白のTシャツで待ち合わせ場所に向かった僕は、改札の前に立つ先生を見つけた。
僕と同じ白のTシャツに、広い肩幅。先生は綺麗な目で僕を捉えると、嬉しそうに笑った。
先生、笑ってるや。先生の笑顔、可愛いな……。
僕はボディバックの紐を握りしめながら、先生のもとに走った。
先生はリュックを背負っていた。僕だとリュックが背中に乗ってるみたいになるけど、先生はそんなことがないな。
「ルイ」
甘くて低い声。僕を見下ろす、ちょっと上がった綺麗な二重瞼。
「こんにちは! リョウ先生!」
「今日はニワトリにならないんだ?」
僕をからかいながら、先生が優しく微笑んでいる。
どうしよう。
僕、先生とくっつきたくてたまらない。
抱きしめて欲しくてたまらない。
キスして欲しくてたまらない。
「ここからまた、移動するよ」
電車が混んでたら、先生とくっつける!
そう期待した僕だったけど、電車は混んでいても、ぎゅうぎゅうではなかった。
ちぇっ。ちょっと残念だな……くっつきたかったのに。
…………。
僕は電車のドアに、おでこをゴン!とぶつけた。
ぎゅうぎゅうじゃないのが残念とか!先生とくっつきたかったのにとか!僕ったら、何を考えてるんだ!
「ルイ。何さっきから興奮してんの?」
「こ、こ、興奮してません……!」
「ニワトリさん。降りるよ」
僕は胸をさすりながら、先生の隣をてくてくと歩いた。
先生と僕、普通にデートしてる。幸せだ。夢みたいだ。
僕は、先生の手を見つめた。大きな手。長い指。
先生。触って欲しい。先生。
——次はエッチで決まりだね!——
僕は歩きながら、両手で顔を覆った。
直人、やめて……。期待してる僕がいるから、余計にやめて……。
「ドアにおでこをぶつけたり、顔を隠したり、ニワトリさんは忙しそうだね?」
僕は先生を見上げた。先生が僕を見下ろしている。
ドクンドクンドクンドクンドクン————
ダメだ。僕、木曜日からずっとこうだ。僕って先生の言う通り、本当にエッチなのかもしれない……。
「着いたよ」
細長い箱のような形をした、白い建物。五階建てくらいだ。長方形の窓が、いくつもある。
お花を見に行くのかなと予想していたけど、ここ、何だろう?
「レンタルスタジオだよ」
先生は、僕の心を読んで教えてくれた。
「ここにはグランドピアノがある」
「え?」
「俺の家、電子ピアノだからね」
——Wishのグランドピアノに近づきもしないみたいだよ——
僕は再び、ボディバックの紐を握りしめた。
先生。僕と一緒なら、グランドピアノを弾いてくれるの……?
先生と僕は、階段で三階に上がった。
ライトブラウンの床に、グランドピアノがひとつ。窓から差し込む光が幻想的だ。三階から上は吹き抜けになっていて、すごく高い天井だった。
天窓もある。天窓からも光が入ってくる。夜はきっと、お月様が見えて綺麗だろうな。
先生は、スタジオの端にあった予備の椅子を持って来て、僕と隣同士で腰を下ろした。
「ルイ」
長い指先で鍵盤を撫でると、先生は静かに目を閉じた。
「あの発表会以来だよ。俺がグランドピアノに触れるのは……」
先生は愛のワルツを弾く前に、必ずこうして目を閉じる。天井を仰いで、何かを思い出すように。
——ウサギに空を飛べって言ってるようなもんだ——
先生。その子は、今でも先生のことが大好きで。
どこかできっと、ピアノを再開してるはずだよ?
僕だってこうして、ピアノに戻ってきたよ?だから先生と出会えたんだよ?
どうかもう、傷つかないで。
悲しまないで。先生。
「リョウ先生……」
ちょっと上がった綺麗な二重瞼を開けて、先生は僕を見つめた。
「ん?」
「僕は、リョウ先生がすごく好きです……」
先生は甘くて低い声で笑った。
「何だよ、急に」
「すみません……」
「ルイ。俺も好きだよ」
先生が大きな手で、僕の頭を撫でている。綺麗な目で、目力のある目で、僕を見つめている。
「リョウ先生……」
「ルイ……」
先生。先生。
僕は今、すごく今、先生とキスが…………。
「エッチなルイくん。ピアノをやるよ」
僕は椅子からずり落ちそうになった。先生が笑っている。
「リ、リョウ先生……!」
「ルイ。スタジオでするとか反則だから」
先生は左側の口角を上げて、どこか意地悪そうな表情で、目を細めて微笑んだ。
「家でゆっくりね。俺、止まらなくなるから」
「と、とまら……」
失神しそう。
僕はほっぺをぺちぺちと叩いて、先生が持って来てくれた譜面台の楽譜を見つめた。
愛のワルツ。先生が作り直してくれた連弾の楽譜。
集中しなきゃ!僕の気持ちも、身体のもぞもぞも、愛のワルツに乗せればいいんだ!
興奮なんかするもんか!告白されて、チューされて、次はエッチで決まりだとか!僕は、そんなことばかり考えてるわけじゃ……!
「ルイ。ゆっくりね」
「はい」
「じっくりね。俺についてこられる?」
「は、はい……」
「焦ったらダメだよ。俺、すごい時間をかけるからね……?」
僕は顔を真っ赤にして、先生を見た。
先生がお腹を抱えて、楽しそうに笑っている。絶対、わざと!
「エッチなルイくん。ピアノに集中しよう」
「エッッ……! もう、リョウ先生!」
先生は、スタジオを二時間借りてくれていた。指を広げて弾くコツを教えてもらいながら、僕はグランドピアノにたくさん触れた。
だけど……。
先生は少し鍵盤に触れた程度で、積極的ではないように感じた。
やっぱりどこか、思い出しちゃうのかな。悲しい気持ちが、蘇ってしまうのかな……。
「リョウ先生、あの……」
「ここ、いい雰囲気だから店長にも教えようかな。店長の奥さん、ピアノが好きなんだよ」
「あの……!」
「店長の奥さんの案なんだよ。Wishにグランドピアノを置いたの」
残り時間が十分程度になったところで、先生が予備の椅子を元の位置に片づけて、帰る支度を始めた。
僕の心は、ざわざわしていた。このまま帰っていいのだろうか。先生、ほとんど自分は弾いていないのに。
——俺は弾かないよ。弾いたことがない——
僕は拳を握りしめた。グランドピアノで、先生の愛のワルツが聴きたい。
グランドピアノだって、先生のことを待ってるはずだ。
「リョウ先生」
リュックを背負うとする先生のTシャツを、僕は後ろから引っ張った。先生が僕を見下ろしている。
「残りの時間で、リョウ先生の愛のワルツが聴きたいです」
先生がリュックを床に置いた。
「さっき少し弾いたけど」
「僕に教えるためじゃなくて、いつもみたいに……リョウ先生の愛のワルツが聴きたいんです」
僕は言わなきゃダメだと思った。言わなかったら後悔する。僕だけじゃなくて、先生もこのまま帰ったら、きっと後悔する。
先生は僕を、じっと見つめた。
「ニワトリさん。俺のワルツ、三回目だけど。飽きないの?」
「飽きないです。三百回聴いても、飽きないです」
先生は椅子に腰を下ろした。
「いいよ」
僕は先生のすぐそばに立って、先生の綺麗な横顔を見つめた。
天窓から、太陽の光がキラキラ輝いて入ってきた。先生は静かに目を閉じて、スタジオの高い天井を仰いだ。
先生。まるで、スポットライトに照らされてるみたいだ。
グランドピアノも、太陽も、僕も。みんなで先生を歓迎してる。
先生、大丈夫だよ。先生。先生……。
先生は大きく息を吸って、静かに吐いた。そして、鍵盤に長い指先をそっと乗せた。
——あんな乾いた音、二度と聴きたくない……——
奏でるメロディーに合わせて、体を揺らして。
切ない表情をして、慈しみに満ちた眼差しで。
先生はとても美しく、愛のワルツを弾いた。
——いつか連弾できるといいね?——
先生。二人で愛のワルツを完成させようね?
僕は、先生が奏でる愛のワルツも。先生の麗しい旋律も。
愛情深くて、あったかい先生のことも。
心の底から、大好きだよ。
「懐かしいな……」
愛のワルツを弾き終わった先生は、ちょっとだけ微笑んだ。
寂しそうに眉尻を下げて。いつもキリッとしている目を下に向けて。
「ルイ」
「はい……」
「やっぱり俺はどうしても、ピアノが大好きみたいだな……」
僕は涙が溢れて、先生を抱きしめた。先生に抱きしめて欲しいと思っていたのに、僕からぎゅっと抱きしめた。
先生。そんな表情、もうしないで。
グランドピアノだって、先生がまた触れてくれたって、愛のワルツを弾いてくれたって、絶対に喜んでるはずだよ?
「ルイ。もうスタジオ出ないと」
「はい……」
「スタジオで抱きしめるとか、反則だから」
そう言いながら、先生は僕を抱きしめた。二分もなかったかもしれない。愛のワルツくらいだったかもしれない。
決して長くはなかった。だけど、先生も僕も、お互いを強く抱きしめずにはいられなかった。
「ルイ」
「はい……」
僕の涙を、先生は長い親指で拭った。僕をじっと見つめている。
「このあと、どこに行きたい?」
甘くて低い声。僕も、じっと先生を見つめた。
「僕は……その……」
僕は唇を舐めた。言うのをためらった。言っていいのかわからなかった。
でも……。
「僕は、リョウ先生と……もっとくっつきたいです」
先生は前髪をかき上げた。いい匂いがした。僕は、猛烈に顔が赤くなるのを感じた。
「ルイ」
「はい……」
先生が僕のおでこに、自分のおでこをくっつけた。
「俺も……もっとくっつきたい」
先生と僕は、そのまま僕の家に向かった。何を話したらいいのかわからなくて、僕はまた、どうでもいいことを話してしまったと思う。
先生が僕の家にいる。僕のベッドに腰を下ろしている。
僕はキッチンで、薔薇のハーブティーを淹れた。ハーブティーを注いでる間も、先生にマグカップを差し出すときも、僕の心臓はずっとドキドキしていた。
「ルイの部屋。ルイを感じられていいね」
先生の視線は、ピンク色のポンポンがついたシャーペンに向いていた。
Wishでの連弾の話、しなきゃ。僕は先生の隣に腰を下ろした。
「あのピンク色のシャーペン、僕が大好きだったピアノの先生がくれたんです……」
「ふーん。男?」
そこ?
「ち、違います! 女性で、おっとりした先生だったんですけど……。実は、Wishの店長さんとご結婚されたことが、昨日わかったんです」
ハーブティーをすすっていた先生が、目を見開いた。
「僕も、すごく驚きました。こんな奇跡があるんだなって……」
世間は狭いという言い方もあるけど、僕はこれを、奇跡と呼びたいな。
「僕は、そこのピアノ教室にずっと通いたかったんです。でも、それをおっとりした先生に言えないまま辞めてしまって。何年間もずっとずっと、後悔してました」
先生はテーブルにマグカップを置いて、長い指先で僕の前髪を触った。
「ルイ。Wishで、俺と愛のワルツの連弾をして……店長の奥さんに聞かせてあげたい、ってところかな?」
先生は、いつもこうして僕の心を読んでくれる。
だから改めて言わなくても、もうひとつの理由も知っているかもしれない。
「理由は、それだけじゃないんです」
でも、僕は自分の言葉で先生に伝えたい。
「リョウ先生と一緒に、僕はグランドピアノで、愛のワルツで、いい思い出を作りたくて……」
先生が僕のおでこにキスをして、僕を強く抱き寄せた。
僕の鼓動がどんどん加速していく。
「さ、寂しい思い出を塗り替えるために……リョウ先生と僕が、もっともっと、一緒にピアノを……」
「ルイ。ありがとう」
ドキドキする。安心する。ゾクゾクする。癒される。
どっちだろう。僕にもわからない。
わからないけど……とっても幸せだ。
「ルイ」
「はい……」
「俺は、優しいルイが大好きだよ」
人を好きになるって、愛するって、こんなにたくさんの感情が溢れて、こんなに胸がいっぱいになって……。
「僕も……です……」
先生が長い指先で、僕の背中をなぞるように触ってくる。
「僕も、何?」
「ぼ、僕も、優しいリョウ先生が大好きです……」
先生は、甘くて低い声で、僕の耳元で囁いた。
「知ってるよ」
そのまま小さなベッドに、先生と僕は倒れ込んだ。
先生が僕にキスをして、僕は夢中で先生の広い背中に手を回した。先生が僕のTシャツをめくって、僕の身体のあちこちにキスをしてくる。
どうしよう。くすぐったい。
どうしよう。僕の知らない声が出る。
先生の長い前髪が僕の身体に触れて、先生の長い指先が僕の身体をつたって……。
僕は先生の綺麗な肌も、広い肩幅も、男らしい胸板も、目力のある目も、先生の吐息も、すごく近くで感じて。
「もっとして欲しい……?」
ドキドキで心臓が破裂しそうなのに、ずっとずっと続けて欲しくて。
先生の甘い問いかけに、僕は何度も頷いた。必死に何度も頷いた。
先生は、そんな僕を愛おしそうに見つめた。僕が初めて見る、先生の新しい表情だ。
「愛してるよ、ルイ」
「僕も、僕も、リョウ先生を愛してます……」
「知ってるよ……?」
先生。ピアノも恋愛も、僕は先生よりずっと経験が足りないけど。
僕、頑張って追いつくね?
先生と並んでいられるよう、一生懸命、追いつくね?
僕と同じ白のTシャツに、広い肩幅。先生は綺麗な目で僕を捉えると、嬉しそうに笑った。
先生、笑ってるや。先生の笑顔、可愛いな……。
僕はボディバックの紐を握りしめながら、先生のもとに走った。
先生はリュックを背負っていた。僕だとリュックが背中に乗ってるみたいになるけど、先生はそんなことがないな。
「ルイ」
甘くて低い声。僕を見下ろす、ちょっと上がった綺麗な二重瞼。
「こんにちは! リョウ先生!」
「今日はニワトリにならないんだ?」
僕をからかいながら、先生が優しく微笑んでいる。
どうしよう。
僕、先生とくっつきたくてたまらない。
抱きしめて欲しくてたまらない。
キスして欲しくてたまらない。
「ここからまた、移動するよ」
電車が混んでたら、先生とくっつける!
そう期待した僕だったけど、電車は混んでいても、ぎゅうぎゅうではなかった。
ちぇっ。ちょっと残念だな……くっつきたかったのに。
…………。
僕は電車のドアに、おでこをゴン!とぶつけた。
ぎゅうぎゅうじゃないのが残念とか!先生とくっつきたかったのにとか!僕ったら、何を考えてるんだ!
「ルイ。何さっきから興奮してんの?」
「こ、こ、興奮してません……!」
「ニワトリさん。降りるよ」
僕は胸をさすりながら、先生の隣をてくてくと歩いた。
先生と僕、普通にデートしてる。幸せだ。夢みたいだ。
僕は、先生の手を見つめた。大きな手。長い指。
先生。触って欲しい。先生。
——次はエッチで決まりだね!——
僕は歩きながら、両手で顔を覆った。
直人、やめて……。期待してる僕がいるから、余計にやめて……。
「ドアにおでこをぶつけたり、顔を隠したり、ニワトリさんは忙しそうだね?」
僕は先生を見上げた。先生が僕を見下ろしている。
ドクンドクンドクンドクンドクン————
ダメだ。僕、木曜日からずっとこうだ。僕って先生の言う通り、本当にエッチなのかもしれない……。
「着いたよ」
細長い箱のような形をした、白い建物。五階建てくらいだ。長方形の窓が、いくつもある。
お花を見に行くのかなと予想していたけど、ここ、何だろう?
「レンタルスタジオだよ」
先生は、僕の心を読んで教えてくれた。
「ここにはグランドピアノがある」
「え?」
「俺の家、電子ピアノだからね」
——Wishのグランドピアノに近づきもしないみたいだよ——
僕は再び、ボディバックの紐を握りしめた。
先生。僕と一緒なら、グランドピアノを弾いてくれるの……?
先生と僕は、階段で三階に上がった。
ライトブラウンの床に、グランドピアノがひとつ。窓から差し込む光が幻想的だ。三階から上は吹き抜けになっていて、すごく高い天井だった。
天窓もある。天窓からも光が入ってくる。夜はきっと、お月様が見えて綺麗だろうな。
先生は、スタジオの端にあった予備の椅子を持って来て、僕と隣同士で腰を下ろした。
「ルイ」
長い指先で鍵盤を撫でると、先生は静かに目を閉じた。
「あの発表会以来だよ。俺がグランドピアノに触れるのは……」
先生は愛のワルツを弾く前に、必ずこうして目を閉じる。天井を仰いで、何かを思い出すように。
——ウサギに空を飛べって言ってるようなもんだ——
先生。その子は、今でも先生のことが大好きで。
どこかできっと、ピアノを再開してるはずだよ?
僕だってこうして、ピアノに戻ってきたよ?だから先生と出会えたんだよ?
どうかもう、傷つかないで。
悲しまないで。先生。
「リョウ先生……」
ちょっと上がった綺麗な二重瞼を開けて、先生は僕を見つめた。
「ん?」
「僕は、リョウ先生がすごく好きです……」
先生は甘くて低い声で笑った。
「何だよ、急に」
「すみません……」
「ルイ。俺も好きだよ」
先生が大きな手で、僕の頭を撫でている。綺麗な目で、目力のある目で、僕を見つめている。
「リョウ先生……」
「ルイ……」
先生。先生。
僕は今、すごく今、先生とキスが…………。
「エッチなルイくん。ピアノをやるよ」
僕は椅子からずり落ちそうになった。先生が笑っている。
「リ、リョウ先生……!」
「ルイ。スタジオでするとか反則だから」
先生は左側の口角を上げて、どこか意地悪そうな表情で、目を細めて微笑んだ。
「家でゆっくりね。俺、止まらなくなるから」
「と、とまら……」
失神しそう。
僕はほっぺをぺちぺちと叩いて、先生が持って来てくれた譜面台の楽譜を見つめた。
愛のワルツ。先生が作り直してくれた連弾の楽譜。
集中しなきゃ!僕の気持ちも、身体のもぞもぞも、愛のワルツに乗せればいいんだ!
興奮なんかするもんか!告白されて、チューされて、次はエッチで決まりだとか!僕は、そんなことばかり考えてるわけじゃ……!
「ルイ。ゆっくりね」
「はい」
「じっくりね。俺についてこられる?」
「は、はい……」
「焦ったらダメだよ。俺、すごい時間をかけるからね……?」
僕は顔を真っ赤にして、先生を見た。
先生がお腹を抱えて、楽しそうに笑っている。絶対、わざと!
「エッチなルイくん。ピアノに集中しよう」
「エッッ……! もう、リョウ先生!」
先生は、スタジオを二時間借りてくれていた。指を広げて弾くコツを教えてもらいながら、僕はグランドピアノにたくさん触れた。
だけど……。
先生は少し鍵盤に触れた程度で、積極的ではないように感じた。
やっぱりどこか、思い出しちゃうのかな。悲しい気持ちが、蘇ってしまうのかな……。
「リョウ先生、あの……」
「ここ、いい雰囲気だから店長にも教えようかな。店長の奥さん、ピアノが好きなんだよ」
「あの……!」
「店長の奥さんの案なんだよ。Wishにグランドピアノを置いたの」
残り時間が十分程度になったところで、先生が予備の椅子を元の位置に片づけて、帰る支度を始めた。
僕の心は、ざわざわしていた。このまま帰っていいのだろうか。先生、ほとんど自分は弾いていないのに。
——俺は弾かないよ。弾いたことがない——
僕は拳を握りしめた。グランドピアノで、先生の愛のワルツが聴きたい。
グランドピアノだって、先生のことを待ってるはずだ。
「リョウ先生」
リュックを背負うとする先生のTシャツを、僕は後ろから引っ張った。先生が僕を見下ろしている。
「残りの時間で、リョウ先生の愛のワルツが聴きたいです」
先生がリュックを床に置いた。
「さっき少し弾いたけど」
「僕に教えるためじゃなくて、いつもみたいに……リョウ先生の愛のワルツが聴きたいんです」
僕は言わなきゃダメだと思った。言わなかったら後悔する。僕だけじゃなくて、先生もこのまま帰ったら、きっと後悔する。
先生は僕を、じっと見つめた。
「ニワトリさん。俺のワルツ、三回目だけど。飽きないの?」
「飽きないです。三百回聴いても、飽きないです」
先生は椅子に腰を下ろした。
「いいよ」
僕は先生のすぐそばに立って、先生の綺麗な横顔を見つめた。
天窓から、太陽の光がキラキラ輝いて入ってきた。先生は静かに目を閉じて、スタジオの高い天井を仰いだ。
先生。まるで、スポットライトに照らされてるみたいだ。
グランドピアノも、太陽も、僕も。みんなで先生を歓迎してる。
先生、大丈夫だよ。先生。先生……。
先生は大きく息を吸って、静かに吐いた。そして、鍵盤に長い指先をそっと乗せた。
——あんな乾いた音、二度と聴きたくない……——
奏でるメロディーに合わせて、体を揺らして。
切ない表情をして、慈しみに満ちた眼差しで。
先生はとても美しく、愛のワルツを弾いた。
——いつか連弾できるといいね?——
先生。二人で愛のワルツを完成させようね?
僕は、先生が奏でる愛のワルツも。先生の麗しい旋律も。
愛情深くて、あったかい先生のことも。
心の底から、大好きだよ。
「懐かしいな……」
愛のワルツを弾き終わった先生は、ちょっとだけ微笑んだ。
寂しそうに眉尻を下げて。いつもキリッとしている目を下に向けて。
「ルイ」
「はい……」
「やっぱり俺はどうしても、ピアノが大好きみたいだな……」
僕は涙が溢れて、先生を抱きしめた。先生に抱きしめて欲しいと思っていたのに、僕からぎゅっと抱きしめた。
先生。そんな表情、もうしないで。
グランドピアノだって、先生がまた触れてくれたって、愛のワルツを弾いてくれたって、絶対に喜んでるはずだよ?
「ルイ。もうスタジオ出ないと」
「はい……」
「スタジオで抱きしめるとか、反則だから」
そう言いながら、先生は僕を抱きしめた。二分もなかったかもしれない。愛のワルツくらいだったかもしれない。
決して長くはなかった。だけど、先生も僕も、お互いを強く抱きしめずにはいられなかった。
「ルイ」
「はい……」
僕の涙を、先生は長い親指で拭った。僕をじっと見つめている。
「このあと、どこに行きたい?」
甘くて低い声。僕も、じっと先生を見つめた。
「僕は……その……」
僕は唇を舐めた。言うのをためらった。言っていいのかわからなかった。
でも……。
「僕は、リョウ先生と……もっとくっつきたいです」
先生は前髪をかき上げた。いい匂いがした。僕は、猛烈に顔が赤くなるのを感じた。
「ルイ」
「はい……」
先生が僕のおでこに、自分のおでこをくっつけた。
「俺も……もっとくっつきたい」
先生と僕は、そのまま僕の家に向かった。何を話したらいいのかわからなくて、僕はまた、どうでもいいことを話してしまったと思う。
先生が僕の家にいる。僕のベッドに腰を下ろしている。
僕はキッチンで、薔薇のハーブティーを淹れた。ハーブティーを注いでる間も、先生にマグカップを差し出すときも、僕の心臓はずっとドキドキしていた。
「ルイの部屋。ルイを感じられていいね」
先生の視線は、ピンク色のポンポンがついたシャーペンに向いていた。
Wishでの連弾の話、しなきゃ。僕は先生の隣に腰を下ろした。
「あのピンク色のシャーペン、僕が大好きだったピアノの先生がくれたんです……」
「ふーん。男?」
そこ?
「ち、違います! 女性で、おっとりした先生だったんですけど……。実は、Wishの店長さんとご結婚されたことが、昨日わかったんです」
ハーブティーをすすっていた先生が、目を見開いた。
「僕も、すごく驚きました。こんな奇跡があるんだなって……」
世間は狭いという言い方もあるけど、僕はこれを、奇跡と呼びたいな。
「僕は、そこのピアノ教室にずっと通いたかったんです。でも、それをおっとりした先生に言えないまま辞めてしまって。何年間もずっとずっと、後悔してました」
先生はテーブルにマグカップを置いて、長い指先で僕の前髪を触った。
「ルイ。Wishで、俺と愛のワルツの連弾をして……店長の奥さんに聞かせてあげたい、ってところかな?」
先生は、いつもこうして僕の心を読んでくれる。
だから改めて言わなくても、もうひとつの理由も知っているかもしれない。
「理由は、それだけじゃないんです」
でも、僕は自分の言葉で先生に伝えたい。
「リョウ先生と一緒に、僕はグランドピアノで、愛のワルツで、いい思い出を作りたくて……」
先生が僕のおでこにキスをして、僕を強く抱き寄せた。
僕の鼓動がどんどん加速していく。
「さ、寂しい思い出を塗り替えるために……リョウ先生と僕が、もっともっと、一緒にピアノを……」
「ルイ。ありがとう」
ドキドキする。安心する。ゾクゾクする。癒される。
どっちだろう。僕にもわからない。
わからないけど……とっても幸せだ。
「ルイ」
「はい……」
「俺は、優しいルイが大好きだよ」
人を好きになるって、愛するって、こんなにたくさんの感情が溢れて、こんなに胸がいっぱいになって……。
「僕も……です……」
先生が長い指先で、僕の背中をなぞるように触ってくる。
「僕も、何?」
「ぼ、僕も、優しいリョウ先生が大好きです……」
先生は、甘くて低い声で、僕の耳元で囁いた。
「知ってるよ」
そのまま小さなベッドに、先生と僕は倒れ込んだ。
先生が僕にキスをして、僕は夢中で先生の広い背中に手を回した。先生が僕のTシャツをめくって、僕の身体のあちこちにキスをしてくる。
どうしよう。くすぐったい。
どうしよう。僕の知らない声が出る。
先生の長い前髪が僕の身体に触れて、先生の長い指先が僕の身体をつたって……。
僕は先生の綺麗な肌も、広い肩幅も、男らしい胸板も、目力のある目も、先生の吐息も、すごく近くで感じて。
「もっとして欲しい……?」
ドキドキで心臓が破裂しそうなのに、ずっとずっと続けて欲しくて。
先生の甘い問いかけに、僕は何度も頷いた。必死に何度も頷いた。
先生は、そんな僕を愛おしそうに見つめた。僕が初めて見る、先生の新しい表情だ。
「愛してるよ、ルイ」
「僕も、僕も、リョウ先生を愛してます……」
「知ってるよ……?」
先生。ピアノも恋愛も、僕は先生よりずっと経験が足りないけど。
僕、頑張って追いつくね?
先生と並んでいられるよう、一生懸命、追いつくね?
