「ルイちゃん。イケメン先生と一緒に来るんじゃなかったの?」

 僕は白のワイシャツ姿で、Wishの窓ガラスから外を眺めた。

 先生の姿は、まだ見えない。

「寄りたいところがあるからって……」

 僕が自信を持って、愛のワルツを弾けるようになったある日。

 僕は先生に、Wishでの連弾を提案した。

「『ステージ横のライトも照らして、俺が盛り上げるよ!』って、直人が言ってくれました!」
「ふーん。直人(・・)……ね」

 ほんの二分にも満たない、とても短い曲。

 先生と僕にとって、特別な曲。

 ブラームスのワルツの第十五番。通称『愛のワルツ』。聴いてる誰もがうっとりするような、愛に満ちた旋律。

 僕の先生にぴったりの、麗しい曲。

 バーカウンターで、立ち飲みをしている外国人。テーブル席で、お喋りをしているカップル。スーツを着ているサラリーマン。

 Wishは今日も、大人気だ。

 店の扉が開いた。小さな可愛い男の子が走りながら入ってきて、店長さんがその子を抱き上げた。

 あの男の子、面影がある……。

 続けて、店内を見渡しながら、ショートカットの女の人が入ってきた。

 三人目の先生。おっとりした先生。髪を切っても変わらない、当時のままの優しい雰囲気。

「葉山くん……?」

 両手で口を押さえて、おっとりした先生は目に涙を浮かべた。僕は何度も頷いた。僕の目にも涙が溢れた。

「さらに可愛くなっちゃって……葉山くんたら!」
「会いたかったです!」

 ——今日はね、チョコチップにしてみたの!——

 僕たちは思わず抱きしめ合った。甘いチョコチップクッキーの香りが、漂ってくるような気がした。

「ママ、どうしたの?」
「ママはね、ずっと会いたかった大好きな子に、また会えたんだよ?」

 店長さんと息子さんの会話が聞こえてきて、僕は涙を拭った。

 ちゃんと伝えなきゃ。何年も後悔してたんだから。

「僕、辞めたくなかったんです。でも、あのときそれを言えなくて……。勇気がなくて、ごめんなさい」
「私のほうこそ、ごめんね?」
「え?」
「『辞めたくないんだよね?』って、どうして葉山くんに声をかけられなかったんだろうって。息子の笑顔を見るたびに、葉山くんのことを思い出しちゃって……」

 僕は顔を左右に振った。笑いながら泣いてしまった。当時の悲しみよりも、再会できた嬉しさのほうが、何百倍も大きいや。

「泣き虫のニワトリさん」

 甘くて低い声。ちょっと上がった綺麗な二重瞼。

 僕と同じ白いワイシャツで、右手だけ背中に回している、僕の大好きな人。

「リョウ先生!」

 先生は微笑みながら僕を見下ろして、左手の長い親指で、僕の涙を拭った。先生。せんせ……。

 僕は、ハッとした。先生が僕にこんなことしてるの、見られて大丈夫なのかな?

「店長とは、長い付き合いだからね」

 そう言うと先生は、隠していた右手を僕の前に見せた。一輪の薔薇を手にしていた。

「これ、キミにあげるよ」
「えっ!?」
 
 接客を終えた直人がこちらに来て、冷やかすように口笛をピューイッ!と吹いた。店長さんも、おっとりした先生も、息子さんも抱っこされたまま無邪気に、みんなで拍手をしてくれた。

 Wish、あったかいな。

 僕は一輪の薔薇を受け取った。こういうときだけ、キミ(・・)とか……!先生、ずるい!反則!

「ルイ。行こうか」
「はい!」 

 先生と僕は、グランドピアノに歩み寄った。おっとりした先生は息子さんと一緒に、反対側のテーブル席に向かった。

 店長さんと直人、また楽しそうにカウンターの向こうで話してる。二人とも、本当に仲良しだな。

「店長。俺、ルイちゃんと弟がかぶっちゃって……」
「字も似てるらしいね?」
「はい。昔サッカーの帰りに公園に寄ったんですよ、ベンチでぼーっとして……。【きれいです。誰か使ってください】って書かれた紙袋が置いてあるのに気づいて。それがまた、弟の字にそっくりで!」
「持って帰ったの?」
「すげえ渋い湯飲みが入ってて、笑っちゃって。親父が日本酒飲むときに使ってますよ!」

 グランドピアノのそばにある、小さな丸テーブル。僕は、先生から受け取った一輪の薔薇をそこに乗せた。

 僕が椅子から落っこちそうになって、先生が肩を抱きかかえてくれたあの日。

 僕の身体中が、しゅわしゅわ弾けたあの日。

 まさかその場所で、先生と僕が、愛のワルツの連弾をするなんて……。

 店長さんと楽しそうに話していた直人が、頭の上で大きくマルを作った。僕は笑って頷いた。

 ステージの両側に設置されたライトが、パッと照らされた。楽しそうに語らっていたお客さんたちが、先生と僕に視線を移すのを感じた。

 緊張する。ピアノの発表会みたいだ。

 でも、今日は隣に…………。

「ルイ」

 何度耳にしても、僕の胸がときめく声。

 何度見ても、僕の鼓動が駆け足になる綺麗な目。

「いつも通りに。いいね?」
「はい!」

 先生が天井を仰いで、ゆっくりと目を閉じた。僕も先生の真似をして、天井を仰いで目を閉じた。 

 店内が静寂に包まれた。

 先生と僕は同時に目を開いて、鍵盤に視線を落とした。

 そして……。

 奏でるメロディーに合わせて体を揺らし、先生と僕は、愛のワルツを連弾した。

 鍵盤を包み込むような、先生の大きな手。長い指先。

 まるで子供みたいな、僕の小さな手。オクターブに届かない指。

 先生と僕が、大好きなワルツ。

 先生と僕の、愛のワルツ。

「最高っ……!」

 直人が声を上げて、拍手が鳴り響いた。先生と僕は立ち上がって、頭を下げて挨拶をした。

 店長さんは涙を流して喜んでいて、おっとりした先生も、息子さんと一緒にたくさん拍手を送ってくれた。

 僕は先生を見上げた。先生が僕を見下ろしている。

「ルイ」
「はい!」
「よくできました」

 先生は僕の頭を、大きな手でぽんぽんと撫でた。

 言おう。言わなきゃ。今日言うって、決めたんだから……!

「あ、あの……!」
「ん?」

 ドクンドクンドクンドクンドクン————

「ぼ、僕は、リョウくん(・・・・・)のピアノも、リョウくん(・・・・・)のことも、大好きです!」

 先生が目を見開いて、ちょっと顔をそむけた。

「ルイ。『キミ』ってセリフ以上にそれ、反則だから……」

 先生、照れてるや。可愛いな。

 お客さんからリクエストされて、先生と僕はもう一度、愛のワルツを連弾した。

 今夜はなんだか、一段と星が煌めいて見えた。お月様も、まん丸に輝いて見えた。僕の身体中、ずっとぱちぱちキラキラ弾けてるような気がした。


 ねえ、先生。

 悲しいことがあっても、つらいことがあっても、先生に出会えた僕は、世界で一番幸せだと感じているよ?

 これからもずっと、この先もずっと、僕と一緒に、僕の隣で愛のワルツを弾いてね?

 先生と僕のワルツ。これからもたくさん弾こうね?


「ルイ。愛してるよ」 
「僕も……リョウ先生のこと、愛してます」
「知ってるよ」