待ち望んだ木曜日。僕は、先生のマンションの最寄り駅に到着した。
ちょっと早いけど、これくらいならゆっくり歩けば調整できそうだ。
薔薇のハーブティーも忘れずに持った。土曜日にWishで先生に会えたけど、ずっとジェットコースターに乗ってる気分で、お土産どころではなくて。
——リョウのこと突き飛ばしていいからね?——
先生のお姉さん、いい人そうだった。でも、突き飛ばせるわけないや。
だって僕は、先生に意地悪されるのは…………。
「今日は、十五分前に到着ってところかな?」
腰が抜けそうになった。先生、いつも急に後ろから現れる。
黒のオックスフォードシャツ。袖をまくって、ポケットに手を入れている。
カッコいい。カッコいい。先生。先生!
しっかりしなきゃ!しっかりしなきゃ!僕だって、僕だって!先生や直人みたいに、頼りがいのある男に……!
「こ、こ、こんばんは!」
先生が腕時計を見ている。
「ちょっとその挨拶は早いんじゃない?」
僕は両手で顔を覆った。まだ午後三時半過ぎ。先生が笑っている。甘くて低い、いい声で笑っている。
「ルイの到着時間、いつも読めないな。おちおち買い物もできないよ」
先生は紙袋を手にしていた。あ、バナナマフィンのお店だ。
「そのお店のバナナマフィン、美味しいですよね?」
「なんだ、ルイの分も買ってきたのに。もう食べたんだ」
え?
「た、食べてないです! 食べたことありません! 知りません!」
「何だよ、それ」
先生は前髪をかき上げて笑った。先生、僕のために買ってきてくれたんだ。
嬉しい。僕、すごく嬉しい。先生。先生。
薔薇のハーブティー、お土産に買ってきてよかった。ハーブティーと一緒にマフィンを食べましょうって誘おう!
「あの、先生! 僕、直人とローズガーデンフェスティバルに行ったんですけど……」
「ふーん。デート?」
「デッ……! ち、違います! 直人には彼女がいます!」
はあはあしてる僕を見下ろして、ちょっと上がった綺麗な二重瞼で、先生が僕をじっと見つめた。
「ルイ」
「は、はい……」
「先生じゃなくて、リョウ先生」
直人、すごい……。僕は口を開けてしまった。
「リョウせん……せ……」
「ルイ。どこ行くんだよ?」
マンションを通り過ぎそうになってしまった。
酸素、足りない。いっぱい深呼吸しないと、足りない。ポーション、たくさん欲しい。
「僕、いつもテンションおかしいですよね……」
「そうだね。毎回おかしいかもね」
ぐさあぁああああああっ!
先生がオートロックを開錠して、エレベーターのほうに向かった。体験レッスンも、前回のレッスンも、階段で三階まで上がったから……。
先生とエレベーターに乗るのは、初めてだ。
マンションのエレベーターは、すごく狭い。扉ものろのろと閉まる。帰りに利用して思ったけど、階段を使ったほうが早かったかもと思うくらい、のんびりした動きだった。
僕が一人で乗っても、狭いと思ったのに。
僕、先生と乗るんだ……。
「ルイ。先に乗って」
「はい!」
僕はエレベーターに乗って、奥に詰めた。先生も乗り込んで、ゆっくりと扉が閉まっていく。
先生の後ろ姿、カッコいいな。
前から見ても、横から見ても、後ろから見ても、先生はカッコいい。
背中も広いや。僕が先生に抱きしめられたら、すっぽりと包まれちゃいそうだ……。
「ルイ?」
「は、はい!」
エレベーターが上がっていく。僕のドキドキも、どんどん上昇していく。
「このエレベーター、ボタンのところに鏡があるの知ってる?」
気がつかなかった。帰りは両手で顔をあおいでて、特に意識もせずボタンを押してたから。
「さっきから、ルイが俺をジロジロ見てるの、鏡に反射してるよ」
「え……?」
ドックンドックンドックンドックン————
「見てるよね? 俺のこと」
「えっと……」
「ルイ。どうしてそんなに俺を見るの?」
ドクドクドクドクドクドクドクドク————!
「あ、あの……!」
「着いたよ」
僕は先生の顔を見られないまま、廊下を進んだ。
どうしよう。さっきからずっと無言だ。
何か話さなきゃ。話さなきゃ……!
「リョウ先生は、その! 休日は何をしてお過ごしですか⁉」
先生が笑っている。
「ぼ、僕はですね……あの……!」
「ルイ。とりあえず入ろう」
うつむきながら話して、今度は先生の家を通り過ぎそうになってしまった。
僕ったら!僕ったら!
僕はほっぺをぺちぺちと叩いて、扉を押さえてくれてる先生に頭を下げて、玄関に入った。
なんだろう。
緊張するのに、落ち着く。
先生の部屋って、不思議だな。
「マフィンはあとで食べる?」
「はい! あ、そうだ……」
僕はリュックから、包装された薔薇のハーブティーを渡した。
「これ、お土産です。薔薇の香りがして美味しかったので」
「いいの? ありがとう」
先生、嬉しそう。よかった、買ってきて。
「いつもお茶とかコーヒーとか、ありがとうございます」
「こちらこそ。座って待ってて」
僕は何もしてないんだけどな?
そう思いながら、僕はキッチンを通過した。
ピアノの譜面台に楽譜が置いてあった。僕は、期待で胸が弾んだ。
——いつか連弾できたらいいね?——
愛のワルツの連弾の楽譜だった。先生、練習してくれてるのかな……?
先生。僕は手が小さくて。弾ける曲が限られてるんだ。
でも、僕は先生と一緒なら、どこまでも頑張れそうだよ?先生。
「いい香りだね、これ」
先生が早速、薔薇のハーブティーを淹れてくれた。このハーブティー、やっぱりマフィンとも合いそうだな……。
「マフィン、先に食べる?」
「はい!」
先生は再度キッチンに向かった。先生、いつも僕の心を読んでくれる。
「ルイはバナナマフィンを食べたみたいだから、こっちね」
先生はブルーベリーマフィンをお皿に乗せて、僕に渡してくれた。二回とも売り切れていて、僕が食べられなかったブルーベリーマフィンだ!
「わあっ! 僕、これ食べたかったんです!」
「ブルーベリーマフィン、名物で人気があるからね」
先生がバナナマフィンを持って、横からかじりついた。
カッコいい。食べてる姿まで、カッコいい。
僕はブルーベリーマフィンを両手で持ちながら、先生を見つめた。先生が持ってると、マフィンがちっちゃく見えるな……。
「俺を見てないで、ルイも食べたら?」
「い、いただきます!」
僕は、もぐもぐとブルーベリーマフィンを食べた。ブルーベリーも、ブルーベリーマフィンも、僕は大好きだ。先生が僕のために用意してくれたと思うと、余計に美味しく感じる。
「美味しいです、すごく!」
ローズガーデンフェスティバルで食べた、薔薇のソフトクリーム。見た目も華やかで、香りも良くて、美味しかったな。
きっと、先生も好きだろうな。先生と一緒に食べたいな……。
「あ、あの! ローズガーデンフェスティバルに、薔薇のソフトクリームがありまして!」
「いいね。ルイは食べたの?」
「直人と一緒に食べました! それで、きっとリョウせんせ……」
「ルイ」
僕の名前を呼んで、先生はハーブティーをすすった。薔薇の花びらがゆらゆらと、ティーカップの中で躍っている。
先生はティーカップを置くと、頬杖をついて僕をじっと見つめた。薔薇の花びらみたいに、僕の鼓動も躍り始めそう……。
「ルイ。食べちゃったんだ?」
「え? 食べちゃったって……?」
「ブルーベリーマフィン」
先生は、長い指で僕のお皿を指さした。先生は半分だけ、バナナマフィンを残している。
えっ。
えええっ!
もしかして、半分こする予定だったの⁉
「す、すみません! 食べちゃいました!」
「ブルーベリー、まだ残ってるよ」
「え? あの、残ってな…………」
先生は、僕の唇を長い指先でつまんで、僕にブルーベリーの小さなかけらを見せた。
「これしかないけど。我慢するよ」
先生は上を向きながら、視線だけ僕に送った。
綺麗な目で、僕をじっと見つめている。
「あの……せんせ……」
「リョウ先生」
先生は人差し指で親指を弾き、ブルーベリーの小さなかけらを口の中に入れた。
僕の唇に付いていた、ブルーベリーの小さなかけら。
それを、先生が口の中に入れた。甘くて低い声で、僕を叱りながら…………。
ドクドクドクドクドクドクドクドク————!
心臓が、心臓が、心臓が……!
僕は、必死にハーブティーをふうふう冷まして飲み込んだ。
ちょっとだけ僕の唇に触れた、先生の指先。触れられると、あんなに違うんだ。
頭をぽんぽんってされるときも、固まってしまうけど……。
唇は違った。全然違った。
「お腹空いてるなら、バナナマフィンもいる?」
「ぼ、僕、お腹いっぱいになりました! ごちそうさまでした!」
「ふーん」
先生はさっきと同じように、上を向いてバナナマフィンを口の中に入れた。
思い出しちゃう!思い出しちゃう!僕は両手で顔をあおいだ。
ドキドキしながらキッチンで手を洗って、僕はピアノの前に先生と並んで座った。
先生は連弾の楽譜をテーブルに置くと、別のものを僕に渡した。
愛のワルツ、何も触れてこなかったな。まだ、僕には早いからかな?
「指も動くようになっただろうから」
先生が用意してくれた楽譜は、前回よりも少し難しくなっていた。
今日も緊張して上手く弾けないだろうな。家で、たくさん練習しなきゃ!
そう思っていた僕だったけど、先生の言う通り、僕はだいぶ指が動くようになっていた。楽譜も、ぱっと読めるようになっていた。
ピアノ、だんだん思い出してる……!先生のおかげだ。
「今日はここまでね。ご飯行こうか」
「はい!」
「俺はワインを飲むけど。ルイには飲ませないから、安心して」
見上げる僕に、先生は凛々しい顔で微笑んだ。
「ルイ。大人になったら、一緒にね?」
たまに意地悪だけど。たまに心臓破裂しそうになるけど。
僕は優しい先生と一緒にいる時間が、大好きだ。
先生と僕は部屋をあとにして、エレベーターに向かった。
「ルイがボタンを押して」
「はい!」
僕は先にエレベーターに乗って、開くのボタンを押した。先生が乗り込んできて、僕の後ろに立った。
先生が後ろにいる。さっきよりも緊張する。
ボタン、押さなきゃ……一階……いっか……い。
あれ?
——鏡があるの知ってる?——
鏡なんて、どこにもない。
先生もしかして、また…………!?
僕は、顔を真っ赤にして振り返った。先生がお腹を抱えて笑っている。
「鏡なんかないよって、教えてあげようと思ってね?」
やっぱり先生、意地悪だ!
ちょっと早いけど、これくらいならゆっくり歩けば調整できそうだ。
薔薇のハーブティーも忘れずに持った。土曜日にWishで先生に会えたけど、ずっとジェットコースターに乗ってる気分で、お土産どころではなくて。
——リョウのこと突き飛ばしていいからね?——
先生のお姉さん、いい人そうだった。でも、突き飛ばせるわけないや。
だって僕は、先生に意地悪されるのは…………。
「今日は、十五分前に到着ってところかな?」
腰が抜けそうになった。先生、いつも急に後ろから現れる。
黒のオックスフォードシャツ。袖をまくって、ポケットに手を入れている。
カッコいい。カッコいい。先生。先生!
しっかりしなきゃ!しっかりしなきゃ!僕だって、僕だって!先生や直人みたいに、頼りがいのある男に……!
「こ、こ、こんばんは!」
先生が腕時計を見ている。
「ちょっとその挨拶は早いんじゃない?」
僕は両手で顔を覆った。まだ午後三時半過ぎ。先生が笑っている。甘くて低い、いい声で笑っている。
「ルイの到着時間、いつも読めないな。おちおち買い物もできないよ」
先生は紙袋を手にしていた。あ、バナナマフィンのお店だ。
「そのお店のバナナマフィン、美味しいですよね?」
「なんだ、ルイの分も買ってきたのに。もう食べたんだ」
え?
「た、食べてないです! 食べたことありません! 知りません!」
「何だよ、それ」
先生は前髪をかき上げて笑った。先生、僕のために買ってきてくれたんだ。
嬉しい。僕、すごく嬉しい。先生。先生。
薔薇のハーブティー、お土産に買ってきてよかった。ハーブティーと一緒にマフィンを食べましょうって誘おう!
「あの、先生! 僕、直人とローズガーデンフェスティバルに行ったんですけど……」
「ふーん。デート?」
「デッ……! ち、違います! 直人には彼女がいます!」
はあはあしてる僕を見下ろして、ちょっと上がった綺麗な二重瞼で、先生が僕をじっと見つめた。
「ルイ」
「は、はい……」
「先生じゃなくて、リョウ先生」
直人、すごい……。僕は口を開けてしまった。
「リョウせん……せ……」
「ルイ。どこ行くんだよ?」
マンションを通り過ぎそうになってしまった。
酸素、足りない。いっぱい深呼吸しないと、足りない。ポーション、たくさん欲しい。
「僕、いつもテンションおかしいですよね……」
「そうだね。毎回おかしいかもね」
ぐさあぁああああああっ!
先生がオートロックを開錠して、エレベーターのほうに向かった。体験レッスンも、前回のレッスンも、階段で三階まで上がったから……。
先生とエレベーターに乗るのは、初めてだ。
マンションのエレベーターは、すごく狭い。扉ものろのろと閉まる。帰りに利用して思ったけど、階段を使ったほうが早かったかもと思うくらい、のんびりした動きだった。
僕が一人で乗っても、狭いと思ったのに。
僕、先生と乗るんだ……。
「ルイ。先に乗って」
「はい!」
僕はエレベーターに乗って、奥に詰めた。先生も乗り込んで、ゆっくりと扉が閉まっていく。
先生の後ろ姿、カッコいいな。
前から見ても、横から見ても、後ろから見ても、先生はカッコいい。
背中も広いや。僕が先生に抱きしめられたら、すっぽりと包まれちゃいそうだ……。
「ルイ?」
「は、はい!」
エレベーターが上がっていく。僕のドキドキも、どんどん上昇していく。
「このエレベーター、ボタンのところに鏡があるの知ってる?」
気がつかなかった。帰りは両手で顔をあおいでて、特に意識もせずボタンを押してたから。
「さっきから、ルイが俺をジロジロ見てるの、鏡に反射してるよ」
「え……?」
ドックンドックンドックンドックン————
「見てるよね? 俺のこと」
「えっと……」
「ルイ。どうしてそんなに俺を見るの?」
ドクドクドクドクドクドクドクドク————!
「あ、あの……!」
「着いたよ」
僕は先生の顔を見られないまま、廊下を進んだ。
どうしよう。さっきからずっと無言だ。
何か話さなきゃ。話さなきゃ……!
「リョウ先生は、その! 休日は何をしてお過ごしですか⁉」
先生が笑っている。
「ぼ、僕はですね……あの……!」
「ルイ。とりあえず入ろう」
うつむきながら話して、今度は先生の家を通り過ぎそうになってしまった。
僕ったら!僕ったら!
僕はほっぺをぺちぺちと叩いて、扉を押さえてくれてる先生に頭を下げて、玄関に入った。
なんだろう。
緊張するのに、落ち着く。
先生の部屋って、不思議だな。
「マフィンはあとで食べる?」
「はい! あ、そうだ……」
僕はリュックから、包装された薔薇のハーブティーを渡した。
「これ、お土産です。薔薇の香りがして美味しかったので」
「いいの? ありがとう」
先生、嬉しそう。よかった、買ってきて。
「いつもお茶とかコーヒーとか、ありがとうございます」
「こちらこそ。座って待ってて」
僕は何もしてないんだけどな?
そう思いながら、僕はキッチンを通過した。
ピアノの譜面台に楽譜が置いてあった。僕は、期待で胸が弾んだ。
——いつか連弾できたらいいね?——
愛のワルツの連弾の楽譜だった。先生、練習してくれてるのかな……?
先生。僕は手が小さくて。弾ける曲が限られてるんだ。
でも、僕は先生と一緒なら、どこまでも頑張れそうだよ?先生。
「いい香りだね、これ」
先生が早速、薔薇のハーブティーを淹れてくれた。このハーブティー、やっぱりマフィンとも合いそうだな……。
「マフィン、先に食べる?」
「はい!」
先生は再度キッチンに向かった。先生、いつも僕の心を読んでくれる。
「ルイはバナナマフィンを食べたみたいだから、こっちね」
先生はブルーベリーマフィンをお皿に乗せて、僕に渡してくれた。二回とも売り切れていて、僕が食べられなかったブルーベリーマフィンだ!
「わあっ! 僕、これ食べたかったんです!」
「ブルーベリーマフィン、名物で人気があるからね」
先生がバナナマフィンを持って、横からかじりついた。
カッコいい。食べてる姿まで、カッコいい。
僕はブルーベリーマフィンを両手で持ちながら、先生を見つめた。先生が持ってると、マフィンがちっちゃく見えるな……。
「俺を見てないで、ルイも食べたら?」
「い、いただきます!」
僕は、もぐもぐとブルーベリーマフィンを食べた。ブルーベリーも、ブルーベリーマフィンも、僕は大好きだ。先生が僕のために用意してくれたと思うと、余計に美味しく感じる。
「美味しいです、すごく!」
ローズガーデンフェスティバルで食べた、薔薇のソフトクリーム。見た目も華やかで、香りも良くて、美味しかったな。
きっと、先生も好きだろうな。先生と一緒に食べたいな……。
「あ、あの! ローズガーデンフェスティバルに、薔薇のソフトクリームがありまして!」
「いいね。ルイは食べたの?」
「直人と一緒に食べました! それで、きっとリョウせんせ……」
「ルイ」
僕の名前を呼んで、先生はハーブティーをすすった。薔薇の花びらがゆらゆらと、ティーカップの中で躍っている。
先生はティーカップを置くと、頬杖をついて僕をじっと見つめた。薔薇の花びらみたいに、僕の鼓動も躍り始めそう……。
「ルイ。食べちゃったんだ?」
「え? 食べちゃったって……?」
「ブルーベリーマフィン」
先生は、長い指で僕のお皿を指さした。先生は半分だけ、バナナマフィンを残している。
えっ。
えええっ!
もしかして、半分こする予定だったの⁉
「す、すみません! 食べちゃいました!」
「ブルーベリー、まだ残ってるよ」
「え? あの、残ってな…………」
先生は、僕の唇を長い指先でつまんで、僕にブルーベリーの小さなかけらを見せた。
「これしかないけど。我慢するよ」
先生は上を向きながら、視線だけ僕に送った。
綺麗な目で、僕をじっと見つめている。
「あの……せんせ……」
「リョウ先生」
先生は人差し指で親指を弾き、ブルーベリーの小さなかけらを口の中に入れた。
僕の唇に付いていた、ブルーベリーの小さなかけら。
それを、先生が口の中に入れた。甘くて低い声で、僕を叱りながら…………。
ドクドクドクドクドクドクドクドク————!
心臓が、心臓が、心臓が……!
僕は、必死にハーブティーをふうふう冷まして飲み込んだ。
ちょっとだけ僕の唇に触れた、先生の指先。触れられると、あんなに違うんだ。
頭をぽんぽんってされるときも、固まってしまうけど……。
唇は違った。全然違った。
「お腹空いてるなら、バナナマフィンもいる?」
「ぼ、僕、お腹いっぱいになりました! ごちそうさまでした!」
「ふーん」
先生はさっきと同じように、上を向いてバナナマフィンを口の中に入れた。
思い出しちゃう!思い出しちゃう!僕は両手で顔をあおいだ。
ドキドキしながらキッチンで手を洗って、僕はピアノの前に先生と並んで座った。
先生は連弾の楽譜をテーブルに置くと、別のものを僕に渡した。
愛のワルツ、何も触れてこなかったな。まだ、僕には早いからかな?
「指も動くようになっただろうから」
先生が用意してくれた楽譜は、前回よりも少し難しくなっていた。
今日も緊張して上手く弾けないだろうな。家で、たくさん練習しなきゃ!
そう思っていた僕だったけど、先生の言う通り、僕はだいぶ指が動くようになっていた。楽譜も、ぱっと読めるようになっていた。
ピアノ、だんだん思い出してる……!先生のおかげだ。
「今日はここまでね。ご飯行こうか」
「はい!」
「俺はワインを飲むけど。ルイには飲ませないから、安心して」
見上げる僕に、先生は凛々しい顔で微笑んだ。
「ルイ。大人になったら、一緒にね?」
たまに意地悪だけど。たまに心臓破裂しそうになるけど。
僕は優しい先生と一緒にいる時間が、大好きだ。
先生と僕は部屋をあとにして、エレベーターに向かった。
「ルイがボタンを押して」
「はい!」
僕は先にエレベーターに乗って、開くのボタンを押した。先生が乗り込んできて、僕の後ろに立った。
先生が後ろにいる。さっきよりも緊張する。
ボタン、押さなきゃ……一階……いっか……い。
あれ?
——鏡があるの知ってる?——
鏡なんて、どこにもない。
先生もしかして、また…………!?
僕は、顔を真っ赤にして振り返った。先生がお腹を抱えて笑っている。
「鏡なんかないよって、教えてあげようと思ってね?」
やっぱり先生、意地悪だ!
