小さなテーブルに飲みかけのティーカップを置いて、先生と僕はピアノの前に座った。
 
 先生が隣にいる。僕のほうを向いて座っている。

 緊張してしまう。

 まるで、背中に物差しでも突っ込まれたみたいに、僕は背筋をピン!と伸ばして座り、鍵盤に手を乗せた。

 焦ってる場合ではない!僕はピアノを習いに来たんだから!さっきもそれ考えてたけど!

「ルイくん。やる気満々だね?」

 まだ、譜面台に楽譜すら置かれていなかった。先生が笑っている。

「す、すみません……」
「やる気があるのはいいことだよ。ルイくんはどれくらい弾けるの?」

 先生は膝の上に楽譜本を置き、パラパラとめくり始めた。

「僕、全然たいした腕じゃないんです」
「どのくらい習ってたの?」
「七年くらいです……」

 驚いたように、先生が僕に視線を移した。

「メールに『初心者です』って書いてあったから。もっと短いのかと思ってたよ」
「でも本当に、全然たいしたことなくて……」

 僕は、鍵盤に乗せた手のひらで拳を作った。

 突然、ピアノ教室を辞めてしまったから。母さんは僕に呆れていた。

 ——先生に謝りに行かないと。ルイは飽きっぽいわね——

 家庭の事情や、自己都合の退職をする先生もいて。七年の間に、僕の先生は四人変わった。

 僕は、三人目の先生が大好きだった。キラキラした髪留めを使っている、おっとりした女の先生。

「今日はね、チョコチップにしてみたの!」
「わあっ……!」

 手作りのクッキーを出してくれたり、美味しい紅茶も淹れてくれた。学校で何があったかお喋りをして、そこからレッスンを始めてくれた。

 でも、レッスン時間が短くなることはなかった。いつもたっぷり時間を取ってくれていた。

「葉山くんは、学校に好きな子はいるのかな?」
「あ、えっと……」

 どうしよう。なんて言おう。

 言葉を詰まらせる僕に、おっとりした先生はチョコチップクッキーを差し出した。

「先生、思うんだけれど。葉山くんに好きになってもらえる子は、幸せ者だよ?」
「え?」
「葉山くん、優しいもん。男の子も、女の子も、みーんな葉山くんのことが大好きになるよ!」

 僕はピアノ教室に行くのが楽しみだった。具体的に言葉にしなくても、僕を受け入れてくれる温かさが伝わってきて、それがたまらなく嬉しかった。

 僕は、おっとりした先生の雰囲気も、用意してくれるクッキーも、いい香りのする紅茶も、全て大好きだった。

 だけど。

 母さんは、その先生のことが、あまり好きではなかった。

 ——大学生に毛が生えたみたいな子で、そんなに上手じゃないわね——

 通い始めて、三ヶ月程たったある日。なぜか僕の意見は聞かずに、翌週から別のピアノ教室に通うことになってしまった。

 直接母さんが話して、先生はとても寂しそうな表情をしていた。

 僕も母さんの隣で、悲しい顔で先生を見つめた。僕の思いが、どうか伝わって欲しかった。

 僕は辞めたくなかった。

 だから、母さんから「別のピアノ教室に申し込んだ」と言われたとき、僕は意味がわからずに愕然とした。

「どうして? 僕、あの先生好きだよ?」
「ルイが上達してるようには思えないのよ」

 新しい曲、覚えてるのに。僕は一人で教室に行って帰って来てるから、母さんは先生のピアノをちゃんと聞いていない。お手本で弾く姿も見ていない。だから、よく知らないのかもしれない。

「先生、ピアノ上手だよ? 教えるのも上手だよ?」
「そうかしら? 体験のときにお母さんも聞いたけど、大学生に毛が生えたみたいな子で、そんなに上手じゃないわね」

 どうして?僕は通いたいのに。

 どうして?母さん、どうして————?

「あの……今日からよろしくお願いします」
「はいはい。葉山くん、さっさと座って」

 昼間でもカーテンが閉まっていて薄暗く、どことなく埃っぽくて、物が溢れて積み重なった部屋。

 僕は、四人目の先生がとても苦手だった。 

 いつも不機嫌な顔をしている、ベリーショートの女の先生。言葉使いも荒くて、僕にも攻撃的だった。

 ピアノ教室は、水曜日だった。

 火曜日は、明日熱が出ないかなと思うようになってしまった。火曜日に風邪を引くと、明日ピアノを休めるなと胸をなで下ろしている自分がいた。

 そしてあるとき、僕は突然ピアノ教室を辞めた。

 母さんに相談をせず、父さんと兄さんにも言わず、僕は独断でピアノ教室を辞めた。

 僕は母さんに、ピアノ教室を「飽きたから辞めた」と言ってしまった。

 でも、本当は違う理由だった。
 
 通い続けたら、自分が潰れてしまうと思った。
 
 急に行かなくなるという選択肢もあったけど、そこはちゃんとしなきゃと思った。女の先生に「辞める」と伝えたのは、僕なりの誠意だった。

 でも。

 そんなちっぽけな僕の誠意は、その女の先生には届かなかった。

「僕、辞めます。今までありがとうございました」

 靴を履いて僕は言った。頭を下げて、ドアノブを握りしめて、もう帰る準備は万端となった状態で、僕は言った。
 
 僕の心臓はバクバクしていた。あまり自分の意見を言うタイプではない僕にとって、すごく勇気のある行動だった。
 
 僕の言葉を聞いた女の先生は、鼻で笑いながら僕に聞いた。

「葉山くん、逃げるんだ?」

 逃げてると思われても構わなかった。

 だって、逃げたかったから。その女の先生から、僕は逃げたかったから。
 
 帰り道、僕は家まで走った。泣きながら家まで走った。悔し涙だったのか、もう行かなくていいんだという嬉し涙だったのか、よくわからなかった。

 僕は家に着くと、そのままお風呂に直行した。
 
 お風呂の中でも、たくさん泣いた。シャワーを出したまま泣いた。声が聞こえないようにいっぱい泣いて、目を真っ赤にしてお風呂から出た僕に、母さんが質問をした。

「今日のレッスン、どうだった?」
「僕、飽きたから辞めたよ」
 
 母さんは表情を歪めて、絶句した。

 沈黙のあと、呆れたように僕に言った。

「先生に謝りに行かないと。ルイは飽きっぽいわね」

 翌週、母さんは僕を連れて、菓子折りを持って挨拶に行った。僕は行きたくなかった。せっかく泣いて逃げたのに、また会わなきゃいけないなんて。

 嫌で嫌で、たまらなかった。

「急に辞めると言ってきたので驚きましたよ! やりたいことが見つかるといいね?」

 女の先生は、僕に明るく笑ってそう言った。

 いつも僕に見せていた態度とは、まるで別人のようだった————



「……ルイくん?」

 甘くて低い声。ちょっと上がった綺麗な二重瞼。先生が僕を、じっと見つめている。

「すみません。ぼうっとして……」
「ルイくん、楽しくピアノをやろう。いいね?」

 僕は頷いた。先生、優しい人だな。

「ルイくんの最後の課題曲は何だったの?」
「モーツァルトのトルコ行進曲の、途中(・・)です……」
「途中って?」
「途中で、ピアノ教室を辞めたので……」

 先生は立ち上がって、プリンターでトルコ行進曲の楽譜をプリントして渡してくれた。僕は頭を下げて、それを受け取った。

 楽譜を見て、ちょっと懐かしかった。

 懐かしいけど、でも…………。

「いずれリベンジするか。その先生を見返すために」

 僕は、驚いて顔を上げた。

「その先生が嫌で辞めたんだよね? ピアノ」 

 何も言ってないのに、どうしてわかるんだろう。

「ルイくんは、人に悩みを話すのが苦手なんじゃない?」

 先生は椅子に腰を下ろして、僕と目線を合わせるように、少し前屈みになった。

「ルイくん。何かあると一人で抱えちゃわない?」

 僕はいつもだったら「そんなことはないです」と、遠慮して言ったと思う。

 けれど、先生の穏やかな雰囲気と、先生の綺麗な目を見ていたら、なぜだかそれを素直に認めてしまった。

「抱え……ちゃいます。アハハッ!」

 そして、笑ってしまった。僕、やっぱり変な人だと思われてそうだ……。

「優しいんだね。ルイくんは」

 僕からトルコ行進曲の楽譜を受け取ると、先生はそれを見開きのファイルに入れて、もう一度僕に差し出した。

 大きな手と長い指で、先生はどんなふうにピアノを弾くんだろう。このファイルがいっぱいになるくらい、二冊目、三冊目と続くくらい、先生からピアノを習えたらいいな。

 このファイルも大切にしよう。いろいろ用意してくれて、面倒見がいい先生だな。

「まずは、簡単な曲から始めようか?」
「はい」
「ルイくん、ピアノと向き合おう。戦うんじゃなくてね?」

 僕はピアノと、あの女の先生と、どちらとも戦っていたのかもしれない。

「どれにしようかな。例えば、ルイくんが好きな曲は……」
「先生。ブラームスのワルツの十五番は、お好きですか?」

 質問に対して質問してしまった。僕、今日ダメダメだ。

「ワルツの十五番か……。いい曲だよね」

 そう言って、先生は鍵盤を見つめた。

「俺、一番好きかもしれないな」
「え?」

 実は、僕もそうだ。クラシックの中で一番好きな曲。

 先生のピアノで聴きたいな。でも、リクエストしていいのかわからないな。

「弾こうか? 俺がピアノを弾くつもりはなかったんだけどね」

 僕は何度も頷いた。先生、僕の心が読めるんだろうか。

「ぜひ、お願いします!」

 僕は椅子から立ち上がった。先生も同時に立ち上がった。

 僕は先生を見上げた。

 先生みたいな綺麗な顔で、先生みたいな男らしい体格で。先生みたいに甘くて低い声で、先生みたいに大きな手と長い指だったら……。

 僕は、あの女の先生にあんなことを言われず。恐怖に怯えることも、なかったのかな。

「隣の椅子で聴いてもいいですか?」
「もちろん」

 長い指先を鍵盤に乗せて、先生は天井を仰いだ。

 静かに目を閉じている。

 僕は、先生の綺麗な横顔を見つめた。真ん中から分けられた長い前髪が、少し目元にかかっている。鼻が高くて、喉仏がしっかり出ていて、まるで彫刻みたいだ。

 先生はゆっくり目を開けると、鍵盤に視線を落とした。

 そして、ブラームスのワルツの第十五番……通称『愛のワルツ』を弾いた。

 奏でるメロディーに合わせて、体を揺らしながら。

 ゆったりと、穏やかに、とても美しく……。

 優しい旋律だ。曲と先生が調和してる。包容力のある先生に、愛のワルツがぴったりだ。

 僕、ピアノが好きだ。ピアノを弾く先生を見るのも、大好きだ。

 ピアノでまた、僕の気持ちがこんなに高ぶるなんて…………。

「ルイくん?」

 とっくに弾き終わった先生を前にして、僕は自分の目が潤んでることに気がついた。僕は袖を伸ばして、目頭に溜まった涙を拭いた。
 
「感動しました……」
「嬉しいな。ルイくん、いつか連弾できるといいね?」

 僕はずっと、愛のワルツを弾きたいと思っていた。僕の小さな手では難しいことを、よくわかっていながらも。

 手が大きくなりますように。指が長くなりますように。夜空に向かって、何度お願いをしただろう。

 そんな僕が先生と、愛のワルツの連弾ができるなんて……。

「ノーコメントってことは、俺とじゃ嫌ってこと?」
「い、嫌なわけ……ないです!」

 先生は微笑むと、簡単な楽譜を広げてくれた。久しぶり過ぎて、指が全然動かなかった。音符も高い音になってくると、すぐに把握できなかった。

 記憶力って、こんなに衰えちゃうんだ。でも、ピアノに触れるのが苦痛じゃないなんて……!

「今日はこのくらいで。毎週木曜日の、この時間でいいのかな?」

 水曜日にはしたくなかった。過去の記憶が蘇ってしまいそうで。
 
 でも、先生なら水曜日でよかったかも。何曜日でもいい。いつだっていい。すごく充実した時間だった。

 僕、先生に出会えてよかった!先生。先生。

「マンション内で迷わないようにね。下まで送ろうか?」
「大丈夫です。来週からよろしくお願いします!」

 手を振る先生に頭を下げて、僕は再びダンジョンめいた廊下を歩いた。ちょっとだけ迷いつつも、点検が終わったエレベーターに乗って、僕は先生のマンションをあとにした。

 軽い足取りでケーキ屋に入って、バナナマフィンをテイクアウトした。ブルーベリーマフィンが気になったけど、もう少し早く来ないと、買えないのかな?

 僕は電車で目を閉じながら、先生の麗しい愛のワルツと、先生の綺麗な横顔を思い出していた。

 木曜日、すごく楽しみだ。

 早く木曜日にならないかな。まだ今も木曜日なのにな。先生。先生。

「一人? どこ行くの?」

 そんな僕に、声をかけてきた男がいた。

 ターミナル駅で人が多く、男が男に話しかけていても目立たない。その男は茶髪で片耳にピアスをしていて、薄手のジャケットを着ていた。

「僕、興味ないです……」
「『僕』だって! イメージ通りだなあ。話すだけでもいいよ、可愛いね?」

 リュックの肩ひもを握りしめて、僕は早歩きをした。早歩きで追いかけられた。僕はデパートに逃げ込んだ。男子トイレに逃げたところで、相手も男だから意味がない。

 むしろ、危ない。

 僕は、女性の洋服売り場に向かった。興味があるからではない、僕の逃げ道を確保するためだ。

 振り返ると、いつの間にか茶髪の男は消えていた。

「いらっしゃいませ」

 店員さんに声をかけられた。僕は顔を左右に振って頭を下げて、その場を去った。


 ねえ、先生。

 さっきまで僕は、すごく幸せだったんだ。だから、木曜日を嫌いになったりしないよ?

 ピアノだって、もっともっと大好きになるよ?
 
 これからもずっとずっと、木曜日を大好きでいるよ?先生。