今日とは違ってプールサイドもプール内にも喧騒が溢れていたプール開きの日。
高校生にもなって地獄のシャワーに悲鳴を上げるクラスメイトの声を聞きながら、早く授業が終わればいいのにと考えていた。梅雨明け直後、日陰でただ座っているだけでもクラクラする茹だるような夏の日。
一人だけ体操服に身を包んだ彼は、テントのプールよりに位置する太陽と日陰の境界線の上で、水泳の授業としてプールで気持ち良さそうに泳ぐ仲間たちに手を振っていた。
いるべき場所が変わっても仲間に囲まれる生粋の人気者、それが伊丹の第一印象だった気がする。なんてバシャバシャとプール内で波立つ音を他人事として聞きながら、テントの端で膝を抱えて彼の背中を眺めていた。ただ目の前にあったから、そんな理由だった気がする。
同じクラスになってから一度も喋ったことがない、クラスの端にいるわたしとは違って世界の真ん中で笑う太陽みたいな存在の彼、伊丹は随分と華奢になってしまった背中をわたしの視界から隠すようにこちらを振り返ってきた。
「あ、やっぱり真白さんも見学なんだ。なに、サボり?」
「それは伊丹でしょ」
口をついて出てしまった強い語気の言葉に自分でも息を呑む。自己防衛のために自然と初めて話す人とは一定の距離を取る話し方をしてしまう自分が本当に気に入らない。
けれど当の伊丹はなにも気にしていないのか、怒るわけでも傷ついた顔をするわけでもなく「人聞き悪いこと言わないでよ」と小さく笑うだけだった。
でもわたしはこの右下を向きながら遠慮がちに笑う伊丹の顔が嫌いだった、ずっと。
教室の真ん中で片手に収まりきらない数の友人に囲まれて談笑しているにも関わらず、ふいに三日月形に細められた瞳の中のハイライトを消す笑い方が気に食わなかった。
大抵、そういうミステリアスを装う笑い方をする人はろくなことを考えていないと思っていた。それもなにもかもを持っている側の彼がするその笑い方は皮肉だと思った。
だからか、どちらかというと伊丹は苦手だった。
「俺は可哀想だからプールに入れないの」
「じゃあ、わたしも可哀想だと思う」
「なに、彼氏がいないから?」
「それは今、関係ないでしょ」
それに彼氏がいてもいなくても可哀想だなんて思わないし、思われたくもなかった。そもそも可哀想だからプールに入れないという理由もよくわからない。
なんとなく売り言葉に買い言葉で張り合ってしまったけれど。きっとそんな考えが顔に出てしまっていたのだろう。
伊丹が揶揄うように笑いかけてきた。
「やだなぁ、冗談だよ」
軽口を叩き合えるようになるほんの一瞬前までは、教室で言葉を交わすどころか同じ空気を吸わせてめらえる立場ですらなかったはずなのに。
スルッと人の懐に飛び込んできたこの男はどうやらわたしの心理的パーソナルスペースから出る気はまったくないらしい。決して気持ちの良い会話でも心地よい距離の詰められ方でもなかったせいで距離は縮まったはずなのに心象が悪い。そんな気持ちを込めて睨みつけると、彼はわかりやすくすぐにへらりと笑った。
「まあまま、許してよ。俺たちプールサイド同盟じゃん、ましろん」
「その呼び方、やめて」
そう突っ込んでから、違和感を覚えた。
その正体に気が付いた瞬間思わず見開いてしまった目を満足げに微笑んだ伊丹に覗き込まれた。本当に性格が悪い。ジワジワジワと蝉の鳴く声が嫌に大きく聞こえた。
「ええ、照れないでよ。ネットでは僕のことタミって、馴れ馴れしく呼んでくれてたじゃん」
「……え。ちょっと待って」
そこまで話が進んでから彼の言葉を遮った。脇や背中、首筋、あらゆる汗腺から汗が溢れ出して、季節に似合わず制服をひんやりとさせた。
「案外近くにいるものだよね、ネ友って」
「⋯⋯まさか、余命一年のタミってあなただったの」
「どう、驚いた?」
「え、待って。いつから気が付いてたの?」
くすりくすりと伊丹は妖しく笑った。思い当たらない節は全くなかったわけではなく、もちろん彼の匂わせが絶妙だった事もあり、ここ1か月で随分痩せ細りやつれてしまった彼を遠くから眺めてなんとなく勘づいてもいた。
けれど『まさか、ね』で済んでしまう程度の一致だったのだ。
これまですべて。昨日のやり取りだって、プール開きの日が被る高校なんて県内に何件でもあるだろうし、見学するんだへぇくらいにしか思っていなかった。
人間なんて自分より可哀想なひとを見て安心するか、可哀想レベルを比べて自分の方がひどい目に合っている事に酔うことしか出来ないんだから、死にたいほど可哀想な人が身近にいる事を想像したくなかったのかもしれない。否が応でも自分の醜悪さと惨めさに気が付いてしまうから。
「でもまあ、気を付けた方がいいかもね。ネットで本名をほんのちょっともじっただけのユーザーネームを設定したり、生年月日とかいじめの内容とか、テストの日程なんて載せたら悪い男に引っかかっちゃうよ」
「タミは悪い男じゃないよ」
「わかんないよ、中身俺だし」
「うわ。たしかに、ちょっと損した気分」
「それは失礼」
また伊丹がくすくす笑う。ふわふわと浮いてはちょうどいい場所に返ってくる言葉は、たしかにタミのようだった。
まさか伊丹だったなんて、大変遺憾ではあるが。
タミとは、梅雨頃に『今年の夏に実現したいこと』がたまたま合致して裏垢で仲良くなった男の子のことだ。
顔も本名も知らない。いじめられて生きる希望を失ったわたしと余命幾ばくもなくて長く生きられない彼。
現実に吐き出せないことだらけのわたしたちだから、そう願ってしまうのはある意味当然であり必然でもあると最初は、願い事の合致にあまり驚きはなかった。
けれどタミが何度も運命だ、きっと僕たちは互いが出逢う為に苦しんできたんだ。なんてクサイ台詞を吐いたから、彼をタミを特別な男の子だと思って今日まで生きてきた。
だからこそ残念で遺憾ではあるが、ただこの時タミが伊丹である事といつもクラスの中心にいて笑顔を絶やさない彼も同じように苦しみながら生きている人間なんだと知れた事だけは不謹慎ながらすこしだけわたしの心を軽くした。
「で、今日はどうしたの?」
「⋯⋯水着なくしただけ」
そう言ってから伊丹があまりにも自然にひとつ頷いたのを見て、彼はもうわたしがいじめられていることを知っているんだと当たり前であって非日常な現実を思い出した。
「例のいじめで?」
「わからないけど、たぶん。朝にはちゃんと持ってきてたから」
「まだ犯人わからないの?」
無言のまま頷く。珍しく神妙な面持ちをした伊丹が静かに口を開いた。
「この前体操服もなくなったって言ってたし、ジャージも上履きも盗られて。なんだっけ最近増えたの、無言電話と帰り道につけられたりしたんだっけ」
「あと机の上に花瓶が置かれてたり」
「うわぁ……古典的」
「一番きつかったのはお弁当と学校で配布されたiPadが入ったスクール鞄をプールに沈められたことかな」
「へえ、それはまた厄介な。まだ真白へのいじめ続いてるんだ、ひどいことする人もいるものだね」
なんて他人ごとのように神妙な面持ちをとっくに消し去っていた伊丹に笑い飛ばされたんだっけ。
彼は人の痛みがわからないらしい。
たまに、いや言葉の端々から感じるソレの正体はわからないけれど、貼り付けられた笑顔が不気味だと背筋に走った悪寒は今でも忘れられなかった。
ドラマや小説の中ではこういう男は大体味方の様な面をしながらも一番の敵だと相場が決まっている。



