朗らかにやさしく微笑んだ気がして、思わず瞬きをして現実を確認する。
「俺のこと、一生忘れられなくなればいいのに」
「それは、嫌。伊丹のことはきらいだし」
「じゃあ、これから先ずっと恨んでくれるのでもいいよ。真白の中に俺の存在が強く残れるなら」
けれどタミの幻影は一瞬で消えてしまったようで、もうそこにはわたしを救けてくれたタミではなく、わたしを陰からいじめていた最低な伊丹しかいなかった。恨んでもいい。忘れられなければいい。なんて、彼にだけは簡単に言葉にしないでほしかった。
それか、と繋げられた言葉に、口を噤んだまま彼の瞳を見つめ返す。
「キスさせてよ。真白が吸った酸素、ぜんぶ奪ってやりたい」
真剣に耳を傾けたわりには意味がわからない交換条件を出されて困惑してしまう。なにを言っているの、と言葉にするよりも先に顔を近付けられて反射的に押し返した。すこし寂しそうに下げられた眉を見て、どうしようもなく切なくなってしまう自分が気に食わない。
それはわたしの酸素を奪っても、奪わなくても、彼の余命はあと1年もないから? と自問自答して、だめだと気が付く。これまで彼が可哀想、なんて思ったことなんてないはずのなのに。本当か? と聞かれたら、すぐに頷ける自信は不思議とない。
それはもう直死ぬ人間に、そろそろ死にたい人間が哀れみをかけるのと同義に思えて、自分自身が伊丹よりも汚い人間かのように思えてくる。だからか、鋭い刃物のひんやりとした切っ先を背中に当てられているような気分になった。
駄目かな、と首を傾げる伊丹の声で我に返り、彼を諭すために口を開いた。あえて、酸素がないと。なんて前置きをしてから言う。
「⋯⋯やめて。死んじゃうでしょ」
駄目です、と続けながら首を振れば、今度はため息を吐かれた。塩素の匂いがキツく鼻につく。背後でプールの水面が凪ぐ音がした。
「今から俺とプールに飛び込んで死ぬのに?」
死ぬのは嫌? と首を傾げられる。
そうだった。と、はたと思い出す。暴力的な愛を振るってくる彼と、わたしはこれから死ぬんだった。
とても不思議な気分だった。一度でも自分から死にたいと考えたけれど今も生きているひとは、必ず一度は”死”に対する畏怖のような、恐怖のようなものを感じたことがあるんじゃないかと思う。だけど、不思議。死ぬんだって事実を冷静に受け入れ始めているわたしがいる。なんでだろう。ほんの一瞬前まで、この世界で唯一無二で一心同体の味方と死ぬんだって安心感があったから? それとも、終着点を決めて生きてきたせいで、この世に対する未練も無念すら残っていないから? どんなに自分の中で答えを探したところで、すぐに見つけることは出来なかった。
「真白は死ぬのが怖い?」
「……わからない、実感が湧かないから」
だから彼からの問いにも、うまく答えを出せずにいた。
だけどこの先を生きていたい理由も、8月を超えた先をわたしが生きていたいかと聞かれたら、その答えはノーであって。でもそれが伊丹の、いやタミの死にたいと同義なのかわからないことが苦しい。彼のことは嫌いで苦手で憎いはずなのに、彼を理解できずに心が苦しくなるのは解せない。それでも伊丹の中にいるタミのことを思うと、彼のことを理解したいと思うし、わたしが彼をしっかり理解しなくちゃなんて使命感すら湧いてきてしまう。タミから見ても、わたしはちゃんと世界で唯一の味方でいられただろうか。
不思議だ。彼のことを考えるだけで、呼吸は少しだけ浅くなって、目の前はぼんやりと霞んできた。大きく胸を膨らませながら息を吸って、呼吸を整えようとする。当たり前に息を吸って吐くことがこれで最後かもしれないと思うと、自然と鼓動が早くなって息が乱れるのも死ぬのが怖いからかと聞かれたらわからない。わたし自身ではなく、肺や心臓が死を察知して脳内に恐怖を植え付けて、死を回避しようとしているのかもしれない。
「ふーん。でも溺死って、中でもかなり苦しい死に方らしいよ」
「じゃあ伊丹がさ、先にわたしのこと苦しくない方法で殺してよ」
「やだよ。それは、フェアじゃない」
死に方にフェアもアンフェアもないでしょ。とは野暮になるから、あえて突っ込まなかった。
そうは言っても伊丹のことだから、ちゃっかり睡眠薬くらいはアイスが入っていた袋に入ってそう。なんてしげしげと彼の顔を眺めれば、予想外にも彼のスラックスのポケットから如何にもな錠剤が出てきた。彼が吐き出した大きなため息には、明らかに不機嫌な色が混ざっていた。けれどあえて聞こえない振りをして、彼の手の中を覗き込む。硬そうな手のひらの上に転がる錠剤は、意外と小さい。こんなもので本当に眠れるのか、なんて少しだけ過った不安を彼の言葉が掻き消していく。
「⋯⋯仕方ないな。ほら、これ。お求めのものだよ。本当はさ同じ死に方じゃなくちゃ、二人で地獄に行けないから使いたくなかったんだけど」
「⋯⋯え。ちょっと待って。なんでわたしも地獄にいく体なの?」
「それは俺に見つかったのが、運の尽きだからだよ」
その自覚はあるんだ。なんて突っ込むのにはもう疲れて、今度はゆるりと首を振りながら言う。
「普通に考えて地獄に落ちるのはあなただけでしょ」
「⋯⋯ねえ。なに、その呼び方。タミって、伊丹って呼んでよ」
突然スラックスのポケットに薬をしまった伊丹は、子どもみたいにわたしに縋りついてきた。膝をプールサイドのアスファルトについて、腕をわたしの腰に回している。その様子があまりにも幼くて。クラスメイト達に今の状況を説明したって、縋っているのがあの伊丹だなんてきっと信じないだろうな、なんて思わず考えてしまう。
困惑のせいでほんのりぼんやりとした脳みそで、なんとか彼の顔に目線を戻すよう指示をだす。途端、視界に映ったわたしを見上げる彼の瞳は先ほどと同じくゆらりゆらりと不安げに揺れていた。揺らぎの狭間に、またタミの幻影が見えたような気がして、一度瞬きをする。けれどタミが見えるような気がするのはやはり一瞬で、次に目を開いた時にそこにいるのはタミではなく伊丹だった。
伊丹がわたしをいじめてきた真意も理解したいとは思わないけれど、タミのこれまでの境遇と今の表情だけを切り取ればほんの少しだけ彼に同情するところもあるように思えた。その瞬間⋯⋯可哀想でかわいいね。と彼が先刻呟いた言葉を思い出して、湿気と暑さで掻いたはずの背中の汗が一気に引いていくのを感じる。最悪、と思わず彼から顔を逸らしてしまった。
「最期⋯⋯後生だから」
「じゃあ贖罪として、あなたの手でわたしを殺して」
目を開いて、強く言い放つ。どうせ、どう転んでも彼にわたしを生かしておく選択肢はないようで。現に睡眠薬からなんとなく察してはいたけれど、相当用意周到なようで彼の手には薬だけでなく、さっきまで彼が締めていたネクタイも乗っていた。
きっと、二人の重さでプールの底でちゃんと沈んだまま死ぬためだ。どんなに息が苦しくても水中から意地でも上がらせない、這い上がらずに死ね。なんて謎の気概を感じる。どれだけわたしを苦しめたら気が済むのだろう、この男は。
好きなひとにはやさしくしなくちゃ、愛してもらえないのに。わたしはやさしくしても、愛してもらえなかったけど。いや、愛されてはいるんだろうけれど、受け取る側が暴力だと感じればいくら愛だと言い張られても、それは愛とは呼べない。
「散々苦しめられたから、死ぬときくらい苦しまないで逝きたいの」
「ええ。プールに飛び込んで夏と一緒に消える、その瞬間を見たくないの?」
きっと綺麗だよ、と言ってのけた彼はやっぱり人の痛みがわからないらしい。伊丹は最後まで、そんなところだけがどこまでも伊丹らしくて。やっぱり彼を好きにはなれなかった。けれども大嫌いとは言い切れないのは、きっと彼の中に棲むタミの存在のせい。
自覚はなくとも、わたしの中での覚悟はとっくに決まっていたようで。伊丹の瞳を見つめながら、そっと首を縦に振れば、彼にされるがままプールサイドに押し倒された。
セーラー服の襟が、わたしの頭と彼の細い腕を守るように広がったのを後頭部でなんとなく感じた。夏の終わりでもアスファルトは、硬くてぬるい。寝心地は最悪。目の前には嫌いなクラスメイト。けれど彼の背後に広がる群青色の空だけは、どうしようもないほどに綺麗だった。
8月の終わり、彼の細い指が頭の後ろからわたしの首元に巻き付いた。力を入れられる前にゆっくりと唇を動かす。
「ありがとう、実行してくれて」
「たすけて、って言えば助けてあげたのに」
もう戻れないね。と続けられた言葉に、返事はしないで目を閉じた。
いじめを仕向けてまでわたしと一緒に死んでほしかったんでしょ。虫唾が走るよ、伊丹は永遠に痛みがわからないまま死ねばよかったのに。なんで一瞬、苦しそうに眉根を寄せたの。まるで普通の人間みたいに、ひとの痛みがわかるかのように。
可哀想、本当に。今更ひとの痛みを知るなんて。最期の最期に、あなたが苦しんで死ぬこともなかったのに。
「⋯⋯ほどけないようにちゃんと締めてね」
さっきまでの苦渋に満ちた表情から一変、嬉しそうに微笑んで涙を溢した彼とは裏腹に、わたしは腹の中で密かに微笑んだ。
どうか、神様。お願いします。人生最後のお願いですから。決して、どちらかが死に損なう事がないようにしてください。彼がクラスの真ん中に戻ることなく、痛みがわからずとも虐めていたわたしの隣で永遠に囚われて苦しみ続けますように。どうか、どうか。
「馬鹿だね、タミは」
わたしの真意も知らないで。狡いひと。今更、泣くなんて。喜びでも、悲しみでも、はじめてだ。彼がこんなに自身の感情を曝け出してくれるのは。わたしのことはわからないのにね。笑っちゃう。
あーあ、最悪。顔を近付けられたせいで、わたしの頬まで濡れていく。ベタベタ、熱くて最悪。でも子どもみたいな泣き顔で、最期まで恨みきらせてくれない。伊丹はやっぱり狡いひと。
首に回された指や目の前に迫る彼の身体すべては痛いほど骨ばっていて、彼にとって体内を巣食うものからの解放にあたる死は救いになるのかもしれない。なんて、また不謹慎なことを考えて薄ら笑う。本当にわたし性格悪いな。まあ、伊丹には及ばないけれど。
伊丹は、彼は……
きっと人の痛みさえわからなくなるくらい苦しんだのだろう、その短い余命を全うすることさえ投げ出してしまいたくなるほど。
その真実はわからないし、軽率にわかったふりもしたくはないけれど。
「おやすみ、真白」
初めて聴いたひどくやさしい彼の声で揺らされた鼓膜だけは、妙に落ち着いていた。ツクツクボウシも波の音も聞こえないように、わたしの息を止めるように口づけられた唇の間からころり、ころりと口内に転がっていく錠剤。
飲み込めば、程なくして意識がふわふわとしてくる。脳みそがなにも考えたくない、と言わんばかりに思考がシャットダウンされていく感覚。小さくても、ちゃんと効くもんだね。と錠剤の効果を疑ったことを、心の中で一応謝罪しておいた。
意識の狭間で漂いながら、首元に鈍い痛みが広がっていくのをなんとなく感じていた。苦しくはなかった。
おやすみなさい。
そして、さようなら。
わたしたちの気持ち悪い青春。
どうか、ひとの痛みがわからない伊丹とは来世では出逢いませんように。
完全に意識がなくなる前、最期に胸いっぱい吸った空気は、塩素と彼の食べていたソーダアイスの匂いがした。



