白のTシャツで待ち合わせ場所に向かった僕は、改札の前に立つ先生を見つけた。

 僕と同じ白のTシャツに、広い肩幅。先生は綺麗な目で僕を捉えると、嬉しそうに笑った。

 先生、笑ってるや。先生の笑顔、可愛いな……。

 僕はボディバックの紐を握りしめながら、先生のもとに走った。

 先生はリュックを背負っていた。僕だとリュックが背中に乗ってるみたいになるけど、先生はそんなことがないな。

「ルイ」

 甘くて低い声。僕を見下ろす、ちょっと上がった綺麗な二重瞼。

「こんにちは! リョウ先生!」
「今日はニワトリにならないんだ?」

 僕をからかいながら、先生が優しく微笑んでいる。

 どうしよう。

 僕、先生とくっつきたくてたまらない。

 抱きしめて欲しくてたまらない。

 キスして欲しくてたまらない。

「ここからまた、移動するよ」

 電車が混んでたら、先生とくっつける!

 そう期待した僕だったけど、電車は混んでいても、ぎゅうぎゅうではなかった。

 ちぇっ。ちょっと残念だな……くっつきたかったのに。

 …………。

 僕は電車のドアに、おでこをゴン!とぶつけた。

 ぎゅうぎゅうじゃないのが残念とか!先生とくっつきたかったのにとか!僕ったら、何を考えてるんだ!

「ルイ。何さっきから興奮してんの?」
「こ、こ、興奮してません……!」
「ニワトリさん。降りるよ」

 僕は胸をさすりながら、先生の隣をてくてくと歩いた。

 先生と僕、普通にデートしてる。幸せだ。夢みたいだ。

 僕は、先生の手を見つめた。大きな手。長い指。

 先生。触って欲しい。先生。

 ——次はエッチで決まりだね!——

 僕は歩きながら、両手で顔を覆った。

 直人、やめて……。期待してる僕がいるから、余計にやめて……。

「ドアにおでこをぶつけたり、顔を隠したり、ニワトリさんは忙しそうだね?」

 僕は先生を見上げた。先生が僕を見下ろしている。

 ドクンドクンドクンドクンドクン————

 ダメだ。僕、木曜日からずっとこうだ。僕って先生の言う通り、本当にエッチなのかもしれない……。

「着いたよ」

 細長い箱のような形をした、白い建物。五階建てくらいだ。長方形の窓が、いくつもある。

 お花を見に行くのかなと予想していたけど、ここ、何だろう?

「レンタルスタジオだよ」

 先生は、僕の心を読んで教えてくれた。

「ここにはグランドピアノがある」
「え?」
「俺の家、電子ピアノだからね」

 ——Wishのグランドピアノに近づきもしないみたいだよ——

 僕は再び、ボディバックの紐を握りしめた。

 先生。僕と一緒なら、グランドピアノを弾いてくれるの……? 


 先生と僕は、階段で三階に上がった。

 ライトブラウンの床に、グランドピアノがひとつ。窓から差し込む光が幻想的だ。三階から上は吹き抜けになっていて、すごく高い天井だった。

 天窓もある。天窓からも光が入ってくる。夜はきっと、お月様が見えて綺麗だろうな。

 先生は、スタジオの端にあった予備の椅子を持って来て、僕と隣同士で腰を下ろした。

「ルイ」
 
 長い指先で鍵盤を撫でると、先生は静かに目を閉じた。

「あの発表会以来だよ。俺がグランドピアノに触れるのは……」

 先生は愛のワルツを弾く前に、必ずこうして目を閉じる。天井を仰いで、何かを思い出すように。

 ——ウサギに空を飛べって言ってるようなもんだ——

 先生。その子は、今でも先生のことが大好きで。

 どこかできっと、ピアノを再開してるはずだよ?

 僕だってこうして、ピアノに戻ってきたよ?だから先生と出会えたんだよ?

 どうかもう、傷つかないで。

 悲しまないで。先生。

「リョウ先生……」

 ちょっと上がった綺麗な二重瞼を開けて、先生は僕を見つめた。

「ん?」
「僕は、リョウ先生がすごく好きです……」

 先生は甘くて低い声で笑った。

「何だよ、急に」
「すみません……」
「ルイ。俺も好きだよ」

 先生が大きな手で、僕の頭を撫でている。綺麗な目で、目力のある目で、僕を見つめている。

「リョウ先生……」
「ルイ……」

 先生。先生。

 僕は今、すごく今、先生とキスが…………。

「エッチなルイくん。ピアノをやるよ」

 僕は椅子からずり落ちそうになった。先生が笑っている。

「リ、リョウ先生……!」
「ルイ。スタジオでするとか反則だから」

 先生は左側の口角を上げて、どこか意地悪そうな表情で、目を細めて微笑んだ。

「家でゆっくりね。俺、止まらなくなるから」
「と、とまら……」

 失神しそう。

 僕はほっぺをぺちぺちと叩いて、先生が持って来てくれた譜面台の楽譜を見つめた。

 愛のワルツ。先生が作り直してくれた連弾の楽譜。

 集中しなきゃ!僕の気持ちも、身体のもぞもぞも、愛のワルツに乗せればいいんだ!

 興奮なんかするもんか!告白されて、チューされて、次はエッチで決まりだとか!僕は、そんなことばかり考えてるわけじゃ……!

「ルイ。ゆっくりね」
「はい」
「じっくりね。俺についてこられる?」
「は、はい……」
「焦ったらダメだよ。俺、すごい時間をかけるからね……?」

 僕は顔を真っ赤にして、先生を見た。

 先生がお腹を抱えて、楽しそうに笑っている。絶対、わざと!

「エッチなルイくん。ピアノに集中しよう」
「エッッ……! もう、リョウ先生!」 

 先生は、スタジオを二時間借りてくれていた。指を広げて弾くコツを教えてもらいながら、僕はグランドピアノにたくさん触れた。

 だけど……。

 先生は少し鍵盤に触れた程度で、積極的ではないように感じた。

 やっぱりどこか、思い出しちゃうのかな。悲しい気持ちが、蘇ってしまうのかな……。

「リョウ先生、あの……」
「ここ、いい雰囲気だから店長にも教えようかな。店長の奥さん、ピアノが好きなんだよ」
「あの……!」
「店長の奥さんの案なんだよ。Wishにグランドピアノを置いたの」

 残り時間が十分程度になったところで、先生が予備の椅子を元の位置に片づけて、帰る支度を始めた。

 僕の心は、ざわざわしていた。このまま帰っていいのだろうか。先生、ほとんど自分は弾いていないのに。

 ——俺は弾かないよ。弾いたことがない——

 僕は拳を握りしめた。グランドピアノで、先生の愛のワルツが聴きたい。

 グランドピアノだって、先生のことを待ってるはずだ。

「リョウ先生」

 リュックを背負うとする先生のTシャツを、僕は後ろから引っ張った。先生が僕を見下ろしている。

「残りの時間で、リョウ先生の愛のワルツが聴きたいです」

 先生がリュックを床に置いた。

「さっき少し弾いたけど」
「僕に教えるためじゃなくて、いつもみたいに……リョウ先生の愛のワルツが聴きたいんです」

 僕は言わなきゃダメだと思った。言わなかったら後悔する。僕だけじゃなくて、先生もこのまま帰ったら、きっと後悔する。

 先生は僕を、じっと見つめた。

「ニワトリさん。俺のワルツ、三回目だけど。飽きないの?」
「飽きないです。三百回聴いても、飽きないです」

 先生は椅子に腰を下ろした。

「いいよ」

 僕は先生のすぐそばに立って、先生の綺麗な横顔を見つめた。

 天窓から、太陽の光がキラキラ輝いて入ってきた。先生は静かに目を閉じて、スタジオの高い天井を仰いだ。

 先生。まるで、スポットライトに照らされてるみたいだ。

 グランドピアノも、太陽も、僕も。みんなで先生を歓迎してる。

 先生、大丈夫だよ。先生。先生……。

 先生は大きく息を吸って、静かに吐いた。そして、鍵盤に長い指先をそっと乗せた。

 ——あんな乾いた音、二度と聴きたくない……——

 奏でるメロディーに合わせて、体を揺らして。

 切ない表情をして、(いつく)しみに満ちた眼差しで。

 先生はとても美しく、愛のワルツを弾いた。

 ——いつか連弾できるといいね?——

 先生。二人で愛のワルツを完成させようね?
 
 僕は、先生が奏でる愛のワルツも。先生の麗しい旋律も。

 愛情深くて、あったかい先生のことも。

 心の底から、大好きだよ。

「懐かしいな……」

 愛のワルツを弾き終わった先生は、ちょっとだけ微笑んだ。

 寂しそうに眉尻を下げて。いつもキリッとしている目を下に向けて。

「ルイ」
「はい……」
「やっぱり俺はどうしても、ピアノが大好きみたいだな……」

 僕は涙が溢れて、先生を抱きしめた。先生に抱きしめて欲しいと思っていたのに、僕からぎゅっと抱きしめた。

 先生。そんな表情、もうしないで。

 グランドピアノだって、先生がまた触れてくれたって、愛のワルツを弾いてくれたって、絶対に喜んでるはずだよ?

「ルイ。もうスタジオ出ないと」
「はい……」
「スタジオで抱きしめるとか、反則だから」

 そう言いながら、先生は僕を抱きしめた。二分もなかったかもしれない。愛のワルツくらいだったかもしれない。

 決して長くはなかった。だけど、先生も僕も、お互いを強く抱きしめずにはいられなかった。
 
「ルイ」
「はい……」

 僕の涙を、先生は長い親指で拭った。僕をじっと見つめている。

「このあと、どこに行きたい?」

 甘くて低い声。僕も、じっと先生を見つめた。

「僕は……その……」

 僕は唇を舐めた。言うのをためらった。言っていいのかわからなかった。

 でも……。

「僕は、リョウ先生と……もっとくっつきたいです」

 先生は前髪をかき上げた。いい匂いがした。僕は、猛烈に顔が赤くなるのを感じた。

「ルイ」
「はい……」

 先生が僕のおでこに、自分のおでこをくっつけた。

「俺も……もっとくっつきたい」



 先生と僕は、そのまま僕の家に向かった。何を話したらいいのかわからなくて、僕はまた、どうでもいいことを話してしまったと思う。

 先生が僕の家にいる。僕のベッドに腰を下ろしている。

 僕はキッチンで、薔薇のハーブティーを淹れた。ハーブティーを注いでる間も、先生にマグカップを差し出すときも、僕の心臓はずっとドキドキしていた。

「ルイの部屋。ルイを感じられていいね」

 先生の視線は、ピンク色のポンポンがついたシャーペンに向いていた。

 Wishでの連弾の話、しなきゃ。僕は先生の隣に腰を下ろした。

「あのピンク色のシャーペン、僕が大好きだったピアノの先生がくれたんです……」
「ふーん。男?」

 そこ?

「ち、違います! 女性で、おっとりした先生だったんですけど……。実は、Wishの店長さんとご結婚されたことが、昨日わかったんです」

 ハーブティーをすすっていた先生が、目を見開いた。

「僕も、すごく驚きました。こんな奇跡があるんだなって……」

 世間は狭いという言い方もあるけど、僕はこれを、奇跡と呼びたいな。

「僕は、そこのピアノ教室にずっと通いたかったんです。でも、それをおっとりした先生に言えないまま辞めてしまって。何年間もずっとずっと、後悔してました」

 先生はテーブルにマグカップを置いて、長い指先で僕の前髪を触った。

「ルイ。Wishで、俺と愛のワルツの連弾をして……店長の奥さんに聞かせてあげたい、ってところかな?」

 先生は、いつもこうして僕の心を読んでくれる。

 だから改めて言わなくても、もうひとつの理由も知っているかもしれない。

「理由は、それだけじゃないんです」

 でも、僕は自分の言葉で先生に伝えたい。

「リョウ先生と一緒に、僕はグランドピアノで、愛のワルツで、いい思い出を作りたくて……」

 先生が僕のおでこにキスをして、僕を強く抱き寄せた。

 僕の鼓動がどんどん加速していく。

「さ、寂しい思い出を塗り替えるために……リョウ先生と僕が、もっともっと、一緒にピアノを……」
「ルイ。ありがとう」

 ドキドキする。安心する。ゾクゾクする。癒される。
 
 どっちだろう。僕にもわからない。

 わからないけど……とっても幸せだ。

「ルイ」
「はい……」
「俺は、優しいルイが大好きだよ」

 人を好きになるって、愛するって、こんなにたくさんの感情が溢れて、こんなに胸がいっぱいになって……。

「僕も……です……」

 先生が長い指先で、僕の背中をなぞるように触ってくる。

「僕も、何?」
「ぼ、僕も、優しいリョウ先生が大好きです……」

 先生は、甘くて低い声で、僕の耳元で囁いた。

「知ってるよ」

 そのまま小さなベッドに、先生と僕は倒れ込んだ。

 先生が僕にキスをして、僕は夢中で先生の広い背中に手を回した。先生が僕のTシャツをめくって、僕の身体のあちこちにキスをしてくる。

 どうしよう。くすぐったい。

 どうしよう。僕の知らない声が出る。

 先生の長い前髪が僕の身体に触れて、先生の長い指先が僕の身体をつたって……。

 僕は先生の綺麗な肌も、広い肩幅も、男らしい胸板も、目力のある目も、先生の吐息も、すごく近くで感じて。

「もっとして欲しい……?」

 ドキドキで心臓が破裂しそうなのに、ずっとずっと続けて欲しくて。

 先生の甘い問いかけに、僕は何度も頷いた。必死に何度も頷いた。

 先生は、そんな僕を愛おしそうに見つめた。僕が初めて見る、先生の新しい表情だ。

「愛してるよ、ルイ」
「僕も、僕も、リョウ先生を愛してます……」
「知ってるよ……?」


 先生。ピアノも恋愛も、僕は先生よりずっと経験が足りないけど。

 僕、頑張って追いつくね?

 先生と並んでいられるよう、一生懸命、追いつくね?