それから僕は、必死にピアノの練習をした。
大学のあと、バイトのあと、気づくと夜中になってることもあった。
先生に追いつきたい。先生と連弾をしたい。
おっとりした先生に聞いてもらうんだ。僕はもう大丈夫だよって、安心してもらうんだ。
愛のワルツは聴く印象よりも、難易度が高い曲だ。僕も先生みたいに、麗しく弾きたい。先生の隣で弾くんだから、先生と釣り合うようにならなきゃ。
——なんでそんなに手がちっちゃいのよ!——
手がちっちゃくたって関係ない。先生が愛情を込めて、楽譜を作り直してくれたんだから。
僕、頑張るよ?
僕、先生と並んでいられるようにするからね?
先生。先生————
指がもっと動くようになりたいと、僕はトルコ行進曲の練習も同時に始めた。
たくさん弾いた。頭の中に音符が浮かぶくらい、無我夢中で弾いた。
先生からメッセージが届くと、心が弾んで。
先生から電話がくると、胸がときめいて。
練習しなきゃ。たくさんやらなきゃ。もっともっと、努力しなきゃ。
僕は不器用だから。先生と違って、ピアノも恋愛も経験が足りないから。
一生懸命、頑張らなきゃ…………!
「……どうして?」
一人暮らしの部屋で、先生が僕をいっぱい愛してくれたその部屋で、僕は自分の小さな手を見てつぶやいた。
結局、トルコ行進曲のラシド、ラシドシラソのところから弾けなかった。どうしても、僕の小さな手ではオクターブまで届かない。ほかの音を一緒に押してしまう。
僕は、ピンク色のポンポンがついたシャーペンを手に取った。
あの頃と変わらず、僕は成長していないのかな。
先生の愛が溢れた楽譜を見て、幸せに浸っていたはずなのに。何を思ったのか、僕は途中からトルコ行進曲ばかりを練習して。
自分の小さな手にイライラして。
無理な角度に手首をひねって。
いつの間にか、ピアノと戦ってしまって……。
「痛っ……!」
その結果、僕は手首を痛めてしまった。
——ひどい腱鞘炎になってて……——
綺麗な目を下に向ける、先生の悲しそうな表情が浮かんだ。
僕、何してるんだろう……。
両方の手首に湿布を貼って、僕はベッドに寝転んだ。数日安静にしたら、大丈夫かな。
先生に心配かけたくないな。
——ウサギに空を飛べって言ってるようなもんだ——
僕って本当に、不器用だな……。
レッスン当日の木曜日。僕は、湿布を貼って大学に向かった。いつもおおらかな直人が、困惑した表情で僕のほっぺをつついた。
「ルイちゃん、気持ちはわかるけど。怪我をしたら元も子もないよ?」
僕は前髪をぺたぺたと撫でた。
「うん。僕、ムキになっちゃってたのかも……」
「ちゃんとそれに気づけたんだから。よかったじゃん」
昨日は、手首を痛がる僕を見て、バイト先で裕太くんが声をかけてくれた。
「俺、重いの運ぶよ」
「ごめんね、ありがとう」
直人にも、裕太くんにも、心配をかけてしまった。しっかりしなきゃ!ちゃんとしなきゃ……!
でも————
先生に置いていかれそうで、焦ってしまう。
大人の先生を失いたくなくて、背伸びをしてしまう。
先生は僕を不安にさせるようなこと、何もしてないのに。何も言ったりしないのに。
僕、何を勝手に自分を追い込んでるんだろう……。
電車に揺られながら、僕はリュックの肩ひもを握りしめた。
「痛っ……!」
ある角度になると、痛みが走る。短期間で何とかしようとするなんて、無理な話だ。何年もピアノから離れていて、やっと感覚が掴めてきたというのに。
届かないところに、無理やり届かせようとするなんて。僕の手首も、小さな手も、悲鳴を上げて当然だ。
先生は、僕の小さな手を知っている。
素敵なスタジオで、指を広げて弾くコツを教えてくれたけど、むやみに「届くようになるよ」とか、そういうことは口にしなかった。
ウサギは飛べるけど、空は飛べない。それを先生はわかってる。
目標がずれたらダメだ。僕が弾くのは、愛のワルツだ。大好きな先生と、連弾を完成させるんだ……!
「ニワトリさん」
チャコールグレーのキーネックのTシャツ。前髪をかき上げて僕を見下ろす、ちょっと上がった綺麗な二重瞼。
先生。先生。
僕はいつもこうだ。先生を浮かべるときも、先生に会えたときも、心の中で何度も呼びかけてしまう。
「リョウ先生!」
「そろそろ先生じゃなくて、呼び捨てでもいいよ?」
え?
「そ、そんな……!」
「呼び捨てしづらいなら、リョウくんでもいいよ?」
リ……リョウ……く……ん……。
は、恥ずかしい!リョウくんとか!リョウくんとか!
僕は両手で顔を覆った。ピキッと、手首に痛みが走った。
「痛っ……!」
思わず口に出してしまった。笑っていた先生から、笑顔が消えた。
先生が僕をじっと見下ろしている。
「ルイ。どうした?」
「すみません……。練習、無理しちゃったみたいで」
僕は左右の手首をさすった。恥ずかしいな。
「湿布は?」
「貼ってました」
「今日は?」
「リョウ先生が悲しむと思って、さっき剥がしました……」
僕はうつむいた。
こうして見ると、足の大きさも全然違う。僕、子供みたいだ。
僕、先生に追いつきたいのにな……。
「ルイ。マフィン買ってきたから」
先生は、マフィンのお店の紙袋を持っていた。
「ありがとうございます……」
「ワルツの連弾以外に、何を練習したの?」
先生は全てお見通しだ。作り直してくれた楽譜で手首を痛めるなんてこと、あり得ないから。
「もっと指が動くようになりたくて……」
「なりたくて?」
「トルコ行進曲を……」
先生が、ふうと息を吐いた。やれやれという感じだった。
「僕……ラシド、ラシドシラソのところから、指が届きませんでした」
先生は僕の頭を、ぽんぽんと撫でた。
じわっと涙が溢れてくる。
「本当は……左手でも、オクターブに届いてないところがあるんです」
「知ってるよ」
僕は先生を見上げた。
先生、きっと弾いたことがあるんだろうな。
先生のトルコ行進曲、カッコいいだろうな……。
「でも、女の先生は、ルイにそこを指摘しなかったんだろ?」
僕は静かに頷いた。
ラシド、ラシドシラソからどんどん盛り上がって、華やかさが増していくトルコ行進曲。
その瞬間を待っていたかのように、あの女の先生は僕を怒鳴り飛ばした。
でも、僕はその前の小節でも、左手でひとつの音しか押していない箇所があった。
なぜって、届かなかったから。
でも、女の先生は何も言わなかった。きっと僕のピアノを、最初から聴いてなかったんだろうな……。
「ルイ」
甘くて低い声。僕は先生を見上げた。
「モーツァルトがこの場にいたら、ルイに『ごめんね』って、ハグしてるかもよ?」
僕は笑った。笑った僕を見て、先生がちょっと安心した顔をした。
モーツァルトだって、僕が戦うようにトルコ行進曲を弾いていたら、悲しむはずだ。
本当は素晴らしい曲なのに。ワクワクする曲なのに。
モーツァルトがこの場にいたら、僕からハグをして、ごめんなさいって謝っただろうな。
「ルイが先に乗って」
先生のマンションに着いて、僕は先にエレベーターに乗った。あとから先生が乗り込んできて、のろのろと扉が閉まっていく。
僕は先生の後ろ姿を見上げた。
大きな背中。広い肩幅。うっとりしてしまう。ドキドキしてしまう。
僕の身体に触れる、先生の長い前髪……先生の長い指先……先生の吐息……先生の体温…………。
「ルイ?」
「は、はい!」
「俺の後ろで、エッチな妄想するなよ」
せ、先生。心読むの、やめて……?
コーヒーを淹れてくれる先生のことを、僕はいつものように椅子に座って待った。
先生はテーブルにマグカップと、ブルーベリーマフィンが乗ったお皿をふたつずつ置いた。
ブルーベリーマフィンにも、思い出がいっぱいだ。これからも、先生と幸せな時間をたくさん増やして……。
「ルイ。俺との愛のワルツの連弾には、興味がなくなったってこと?」
「え?」
前髪をかき上げて、頬杖をついて。先生は僕を見つめて、もう一度聞いた。
「ルイ。俺との連弾は、どうでもいいんだ?」
「ち、違います! 僕は先生と、愛のワルツが弾きたくて……!」
先生はコーヒーをすすって、僕の手首を指さした。
「トルコ行進曲を練習して、手首を痛めたのに?」
「そ、それは……」
先生は収納棚から救急箱を持ってくると、僕の両手首に、丁寧に湿布を貼ってくれた。
「冷たくて気持ちいいです……」
「どちらも炎症が起こってるんだろ」
先生は長い指先で、僕のおでこをペチンと軽く叩いた。
「ルイ。焦ったらダメだよって、言っただろ?」
僕はおでこをさすって頷いた。
「でも、このままだと僕、不安で……」
「不安って?」
「僕、先生に置いていかれそうで……」
僕は先生の綺麗な目を見つめた。先生もじっと、僕を見つめている。
「俺が、ルイを置いていくと思う?」
「僕が不安になってるだけです……すみません……」
どうしよう。泣きそう。
「俺、ルイを不安にさせるようなことした?」
僕は、激しく顔を左右に振った。
「してないです、言ってもいないです……」
「じゃあ、なんで?」
「先生、カッコいいから。すごく魅力があるから。僕、人より何百倍も頑張らないと、先生には追いつかなくて……」
先生は頬杖をついたまま、しばらく黙っていた。
どうしよう。先生、何も話さない。
僕、先生のこと怒らせちゃったかな……?
「ルイ」
「はい……」
「直人くん」
急に直人の名前を先生が言って、僕は目を丸くした。
「ルイがずいぶんと仲良しの、直人くん。店長から聞いてるよ、いい子だって」
「あ、はい……」
「俺も話してて思う、いい子だよね? けど、ルイが『直人』って呼び捨てにするの、いちいち俺は気になってる」
先生は、頬杖をつく手のひらを口のあたりにずらして、視線を斜め下に向けた。
「あと『裕太くん』っていうあの言い方。彼は、俺と目元が似てる。だから、余計に気になってる」
「リョウ先生……?」
「澤井さんが来た瞬間に、ルイが無邪気に『裕太くん』とか呼ぶから。俺、彼のことを睨んじゃったかもしれなくて。それも、ずっと気になってる」
先生。先生。
妬いてるの……?
「何?」
先生はコーヒーをすすった。僕は、さっきよりもゆっくりと顔を左右に振った。
「何でも……ないです……」
僕は自分の顔が、ニマニマしちゃってるのを感じた。
「ルイ、焦るなよ。今やるのは、愛のワルツ」
「はい!」
「連弾するんだよな? 俺と二人で」
「はい!」
「おっとりした先生に聞かせるんだよな? 俺と一緒に」
「はい!」
僕は返事をしたあと、先生に飛びつくように抱きついた。
「おっと……。手首、余計におかしくなるぞ?」
「治りました! もう、治りました!」
先生は笑った。
「何だよ、それ」
先生は、膝の上に僕を座らせた。僕は先生のほっぺにキスをして、そのまま先生にくっついた。
キスしちゃった。僕からしちゃった。でも、先生が可愛くて……。
先生の鼓動が聞こえる。先生もドキドキしてる。僕だけじゃないんだ。先生も一緒なんだ。
嬉しい。先生。僕、すごく嬉しい。先生。先生。
「僕、リョウ先生のことが大好きです……」
「知ってるよ」
先生は、僕の背中を優しく撫でた。
だんだんくすぐってきてる。僕のTシャツの中に大きな手を入れて、長い指先でくすぐってくる。
どうしよう。身体がもぞもぞしちゃう……!
「ダメだ……。やっぱり、ベッドがないと不便だな」
僕が聞き返す前に、先生は僕を抱きかかえて。僕をそっと、床に寝転がらせた。
大きな手のひらを、僕の顔の横についている。
「ルイ」
「はい……」
先生の綺麗な顔が近づいてきて、僕は目を閉じた。
まるで、先生が奏でる愛のワルツのように。
ゆったりとした、穏やかなキス。
焦らないでいいんだよって、先生が僕に、語りかけてくれてるみたいだ。
先生。先生。
「ルイ……」
先生は、僕のおでこに自分のおでこをくっつけて。もう一度、甘くて低い声で、僕の名前を囁いた。
「ルイは手首が、俺は膝が痛くなりそうだな……?」
僕の愛のワルツは、まだまだ頼りない。
でも、僕もう焦らないから。無理して空を飛ぼうとなんてしないから。
僕と一緒に、愛のワルツを完成させてね?先生。
大学のあと、バイトのあと、気づくと夜中になってることもあった。
先生に追いつきたい。先生と連弾をしたい。
おっとりした先生に聞いてもらうんだ。僕はもう大丈夫だよって、安心してもらうんだ。
愛のワルツは聴く印象よりも、難易度が高い曲だ。僕も先生みたいに、麗しく弾きたい。先生の隣で弾くんだから、先生と釣り合うようにならなきゃ。
——なんでそんなに手がちっちゃいのよ!——
手がちっちゃくたって関係ない。先生が愛情を込めて、楽譜を作り直してくれたんだから。
僕、頑張るよ?
僕、先生と並んでいられるようにするからね?
先生。先生————
指がもっと動くようになりたいと、僕はトルコ行進曲の練習も同時に始めた。
たくさん弾いた。頭の中に音符が浮かぶくらい、無我夢中で弾いた。
先生からメッセージが届くと、心が弾んで。
先生から電話がくると、胸がときめいて。
練習しなきゃ。たくさんやらなきゃ。もっともっと、努力しなきゃ。
僕は不器用だから。先生と違って、ピアノも恋愛も経験が足りないから。
一生懸命、頑張らなきゃ…………!
「……どうして?」
一人暮らしの部屋で、先生が僕をいっぱい愛してくれたその部屋で、僕は自分の小さな手を見てつぶやいた。
結局、トルコ行進曲のラシド、ラシドシラソのところから弾けなかった。どうしても、僕の小さな手ではオクターブまで届かない。ほかの音を一緒に押してしまう。
僕は、ピンク色のポンポンがついたシャーペンを手に取った。
あの頃と変わらず、僕は成長していないのかな。
先生の愛が溢れた楽譜を見て、幸せに浸っていたはずなのに。何を思ったのか、僕は途中からトルコ行進曲ばかりを練習して。
自分の小さな手にイライラして。
無理な角度に手首をひねって。
いつの間にか、ピアノと戦ってしまって……。
「痛っ……!」
その結果、僕は手首を痛めてしまった。
——ひどい腱鞘炎になってて……——
綺麗な目を下に向ける、先生の悲しそうな表情が浮かんだ。
僕、何してるんだろう……。
両方の手首に湿布を貼って、僕はベッドに寝転んだ。数日安静にしたら、大丈夫かな。
先生に心配かけたくないな。
——ウサギに空を飛べって言ってるようなもんだ——
僕って本当に、不器用だな……。
レッスン当日の木曜日。僕は、湿布を貼って大学に向かった。いつもおおらかな直人が、困惑した表情で僕のほっぺをつついた。
「ルイちゃん、気持ちはわかるけど。怪我をしたら元も子もないよ?」
僕は前髪をぺたぺたと撫でた。
「うん。僕、ムキになっちゃってたのかも……」
「ちゃんとそれに気づけたんだから。よかったじゃん」
昨日は、手首を痛がる僕を見て、バイト先で裕太くんが声をかけてくれた。
「俺、重いの運ぶよ」
「ごめんね、ありがとう」
直人にも、裕太くんにも、心配をかけてしまった。しっかりしなきゃ!ちゃんとしなきゃ……!
でも————
先生に置いていかれそうで、焦ってしまう。
大人の先生を失いたくなくて、背伸びをしてしまう。
先生は僕を不安にさせるようなこと、何もしてないのに。何も言ったりしないのに。
僕、何を勝手に自分を追い込んでるんだろう……。
電車に揺られながら、僕はリュックの肩ひもを握りしめた。
「痛っ……!」
ある角度になると、痛みが走る。短期間で何とかしようとするなんて、無理な話だ。何年もピアノから離れていて、やっと感覚が掴めてきたというのに。
届かないところに、無理やり届かせようとするなんて。僕の手首も、小さな手も、悲鳴を上げて当然だ。
先生は、僕の小さな手を知っている。
素敵なスタジオで、指を広げて弾くコツを教えてくれたけど、むやみに「届くようになるよ」とか、そういうことは口にしなかった。
ウサギは飛べるけど、空は飛べない。それを先生はわかってる。
目標がずれたらダメだ。僕が弾くのは、愛のワルツだ。大好きな先生と、連弾を完成させるんだ……!
「ニワトリさん」
チャコールグレーのキーネックのTシャツ。前髪をかき上げて僕を見下ろす、ちょっと上がった綺麗な二重瞼。
先生。先生。
僕はいつもこうだ。先生を浮かべるときも、先生に会えたときも、心の中で何度も呼びかけてしまう。
「リョウ先生!」
「そろそろ先生じゃなくて、呼び捨てでもいいよ?」
え?
「そ、そんな……!」
「呼び捨てしづらいなら、リョウくんでもいいよ?」
リ……リョウ……く……ん……。
は、恥ずかしい!リョウくんとか!リョウくんとか!
僕は両手で顔を覆った。ピキッと、手首に痛みが走った。
「痛っ……!」
思わず口に出してしまった。笑っていた先生から、笑顔が消えた。
先生が僕をじっと見下ろしている。
「ルイ。どうした?」
「すみません……。練習、無理しちゃったみたいで」
僕は左右の手首をさすった。恥ずかしいな。
「湿布は?」
「貼ってました」
「今日は?」
「リョウ先生が悲しむと思って、さっき剥がしました……」
僕はうつむいた。
こうして見ると、足の大きさも全然違う。僕、子供みたいだ。
僕、先生に追いつきたいのにな……。
「ルイ。マフィン買ってきたから」
先生は、マフィンのお店の紙袋を持っていた。
「ありがとうございます……」
「ワルツの連弾以外に、何を練習したの?」
先生は全てお見通しだ。作り直してくれた楽譜で手首を痛めるなんてこと、あり得ないから。
「もっと指が動くようになりたくて……」
「なりたくて?」
「トルコ行進曲を……」
先生が、ふうと息を吐いた。やれやれという感じだった。
「僕……ラシド、ラシドシラソのところから、指が届きませんでした」
先生は僕の頭を、ぽんぽんと撫でた。
じわっと涙が溢れてくる。
「本当は……左手でも、オクターブに届いてないところがあるんです」
「知ってるよ」
僕は先生を見上げた。
先生、きっと弾いたことがあるんだろうな。
先生のトルコ行進曲、カッコいいだろうな……。
「でも、女の先生は、ルイにそこを指摘しなかったんだろ?」
僕は静かに頷いた。
ラシド、ラシドシラソからどんどん盛り上がって、華やかさが増していくトルコ行進曲。
その瞬間を待っていたかのように、あの女の先生は僕を怒鳴り飛ばした。
でも、僕はその前の小節でも、左手でひとつの音しか押していない箇所があった。
なぜって、届かなかったから。
でも、女の先生は何も言わなかった。きっと僕のピアノを、最初から聴いてなかったんだろうな……。
「ルイ」
甘くて低い声。僕は先生を見上げた。
「モーツァルトがこの場にいたら、ルイに『ごめんね』って、ハグしてるかもよ?」
僕は笑った。笑った僕を見て、先生がちょっと安心した顔をした。
モーツァルトだって、僕が戦うようにトルコ行進曲を弾いていたら、悲しむはずだ。
本当は素晴らしい曲なのに。ワクワクする曲なのに。
モーツァルトがこの場にいたら、僕からハグをして、ごめんなさいって謝っただろうな。
「ルイが先に乗って」
先生のマンションに着いて、僕は先にエレベーターに乗った。あとから先生が乗り込んできて、のろのろと扉が閉まっていく。
僕は先生の後ろ姿を見上げた。
大きな背中。広い肩幅。うっとりしてしまう。ドキドキしてしまう。
僕の身体に触れる、先生の長い前髪……先生の長い指先……先生の吐息……先生の体温…………。
「ルイ?」
「は、はい!」
「俺の後ろで、エッチな妄想するなよ」
せ、先生。心読むの、やめて……?
コーヒーを淹れてくれる先生のことを、僕はいつものように椅子に座って待った。
先生はテーブルにマグカップと、ブルーベリーマフィンが乗ったお皿をふたつずつ置いた。
ブルーベリーマフィンにも、思い出がいっぱいだ。これからも、先生と幸せな時間をたくさん増やして……。
「ルイ。俺との愛のワルツの連弾には、興味がなくなったってこと?」
「え?」
前髪をかき上げて、頬杖をついて。先生は僕を見つめて、もう一度聞いた。
「ルイ。俺との連弾は、どうでもいいんだ?」
「ち、違います! 僕は先生と、愛のワルツが弾きたくて……!」
先生はコーヒーをすすって、僕の手首を指さした。
「トルコ行進曲を練習して、手首を痛めたのに?」
「そ、それは……」
先生は収納棚から救急箱を持ってくると、僕の両手首に、丁寧に湿布を貼ってくれた。
「冷たくて気持ちいいです……」
「どちらも炎症が起こってるんだろ」
先生は長い指先で、僕のおでこをペチンと軽く叩いた。
「ルイ。焦ったらダメだよって、言っただろ?」
僕はおでこをさすって頷いた。
「でも、このままだと僕、不安で……」
「不安って?」
「僕、先生に置いていかれそうで……」
僕は先生の綺麗な目を見つめた。先生もじっと、僕を見つめている。
「俺が、ルイを置いていくと思う?」
「僕が不安になってるだけです……すみません……」
どうしよう。泣きそう。
「俺、ルイを不安にさせるようなことした?」
僕は、激しく顔を左右に振った。
「してないです、言ってもいないです……」
「じゃあ、なんで?」
「先生、カッコいいから。すごく魅力があるから。僕、人より何百倍も頑張らないと、先生には追いつかなくて……」
先生は頬杖をついたまま、しばらく黙っていた。
どうしよう。先生、何も話さない。
僕、先生のこと怒らせちゃったかな……?
「ルイ」
「はい……」
「直人くん」
急に直人の名前を先生が言って、僕は目を丸くした。
「ルイがずいぶんと仲良しの、直人くん。店長から聞いてるよ、いい子だって」
「あ、はい……」
「俺も話してて思う、いい子だよね? けど、ルイが『直人』って呼び捨てにするの、いちいち俺は気になってる」
先生は、頬杖をつく手のひらを口のあたりにずらして、視線を斜め下に向けた。
「あと『裕太くん』っていうあの言い方。彼は、俺と目元が似てる。だから、余計に気になってる」
「リョウ先生……?」
「澤井さんが来た瞬間に、ルイが無邪気に『裕太くん』とか呼ぶから。俺、彼のことを睨んじゃったかもしれなくて。それも、ずっと気になってる」
先生。先生。
妬いてるの……?
「何?」
先生はコーヒーをすすった。僕は、さっきよりもゆっくりと顔を左右に振った。
「何でも……ないです……」
僕は自分の顔が、ニマニマしちゃってるのを感じた。
「ルイ、焦るなよ。今やるのは、愛のワルツ」
「はい!」
「連弾するんだよな? 俺と二人で」
「はい!」
「おっとりした先生に聞かせるんだよな? 俺と一緒に」
「はい!」
僕は返事をしたあと、先生に飛びつくように抱きついた。
「おっと……。手首、余計におかしくなるぞ?」
「治りました! もう、治りました!」
先生は笑った。
「何だよ、それ」
先生は、膝の上に僕を座らせた。僕は先生のほっぺにキスをして、そのまま先生にくっついた。
キスしちゃった。僕からしちゃった。でも、先生が可愛くて……。
先生の鼓動が聞こえる。先生もドキドキしてる。僕だけじゃないんだ。先生も一緒なんだ。
嬉しい。先生。僕、すごく嬉しい。先生。先生。
「僕、リョウ先生のことが大好きです……」
「知ってるよ」
先生は、僕の背中を優しく撫でた。
だんだんくすぐってきてる。僕のTシャツの中に大きな手を入れて、長い指先でくすぐってくる。
どうしよう。身体がもぞもぞしちゃう……!
「ダメだ……。やっぱり、ベッドがないと不便だな」
僕が聞き返す前に、先生は僕を抱きかかえて。僕をそっと、床に寝転がらせた。
大きな手のひらを、僕の顔の横についている。
「ルイ」
「はい……」
先生の綺麗な顔が近づいてきて、僕は目を閉じた。
まるで、先生が奏でる愛のワルツのように。
ゆったりとした、穏やかなキス。
焦らないでいいんだよって、先生が僕に、語りかけてくれてるみたいだ。
先生。先生。
「ルイ……」
先生は、僕のおでこに自分のおでこをくっつけて。もう一度、甘くて低い声で、僕の名前を囁いた。
「ルイは手首が、俺は膝が痛くなりそうだな……?」
僕の愛のワルツは、まだまだ頼りない。
でも、僕もう焦らないから。無理して空を飛ぼうとなんてしないから。
僕と一緒に、愛のワルツを完成させてね?先生。
