「ルイちゃん、おめでとう!イケメン先生からの告白って、どんなふうにされたの?」
「ど、どんなって……」
——好きだからだよ。ルイ——
僕は突っ伏して、ぺしぺし!と学食のテーブルを両手で叩いた。思い出しちゃう、思い出しちゃう!
先生とのキス。甘くて優しいキス。深くて激しいキス。先生。先生。
会いたい。昨日会ったのに、もう会いたい。
僕は唇を指先で触った。僕は初めてだったけど、先生はそんなことないんだろうな。僕よりもずっと大人で、ピアノも恋愛も、僕とは経験値が異なるのに。
そんな先生が、僕を好きだなんて……。
「ほほお。さては、チューでもされたかな?」
僕は顔を上げた。直人が口のまわりにミートソースをくっつけて、ニヤニヤしている……。
「ど、どうして……?」
「ルイちゃん、顔にそう書いてあるよ!」
僕ってどれだけわかりやすいんだろうか。僕はほっぺをぺちぺちと叩いた。
「僕ね、いつかWishで先生と連弾できたらって思ってて……」
連弾でいい思い出を作ったら、先生の心の傷も癒される気がして。
「それが叶ったら、店長が泣いて喜びそうだけど。イケメン先生は、Wishのグランドピアノに近づきもしないみたいだよ」
「え?」
「店長が言ってた。俺たちがステージで食事してたときも、チラッと見ただけだったよな?」
——俺は弾かないよ。弾いたことがない——
悲しみのワルツが原因で、先生はグランドピアノに触れること自体、嫌になってしまったのかな……。
「僕ね、ピアノの先生が何人か変わったんだけど。最後の女の先生が、すごく苦手で……」
「ルイちゃんがピアノを辞めたのは、それが理由だったんだ?」
「うん……」
直人は腕を組んで、目線を上に向けた。
「俺も合わないサッカーコーチがいたなあ。チームメイトもだいぶ振り回されて、苦労したよ」
おおらかな直人がそう思うなんて、よっぽどだったんだろうな。
「もう引っ越すからいっかなんて思いつつ、悶々として、帰りに公園に寄ってさ。ベンチに座って、しばらくぼーっとして……」
「直人、大変だったね」
「ルイちゃんもね?」
「実はリョウ先生も、ピアノの先生にトラウマがあってね……」
ピアノの先生には、いい先生もたくさんいる。僕が言えたことではないけど、一部の悪い先生のせいで、ピアノから離れてしまう人がいるなんて……。
やっぱり、悲しいな。
「ルイちゃんとイケメン先生。その頃から、二人の縁は始まってたのかもよ?」
「え?」
「二人とも、つらかったと思うけどね」
前向きな直人の言う通りだ。
もし、あの女の先生が素晴らしい人だったら……僕はピアノを辞めてなくて、こうして先生とは出会えてなかったかもしれない。
もし、先生を傷つけた傲慢な経営者が、人格者だったら……先生と僕は、恋に落ちてなかったかもしれないんだ。
「グランドピアノを置いたの、店長の奥さんの案らしくて。奥さんも昔、ピアノの先生だったらしいよ」
「それで、Wishにはグランドピアノがあるんだね?」
直人は頷いて、僕のほっぺをツンツンつついた。
「店名も奥さんが決めたんだってさ。叶えられる夢や願いは、みんな必ずあるからって」
僕の手は大きくならなかった。指も長くならなかった。何度も何度も祈ったけど、僕のお願いは届かなかった。
でも。
夢のような恋愛を望んでいた僕は、先生と出会えた。全部が全部思うようにはいかなくても、遠回りだったとしても、叶えられることだってあるんだ。
店長さんの奥さん、素敵な人だな……。
「直人。僕、今日Wishに行ってもいい?」
「俺はバイトだから、あんまり話せないけど」
「店長さんにね、連弾のことを相談してみようかなって……」
直人は、僕が渡した紙ナプキンで口のまわりを拭いた。
「ピュアなルイちゃん。次はいつ、イケメン先生に会うの?」
「明日会う予定だよ」
「いいねえ! 告白されて、チューされて……次はエッチで決まりだね!」
直人の大きな声に、まわりの学生が同時に僕たちを見た。僕は両手で顔を覆った。
大学のあと、僕と直人はWishに向かった。店の扉を開けると、バーカウンターの向こうから、店長さんが手を振って迎えてくれた。
「ルイちゃんが、店長と話したいらしいですよ!」
「おお、どうした?」
まだ、お客さんはまばらだ。これから混むだろうから、すぐに話したほうがよさそう。
僕はカウンターに両手を置いて、もじもじさせながら話を切り出した。
「店長さん。僕、リョウ先生と連弾の練習をしてて……」
先生と僕のこと、口を滑らせないように気を付けなきゃ。
先生と店長さんが親しいのは確かだ。でも、先生がそうだってことを、店長さんが知らなかったら……。先生に迷惑がかかってしまう。
「連弾って、ひょっとして……?」
「はい。愛のワルツ……ワルツの十五番です」
店長さんが口に手をあてて、上を向いている。ちょっと泣きそうだ。
「店長さん……?」
「ごめんねえ……。年取ると、涙腺が弱くなって」
「店長、まだ若いじゃないっすか! 店長が年取ってたら、俺とルイちゃん赤ちゃんになっちゃいますよ!」
直人の突っ込みに店長さんが笑って、僕も笑った。
「僕がもっと上手になったら、Wishのグランドピアノで、リョウ先生と連弾してもいいですか?」
先生にもっと、ピアノを好きになって欲しい。またグランドピアノに触れて欲しい。
先生の寂しそうな表情、ときどき思い出してしまって。
「もちろん! リョウがまた、あの曲を弾くなんてね」
お客さんが扉を開けて入ってきて、直人が対応している。僕、このまま話してていいのかな。
「リョウは昔、最低なピアノ教師に出会ってしまってね。この話、もう聞いたかな?」
「はい……」
店長さんはため息をついて、眉をひそめた。
「アイツ、優しいから。小さい子が手首に怪我をして、それでも自分に『大好き』って言って。『下手で、ごめんね?』って謝ってきた姿が、あまりにもショックだったみたいで。リョウは高校時代、一回も鍵盤に触れてなかったと思うよ」
先生も大学に入ってから、ピアノを再開したんだ。僕も同じ状況だったら、ピアノを続ける気にはなれなかっただろうな。
「僕も、最後のピアノの先生が苦手だったんです。それで、ピアノから何年も離れてしまって……」
「子供にトラウマを植え付ける、悪い大人もいるからね」
常連さんらしき人に店長さんが手を振って、ジョッキにビールを注いでいる。
「妻は昔、ピアノの先生をしててさ。可愛い男の子の生徒さんがいたらしいんだけど、親御さんが、ちょっと強引っていうのかな? その子のことが忘れられないって、今でもよく話してるよ」
——ルイが上達してるとは思えないのよ——
母さんは、僕が男の人と付き合ってるって知ったら、ショックを受けるだろうな。先生がカッコよくても、どんなに優しくて包容力があっても、父さんも兄さんも、唖然とするかもしれない。
——男の子も、女の子も、みーんな葉山くんのことが大好きになるよ!——
でも、僕には心の中に味方がいる。直人だってそうだ。先生だってそうだ。贅沢にあれこれ求めて、悩んだりしたらダメだ。
「僕、大好きなピアノの先生がいたんです。おっとりしてて、優しくて……」
「おっとりした先生も、ルイちゃんのことが大好きだっただろうね」
ピンク色のポンポンがついたシャープペンシル。僕は、大切にまだ持っている。
でも、目にすると切なくて、つらくなるから。
公園で、湯飲みが入った紙袋にメッセージを書いたあの日。あれからずっと、実家でも、一人暮らしの家でも、シャーペンは箱の中に入れたままだ。
「その先生が僕に、ピンク色のポンポンがついたシャーペンをくれたんです。僕、それが宝物で……」
常連さんにビールを渡すと、店長さんは驚いた表情で僕を見た。
「ピンク色の……そう……。ルイちゃん、苗字は何だっけ?」
「すみません。僕、お伝えしてなかったですね。葉山です」
店長さんが硬直している。
「ルイちゃん。地元……ここじゃないよね?」
「はい」
「おっとりした先生、レッスンのときにチョコチップクッキーとか、紅茶を出してくれなかった?」
僕は久しぶりに、身体中がしゅわしゅわするのを感じた。しゅわしゅわを通り越して、ぱちぱちキラキラ弾けてるみたいだ。
「は、はい! 僕、チョコチップクッキーが大好きで……!」
「ピンク色のポンポンがついたシャーペン、いつもルイちゃん褒めてたんだよね!?」
唾を飲み込んで、僕は大きく頷いた。恋とは違うドキドキだ。もしかして、もしかして……!
「そうです! ポンポンが揺れてて可愛いって!」
「俺の妻だ……信じられない! こんな偶然があるんだ!」
おっとりした先生。僕が大好きだった先生。
——可愛いものは、可愛い。カッコいいものは、カッコいい。素直にそう言える、大人になってね?——
僕の味方でいてくれた先生。
「え? 二人とも泣いてる……ひょっとして俺、いいところ聞き逃してる?」
接客を終えた直人が、カウンターに戻ってきた。
「直人……僕はそう思うよ?」
「直人……俺もその通りだと思うよ?」
「だろうっ!? いや、ちょっと! 俺にも聞かせて下さいよ!」
僕と店長さんは涙ぐみながら笑って、直人が両手で、僕と店長さんの顔を交互にあおいできた。
「連弾の日、妻も呼ぶから聞かせてあげて。ずーっと葉山くんのことを……ルイちゃんのことを、気にかけてたから!」
「僕、練習頑張ります! 奥さんによろしくお伝えください!」
「二人とも……? そろそろ教えて?」
三人で一緒に笑った。僕の身体は星屑みたいに、ぱちぱちキラキラ弾けていた。
Wishから帰った僕は、ヘッドフォンをつけて練習を始めた。
おっとりした先生。会いたい。僕ね、すごくカッコいい恋人ができたんだよ?その人と連弾をするんだよ?
あのときはごめんなさいって、ちゃんと目を見て謝るんだ。それから、どうもありがとうって、たくさんお礼を言うんだ。
僕は、ピンク色のポンポンがついたシャーペンをピアノの上に乗せた。これからたくさん使おう。
先生にも、今日のことを話そう……!
まるで、僕の心を読み取ったかのように、スマホが振動した。先生からの電話だ。
僕は胸をさすって、ベッドに正座した。先生が僕を好きだなんて、まだちょっと信じられないや。
「こ、こ、こんばんは!」
「ニワトリさん、こんばんは」
僕はスマホをぽいっとベッドに置いて、両手で顔を覆った。僕をからかう声も、いい声!甘くて低くて、いい声!先生、最高です!
「ルイ? もしもし?」
「あ、すみません。こうふ……いえ、ちょっと……」
「明日、どこか行きたいところある?」
僕は先生と一緒なら、どこでも幸せなんだけど。先生がよく触ってくる前髪を、僕はぺたぺたと撫でた。
「前回は、僕が好きなところに出かけたので。明日は、先生が好きなところでどうでしょうか?」
「俺も花が好きだからね。フラワーガーデン、俺も楽しんでたよ」
「そっか!」
今度フラワーガーデンに行ったら、先生と写真をたくさん撮りたいな。何度も訪れて、ケーキも全種類を制覇したいな。
…………。
あ、あれ!?
「す、すみません! そっかとか、標準語を使ってしまいました!」
「別にいいよ。俺たち、付き合ってるし」
僕は正座したまま、ころんっと横に転がった。さらっとそういうこと言うの、反則です……先生。
「いいところがあった。この間と同じ改札前に、同じ時間でいい?」
「はい……」
「ルイ。どこに行くか、聞かなくていいの?」
聞いても教えてくれないくせに。だけど、顔を赤くして喜んでる僕がいる……。
僕ったら、僕ったら……!
僕は、スマホを持つ手とは反対の手を、太ももの間に挟んだ。
「教えてくれるんですか……?」
「『教えて、リョウ先生』って言ったらね」
「教えて……リョウ先生?」
ややあって、先生が言った。
「明日のお楽しみにしよう。おやすみ、ルイ」
結局、教えてくれなかった。
だけど、それをゾクゾクしながら喜んでる僕がいる。
…………。
僕ったら、僕ったら、本当に……!
僕は枕に顔をうずめた。いつものように、電話を切ったあと先生からメッセージが届いて。僕は片目をつぶって、小指でちょんとタップした。
『ルイ。言い忘れてた。昨日の続き、明日期待してるよ?』
僕は眠るまでに、羊を数百匹数えた。世界中の羊を僕の頭に呼び寄せないと、僕は永遠と眠れないようだ。
「ど、どんなって……」
——好きだからだよ。ルイ——
僕は突っ伏して、ぺしぺし!と学食のテーブルを両手で叩いた。思い出しちゃう、思い出しちゃう!
先生とのキス。甘くて優しいキス。深くて激しいキス。先生。先生。
会いたい。昨日会ったのに、もう会いたい。
僕は唇を指先で触った。僕は初めてだったけど、先生はそんなことないんだろうな。僕よりもずっと大人で、ピアノも恋愛も、僕とは経験値が異なるのに。
そんな先生が、僕を好きだなんて……。
「ほほお。さては、チューでもされたかな?」
僕は顔を上げた。直人が口のまわりにミートソースをくっつけて、ニヤニヤしている……。
「ど、どうして……?」
「ルイちゃん、顔にそう書いてあるよ!」
僕ってどれだけわかりやすいんだろうか。僕はほっぺをぺちぺちと叩いた。
「僕ね、いつかWishで先生と連弾できたらって思ってて……」
連弾でいい思い出を作ったら、先生の心の傷も癒される気がして。
「それが叶ったら、店長が泣いて喜びそうだけど。イケメン先生は、Wishのグランドピアノに近づきもしないみたいだよ」
「え?」
「店長が言ってた。俺たちがステージで食事してたときも、チラッと見ただけだったよな?」
——俺は弾かないよ。弾いたことがない——
悲しみのワルツが原因で、先生はグランドピアノに触れること自体、嫌になってしまったのかな……。
「僕ね、ピアノの先生が何人か変わったんだけど。最後の女の先生が、すごく苦手で……」
「ルイちゃんがピアノを辞めたのは、それが理由だったんだ?」
「うん……」
直人は腕を組んで、目線を上に向けた。
「俺も合わないサッカーコーチがいたなあ。チームメイトもだいぶ振り回されて、苦労したよ」
おおらかな直人がそう思うなんて、よっぽどだったんだろうな。
「もう引っ越すからいっかなんて思いつつ、悶々として、帰りに公園に寄ってさ。ベンチに座って、しばらくぼーっとして……」
「直人、大変だったね」
「ルイちゃんもね?」
「実はリョウ先生も、ピアノの先生にトラウマがあってね……」
ピアノの先生には、いい先生もたくさんいる。僕が言えたことではないけど、一部の悪い先生のせいで、ピアノから離れてしまう人がいるなんて……。
やっぱり、悲しいな。
「ルイちゃんとイケメン先生。その頃から、二人の縁は始まってたのかもよ?」
「え?」
「二人とも、つらかったと思うけどね」
前向きな直人の言う通りだ。
もし、あの女の先生が素晴らしい人だったら……僕はピアノを辞めてなくて、こうして先生とは出会えてなかったかもしれない。
もし、先生を傷つけた傲慢な経営者が、人格者だったら……先生と僕は、恋に落ちてなかったかもしれないんだ。
「グランドピアノを置いたの、店長の奥さんの案らしくて。奥さんも昔、ピアノの先生だったらしいよ」
「それで、Wishにはグランドピアノがあるんだね?」
直人は頷いて、僕のほっぺをツンツンつついた。
「店名も奥さんが決めたんだってさ。叶えられる夢や願いは、みんな必ずあるからって」
僕の手は大きくならなかった。指も長くならなかった。何度も何度も祈ったけど、僕のお願いは届かなかった。
でも。
夢のような恋愛を望んでいた僕は、先生と出会えた。全部が全部思うようにはいかなくても、遠回りだったとしても、叶えられることだってあるんだ。
店長さんの奥さん、素敵な人だな……。
「直人。僕、今日Wishに行ってもいい?」
「俺はバイトだから、あんまり話せないけど」
「店長さんにね、連弾のことを相談してみようかなって……」
直人は、僕が渡した紙ナプキンで口のまわりを拭いた。
「ピュアなルイちゃん。次はいつ、イケメン先生に会うの?」
「明日会う予定だよ」
「いいねえ! 告白されて、チューされて……次はエッチで決まりだね!」
直人の大きな声に、まわりの学生が同時に僕たちを見た。僕は両手で顔を覆った。
大学のあと、僕と直人はWishに向かった。店の扉を開けると、バーカウンターの向こうから、店長さんが手を振って迎えてくれた。
「ルイちゃんが、店長と話したいらしいですよ!」
「おお、どうした?」
まだ、お客さんはまばらだ。これから混むだろうから、すぐに話したほうがよさそう。
僕はカウンターに両手を置いて、もじもじさせながら話を切り出した。
「店長さん。僕、リョウ先生と連弾の練習をしてて……」
先生と僕のこと、口を滑らせないように気を付けなきゃ。
先生と店長さんが親しいのは確かだ。でも、先生がそうだってことを、店長さんが知らなかったら……。先生に迷惑がかかってしまう。
「連弾って、ひょっとして……?」
「はい。愛のワルツ……ワルツの十五番です」
店長さんが口に手をあてて、上を向いている。ちょっと泣きそうだ。
「店長さん……?」
「ごめんねえ……。年取ると、涙腺が弱くなって」
「店長、まだ若いじゃないっすか! 店長が年取ってたら、俺とルイちゃん赤ちゃんになっちゃいますよ!」
直人の突っ込みに店長さんが笑って、僕も笑った。
「僕がもっと上手になったら、Wishのグランドピアノで、リョウ先生と連弾してもいいですか?」
先生にもっと、ピアノを好きになって欲しい。またグランドピアノに触れて欲しい。
先生の寂しそうな表情、ときどき思い出してしまって。
「もちろん! リョウがまた、あの曲を弾くなんてね」
お客さんが扉を開けて入ってきて、直人が対応している。僕、このまま話してていいのかな。
「リョウは昔、最低なピアノ教師に出会ってしまってね。この話、もう聞いたかな?」
「はい……」
店長さんはため息をついて、眉をひそめた。
「アイツ、優しいから。小さい子が手首に怪我をして、それでも自分に『大好き』って言って。『下手で、ごめんね?』って謝ってきた姿が、あまりにもショックだったみたいで。リョウは高校時代、一回も鍵盤に触れてなかったと思うよ」
先生も大学に入ってから、ピアノを再開したんだ。僕も同じ状況だったら、ピアノを続ける気にはなれなかっただろうな。
「僕も、最後のピアノの先生が苦手だったんです。それで、ピアノから何年も離れてしまって……」
「子供にトラウマを植え付ける、悪い大人もいるからね」
常連さんらしき人に店長さんが手を振って、ジョッキにビールを注いでいる。
「妻は昔、ピアノの先生をしててさ。可愛い男の子の生徒さんがいたらしいんだけど、親御さんが、ちょっと強引っていうのかな? その子のことが忘れられないって、今でもよく話してるよ」
——ルイが上達してるとは思えないのよ——
母さんは、僕が男の人と付き合ってるって知ったら、ショックを受けるだろうな。先生がカッコよくても、どんなに優しくて包容力があっても、父さんも兄さんも、唖然とするかもしれない。
——男の子も、女の子も、みーんな葉山くんのことが大好きになるよ!——
でも、僕には心の中に味方がいる。直人だってそうだ。先生だってそうだ。贅沢にあれこれ求めて、悩んだりしたらダメだ。
「僕、大好きなピアノの先生がいたんです。おっとりしてて、優しくて……」
「おっとりした先生も、ルイちゃんのことが大好きだっただろうね」
ピンク色のポンポンがついたシャープペンシル。僕は、大切にまだ持っている。
でも、目にすると切なくて、つらくなるから。
公園で、湯飲みが入った紙袋にメッセージを書いたあの日。あれからずっと、実家でも、一人暮らしの家でも、シャーペンは箱の中に入れたままだ。
「その先生が僕に、ピンク色のポンポンがついたシャーペンをくれたんです。僕、それが宝物で……」
常連さんにビールを渡すと、店長さんは驚いた表情で僕を見た。
「ピンク色の……そう……。ルイちゃん、苗字は何だっけ?」
「すみません。僕、お伝えしてなかったですね。葉山です」
店長さんが硬直している。
「ルイちゃん。地元……ここじゃないよね?」
「はい」
「おっとりした先生、レッスンのときにチョコチップクッキーとか、紅茶を出してくれなかった?」
僕は久しぶりに、身体中がしゅわしゅわするのを感じた。しゅわしゅわを通り越して、ぱちぱちキラキラ弾けてるみたいだ。
「は、はい! 僕、チョコチップクッキーが大好きで……!」
「ピンク色のポンポンがついたシャーペン、いつもルイちゃん褒めてたんだよね!?」
唾を飲み込んで、僕は大きく頷いた。恋とは違うドキドキだ。もしかして、もしかして……!
「そうです! ポンポンが揺れてて可愛いって!」
「俺の妻だ……信じられない! こんな偶然があるんだ!」
おっとりした先生。僕が大好きだった先生。
——可愛いものは、可愛い。カッコいいものは、カッコいい。素直にそう言える、大人になってね?——
僕の味方でいてくれた先生。
「え? 二人とも泣いてる……ひょっとして俺、いいところ聞き逃してる?」
接客を終えた直人が、カウンターに戻ってきた。
「直人……僕はそう思うよ?」
「直人……俺もその通りだと思うよ?」
「だろうっ!? いや、ちょっと! 俺にも聞かせて下さいよ!」
僕と店長さんは涙ぐみながら笑って、直人が両手で、僕と店長さんの顔を交互にあおいできた。
「連弾の日、妻も呼ぶから聞かせてあげて。ずーっと葉山くんのことを……ルイちゃんのことを、気にかけてたから!」
「僕、練習頑張ります! 奥さんによろしくお伝えください!」
「二人とも……? そろそろ教えて?」
三人で一緒に笑った。僕の身体は星屑みたいに、ぱちぱちキラキラ弾けていた。
Wishから帰った僕は、ヘッドフォンをつけて練習を始めた。
おっとりした先生。会いたい。僕ね、すごくカッコいい恋人ができたんだよ?その人と連弾をするんだよ?
あのときはごめんなさいって、ちゃんと目を見て謝るんだ。それから、どうもありがとうって、たくさんお礼を言うんだ。
僕は、ピンク色のポンポンがついたシャーペンをピアノの上に乗せた。これからたくさん使おう。
先生にも、今日のことを話そう……!
まるで、僕の心を読み取ったかのように、スマホが振動した。先生からの電話だ。
僕は胸をさすって、ベッドに正座した。先生が僕を好きだなんて、まだちょっと信じられないや。
「こ、こ、こんばんは!」
「ニワトリさん、こんばんは」
僕はスマホをぽいっとベッドに置いて、両手で顔を覆った。僕をからかう声も、いい声!甘くて低くて、いい声!先生、最高です!
「ルイ? もしもし?」
「あ、すみません。こうふ……いえ、ちょっと……」
「明日、どこか行きたいところある?」
僕は先生と一緒なら、どこでも幸せなんだけど。先生がよく触ってくる前髪を、僕はぺたぺたと撫でた。
「前回は、僕が好きなところに出かけたので。明日は、先生が好きなところでどうでしょうか?」
「俺も花が好きだからね。フラワーガーデン、俺も楽しんでたよ」
「そっか!」
今度フラワーガーデンに行ったら、先生と写真をたくさん撮りたいな。何度も訪れて、ケーキも全種類を制覇したいな。
…………。
あ、あれ!?
「す、すみません! そっかとか、標準語を使ってしまいました!」
「別にいいよ。俺たち、付き合ってるし」
僕は正座したまま、ころんっと横に転がった。さらっとそういうこと言うの、反則です……先生。
「いいところがあった。この間と同じ改札前に、同じ時間でいい?」
「はい……」
「ルイ。どこに行くか、聞かなくていいの?」
聞いても教えてくれないくせに。だけど、顔を赤くして喜んでる僕がいる……。
僕ったら、僕ったら……!
僕は、スマホを持つ手とは反対の手を、太ももの間に挟んだ。
「教えてくれるんですか……?」
「『教えて、リョウ先生』って言ったらね」
「教えて……リョウ先生?」
ややあって、先生が言った。
「明日のお楽しみにしよう。おやすみ、ルイ」
結局、教えてくれなかった。
だけど、それをゾクゾクしながら喜んでる僕がいる。
…………。
僕ったら、僕ったら、本当に……!
僕は枕に顔をうずめた。いつものように、電話を切ったあと先生からメッセージが届いて。僕は片目をつぶって、小指でちょんとタップした。
『ルイ。言い忘れてた。昨日の続き、明日期待してるよ?』
僕は眠るまでに、羊を数百匹数えた。世界中の羊を僕の頭に呼び寄せないと、僕は永遠と眠れないようだ。
