「実はさ俺、同じクラスになるずっと前から知ってたんだよね。真白のこと」
気付かなかった? と言わんばかりに、小首を傾げてから「鈍感だねえ」と小さく呟きながら伊丹はにやりと笑ってみせた。思わぬ告白に、わたしはその場で息を呑むことしか出来なかった。笑顔を隠してから、ゆっくりと息を吸った伊丹が再び口を開く。
「もっと言うと裏垢で繋がったのも、わざと」
「え、わざと……?」
「うん、わざと。意外と気付かれないものだね」
あ、そうそう。一番大事な事忘れてた。と今度は歌うように付け加えた伊丹が不気味に唇の右端だけを上げて微笑んだ。それからゆっくりと口を開いた。
「真白の水着を捨てたのは、俺だよ」
「⋯⋯っは。なに、言ってるの」
思わずもう一度、息を呑む。彼がなにを言ってるのか理解出来なかった。吸った息がうまく吐き出せなくて喉元に詰まる。……カヒュッと嫌な音がして、息が止まった。
「上履きを捨てたのも、俺」
これが悪い夢だったらいいのにと思いながら、じゃあ、と言葉を続ける。
「⋯⋯花瓶、をわたしの、机に、置いた、のも?」
「そう、鞄をプールに投げ捨てたのも」
わたしに見せつけるように嫌に丁寧に「ぜんぶ、ぜんぶ俺がやった事だよ」と呟いてから、何食わぬ顔をして「ほらちゃんと息を吐いて」なんてやさしく声をかけてくる伊丹。そんな彼がわたしの肩を摩ろうと近寄ってくる前に、精一杯手を伸ばして拒絶する。
テントの陰から出られない伊丹と、陰に入ることが出来ずに太陽の下で立ち尽くすわたし。目を見るのが怖くて足元に顔ごと向ければ自分の影が弱々しく震えている事に気付いた。信じたくないはずなのに、信じてしまえばこれまでのことに納得せざるを得ないこの状況が気持ち悪い。
「⋯⋯なんで。ねえ、なんで? なんで、こんなことしたの。たしかに、ずっと伊丹のことは苦手だった。だけど……わたし、タミのことだけは信じてたんだよ」
振り絞った声はひどく揺れていて、ちゃんとした音にならない。憤りと困惑が同時に押し寄せてきた時は、意外と悲しみと怒りは薄れてしまうことを知った。身体の芯にうまく力が入らない感覚だけが嫌に残る。
この世でたった2人ぽっちの可哀想なはずだったのに。今更、わたしの可哀想の原因が彼によって起こされているものだったなんて。とんでもない。わたしたちを取り囲む小さな世界にとっては、残酷な革命であり、卑劣な裏切りであり、世界を滅亡させる威力を持つほどの破壊行為のように感じられた。
だからか、一歩、一歩とゆっくりとこちらに向かってくるつま先が視界の端に映るのをただ見つめることしか出来なかった。逃げることはおろか、避けることすら出来ずに。
そんなわたしの鼓膜に、くすりと今度ははっきりとした笑い声が届く。やだなぁ。なんて言葉が続けられて彼の息を吸う音が鮮明に聞こえてくる。足元に彼のつま先が見えた瞬間、勢い良く下から顔を覗きこまれた。
「そんな顔しないでよ、ましろん。俺が可哀想じゃん」
「⋯⋯ちがう。可哀想なのは、わたしでしょ」
「いやぁ、俺も結構可哀想だよ?」
「加害者に可哀想ぶられたくないんだけど」
「はは、真白は真面目で可哀想で可愛いね」
最後に「純粋で、どうしようもないね」と続けてから、薄い唇が弧を描いた。この期に及んで、まだ彼は笑っていた。
「じゃあ。純粋で真面目なましろんのために、ひとつずつ答え合わせしてあげようか?」
「別に、いらない。むしろ、傷を掘り返されたくないんだけど」
「ええ、聞きたくないんだ。⋯⋯じゃあ、まず水着とか体操服を隠したり捨てたりした理由を教えてあげる」
伊丹がゆっくりと口を開く。
「あれはね、呪い。かわいい真白が俺の好きなセーラー服しか着られなくなる呪いだよ」
「え、なにそれ。意味わからないんだけど」
「だって水着も体操服もなくなったら、制服で見学するしかなくなるでしょ。それに見学の時間は少なくとも一緒にいられる、俺の大好きな服装のきみと、ね」
ちょっと待って、一旦確認させてほしいことがたくさんあるんだけど。と頭の奥のそのまた奥の方から文句が飛び出そうになるのを、必死にこらえる。彼の言葉をかんたんに信じることも、飲み込むことも出来なかった。伊丹はたしかに目の前にいるはずなのに、裏の顔であったはずのタミのことならなんでも知っていると自負できるくらいには、彼のことを知っているはずなのに。今、わたしの前にいる彼のことはなにひとつ理解出来そうになかった。
「……そんな事のためにいじめたの?」
ようやくそう言葉に出来たわたしを軽く笑いながら、彼はわたしの頬にそっと手をそえてきた。頬に添えられた白く骨ばった手は異様に冷たくて、肩がピクリと反射的に動いてしまった。
「なに、絶望しちゃった?」
ずっと僕のことを唯一の味方だと思っていたんだもんね。可哀想。なんて伊丹は人の痛みも悲しみも理解しないでただただわたしを嘲笑う。彼の顔をよく見れば、色素も厚さも薄い唇は夏なのにかさついていた。首筋だけいくら夏にしても異様なほど汗を搔いているのに、手のひらは対照的に冷たくて、それがどことなく不気味さを増していた。
「⋯⋯じゃなきゃ、きみは俺と一緒に死んでくれないでしょ」
そう言い切った瞬間、伊丹は瞳を細めた。満足そうに、どこか寂しそうに。
すっかり青白くやつれてしまった顔に三日月が浮かんだ。光の入らない真っ黒な瞳にじっと見つめられる。
「想像してみてよ、ましろん。もし真白が一年前と同じく控えめながらも友達もいて平穏に暮らせていたら、きみは俺とこうやって夏休みの最終日にプールサイドに来るという選択をしたと思う?」
答えは否、だよね。と、わたしが返事をする暇も与えずに伊丹は話を続けた。
「ねえ、真白。狡いよね。……理不尽だよね、世界って。可哀想な俺たちに手を差し伸べてくれる神様もいなければ、救ってくれる人だって現れない。ただただみんなに横目に存在だけを認識されながら、未練も無念も持ったまま消えることしか出来ない。だって、そうだろ。一年後この世にいないことが確定している俺と違って、真白はどんなに傷ついても泣いてもズタズタのボロボロになったって、我慢さえすればどこまでも生き延びられるんだから」
そこで一旦言葉を切るとわたしの頬から右手だけを離して、骨格にそって流れるように首元に軽く手をかけてきた。変なひと。自分から首に手をかけてきたくせに、言動とも行動とも裏腹に伊丹の指先は細かく震えていた。震えのせいで彼の指先が喉元に触れる度、気管がきゅっとしまって息が吐き辛い。二酸化炭素の吐き出し方を忘れてしまった身体は、新たな酸素を体内に入れることを拒む。
「だから真白が死にたいって思ってくれるまで壊してあげなくちゃ、きみは手に入れることは出来ないって思った」
ひとの理不尽は考えられないの? と問いただしたいのに、震えが止まらない声帯と息が詰まった気管は言葉を紡がせてくれない。
そうだ、思い出した。わたしと彼はちがう。伊丹は痛みがわからない人間だった。そう頭の中で再理解できた途端、一気に呼吸がしやすくなって、ゆっくりと息を吐き出しながら彼に向って口を開く。
「⋯⋯最っ低」
「自分でもこんなに上手くいくとは思ってなかったけど、俺は可愛くて可哀想な真白がすきだよ」
「わたしは、きらい」
「うそ」
なぜか人生を壊されたわたしではなく、目の前にいる壊した張本人の伊丹が顔を歪める。苦痛に耐えるかのように。
馬鹿じゃないの。
彼はわたしの頬を包む手まで震わせて小さな子どものような、縋るように目を潤わせてでわたしを見つめてきた。
「嫌いなんて言わないでよ」
「きらいだよ」
逆に自分を虐めていたひとと好きって言い合って、愛し合えるひとの方がこの世界に少ないと思う。あってもよっぽど自身の痛みに鈍感なのか、懐が広いかの二択しかない。それか伊丹に監禁でもされて、生き延びるための唯一の手段として彼に同情的な好意を寄せるか。でもその好意もストックホルム症候群からくる生存戦略であり、きっと純粋な愛の形とは言えない。
だけど残念ながらわたしはどちらでもないし、残念ながら彼に監禁されていたわけでもない。二学期前に唯一の味方と一緒に死ぬのは悪くない、と思っていたのに。その気持ちすら踏みにじってすべてを壊していった伊丹。
そんな彼を、かんたんに許せるわけがなかった。



