「どうしたの、真白」
ポツリと指先が濡れた冷たさと、伊丹の声が聞こえてきて我に返った。
「アイス、早く食べないとぜんぶ溶けちゃうよ」
「あ、ごめん」
何に対して謝ったのかも定かではないまま、そっと意識を現在に戻せば、そこには太陽の光を反射して眩しいプールがあるだけだった。人が入っていなくとも風に揺られるだけで、水面はぐらりぐらりと平衡感覚を失っていく。そのたびに揺れてせり上がった水面は、目が潰れそうなほどの強い輝きを放ってきた。
ふと、考える。プールはよく薄めた空色で描かれがちだけど、実際はそんなに綺麗な青色をしていなかったりする。特に水泳部がないからか、夏休み中は清掃どころか使われていた形跡もないプールは、一週間煮詰めたわかめスープよりも濃い緑色をしていた。浮いた藻はところどころで群れになっていて底が知れない。
青春の象徴じみた青は結局、人の手が入らなければ幻想に過ぎないのかもしれない。
「……汚れちまった青だね」
そう言うと気が済み、大人しく手元に視線を下ろし、伊丹曰く溶けかけているアイスに目を向けてみる。汗をかいている、という言い方が正しいのかはわからないけれど、淡い桃色のアイスの表面には薄っすらと水滴がついていた。
唇を薄く開けて、そっと冷たさに恐れながら一口齧る。薄い味気なさが気になる人工的なイチゴ味の、じゃりじゃりとした氷の舌ざわりは、ちょっぴりジャンキーで大味なところが、むしろ夏らしくて嫌いじゃなかった。
調子に乗ってすぐにもう一口と齧りつけば、脳みその奥深くまで鋭く届いた冷たさに思わず強く目を閉じる。
真っ暗な視界、ズキリと痛む頭。重苦しい痛みは、どこか寝苦しい熱帯夜にみる悪夢を思い出させる。
視界が役に立たなくなったせいか、ジワジワジワジャアジャアうるさく鳴く蝉よりも、ツクツクボウシの声の方がよく聞こえる事に気付かされた。
制服の袖が汗で腕に張り付くほど暑くても、自然の中ではすでに夏の終わりを迎え始めていることを感じる声だった。
「どう、美味しい?」
「うん、ありがとう」
シャリシャリ、音をたてて口の中で細かく砕けていく氷。薄いくせにどこか甘ったるいイチゴの味は、やっぱり嫌いじゃなかった。
「あ、そうそう。それ、きみの最期の晩餐になるから」
言い忘れてて悪いけど、と続けられた彼の言葉。
「え、夕方に食べるアイスは晩餐とは言わなくない?」
そう言って首を傾げたわたしに、伊丹は呆れたように肩を一瞬すくめるとゆっくりと首を横に振ってきた。
その首筋にじんわりと滲んだ汗は、どんどん下へ下へと流れていき、大きく開けられた襟元から覗く鎖骨に溜まっていた。かく言うわたしの額からも同じように汗が幾筋にも流れ落ちているのだから、やっぱり8月は31日でも暑い。
「俺は今日ここで、真白と死のうと思ってるんだ」
「え。……なにそれ、初耳なんだけど。夏の暑さで身体だけじゃなくて頭もやられちゃったの?」
また視界の端で、風に揺られてプールが波立った。また輝きで目を潰されてしまわないように、プールから目をそらす。それからテントの下から、空を見上げてみた。そこには憎たらしいほど理想の青春を彩る淡いスカイブルーが広がっていて、その青に手を伸ばす様に広がった入道雲はわたしたちみたいだった。
「ひどい言い草だねぇ」
「……ま、でもいいかも。どうせ、夏休みの宿題終わってないし」
「ちょうどよかった?」
「ちょうどいいかは、よくわからないけど」
「でも、よかった。……真白も死にたくて」
それから、相変わらず狂ってるね。と続けられて、あなたにだけは言われたくない。と返した。
ツクツクボウシが鳴いているのが、遠くの方から聞こえてくる。
空にも雲にもプールにも目を向けるのが違う気がして、手元に視線を落とした。ちょうどそこでは、右手に持ったままのアイスが溶けていくところだった。
どろり、なんて擬音は似合わないくせに、指先をベタベタに汚していくイチゴ味。見る影もなく崩れていってしまった淡いピンクに染まった指先にまとわりつく水。
甘ったるい人工的なイチゴの匂いが辺りを包み込んだ。
「本当は二学期以降はもう学校に来る気はなかった、とか?」
目を逸らしたかったことを伊丹は簡単に蒸し返してくる。本当に嫌な男、と軽く笑いながら彼に言葉を返す。
「それを言うなら『夏が終わる前に死ぬのも悪くない』でしょ」
「違うよ。正しくは『8月の終わりに息を止めたい』だって」
そうだった。思い出した。
いや、本当は思い出さないようにしていた。
あの日、わたしたちが繋がったきっかけ。
それは、SNS上のハッシュタグ『#今年の夏に実現したいこと』とともに彼がしたとある投稿を、わたしが彼とは知らずにいいねしてしまったせい。まさか直接またあの投稿とまったく同じ文言を聞くとは思わなかったけれど。一言一句違わず投稿内容を唱えた伊丹のせいで、わたしは改めてあの頃を思い出さずにいられなかった。
一年前の彼はたしか、隣のクラスでも人気者だった。肌は今とは違く、健康的に焼けていたし。小麦色の肌に似つかわしく、彼の身体には程よい筋肉がついていた。
それを言うなら同じように一年前のわたしだって、少ないながらもやさしい友人がいて、そこそこ充実した夏休みを送っていた。この一年でまさか、わたしの周囲で急に物がなくなるとか、友達みんなが転校していってしまうなんて、あの頃はまったく想像できなかった。
今年はひどかった。いやクラス替えをしてから、特にひどくなった気がする。夏が近付くに連れてどんどん壊れていく。いつだって積み上げるのは難しいくせに、積み上げた物が崩れていくのはあっという間だった。
アイスを食べ終わり喉仏を大きく上下させて水を飲む彼を見つめて、青白く薄い皮に浮かぶ病的なまでに骨ばった首筋に切なくなった。苦手だった伊丹。けれど目が離せない。きっと彼も同じだから。崩れた側の人間だから、どうしようもないほど気が休まってしまう。
「あーあ、溶けちゃったね」
ペットボトルの飲み口から少しだけ離された唇がゆっくりと動く。ほんのり濡れた薄い唇の端から細く伝う水。健康とは程遠い容姿なのに、色気だけは健在で。
日陰のくせに、こういう時だけ艶やかに太陽が映っていて、相手は伊丹なのに目のやり場に困ってしまった。
「汗とアイスでベタベタ。夏っぽいね」
「最悪、洗ってくる」
プールって便利だね、と伊丹の皮肉じみた笑い声を背中に感じながら、テントの屋根によって日差しから守られていた聖域から出た。熱されたアスファルトの上をつま先立ちで歩いて、濁ったプールに着くと手を突っ込む。思っていたよりも人肌まで温くなってしまった水で、まとわりついたベタベタを落とす。
気持ち悪いもので気持ち悪いものを落とす、その行為はなんとも可笑しく思えた。
「俺さ、セーラー服が好きなんだよね」
何気なく発せられた言葉に、思わず彼の方へ勢いよく振り返ってしまった。何を急に言い始めたのか、と思った。夏の太陽を持ってしても一瞬で濡れた手を乾かすことは出来なくて、水を滴らせたまま伊丹が待つテントへ帰る。つま先立ちを忘れてしまった帰り道。一歩進むごとに熱せられたアスファルトが足の裏を焼いていった。
「なに。最期に性癖博覧会でも開催する気?」
「なにそれ、別にしてないけど。⋯⋯あ、そうだ! 真白のも教えてくれるならやってもいいよ」
そっちが始めたんでしょと睨みつければ「ごめんごめん。じゃあ、聞いてくれる?」なんて彼にしては珍しくしおらしく謝られて、訝しみながら首を傾げて聞く姿勢を整えてあげた。



