先生が予約をしてくれたのは、高いビルの中に入っているイタリアンのお店だった。大きな窯があって、美味しそうなピザが次々と焼き上がっていく。
店員さんに案内されて、先生、そして僕の順番で席に向かった。ほかのお客さんはみんな、先生を見ていた。特に、女の人は目がハートになっていた。
先生、カッコいいから。どこでもこうやって、注目されるんだろうな。
「わあっ……!」
先生と僕の席は、窓際だった。僕は思わず声を上げてしまった。自然もお花も大好きだけど、夜景も大好きになりそうだ!
僕は夢中で窓の外を眺めた。僕には未知の世界だった。
「さっき聞きそびれたけど、ルイはアルコールの匂いは大丈夫?」
そんな僕の様子を見て、先生は満足そうに微笑んだ。
「はい! 直人もよくビールを飲んでます!」
先生はメニューを開いたまま、頬杖をついた。目力のある目で、僕をじっと見つめている。
「ルイは、ずいぶん直人くんと仲がいいね……?」
「直人も弟さんがいるので、僕を弟みたいに可愛がってくれてるんだと思います」
「ふーん。弟みたいに……ね」
先生は赤ワインを、僕は自家製のレモネードを選んで乾杯した。
レモネード、炭酸が入ってる。ぱちぱちグラスの中で弾けてる。僕、またしゅわしゅわしちゃいそう。
先生は美味しそうにワインを飲んだ。スッと高い鼻で、ちょっと上がった綺麗な二重瞼を閉じて、とても美しくワインを飲んだ。
しゅわしゅわしゅわしゅわ————!
僕は先生を見つめながら、ストローでたくさんレモネードを吸い込んだ。
ねえ、先生。僕、今すごく幸せだよ?僕の心、いつもみたいに読んで欲しいな。先生。
「ルイ。ピアノをまたやろうと思ったきっかけは?」
どうしてだろう。僕が読んで欲しいときに限って、先生は僕の心を読んでくれない気がする。
「家と大学の往復で、何か始めたくて。バイトもしてるんですけど……」
「バイトはどこで?」
「楽器屋です」
先生はワイングラスを傾けた。
「楽器屋か。今度ルイのバイト先に行こうかな」
「ほ、本当ですか⁉」
「嘘だよ」
僕は椅子からずり落ちそうになった。先生が笑っている。
「本当かって聞かれたら、嘘って言いたくなるだろ?」
先生は綺麗な横顔で、残りのワインを飲んだ。あまのじゃく……イジワル……僕は口を尖らせた。
「ルイ」
「は、はい!」
「ルイがピアノを辞めたのは、当時の先生が原因だったっていう俺の予想。合ってる?」
急に確信を突かれて、僕は静かに頷いた。身体中のしゅわしゅわが、一気にしぼんでいった。
話していいのかな。
僕、先生に呆れられたくない。嫌われたくない。
先生。僕は、僕は————
「ルイ。話したくないなら……」
「僕、ラシド、ラシドシラソのところから弾けなかったんです!」
先生が黙った。先生の言葉にかぶせて、声を大きくして言ってしまった。
焦ってしまった。
俺には話してくれないんだと、先生にそう思われたくなかった。
「弾けなかったっていうのは?」
「僕、手がすごく小さくて……」
「知ってるよ」
僕は先生を見つめた。先生も僕を見つめていた。
先生、知ってたんだ。横から見てて、わかってたんだ。
やっぱり、そうなんだ。あの女の先生も、わかってたはずなんだ……。
「僕、小学生のときに、ピアノの女の先生に『水かきが邪魔だ』って言われて」
実際はもっと過激で、攻撃的な言い方だった。
僕は、あの頃に比べて背が伸びた。平均身長には届いてないけど、それでも背が伸びた。
だから、手だってあの頃に比べたら大きくなったはずだ。指も長くなったはずだ。
でも、僕がそう思ってるだけで、自分よりも手が小さい人に、僕は出会ったことがない。
手のひらを合わせて比べたわけではないけど、同級生の女の子のほうが、僕よりも手が大きそうだなと、何度も思ったことがある。
僕は小学六年生になっても、親指と小指をめいっぱい伸ばしても、どんなに頑張っても、ドからオクターブ高いドまで届かなかった。
それは、ピアノが好きな僕にとって、とても残酷な現実だった。
指の柔軟性を上げる方法があるかもしれない。弾き方のコツもあるかもしれない。
そう思って、学校の音楽の先生に聞いたりもした。アドバイスをもらったストレッチも、毎日した。
なんとなく、指と指の間隔が広がった気がした。嬉しくて、ピアノの鍵盤に手を乗せた。
でも、届かなかった。
僕は自分の小さな手を見つめて、ただただしばらく、ピアノの椅子に座っていた。
手が大きくなりますように。明日、目が覚めたら指が長くなっていますように……。
キラキラと煌めく星。瞬く月の光。夜空に向かって、僕は何度も祈った。
でも、世界中からお願いが溢れてるのに。僕より大切なお祈りをしてる人も多いのに。
小さな手の、小さな僕のお願いなんて、叶うはずがなかったや。
「ルイは悪くない。その女の先生は教え方が下手だ」
先生は店員さんを呼んで、赤ワインをもう一杯注文した。
「小学生に『水かきが邪魔』とか言ってる時点で、失格だよ」
先生。優しいな。
どうしよう。涙が溢れそうだ。
「ルイ? 大丈夫?」
ワイングラスを持つ先生を見つめて、僕は心の底から思った。
四人目のピアノの先生は、才賀リョウ先生がよかった。
母さんに呆れられたあの日。僕は、布団の中で泣きながら、愛のワルツを繰り返し聴いた。
たった二分もない短い曲。僕が弾けない曲。
僕の大好きな曲。
そんな愛のワルツを、先生は僕と出会った日に弾いてくれた。
先生が僕を包み込んでくれたみたいで、僕の心はすごく震えて……。
「大丈夫です。リョウ先生……」
僕、ピアノが大好きだ。
先生のことも、大好きだ。
ねえ、先生。僕、先生が大好きなんだよ?
言わないけど。言えないけど。
僕ね、先生のことが、大好きだよ……。
「ルイ。一人で抱えて頑張ったじゃん」
先生が向かいから手を伸ばして、僕の頭をぽんぽんと撫でてきた。僕は涙がこぼれないように、下唇を噛んだ。
僕の愛のワルツは、届きそうにない。きっと先生には届かない。
だけど、こうして先生と一緒にいられたら。頭をぽんぽんって、撫でてもらえたら。
僕は、それだけでも幸せだ。
これから、つらくなるかもしれない。苦しくなるかもしれない。
でも、少なくとも今のこの瞬間は……すごく幸せだよ?先生。
「家で聞いたほうがよかったかな?」
甘くて低い声。穏やかな口調。ふっと目を細めて、優しく微笑む先生。
「ルイ。二人だけのときに、続きを聞かせて?」
僕は頷いた。頷いたと同時に、ぽとんと涙が落ちた。
ピアノをまたやろうと思えなくなる前に。音楽が大嫌いになる前に。
先生とこうして、出会えなくなる前に。
僕はあの女の先生から、きっと逃げてよかったんだ……————
レストランから出ると、外はすっかり暗くなっていた。こんな時間まで先生といるなんて、信じられないや。
「店長から聞いたよ。ルイが、変なのに付きまとわれたって」
「え?」
「体験レッスンの帰り。直人くん、心配して店長に話したみたいだけど」
あれからもう、あの茶髪の男には会ってないけど。僕、先生と会って浮かれてたから……。
「俺、ルイの家まで送ろうかな」
先生の言葉に、僕は目を丸くして先生を見上げた。先生が僕を見下ろしている。
「俺に送られるの、嫌ってこと?」
「い、嫌なわけ……ないです!」
先生は前髪をかき上げて笑った。笑った先生を見て、僕の胸が締め付けられた。
先生の笑顔。僕の大好きな笑顔。一緒にいられたら幸せだって、そう思っていたのに。
期待してしまう。
期待してもいいの……?先生。
「ダメだよ」
僕は両手で口を押さえた。また、心を読まれたかもしれない。
「ダ、ダメって……?」
「ルイ。俺、あまのじゃくだから」
僕の心を読んだのか、読まなかったのか。
そこはわからなかったけど、先生は僕の家の下まで送ってくれた。
さっき見ていた夜景とは違う、素朴な家。僕が暮らす、小さなマンション。
先生。もう少し一緒にいたい。お礼にお茶でもどうですかって、聞こうかな。
でも、こんな時間にそんなことを言うのは、良くないのかな。
恋愛経験のない僕には、わからない。
「あ、あの……」
僕はもじもじしたあと、先生を見上げた。先生は僕を、じっと見つめていた。
「ルイ」
ちょっと上がった綺麗な二重瞼。僕が包み込まれそうな、広い肩幅。
僕の名前を呼ぶ、甘くて低い声。
ドクンドクンドクンドクンドクン————
「リョウ先生……」
「ルイ、おやすみ。いい夢を」
帰っちゃう。
「おやすみなさい……リョウ先生……」
先生は手を振って、駅のほうに向かった。
僕も手を振った。ずっとずっと、先生に手を振った。いつも僕が見送られてるけど、初めて僕が、先生を見送った。
僕よりも大きな先生が、どんどん小さくなっていく。
見送るのって、こんなに切ないんだ。
ねえ、先生。僕は先生と出会ってから、初めての経験ばかりだよ?先生……。

店員さんに案内されて、先生、そして僕の順番で席に向かった。ほかのお客さんはみんな、先生を見ていた。特に、女の人は目がハートになっていた。
先生、カッコいいから。どこでもこうやって、注目されるんだろうな。
「わあっ……!」
先生と僕の席は、窓際だった。僕は思わず声を上げてしまった。自然もお花も大好きだけど、夜景も大好きになりそうだ!
僕は夢中で窓の外を眺めた。僕には未知の世界だった。
「さっき聞きそびれたけど、ルイはアルコールの匂いは大丈夫?」
そんな僕の様子を見て、先生は満足そうに微笑んだ。
「はい! 直人もよくビールを飲んでます!」
先生はメニューを開いたまま、頬杖をついた。目力のある目で、僕をじっと見つめている。
「ルイは、ずいぶん直人くんと仲がいいね……?」
「直人も弟さんがいるので、僕を弟みたいに可愛がってくれてるんだと思います」
「ふーん。弟みたいに……ね」
先生は赤ワインを、僕は自家製のレモネードを選んで乾杯した。
レモネード、炭酸が入ってる。ぱちぱちグラスの中で弾けてる。僕、またしゅわしゅわしちゃいそう。
先生は美味しそうにワインを飲んだ。スッと高い鼻で、ちょっと上がった綺麗な二重瞼を閉じて、とても美しくワインを飲んだ。
しゅわしゅわしゅわしゅわ————!
僕は先生を見つめながら、ストローでたくさんレモネードを吸い込んだ。
ねえ、先生。僕、今すごく幸せだよ?僕の心、いつもみたいに読んで欲しいな。先生。
「ルイ。ピアノをまたやろうと思ったきっかけは?」
どうしてだろう。僕が読んで欲しいときに限って、先生は僕の心を読んでくれない気がする。
「家と大学の往復で、何か始めたくて。バイトもしてるんですけど……」
「バイトはどこで?」
「楽器屋です」
先生はワイングラスを傾けた。
「楽器屋か。今度ルイのバイト先に行こうかな」
「ほ、本当ですか⁉」
「嘘だよ」
僕は椅子からずり落ちそうになった。先生が笑っている。
「本当かって聞かれたら、嘘って言いたくなるだろ?」
先生は綺麗な横顔で、残りのワインを飲んだ。あまのじゃく……イジワル……僕は口を尖らせた。
「ルイ」
「は、はい!」
「ルイがピアノを辞めたのは、当時の先生が原因だったっていう俺の予想。合ってる?」
急に確信を突かれて、僕は静かに頷いた。身体中のしゅわしゅわが、一気にしぼんでいった。
話していいのかな。
僕、先生に呆れられたくない。嫌われたくない。
先生。僕は、僕は————
「ルイ。話したくないなら……」
「僕、ラシド、ラシドシラソのところから弾けなかったんです!」
先生が黙った。先生の言葉にかぶせて、声を大きくして言ってしまった。
焦ってしまった。
俺には話してくれないんだと、先生にそう思われたくなかった。
「弾けなかったっていうのは?」
「僕、手がすごく小さくて……」
「知ってるよ」
僕は先生を見つめた。先生も僕を見つめていた。
先生、知ってたんだ。横から見てて、わかってたんだ。
やっぱり、そうなんだ。あの女の先生も、わかってたはずなんだ……。
「僕、小学生のときに、ピアノの女の先生に『水かきが邪魔だ』って言われて」
実際はもっと過激で、攻撃的な言い方だった。
僕は、あの頃に比べて背が伸びた。平均身長には届いてないけど、それでも背が伸びた。
だから、手だってあの頃に比べたら大きくなったはずだ。指も長くなったはずだ。
でも、僕がそう思ってるだけで、自分よりも手が小さい人に、僕は出会ったことがない。
手のひらを合わせて比べたわけではないけど、同級生の女の子のほうが、僕よりも手が大きそうだなと、何度も思ったことがある。
僕は小学六年生になっても、親指と小指をめいっぱい伸ばしても、どんなに頑張っても、ドからオクターブ高いドまで届かなかった。
それは、ピアノが好きな僕にとって、とても残酷な現実だった。
指の柔軟性を上げる方法があるかもしれない。弾き方のコツもあるかもしれない。
そう思って、学校の音楽の先生に聞いたりもした。アドバイスをもらったストレッチも、毎日した。
なんとなく、指と指の間隔が広がった気がした。嬉しくて、ピアノの鍵盤に手を乗せた。
でも、届かなかった。
僕は自分の小さな手を見つめて、ただただしばらく、ピアノの椅子に座っていた。
手が大きくなりますように。明日、目が覚めたら指が長くなっていますように……。
キラキラと煌めく星。瞬く月の光。夜空に向かって、僕は何度も祈った。
でも、世界中からお願いが溢れてるのに。僕より大切なお祈りをしてる人も多いのに。
小さな手の、小さな僕のお願いなんて、叶うはずがなかったや。
「ルイは悪くない。その女の先生は教え方が下手だ」
先生は店員さんを呼んで、赤ワインをもう一杯注文した。
「小学生に『水かきが邪魔』とか言ってる時点で、失格だよ」
先生。優しいな。
どうしよう。涙が溢れそうだ。
「ルイ? 大丈夫?」
ワイングラスを持つ先生を見つめて、僕は心の底から思った。
四人目のピアノの先生は、才賀リョウ先生がよかった。
母さんに呆れられたあの日。僕は、布団の中で泣きながら、愛のワルツを繰り返し聴いた。
たった二分もない短い曲。僕が弾けない曲。
僕の大好きな曲。
そんな愛のワルツを、先生は僕と出会った日に弾いてくれた。
先生が僕を包み込んでくれたみたいで、僕の心はすごく震えて……。
「大丈夫です。リョウ先生……」
僕、ピアノが大好きだ。
先生のことも、大好きだ。
ねえ、先生。僕、先生が大好きなんだよ?
言わないけど。言えないけど。
僕ね、先生のことが、大好きだよ……。
「ルイ。一人で抱えて頑張ったじゃん」
先生が向かいから手を伸ばして、僕の頭をぽんぽんと撫でてきた。僕は涙がこぼれないように、下唇を噛んだ。
僕の愛のワルツは、届きそうにない。きっと先生には届かない。
だけど、こうして先生と一緒にいられたら。頭をぽんぽんって、撫でてもらえたら。
僕は、それだけでも幸せだ。
これから、つらくなるかもしれない。苦しくなるかもしれない。
でも、少なくとも今のこの瞬間は……すごく幸せだよ?先生。
「家で聞いたほうがよかったかな?」
甘くて低い声。穏やかな口調。ふっと目を細めて、優しく微笑む先生。
「ルイ。二人だけのときに、続きを聞かせて?」
僕は頷いた。頷いたと同時に、ぽとんと涙が落ちた。
ピアノをまたやろうと思えなくなる前に。音楽が大嫌いになる前に。
先生とこうして、出会えなくなる前に。
僕はあの女の先生から、きっと逃げてよかったんだ……————
レストランから出ると、外はすっかり暗くなっていた。こんな時間まで先生といるなんて、信じられないや。
「店長から聞いたよ。ルイが、変なのに付きまとわれたって」
「え?」
「体験レッスンの帰り。直人くん、心配して店長に話したみたいだけど」
あれからもう、あの茶髪の男には会ってないけど。僕、先生と会って浮かれてたから……。
「俺、ルイの家まで送ろうかな」
先生の言葉に、僕は目を丸くして先生を見上げた。先生が僕を見下ろしている。
「俺に送られるの、嫌ってこと?」
「い、嫌なわけ……ないです!」
先生は前髪をかき上げて笑った。笑った先生を見て、僕の胸が締め付けられた。
先生の笑顔。僕の大好きな笑顔。一緒にいられたら幸せだって、そう思っていたのに。
期待してしまう。
期待してもいいの……?先生。
「ダメだよ」
僕は両手で口を押さえた。また、心を読まれたかもしれない。
「ダ、ダメって……?」
「ルイ。俺、あまのじゃくだから」
僕の心を読んだのか、読まなかったのか。
そこはわからなかったけど、先生は僕の家の下まで送ってくれた。
さっき見ていた夜景とは違う、素朴な家。僕が暮らす、小さなマンション。
先生。もう少し一緒にいたい。お礼にお茶でもどうですかって、聞こうかな。
でも、こんな時間にそんなことを言うのは、良くないのかな。
恋愛経験のない僕には、わからない。
「あ、あの……」
僕はもじもじしたあと、先生を見上げた。先生は僕を、じっと見つめていた。
「ルイ」
ちょっと上がった綺麗な二重瞼。僕が包み込まれそうな、広い肩幅。
僕の名前を呼ぶ、甘くて低い声。
ドクンドクンドクンドクンドクン————
「リョウ先生……」
「ルイ、おやすみ。いい夢を」
帰っちゃう。
「おやすみなさい……リョウ先生……」
先生は手を振って、駅のほうに向かった。
僕も手を振った。ずっとずっと、先生に手を振った。いつも僕が見送られてるけど、初めて僕が、先生を見送った。
僕よりも大きな先生が、どんどん小さくなっていく。
見送るのって、こんなに切ないんだ。
ねえ、先生。僕は先生と出会ってから、初めての経験ばかりだよ?先生……。

