水曜日の夜。僕は、楽器屋のバイトを終えた。
僕は楽譜フロアの担当だ。どの楽譜がどの棚にあるのか、お客さんから聞かれたらすぐに案内できる。
楽譜だけじゃなくて、どのフロアのどの位置に、どの楽器が置いてあるのかも頭に入っている。
僕はRPGも好きだし、ダンジョンめいてるのはお手の物なのだ。
「葉山くん。来週からバイトで新しい子が入るから、面倒見てあげてね!」
帰る前に店長から声をかけられて、僕は頭を下げた。僕も、まだアドバイスできるほどではないんだけど……。いい子だといいな。
バイトの有無に関わらず、僕は毎日ピアノの練習をした。ほんの少しでも、ほんの二十分でもと、鍵盤に触れるのを欠かさなかった。
——ルイくん、ピアノと向き合おう。戦うんじゃなくてね?——
そんな日常を過ごして、待ちに待った木曜日になった。体験レッスンから、一週間後の木曜日。
僕は張り切りすぎて、先生のマンションの最寄り駅に、また早く着いてしまった。
バナナマフィン美味しかったから、あのお店を覗こうかな。
先生もマフィン、好きかな。お土産に買っていこうかな……。
「ずいぶん早くない?」
甘くて低い声。僕は飛び上がりそうになって、先生を見上げた。
白のリネンシャツ。袖をまくって、ポケットに手を入れている。
広い肩幅、ゴツゴツした喉仏、ちょっと上がった綺麗な二重瞼で、僕を見下ろしている。
先生カッコいい。今日もカッコいい。
ドクンドクンドクンドクン————
しっかりしなきゃ!しっかりしなきゃ!ドキドキしてる場合じゃない!
「せ、先生! お、おは、おはようございます!」
先生が腕時計を見ている。
「ルイくん、起きたばっかりなの?」
「違います! ちゃんと大学に行きました!」
先生が笑っている。僕は両手で顔を覆った。
「早く着いてしまったので、近くのお店を覗こうと思ってました……」
「そこのハンバーガー屋、美味しいよ。あそこの和食の店もね」
先生、いろんなところでご飯食べてるのかな。部屋にワインのボトルもあったし、お酒も好きそうだな。
誰と食べに行ったり、飲んだりしてるんだろう。
マンションの廊下を歩いてると、僕の頭の中までぐるぐるしそうだった。ダンジョン、得意なはずなのにな……。
「ルイくんはコーヒーも好き?」
「はい。好きです」
「じゃあ、今日はコーヒーにしよう。座って待ってて」
一週間ぶりの先生の部屋。なんだかすごく、昔のことのように感じる。
何畳くらいあるんだろう。僕の部屋よりもぐんと広く見えるのは、ベッドがないのも大きいのかな。
僕がキョロキョロと部屋の中を見ていると、先生がマグカップをふたつ持ってきた。美味しそうなコーヒーの香りだ。
「先生の部屋、すごくおしゃれですよね」
「そうかな? ありがとう」
息を吹きかけながら、先生がコーヒーをすすった。僕よりも薄くて、でも薄すぎなくて、男の人って感じの、綺麗な唇だな……。
って、僕はどこを見てるんだ!さっきから、僕ったら!僕ったら!
「こ……ここここに、先生は住んでるんですよね⁉」
ニワトリみたいになった。
「そ、そそそそうだよ。なんてね?」
先生が笑って、マグカップを置いた。先生も冗談言うんだ。違う一面を見られて嬉しい。
「ルイくん。どうしてそんなことを聞くの?」
「カフェみたいな部屋だなって思ったので……」
「一応、生活感は出さないようにしてるからね」
体験レッスンのときも、素敵なインテリアだなとは思ったけど。
でも、先生の生活感が出ていたとして、嫌かと聞かれると、僕は嫌じゃないような……。
「そこに、俺が毎日寝てるベッドがあったら、嫌でしょ?」
先生が、棚のあたりを指さした。
先生はすごく指が長い。僕とは比べものにならないような、大きな手。
綺麗で、だけど骨張っていて、どこか色っぽい手。
「聞いてる? ルイくん」
甘くて低い、先生の声。
「あ、えっと……」
「ルイくん。俺の話、聞いてた?」
先生はそんな手で頬杖をついて、ちょっと上がった綺麗な二重瞼で、目力のある目で、僕をじっと見つめた。
しゅわ……————
炭酸、飲んでないのに。身体中がまた弾けていく。僕は急いでマグカップを持って、コーヒーを覗いた。
「き、聞いてました。嫌ではないです……」
しゅわしゅわ————
「ふーん。俺がベッドに腰を掛けながら、ルイくんを後ろから見ててもいいの?」
「は、はい……」
しゅわしゅわしゅわ————
「ふーん。俺がベッドに寝転んで、ルイくんを見つめてたらどうする?」
「えっと……その……」
「嫌? ちゃんと教えてよ?」
「嫌じゃ……ない……です」
しゅわしゅわしゅわしゅわしゅわ————!
「どうかな。顔は相当困ってるけどね?」
僕は視線を上げた。
先生は頬杖をついたまま、変わらず僕を見つめていた。綺麗な顔で左側の口角を上げて、どこか少し意地悪そうな表情をしながら、目を細めて微笑んでいた。
ドッ……クンッドクンドクンドクン————
僕の心臓は、スタッカートのように弾け飛んだ。何と言っていいのかわからず、僕は先生から視線をそらせないまま、コーヒーをごくりと飲んだ。
「……あっつい!」
冷まさずにコーヒーを飲んで、猛烈な熱さに僕は声を張り上げてしまった。この間のフィッシュアンドチップスのやけど、やっと治ったのに!
「ホットコーヒーを冷まさずに飲む人、初めて見たよ」
お腹を抱えて先生は楽しそうに笑うと、グラスに氷を入れて持って来てくれた。
僕は氷をぽりぽりと噛んだ。今は優しい先生だ。いつもの先生だ。
でも僕、先生のさっきのあの表情も、すごく、すごく…………。
「さてと。氷を頬張りながら、そろそろピアノをやりますか?」
その後のレッスンは、ドキドキしたせいか上手く弾けなかった。さぼってたと思われてしまいそうだ。
「す、すみません。練習はしてたつもりなんですが……言い訳ですね」
「そんなものだよ。ルイくん以外もそうだから」
僕のほかに、何人くらい生徒さんがいるんだろう。
「ルイくんを入れて、五人教えてるよ」
どんな人たちなんだろう。気になるけど、聞くのも変かな。
「全員大学生。二人は俺の友達。あとの二人は、友達の友達」
あれ?
僕は目をぱちぱちさせた。さっきから僕、何も聞いてないのに。
先生、この間もそうだったけど。僕の心が読めるんだろうか。
「読めるよ。ルイくんの心」
えっ?
「ほ、本当ですか!?」
「嘘だよ」
僕は椅子からずり落ちそうになった。先生が笑っている。
「『僕の心が読めてるの?』って顔を、ルイくんがしたからね」
僕ってすごく、わかりやすいんだな。もはや丸見えで、恥ずかしいレベルだ……。
「ルイくんみたいな子が、昔いてね」
先生が立ち上がって、僕も合わせてテーブルに移動した。
先生は僕の向かいで、冷めきったコーヒーを飲んでいる。
「ルイくんよりも、もっと年齢も下で。俺よりもずっと幼くて。純粋な子でね」
僕も、一口だけコーヒーを飲んだ。さっきのやけど、ちょっとだけヒリヒリする。
「実は、俺……音楽からもピアノからも、離れた時期があってさ」
「え?」
先生は窓の外を眺めた。綺麗な横顔で、どこか遠くを見つめていた。僕はその理由がすごく気になったけど、聞けなかった。
聞いてはいけない気がした。先生の表情を見て、そんな気がしてしまった。それに僕も、過去に嫌な記憶があるから。僕も、ピアノから離れてしまったから。
でも————
「先生が音楽の世界に戻ってきて下さって、良かったです」
そのまま先生が、音楽の世界に戻ってこなかったら。ピアノから永遠と離れてしまったら。
僕はこうして、先生からピアノを習えなかったから。
「嬉しいです、僕は。すごく」
こんなふうにドキドキしたり、ワクワクしたり。ピアノが楽しいと思えることなんて、きっともうなかったから。
「ありがとう。ルイくん」
「いえ……」
「ルイくんは、付き合ってる人いるの?」
僕の身体から、心臓が飛び出しそうになった。
「い、いません!」
「そう。優しくて、可愛いのにね」
先生は恋人がいるのかな。どうしよう。聞いてもいいのかな。
また僕の心を読んで、答えてくれないかな……。
「来週だけど、新しい楽譜に挑戦しようか?」
いつも僕の心を読んでくれる先生は、なぜかそのときは読んでくれなくて……。先生はおもむろに立ち上がって、棚のそばで楽譜を選び始めた。
恋人がいるのか、気になる。聞かないと、ずっと考えてしまいそうだ。
僕はコーヒーを飲み干して、先生のそばに立った。
「先生は……その……」
そして、僕は先生を見上げた。先生が僕を見下ろしている。綺麗な顔で、僕よりも逞しい体で、僕を見下ろしている。
「ん?」
甘くて低い声。たった一文字だけでも、僕はドキドキしてしまう。
——顔は相当困ってるけどね?——
「えっと……その……」
「何?」
しゅわ……————
身体中、また弾けてくる。聞けない。無理だ。
「すみません、何でもないです……」
「言ってよ」
「えっと……」
「ちゃんと言ってよ。ルイ?」
僕は硬直してしまった。
「ルイくんって長いから。今日から、ルイって呼んでいい?」
僕は頷いた。どうしよう。何を聞こうとしたのか、わからなくなってしまった。
「きょ、今日もありがとうございました……」
「で? さっき聞こうとしたことは秘密なの?」
先生が笑っている。僕は頭の中が真っ白で、何も浮かばず。
「すみません、本当に忘れてしまって……」
「俺のことも先生じゃなくて、リョウ先生って呼んでよ」
「え?」
「呼び捨てでもいいよ」
僕は両手を突き出して、何度も左右に振った。
「そ、そんな……!」
「大学生同士だし、リョウ先輩でもいいけどね。でも、ルイが俺のこと『先生』って呼ぶの、嫌いじゃないから」
先生って呼んでてよかった。でも、名前を付けて呼ぶだとか……僕にはちょっと、ハードルが高い。
「次回から、そうお呼びします……」
「そう呼ぶって、どう呼ぶんだよ。ルイ」
ふいに、先生が僕の頭をぽんぽんと撫でた。カアアッと自分の顔が赤くなるのを感じて、僕は視線を下げてしまった。
ドキドキする。しゅわしゅわする。ゾクゾクする。どうしよう。どうしよう。
僕は唇を舐めて、緊張しながら言った。
「リョウせん……せ……い」
言えた。早く慣れるように、もっと自然と呼べるようにしなきゃ。
「何?」
僕は先生を見上げた。先生の左側の口角が上がっている。綺麗な目を細めて、どこか意地悪そうに微笑んでいる。
ドクンッドクンッドクンッドクンッ————
「えっと……その……」
どうしよう。先生。先生。
「言わなきゃわからないよ?」
「ぼ、僕は…………」
「ルイ。俺に何かして欲しいの?」
ドクドクドクドクドクドクドクドク————!
おかしくなりそうだ。おかしくなりそうだ。僕の心臓、壊れちゃいそう!
「ルイ。来週のレッスンのあと、ご飯に行こうか?」
「……え?」
僕は唾を飲み込んで、戸惑いながら質問した。
「い、いいんですか? ほかの生徒さんは……」
「木曜日はルイだけだから。大丈夫」
先生とご飯に行けるなんて嬉しい。
でも、なんで急に?
「ルイに、ちょっと意地悪しすぎたかなって。お詫びにね?」
また心を読まれてしまったと、僕は両手で口を塞いだ。先生はお腹を抱えて笑っていた。
「ルイ。また来週」
「は、はい……! あの、楽しみにしてます!」
先生はいつも通り、手を振って僕を見送った。
ふわふわした気持ちのまま電車に乗って、僕はゆっくりと目を閉じた。
コーヒーの香り。おしゃれな部屋。左側の口角を上げた、ちょっと意地悪そうな表情をした先生……。
来週の木曜日、僕の心臓はどうなっちゃうんだろうか。僕はほっぺをぺちぺちと叩いた。

僕は楽譜フロアの担当だ。どの楽譜がどの棚にあるのか、お客さんから聞かれたらすぐに案内できる。
楽譜だけじゃなくて、どのフロアのどの位置に、どの楽器が置いてあるのかも頭に入っている。
僕はRPGも好きだし、ダンジョンめいてるのはお手の物なのだ。
「葉山くん。来週からバイトで新しい子が入るから、面倒見てあげてね!」
帰る前に店長から声をかけられて、僕は頭を下げた。僕も、まだアドバイスできるほどではないんだけど……。いい子だといいな。
バイトの有無に関わらず、僕は毎日ピアノの練習をした。ほんの少しでも、ほんの二十分でもと、鍵盤に触れるのを欠かさなかった。
——ルイくん、ピアノと向き合おう。戦うんじゃなくてね?——
そんな日常を過ごして、待ちに待った木曜日になった。体験レッスンから、一週間後の木曜日。
僕は張り切りすぎて、先生のマンションの最寄り駅に、また早く着いてしまった。
バナナマフィン美味しかったから、あのお店を覗こうかな。
先生もマフィン、好きかな。お土産に買っていこうかな……。
「ずいぶん早くない?」
甘くて低い声。僕は飛び上がりそうになって、先生を見上げた。
白のリネンシャツ。袖をまくって、ポケットに手を入れている。
広い肩幅、ゴツゴツした喉仏、ちょっと上がった綺麗な二重瞼で、僕を見下ろしている。
先生カッコいい。今日もカッコいい。
ドクンドクンドクンドクン————
しっかりしなきゃ!しっかりしなきゃ!ドキドキしてる場合じゃない!
「せ、先生! お、おは、おはようございます!」
先生が腕時計を見ている。
「ルイくん、起きたばっかりなの?」
「違います! ちゃんと大学に行きました!」
先生が笑っている。僕は両手で顔を覆った。
「早く着いてしまったので、近くのお店を覗こうと思ってました……」
「そこのハンバーガー屋、美味しいよ。あそこの和食の店もね」
先生、いろんなところでご飯食べてるのかな。部屋にワインのボトルもあったし、お酒も好きそうだな。
誰と食べに行ったり、飲んだりしてるんだろう。
マンションの廊下を歩いてると、僕の頭の中までぐるぐるしそうだった。ダンジョン、得意なはずなのにな……。
「ルイくんはコーヒーも好き?」
「はい。好きです」
「じゃあ、今日はコーヒーにしよう。座って待ってて」
一週間ぶりの先生の部屋。なんだかすごく、昔のことのように感じる。
何畳くらいあるんだろう。僕の部屋よりもぐんと広く見えるのは、ベッドがないのも大きいのかな。
僕がキョロキョロと部屋の中を見ていると、先生がマグカップをふたつ持ってきた。美味しそうなコーヒーの香りだ。
「先生の部屋、すごくおしゃれですよね」
「そうかな? ありがとう」
息を吹きかけながら、先生がコーヒーをすすった。僕よりも薄くて、でも薄すぎなくて、男の人って感じの、綺麗な唇だな……。
って、僕はどこを見てるんだ!さっきから、僕ったら!僕ったら!
「こ……ここここに、先生は住んでるんですよね⁉」
ニワトリみたいになった。
「そ、そそそそうだよ。なんてね?」
先生が笑って、マグカップを置いた。先生も冗談言うんだ。違う一面を見られて嬉しい。
「ルイくん。どうしてそんなことを聞くの?」
「カフェみたいな部屋だなって思ったので……」
「一応、生活感は出さないようにしてるからね」
体験レッスンのときも、素敵なインテリアだなとは思ったけど。
でも、先生の生活感が出ていたとして、嫌かと聞かれると、僕は嫌じゃないような……。
「そこに、俺が毎日寝てるベッドがあったら、嫌でしょ?」
先生が、棚のあたりを指さした。
先生はすごく指が長い。僕とは比べものにならないような、大きな手。
綺麗で、だけど骨張っていて、どこか色っぽい手。
「聞いてる? ルイくん」
甘くて低い、先生の声。
「あ、えっと……」
「ルイくん。俺の話、聞いてた?」
先生はそんな手で頬杖をついて、ちょっと上がった綺麗な二重瞼で、目力のある目で、僕をじっと見つめた。
しゅわ……————
炭酸、飲んでないのに。身体中がまた弾けていく。僕は急いでマグカップを持って、コーヒーを覗いた。
「き、聞いてました。嫌ではないです……」
しゅわしゅわ————
「ふーん。俺がベッドに腰を掛けながら、ルイくんを後ろから見ててもいいの?」
「は、はい……」
しゅわしゅわしゅわ————
「ふーん。俺がベッドに寝転んで、ルイくんを見つめてたらどうする?」
「えっと……その……」
「嫌? ちゃんと教えてよ?」
「嫌じゃ……ない……です」
しゅわしゅわしゅわしゅわしゅわ————!
「どうかな。顔は相当困ってるけどね?」
僕は視線を上げた。
先生は頬杖をついたまま、変わらず僕を見つめていた。綺麗な顔で左側の口角を上げて、どこか少し意地悪そうな表情をしながら、目を細めて微笑んでいた。
ドッ……クンッドクンドクンドクン————
僕の心臓は、スタッカートのように弾け飛んだ。何と言っていいのかわからず、僕は先生から視線をそらせないまま、コーヒーをごくりと飲んだ。
「……あっつい!」
冷まさずにコーヒーを飲んで、猛烈な熱さに僕は声を張り上げてしまった。この間のフィッシュアンドチップスのやけど、やっと治ったのに!
「ホットコーヒーを冷まさずに飲む人、初めて見たよ」
お腹を抱えて先生は楽しそうに笑うと、グラスに氷を入れて持って来てくれた。
僕は氷をぽりぽりと噛んだ。今は優しい先生だ。いつもの先生だ。
でも僕、先生のさっきのあの表情も、すごく、すごく…………。
「さてと。氷を頬張りながら、そろそろピアノをやりますか?」
その後のレッスンは、ドキドキしたせいか上手く弾けなかった。さぼってたと思われてしまいそうだ。
「す、すみません。練習はしてたつもりなんですが……言い訳ですね」
「そんなものだよ。ルイくん以外もそうだから」
僕のほかに、何人くらい生徒さんがいるんだろう。
「ルイくんを入れて、五人教えてるよ」
どんな人たちなんだろう。気になるけど、聞くのも変かな。
「全員大学生。二人は俺の友達。あとの二人は、友達の友達」
あれ?
僕は目をぱちぱちさせた。さっきから僕、何も聞いてないのに。
先生、この間もそうだったけど。僕の心が読めるんだろうか。
「読めるよ。ルイくんの心」
えっ?
「ほ、本当ですか!?」
「嘘だよ」
僕は椅子からずり落ちそうになった。先生が笑っている。
「『僕の心が読めてるの?』って顔を、ルイくんがしたからね」
僕ってすごく、わかりやすいんだな。もはや丸見えで、恥ずかしいレベルだ……。
「ルイくんみたいな子が、昔いてね」
先生が立ち上がって、僕も合わせてテーブルに移動した。
先生は僕の向かいで、冷めきったコーヒーを飲んでいる。
「ルイくんよりも、もっと年齢も下で。俺よりもずっと幼くて。純粋な子でね」
僕も、一口だけコーヒーを飲んだ。さっきのやけど、ちょっとだけヒリヒリする。
「実は、俺……音楽からもピアノからも、離れた時期があってさ」
「え?」
先生は窓の外を眺めた。綺麗な横顔で、どこか遠くを見つめていた。僕はその理由がすごく気になったけど、聞けなかった。
聞いてはいけない気がした。先生の表情を見て、そんな気がしてしまった。それに僕も、過去に嫌な記憶があるから。僕も、ピアノから離れてしまったから。
でも————
「先生が音楽の世界に戻ってきて下さって、良かったです」
そのまま先生が、音楽の世界に戻ってこなかったら。ピアノから永遠と離れてしまったら。
僕はこうして、先生からピアノを習えなかったから。
「嬉しいです、僕は。すごく」
こんなふうにドキドキしたり、ワクワクしたり。ピアノが楽しいと思えることなんて、きっともうなかったから。
「ありがとう。ルイくん」
「いえ……」
「ルイくんは、付き合ってる人いるの?」
僕の身体から、心臓が飛び出しそうになった。
「い、いません!」
「そう。優しくて、可愛いのにね」
先生は恋人がいるのかな。どうしよう。聞いてもいいのかな。
また僕の心を読んで、答えてくれないかな……。
「来週だけど、新しい楽譜に挑戦しようか?」
いつも僕の心を読んでくれる先生は、なぜかそのときは読んでくれなくて……。先生はおもむろに立ち上がって、棚のそばで楽譜を選び始めた。
恋人がいるのか、気になる。聞かないと、ずっと考えてしまいそうだ。
僕はコーヒーを飲み干して、先生のそばに立った。
「先生は……その……」
そして、僕は先生を見上げた。先生が僕を見下ろしている。綺麗な顔で、僕よりも逞しい体で、僕を見下ろしている。
「ん?」
甘くて低い声。たった一文字だけでも、僕はドキドキしてしまう。
——顔は相当困ってるけどね?——
「えっと……その……」
「何?」
しゅわ……————
身体中、また弾けてくる。聞けない。無理だ。
「すみません、何でもないです……」
「言ってよ」
「えっと……」
「ちゃんと言ってよ。ルイ?」
僕は硬直してしまった。
「ルイくんって長いから。今日から、ルイって呼んでいい?」
僕は頷いた。どうしよう。何を聞こうとしたのか、わからなくなってしまった。
「きょ、今日もありがとうございました……」
「で? さっき聞こうとしたことは秘密なの?」
先生が笑っている。僕は頭の中が真っ白で、何も浮かばず。
「すみません、本当に忘れてしまって……」
「俺のことも先生じゃなくて、リョウ先生って呼んでよ」
「え?」
「呼び捨てでもいいよ」
僕は両手を突き出して、何度も左右に振った。
「そ、そんな……!」
「大学生同士だし、リョウ先輩でもいいけどね。でも、ルイが俺のこと『先生』って呼ぶの、嫌いじゃないから」
先生って呼んでてよかった。でも、名前を付けて呼ぶだとか……僕にはちょっと、ハードルが高い。
「次回から、そうお呼びします……」
「そう呼ぶって、どう呼ぶんだよ。ルイ」
ふいに、先生が僕の頭をぽんぽんと撫でた。カアアッと自分の顔が赤くなるのを感じて、僕は視線を下げてしまった。
ドキドキする。しゅわしゅわする。ゾクゾクする。どうしよう。どうしよう。
僕は唇を舐めて、緊張しながら言った。
「リョウせん……せ……い」
言えた。早く慣れるように、もっと自然と呼べるようにしなきゃ。
「何?」
僕は先生を見上げた。先生の左側の口角が上がっている。綺麗な目を細めて、どこか意地悪そうに微笑んでいる。
ドクンッドクンッドクンッドクンッ————
「えっと……その……」
どうしよう。先生。先生。
「言わなきゃわからないよ?」
「ぼ、僕は…………」
「ルイ。俺に何かして欲しいの?」
ドクドクドクドクドクドクドクドク————!
おかしくなりそうだ。おかしくなりそうだ。僕の心臓、壊れちゃいそう!
「ルイ。来週のレッスンのあと、ご飯に行こうか?」
「……え?」
僕は唾を飲み込んで、戸惑いながら質問した。
「い、いいんですか? ほかの生徒さんは……」
「木曜日はルイだけだから。大丈夫」
先生とご飯に行けるなんて嬉しい。
でも、なんで急に?
「ルイに、ちょっと意地悪しすぎたかなって。お詫びにね?」
また心を読まれてしまったと、僕は両手で口を塞いだ。先生はお腹を抱えて笑っていた。
「ルイ。また来週」
「は、はい……! あの、楽しみにしてます!」
先生はいつも通り、手を振って僕を見送った。
ふわふわした気持ちのまま電車に乗って、僕はゆっくりと目を閉じた。
コーヒーの香り。おしゃれな部屋。左側の口角を上げた、ちょっと意地悪そうな表情をした先生……。
来週の木曜日、僕の心臓はどうなっちゃうんだろうか。僕はほっぺをぺちぺちと叩いた。

