「直人。バイトじゃない日もWishに来て、どんだけ俺のこと好きなんだよ?」
「やっべ。バレました?」

 店長さんに向かって、直人が両手を広げて唇を突き出した。店長さんが、シッシッと手のひらで直人を追い払っている。

 直人、そろそろ本当に彼女からビンタされちゃうかもよ?

「僕が直人にリクエストしました。僕、Wishがすごく好きなので」
「ルイちゃんの希望だったのか!」

 店長さんは嬉しそうに、ジンジャーエールを渡してくれた。直人はまた、ビールを手にしている。

「リョウとのレッスン、どう?」
「すごく楽しいです!」

 それに……しゅわしゅわして、ドキドキして、ゾクゾクもしちゃって、落ち着かないですけど。

「リョウ先生って、たまにこちらに来るんですよね?」
「そうだね。ちょくちょく来るよ」

 先生来るかな、来ないかな。

 この間、たまたま近くに寄ったって言ってたから。今日は来ないかもしれないけど。

 僕が、Wishで初めて座ったテーブル席。先生が、綺麗な横顔で笑っていたテーブル席。僕と直人は、迷わずにそこに座った。

 来週の木曜日、楽しみだな。一週間が待ち遠しい。

 水曜日のピアノを怖がっていた僕だったのに、今は木曜日のピアノが楽しみだなんて。

 先生のおかげだよ?先生。先生。

「今日もイケメン先生、来るといいねえ?」

 直人がニヤニヤしている。

「ルイちゃん、何食う? 腹が減っては戦はできぬだよ!」

 戦なんだ。ちょっと違う気もするけど、恋愛の先輩の直人が言うと、正しい気がしちゃう。

「僕、フィッシュアンドチップス美味しかったから。また食べたいな」
「やけど、もう治ったの?」
「治ったけど、リョウ先生のところで、コーヒーを冷まさずに飲んじゃって……」

 しゅわ……————

 僕はストローでジンジャーエールを吸い込もうとして、逆にブクブクと吹いてしまった。

「ルイちゃん。それ、新しい炭酸の飲み方なの?」
「ち、違う!」

 直人が手を叩いて笑っている。

「ほかに何か食いたいものある?」
「この間のサクサクなピザはどう?」
「いいね! 俺、注文行ってくるわ」
「どうもありがとう」

 直人は僕のほっぺをツンツンつついて、カウンターに向かった。僕はなんとなく、直人を目で追った。

 店の扉が開いた。すらりと背が高くて、横顔が綺麗で、真ん中から前髪を分けている、とてもカッコいい男の人が入ってきた。

 先生だ。

 リョウ先生だ……————

 僕は思わず立ち上がった。いつも先生に手を振ったりしないのに、思い切り手をあげて、左右に振ろうとした。

 だけど。

 先生のすぐ後ろに、女の人がいることに気がついた。

「おおっ! 二人揃ってお目見えで!」

 僕は立ち尽くしてしまった。

 店長さん、先生とあの女の人のこと、知ってるんだ。

 よく、二人でここに来てるんだ。

 そっか。そうなんだ……。

 僕は手を上げたまま、固まってしまった。

 女の人も背が高めで、先生みたいに目力があって、綺麗な人だった。

 直人が焦ったように振り返って、僕と目が合った。僕はそのまま、椅子に座りこんでしまった。

 ついさっき、応援してもらったばっかりなのに。直人、ごめん。

 僕、ここに来なければよかった。先生に会えたら嬉しいって思ってたくせに。

 僕ってすごく、調子がいいな。

 胸がズキズキする。先生。胸が痛い。先生。

 こっち見ないで。先生。

 そのまま帰って。先生……。

「あれ? ルイ?」

 背の高い先生から、小さなテーブル席に座る僕なんて、すぐに見つかってしまう。

 先生が近づいてきたけど、僕は目を合わせられなかった。

「こ、こ、こんばんは……」
「こ、こ、こんばんは。なんてね?」

 先生が僕の真似をしてきた。僕は愛想笑いをした。自分の表情が引きつってるのを感じた。

「ルイ」
「はい……」
「なんで俺の顔、見ないの?」

 僕は顔を上げた。初対面のときに着ていた、ネイビーのシャツ。先生が僕を、じっと見つめている。

 先生のすぐ後ろに綺麗な女の人がいて、僕は慌てて視線を下げた。
 
 デートの邪魔をしたらダメだ。何をしてるんだ、僕は。

「ご、ごめんなさい……」
「何が?」
「その……あの……」
「ルイ。なんでさっきから俺を見ようとしないの? 理由は?」

 甘くて低い声。動揺してるのに、ショックなのに、心臓がまた強烈に足踏みをしてしまう。

 ドクンッドクンッドクンッドクンッ————

 先生、やめてよ。

 綺麗な目で、そうやって僕を見つめるのも。甘くて低い声で、僕の名前を呼ぶのも。

 もう……やめてよ。

 つらいよ。僕、すごくつらい。先生。

「ちょっと、リョウ……怯えてるじゃん、この子。かわいそうに」

 たしなめるように女の人が言って、僕はうつむきながら顔を激しく左右に振った。違うんです。僕が勝手に傷ついて、悲しんでるだけなんです。

「ごめんねえ。うちの弟、可愛い子を見ると、どうもSっ気が出ちゃって……」

 え?

 弟……?

 僕は顔を上げた。先生と目が合った。

 先生は僕を見つめながら、ゆっくりと左側の口角を上げた。綺麗な顔で、どこか意地悪そうな表情をしながら、目を細めて微笑んだ。

 ドクドクドクドクドクドクドクドク————!

 僕は急いで、ジンジャーエールをストローで吸い込んだ。

 しゅわしゅわする。ドキドキする。ゾクゾクする。僕、おかしい!先生の意地悪そうな表情を見て、喜ぶなんて!

 僕はほっぺをぺちぺちと何回も叩いた。

「えっと……僕は、リョウ先生にピアノを教えて頂いてる、葉山ルイです!」
「ルイくん、また意地悪されそうになったら、リョウのこと突き飛ばしていいからね?」
「そ、そんな……!」

 お姉さんは笑って挨拶をしてくれた。明るい人だな。確かに先生とお姉さん、こうやって並ぶとよく似てる。

 僕、先生のことまだ何も知らないんだな。

「新幹線の時間があるから、私は帰るね」
「了解」
 
 店長さんから紙袋を受け取ると、お姉さんはWishをあとにした。店長さんから詳細を聞いたのか、直人が頭の上で大きくマルを作っている。

 僕の感情、まるでジェットコースターに乗ってるみたいだ。ほっとしたけど、まだドキドキしてる……。

「ルイ」

 お姉さんと一緒にカウンターに向かった先生が、コーヒーカップとソーサーを手にして、僕のもとに戻ってきた。

「は、はい!」
「さっき、なんで俺と目を合わせなかったの?」

 先生が椅子を引いて、僕の前に座った。

 あの、先生。ジェットコースターから僕、そろそろ降りたいんですけども……。

「えっと、リョウ先生の邪魔をしたら、悪いかなって……」
「何だよ、それ」
 
 甘くて低い声。先生が笑っている。

「僕、先生にお姉さんがいるって知らなかったので……」
「ふーん。俺、弟もいるけどね?」

 お姉さんも綺麗だったから、弟さんもカッコいいんだろうな。

「弟さん、リョウ先生と似てるんですか?」

 コーヒーをすすっていた先生が、僕をじろっと見た。僕はドキッとしてしまった。

「ルイ。俺の弟に興味があるの……?」
「い、いえ……! お姉さんと似てたので、弟さんも似てるのかなって思っただけです!」
「似てるかもね。性格はバラバラだけど、三人とも仲はいいよ」

 さっき、すごく鋭く見られたような……。先生、目力すごいから。なんか焦っちゃったや。
 
「店長が、いらないレコードをあげるって言うから。姉貴がたまたまこっちに来てて、直接引き取りに来たんだよ」

 あの紙袋、レコードだったんだ。先生の部屋にも、たくさんレコードがあったな。

 先生が溢れてる部屋。先生を感じられる部屋。

 早く、また行きたいな。

 僕は、ストローでジンジャーエールを吸い込んだ。しゅわしゅわする……。

「ルイ。俺と姉貴が一緒にいるのを見て、どう思った?」

 僕はジンジャーエールを吹きそうになった。

「ど、どうって……」
「俺には、ずいぶん戸惑ってるように見えたけどね?」
 
 先生が大きな手で、僕の頭をぽんぽんと撫でてきた。

 僕は耳と頭から、プシューッ!と蒸気機関車みたいに煙が出てるような気がした。

「ルイ。どうして動揺したの?」

 僕は身体がカチコチになった。それ、そのまま僕に聞くの……?
 
「ルイ。いい子だから、教えてよ?」
「ぼ、僕は……」
「ルイ。教えてくれたら、ご褒美(・・・)あげようか?」

 先生、左側の口角、すごく上がってる。僕の前髪を長い指先で触りながら、笑ってる。

 ご褒美って、ご褒美って……。

 な……に…………?

「リョウせん……せ……!」
「来週の木曜日。楽しみにしてるよ」

 急に先生が立ち上がって、僕もつられて立ち上がった。

「ぼ、僕も、楽しみです……」
「今日は直人くんと会ってるみたいだから。俺は帰るよ」

 僕は先生を見上げた。先生が僕を見下ろしている。ちょっと上がった綺麗な二重瞼で、目力のある目で、僕をじっと見つめている。

「ルイ。Wishのコーヒー美味しいから。飲んでいいよ。俺、一口しか飲んでないから」

 先生が、長い指でコーヒーカップを指さした。ゆらゆらと湯気の立つコーヒー。

 いいのかな。先生は、気にしないのかな……。

「ノーコメントってことは、俺が飲んだコーヒーは、いらないってこと?」
「の、飲みます! ありがとうございます!」

 僕は慌てて言った。間接キスとか意識してるのは、僕だけだ!何を考えてるんだ、僕ったら!

「ルイは本当に、いい表情をするね?」
 
 先生は前髪をかき上げて、満足そうに笑った。

「さっきの、また見せてよ」
「え?」
「ルイの戸惑った表情。木曜日、また(・・)期待してるよ」

 そう言い残して、先生は去って行った。店長さんと直人に軽く手を振って、扉を開けて出て行った。

「ど、ど、どういう……こと……?」

 僕はへなへなと椅子に座って、左側のほっぺをテーブルにくっつけた。

 先生が一口だけ飲んだコーヒー。美味しそうな、いい香り。

 これが、ご褒美ってこと……?

 きっと、違うよね?先生。

 直人が僕の隣に腰を下ろして、小声で耳打ちをしてきた。

「ルイちゃん! あの綺麗な女の人、イケメン先生のお姉さんだって!」
「うん。リョウ先生、弟さんもいるって……」
「あれ? イケメン先生から直接聞いたの?」

 ——教えてくれたら、ご褒美(・・・)あげようか?——

「なんか僕、リョウ先生にコロコロされてる気がする……」

 ややあって、直人が言った。

「ルイちゃん。前世、ボールなの?」
「ち、違う! と思う……」

 
 わからない。前世、僕は先生のボールだったのかもしれない……。