それから僕は、必死にピアノの練習をした。
 
 大学のあと、バイトのあと、気づくと夜中になってることもあった。

 先生に追いつきたい。先生と連弾をしたい。

 おっとりした先生に聞いてもらうんだ。僕はもう大丈夫だよって、安心してもらうんだ。

 愛のワルツは聴く印象よりも、難易度が高い曲だ。僕も先生みたいに、麗しく弾きたい。先生の隣で弾くんだから、先生と釣り合うようにならなきゃ。

 ——なんでそんなに手がちっちゃいのよ!——

 手がちっちゃくたって関係ない。先生が愛情を込めて、楽譜を作り直してくれたんだから。

 僕、頑張るよ?

 僕、先生と並んでいられるようにするからね?

 先生。先生————

 指がもっと動くようになりたいと、僕はトルコ行進曲の練習も同時に始めた。

 たくさん弾いた。頭の中に音符が浮かぶくらい、無我夢中で弾いた。

 先生からメッセージが届くと、心が弾んで。

 先生から電話がくると、胸がときめいて。

 練習しなきゃ。たくさんやらなきゃ。もっともっと、努力しなきゃ。

 僕は不器用だから。先生と違って、ピアノも恋愛も経験が足りないから。

 一生懸命、頑張らなきゃ…………!

「……どうして?」

 一人暮らしの部屋で、先生が僕をいっぱい愛してくれたその部屋で、僕は自分の小さな手を見てつぶやいた。

 結局、トルコ行進曲のラシド、ラシドシラソのところから弾けなかった。どうしても、僕の小さな手ではオクターブまで届かない。ほかの音を一緒に押してしまう。

 僕は、ピンク色のポンポンがついたシャーペンを手に取った。

 あの頃と変わらず、僕は成長していないのかな。

 先生の愛が溢れた楽譜を見て、幸せに浸っていたはずなのに。何を思ったのか、僕は途中からトルコ行進曲ばかりを練習して。

 自分の小さな手にイライラして。

 無理な角度に手首をひねって。

 いつの間にか、ピアノと戦ってしまって……。

「痛っ……!」

 その結果、僕は手首を痛めてしまった。

 ——ひどい腱鞘炎になってて……——

 綺麗な目を下に向ける、先生の悲しそうな表情が浮かんだ。

 僕、何してるんだろう……。

 両方の手首に湿布を貼って、僕はベッドに寝転んだ。数日安静にしたら、大丈夫かな。

 先生に心配かけたくないな。

 ——ウサギに空を飛べって言ってるようなもんだ——

 僕って本当に、不器用だな……。


 レッスン当日の木曜日。僕は、湿布を貼って大学に向かった。いつもおおらかな直人が、困惑した表情で僕のほっぺをつついた。

「ルイちゃん、気持ちはわかるけど。怪我をしたら元も子もないよ?」

 僕は前髪をぺたぺたと撫でた。

「うん。僕、ムキになっちゃってたのかも……」
「ちゃんとそれに気づけたんだから。よかったじゃん」

 昨日は、手首を痛がる僕を見て、バイト先で裕太くんが声をかけてくれた。

「俺、重いの運ぶよ」
「ごめんね、ありがとう」

 直人にも、裕太くんにも、心配をかけてしまった。しっかりしなきゃ!ちゃんとしなきゃ……!

 でも————

 先生に置いていかれそうで、焦ってしまう。

 大人の先生を失いたくなくて、背伸びをしてしまう。

 先生は僕を不安にさせるようなこと、何もしてないのに。何も言ったりしないのに。

 僕、何を勝手に自分を追い込んでるんだろう……。

 電車に揺られながら、僕はリュックの肩ひもを握りしめた。

「痛っ……!」

 ある角度になると、痛みが走る。短期間で何とかしようとするなんて、無理な話だ。何年もピアノから離れていて、やっと感覚が掴めてきたというのに。

 届かないところに、無理やり届かせようとするなんて。僕の手首も、小さな手も、悲鳴を上げて当然だ。

 先生は、僕の小さな手を知っている。

 素敵なスタジオで、指を広げて弾くコツを教えてくれたけど、むやみに「届くようになるよ」とか、そういうことは口にしなかった。

 ウサギは飛べるけど、空は飛べない。それを先生はわかってる。

 目標がずれたらダメだ。僕が弾くのは、愛のワルツだ。大好きな先生と、連弾を完成させるんだ……!

「ニワトリさん」

 チャコールグレーのキーネックのTシャツ。前髪をかき上げて僕を見下ろす、ちょっと上がった綺麗な二重瞼。

 先生。先生。

 僕はいつもこうだ。先生を浮かべるときも、先生に会えたときも、心の中で何度も呼びかけてしまう。

「リョウ先生!」
「そろそろ先生じゃなくて、呼び捨てでもいいよ?」

 え?

「そ、そんな……!」
「呼び捨てしづらいなら、リョウくん(・・・・・)でもいいよ?」

 リ……リョウ……く……ん……。

 は、恥ずかしい!リョウくんとか!リョウくんとか!

 僕は両手で顔を覆った。ピキッと、手首に痛みが走った。

「痛っ……!」

 思わず口に出してしまった。笑っていた先生から、笑顔が消えた。

 先生が僕をじっと見下ろしている。

「ルイ。どうした?」
「すみません……。練習、無理しちゃったみたいで」

 僕は左右の手首をさすった。恥ずかしいな。

「湿布は?」
「貼ってました」
「今日は?」
「リョウ先生が悲しむと思って、さっき剥がしました……」

 僕はうつむいた。

 こうして見ると、足の大きさも全然違う。僕、子供みたいだ。

 僕、先生に追いつきたいのにな……。

「ルイ。マフィン買ってきたから」

 先生は、マフィンのお店の紙袋を持っていた。

「ありがとうございます……」
「ワルツの連弾以外に、何を練習したの?」

 先生は全てお見通しだ。作り直してくれた楽譜で手首を痛めるなんてこと、あり得ないから。

「もっと指が動くようになりたくて……」
「なりたくて?」
「トルコ行進曲を……」
 
 先生が、ふうと息を吐いた。やれやれという感じだった。

「僕……ラシド、ラシドシラソのところから、指が届きませんでした」

 先生は僕の頭を、ぽんぽんと撫でた。

 じわっと涙が溢れてくる。

「本当は……左手でも、オクターブに届いてないところがあるんです」
「知ってるよ」

 僕は先生を見上げた。

 先生、きっと弾いたことがあるんだろうな。

 先生のトルコ行進曲、カッコいいだろうな……。

「でも、女の先生は、ルイにそこを指摘しなかったんだろ?」

 僕は静かに頷いた。

 ラシド、ラシドシラソからどんどん盛り上がって、華やかさが増していくトルコ行進曲。

 その瞬間を待っていたかのように、あの女の先生は僕を怒鳴り飛ばした。

 でも、僕はその前の小節でも、左手でひとつの音しか押していない箇所があった。

 なぜって、届かなかったから。

 でも、女の先生は何も言わなかった。きっと僕のピアノを、最初から聴いてなかったんだろうな……。

「ルイ」

 甘くて低い声。僕は先生を見上げた。

「モーツァルトがこの場にいたら、ルイに『ごめんね』って、ハグしてるかもよ?」

 僕は笑った。笑った僕を見て、先生がちょっと安心した顔をした。

 モーツァルトだって、僕が戦うようにトルコ行進曲を弾いていたら、悲しむはずだ。

 本当は素晴らしい曲なのに。ワクワクする曲なのに。

 モーツァルトがこの場にいたら、僕からハグをして、ごめんなさいって謝っただろうな。


「ルイが先に乗って」

 先生のマンションに着いて、僕は先にエレベーターに乗った。あとから先生が乗り込んできて、のろのろと扉が閉まっていく。

 僕は先生の後ろ姿を見上げた。

 大きな背中。広い肩幅。うっとりしてしまう。ドキドキしてしまう。
 
 僕の身体に触れる、先生の長い前髪……先生の長い指先……先生の吐息……先生の体温…………。

「ルイ?」
「は、はい!」
「俺の後ろで、エッチな妄想するなよ」

 せ、先生。心読むの、やめて……?

 コーヒーを淹れてくれる先生のことを、僕はいつものように椅子に座って待った。

 先生はテーブルにマグカップと、ブルーベリーマフィンが乗ったお皿をふたつずつ置いた。

 ブルーベリーマフィンにも、思い出がいっぱいだ。これからも、先生と幸せな時間をたくさん増やして……。

「ルイ。俺との愛のワルツの連弾には、興味がなくなったってこと?」
「え?」

 前髪をかき上げて、頬杖をついて。先生は僕を見つめて、もう一度聞いた。

「ルイ。俺との連弾は、どうでもいいんだ?」
「ち、違います! 僕は先生と、愛のワルツが弾きたくて……!」

 先生はコーヒーをすすって、僕の手首を指さした。

「トルコ行進曲を練習して、手首を痛めたのに?」
「そ、それは……」

 先生は収納棚から救急箱を持ってくると、僕の両手首に、丁寧に湿布を貼ってくれた。

「冷たくて気持ちいいです……」
「どちらも炎症が起こってるんだろ」

 先生は長い指先で、僕のおでこをペチンと軽く叩いた。

「ルイ。焦ったらダメだよって、言っただろ?」

 僕はおでこをさすって頷いた。

「でも、このままだと僕、不安で……」
「不安って?」
「僕、先生に置いていかれそうで……」

 僕は先生の綺麗な目を見つめた。先生もじっと、僕を見つめている。

「俺が、ルイを置いていくと思う?」
「僕が不安になってるだけです……すみません……」

 どうしよう。泣きそう。

「俺、ルイを不安にさせるようなことした?」

 僕は、激しく顔を左右に振った。

「してないです、言ってもいないです……」
「じゃあ、なんで?」
「先生、カッコいいから。すごく魅力があるから。僕、人より何百倍も頑張らないと、先生には追いつかなくて……」

 先生は頬杖をついたまま、しばらく黙っていた。

 どうしよう。先生、何も話さない。

 僕、先生のこと怒らせちゃったかな……?

「ルイ」
「はい……」
「直人くん」

 急に直人の名前を先生が言って、僕は目を丸くした。

「ルイがずいぶんと仲良しの、直人くん。店長から聞いてるよ、いい子だって」
「あ、はい……」
「俺も話してて思う、いい子だよね? けど、ルイが『直人(・・)』って呼び捨てにするの、いちいち俺は気になってる」

 先生は、頬杖をつく手のひらを口のあたりにずらして、視線を斜め下に向けた。

「あと『裕太くん(・・・・)』っていうあの言い方。彼は、俺と目元が似てる。だから、余計に気になってる」
「リョウ先生……?」
澤井さん(・・・・)が来た瞬間に、ルイが無邪気に『裕太くん(・・・・)』とか呼ぶから。俺、彼のことを睨んじゃったかもしれなくて。それも、ずっと気になってる」

 先生。先生。

 妬いてるの……?

「何?」

 先生はコーヒーをすすった。僕は、さっきよりもゆっくりと顔を左右に振った。

「何でも……ないです……」

 僕は自分の顔が、ニマニマしちゃってるのを感じた。

「ルイ、焦るなよ。今やるのは、愛のワルツ」
「はい!」
「連弾するんだよな? 俺と二人で」
「はい!」
「おっとりした先生に聞かせるんだよな? 俺と一緒に」
「はい!」

 僕は返事をしたあと、先生に飛びつくように抱きついた。

「おっと……。手首、余計におかしくなるぞ?」
「治りました! もう、治りました!」

 先生は笑った。

「何だよ、それ」

 先生は、膝の上に僕を座らせた。僕は先生のほっぺにキスをして、そのまま先生にくっついた。

 キスしちゃった。僕からしちゃった。でも、先生が可愛くて……。

 先生の鼓動が聞こえる。先生もドキドキしてる。僕だけじゃないんだ。先生も一緒なんだ。

 嬉しい。先生。僕、すごく嬉しい。先生。先生。

「僕、リョウ先生のことが大好きです……」
「知ってるよ」

 先生は、僕の背中を優しく撫でた。

 だんだんくすぐってきてる。僕のTシャツの中に大きな手を入れて、長い指先でくすぐってくる。

 どうしよう。身体がもぞもぞしちゃう……!

「ダメだ……。やっぱり、ベッドがないと不便だな」

 僕が聞き返す前に、先生は僕を抱きかかえて。僕をそっと、床に寝転がらせた。

 大きな手のひらを、僕の顔の横についている。

「ルイ」
「はい……」

 先生の綺麗な顔が近づいてきて、僕は目を閉じた。

 まるで、先生が奏でる愛のワルツのように。

 ゆったりとした、穏やかなキス。

 焦らないでいいんだよって、先生が僕に、語りかけてくれてるみたいだ。

 先生。先生。

「ルイ……」

 先生は、僕のおでこに自分のおでこをくっつけて。もう一度、甘くて低い声で、僕の名前を囁いた。

「ルイは手首が、俺は膝が痛くなりそうだな……?」


 僕の愛のワルツは、まだまだ頼りない。

 でも、僕もう焦らないから。無理して空を飛ぼうとなんてしないから。

 僕と一緒に、愛のワルツを完成させてね?先生。