「店長さんに、先生を紹介してくれたお礼を伝えたくて……」
「俺、今日シフト入ってないから。ついでに晩飯食おっか!」

 翌日。僕は直人の提案に頷いた。パニーニ、美味しかったな。ポテトもサクサクしてて最高だった。

 Wishに着くと店長さんは接客中だった。バーカウンターで、僕はメロンソーダを、直人はビールを受け取った。

「ルイちゃん。あっちに行こう!」

 先週の土曜日に、コンサートが開かれていたステージ。直人はそこに小さな丸テーブルと、予備の椅子をふたつセッティングした。
 
 椅子には背もたれがなかった。酔っぱらって、直人がひっくり返らないといいけども。直人、お酒強いから大丈夫かな。

「僕たち、ステージで食事するみたい……」
「テーブル席、盛り上がってるお客さんがいたから。ここのほうが話しやすいよ!」

 笑う直人のすぐ後ろにある、クロスで覆われたグランドピアノ。

 僕はじっと、隠されたその姿を見つめた。

 ——いつか連弾できるといいね?——

 グランドピアノ、高貴な雰囲気の先生にぴったりだ。

 先生、今日は何してるんだろう……。

「Wishはアメリカンなのに、フィッシュアンドチップスがあるんだよ。考えてみたら、パニーニもおかしいか?」

 メニューを開いた直人の言葉に、僕は笑ってしまった。でも、気になるからフィッシュアンドチップスを食べることにした。

「ルイちゃん。ピアノは買ったの?」
「フリマサイトで、お得にね。鍵盤の幅が通常サイズのものにしたよ」

 僕の手には、コンパクトなピアノのほうが合ってる。

 だけど、弾けたと思ってぬか喜びして、いざ先生のところで弾いたら届かない、なんてことがないようにしたかった。

 本当はペダルがついてるものが欲しかったけど、値段もぐんと下がるし、僕はポータブル式のものを選んだ。

 先生の部屋は、ペダルつきの電子ピアノがあっても、まだまだ広さに余裕があったな……。

 素敵な部屋だった。その部屋でピアノを弾く先生は、もっと素敵だった。

 僕、昨日からずっと先生のこと考えちゃってるや。僕はほっぺをぺちぺちと叩いた。
 
「ルイちゃん。帰りに『変なのに付きまとわれた』って?」
「うん……」
「女?」

 僕は顔を横に振った。

「男か……余計に怖いよなあ」

 昨日、家に着いてバナナマフィンを食べながら、僕は直人にメッセージを送った。先生と知り合うきっかけを作ってくれたお礼と共に、茶髪の男についても送ってしまった。

 ——何かあると一人で抱えちゃわない?——

 そんなことを言われたのは初めてだった。だからなのか、心のモヤモヤを素直に直人に話したくなってしまった。

 僕はいつもニコニコしてるほうだし、嫌なことがあっても、不機嫌な態度を出すとか難しくて。まわりからも「人生楽しそうだね」と、よく言われるほうだ。

 先生はどうして、僕のことをそんなふうに思ったんだろう。

「来週は、別の改札を使ったほうがいいかもな」
「うん。僕、本当に舐められやすくてさ……」

 直人が向かいから、僕の肩をポンと叩いた。

「ルイちゃんが悪いんじゃないよ。ルイちゃんを怖がらせるヤツが悪いんだから」

 直人は美味しそうにビールを飲んだ。直人も口には出さないけど、先生と同じことを思ってるのかもしれない。

「ルイちゃんのことを隙があるんだとか、言いたいこと言うヤツもいるだろうけど。そういうヤツって声かけられた経験も、付きまとわれた経験もないんだよ。まあ……俺もないんだけどね?」

 僕は笑ってしまった。直人も笑っている。直人と話すと、元気になる。

 直人は注文をしに、カウンターに向かった。店長さん、まだお客さんに話しかけられてる。大人気だな。

 ピアノ、頑張ろう。僕のこの小さな手に比べて、先生の手は大きくて、指も長くて。

 体もしっかりしてて、まくりあげた袖から見える腕も男らしくて、カッコよかったな。

 ……って、僕ったらまた、先生のこと考えちゃってる!しっかりしなきゃ!僕はピアノを習いに行くんだから!

「あれ? ルイくん?」

 甘くて低い声。僕は椅子から落ちそうになった。

「おっと……。俺、幽霊じゃないんだけど?」

 先生は、咄嗟に僕の肩を抱きかかえて、丁寧に座り直させてくれた。

 すぐそばにある先生の顔を、僕は見ることができなかった。

 ドクンドクンドクンドクン————

 先生。いい匂いがする。先生。先生。

「き、昨日は、ありがとうございましたです!」

 僕は立ち上がって頭を下げて、お礼を言った。日本語がおかしくなった。

「こちらこそ」

 僕は先生を見上げた。ちょっと上がった綺麗な二重瞼。凛々しい顔で、僕に優しく微笑んでいる。
 
 さっき飲んだ炭酸が、僕の身体の中で弾けていく。

 しゅわしゅわしゅわしゅわ————

「ええっ! すっげえイケメンなんですけど! ルイちゃんのピアノの先生ですよね⁉」

 直人、直球。そして、新しいジョッキを持っている。

「ルイくんも面白いけど、お友達も楽しいんだね?」

 先生は、謙遜して顔を左右に振ったあと、笑いながら前髪をかき上げた。すごくいい匂いがした。

 昨日、緊張しててわからなかったのかな。先生、香水つけてるのかな。

「橋本直人です。ルイちゃん、昨日最高に楽しかったみたいですよ!」

 僕は身体がカチコチになった。直人、それ僕の前で先生に言うの……?

「才賀リョウです。俺もいい時間を過ごせました。ね、ルイくん?」

 甘くて低い声で聞かれて、僕は頷いた。

 お酒を飲んでないのに、僕の顔がどんどん赤くなっていく気がする。直人のビールの匂いに酔ったのかな。

 何か話さなきゃ。何か…………。

「せ、先生は、ここでは演奏しないんですか?」

 先生は、クロスで覆われたグランドピアノに目を向けた。

「俺は弾かないよ。弾いたことがない。近くに来たから、店長に軽く挨拶しようと思ってね」

 ちょうど店長さんが手隙になって、そのタイミングで先生はカウンターに向かった。店長さんと親しげに話をしている。

 先生、ここではピアノを弾かないんだ。どうしてだろう。

 麗しい先生の旋律。僕の心は、すごく震えたけどな。

「すっげえイケメンなんだけど。マジでびびったわ……」

 直人はビールを飲みながら、カウンターに立つ先生を眺めた。口元にビールの泡をくっつけて、髭みたいになっている……。

「直人、泡が……」
「あの目力とか、やべえな……」
「直人、紙ナプキンあるよ?」
「俺、イケメン先生に綺麗な目で見つめられてキス迫られたら、絶対断れねえわ……」

 え?

 僕は目をぱちぱちさせた。

「ちょっと直人、酔ってるの……?」
「ジョッキ一杯じゃ酔わねえよ! あ、二杯目かこれ。彼女に聞かれたら怒られそうだな」

 そういう問題じゃない気がするけど。

 僕は、メロンソーダをストローで吸い込んだ。さっきの身体のしゅわしゅわ、なんだったんだろう。今は炭酸飲んでも、なんともないや。

「ルイくん」

 先生が僕に手を振って、目を細めて微笑んでいる。時間差で炭酸が、僕の身体中でしゅわしゅわしてくる。

 しゅわしゅわしゅわしゅわしゅわ————!

「また来週ね?」
「は、はい……!」

 先生は扉を開けて出て行った。

 僕、炭酸好きなのに。しょっちゅう飲むのに。

 しゅわしゅわする、しゅわしゅわする!

 僕、おかしい!

「なんかお似合いだよね? イケメン先生とルイちゃん」

 あちこち必死にさすっていた僕は、その手を止めた。

「直人、やっぱり酔ってるんじゃないの……?」
「一杯じゃ酔わねえってば! あ、二杯目かこれ」

 お似合いだなんて……先生とお似合いだなんて!
 
 僕は、店長さんが持って来てくれたフィッシュアンドチップスのポテトを、そのまま口の中に入れた。あまりの熱さにメロンソーダをがぶ飲みする僕を見て、直人が手を叩いて笑った。

「店長、ルイちゃんがお礼を伝えたいらしいです!」

 僕は舌を出してヒーヒーしながら、もう一度立ち上がって店長さんに頭を下げた。

「すごく優しくて、いい先生です。本当にありがとうございました!」

 店長さんが手のひらを振って、笑っている。

「リョウも昨日、楽しかったって。ルイちゃんのことを紹介してくれて、ありがとうってさ」
「え?」

 直人がポテトをかじって、満足そうに笑っている。

「ルイちゃん、両思いじゃん」
「りょ……!」

 しゅわしゅわする!しゅわしゅわする!どうしよう!

「せ、先生はここでは演奏しないみたいですけど! でも、先生はピアノが大好きなんだなって、僕には伝わってきまして!」

 直人の冷やかしに、必死になって店長さんに話題を振った僕だったけど。

 店長さんが、複雑そうな表情で微笑んで。

 僕は、それが気になってしまった。 

「リョウは昔から、ピアノがすごく好きでね。プロは目指してないけど、好きなものは好きだから。そんなやつがいたっていいじゃない」

 僕も音楽が好きで、楽器屋でバイトをしている。

 好きなものは好き。本当にそうだ。 

「昨日、先生が一曲弾いて下さったんです……」

 鍵盤を包み込むような、大きな手。長い指先。揺れる体。綺麗な横顔。

 僕には全て、眩し過ぎるくらいだった。

「リョウは何を弾いたの?」
「ブラームスのワルツの十五番です」
「リョウが弾いたの⁉ ワルツの十五番を⁉」

 店長さんの大きな声に、僕は体をそらせてしまった。

「そ、そうですけど……」
「いやあ……! リョウがワルツの十五番を!」

 店長さんは嬉しそうに、僕にメニューを差し出した。

「ルイちゃん、今夜はお祝いだよ! 好きなものを選んで!」
「じゃあ、俺はピザが食べたいです! ビールもお願いします!」

 店長さんがメニュー表を高く持ち上げて、直人が両手を合わせて笑いながら謝った。二人とも、本当に仲良しだな。

 ——俺、一番好きかもしれないな——

 先生の中で、何か特別な思い出があるのかな。

 昔の恋人が好きだった曲……とか?

「あの、店長さん……」
「うん?」
「先生は、その…………」

 聞けない。それを聞いて、僕はどうするんだろう。

「えっと…………すごく、優しい方ですよね!?」

 直人がビールを吹きそうになっている。

「ルイちゃん。それ、そんなに溜めて言うことなの……?」
「ほ、本当に優しかったから!」

 直人はそのあと、ご機嫌にビールをもう一杯飲んだ。僕たちはサクサクしたピザと、パスタまで店長さんからごちそうしてもらった。
 
 僕には弾いてくれた、先生のワルツの十五番。

 店長さんが驚いた、先生の愛のワルツ。

 ——また来週ね?——


 僕の身体は寝る直前まで、しゅわしゅわずっと弾けていた。