「ルイちゃん、おめでとう!イケメン先生からの告白って、どんなふうにされたの?」
「ど、どんなって……」

 ——好きだからだよ。ルイ——

 僕は突っ伏して、ぺしぺし!と学食のテーブルを両手で叩いた。思い出しちゃう、思い出しちゃう!

 先生とのキス。甘くて優しいキス。深くて激しいキス。先生。先生。

 会いたい。昨日会ったのに、もう会いたい。

 僕は唇を指先で触った。僕は初めてだったけど、先生はそんなことないんだろうな。僕よりもずっと大人で、ピアノも恋愛も、僕とは経験値が異なるのに。

 そんな先生が、僕を好きだなんて……。

「ほほお。さては、チューでもされたかな?」

 僕は顔を上げた。直人が口のまわりにミートソースをくっつけて、ニヤニヤしている……。

「ど、どうして……?」
「ルイちゃん、顔にそう書いてあるよ!」

 僕ってどれだけわかりやすいんだろうか。僕はほっぺをぺちぺちと叩いた。

「僕ね、いつかWishで先生と連弾できたらって思ってて……」

 連弾でいい思い出を作ったら、先生の心の傷も癒される気がして。

「それが叶ったら、店長が泣いて喜びそうだけど。イケメン先生は、Wishのグランドピアノに近づきもしないみたいだよ」
「え?」
「店長が言ってた。俺たちがステージで食事してたときも、チラッと見ただけだったよな?」

 ——俺は弾かないよ。弾いたことがない——

 悲しみのワルツが原因で、先生はグランドピアノに触れること自体、嫌になってしまったのかな……。

「僕ね、ピアノの先生が何人か変わったんだけど。最後の女の先生が、すごく苦手で……」
「ルイちゃんがピアノを辞めたのは、それが理由だったんだ?」
「うん……」

 直人は腕を組んで、目線を上に向けた。

「俺も合わないサッカーコーチがいたなあ。チームメイトもだいぶ振り回されて、苦労したよ」
 
 おおらかな直人がそう思うなんて、よっぽどだったんだろうな。

「もう引っ越すからいっかなんて思いつつ、悶々として、帰りに公園に寄ってさ。ベンチに座って、しばらくぼーっとして……」
「直人、大変だったね」
「ルイちゃんもね?」
「実はリョウ先生も、ピアノの先生にトラウマがあってね……」

 ピアノの先生には、いい先生もたくさんいる。僕が言えたことではないけど、一部の悪い先生のせいで、ピアノから離れてしまう人がいるなんて……。

 やっぱり、悲しいな。
 
「ルイちゃんとイケメン先生。その頃から、二人の縁は始まってたのかもよ?」
「え?」
「二人とも、つらかったと思うけどね」

 前向きな直人の言う通りだ。

 もし、あの女の先生が素晴らしい人だったら……僕はピアノを辞めてなくて、こうして先生とは出会えてなかったかもしれない。

 もし、先生を傷つけた傲慢な経営者が、人格者だったら……先生と僕は、恋に落ちてなかったかもしれないんだ。

「グランドピアノを置いたの、店長の奥さんの案らしくて。奥さんも昔、ピアノの先生だったらしいよ」
「それで、Wishにはグランドピアノがあるんだね?」
  
 直人は頷いて、僕のほっぺをツンツンつついた。

「店名も奥さんが決めたんだってさ。叶えられる夢や願いは、みんな必ずあるからって」

 僕の手は大きくならなかった。指も長くならなかった。何度も何度も祈ったけど、僕のお願いは届かなかった。

 でも。

 夢のような恋愛を望んでいた僕は、先生と出会えた。全部が全部思うようにはいかなくても、遠回りだったとしても、叶えられることだってあるんだ。

 店長さんの奥さん、素敵な人だな……。

「直人。僕、今日Wishに行ってもいい?」
「俺はバイトだから、あんまり話せないけど」
「店長さんにね、連弾のことを相談してみようかなって……」
 
 直人は、僕が渡した紙ナプキンで口のまわりを拭いた。
 
「ピュアなルイちゃん。次はいつ、イケメン先生に会うの?」
「明日会う予定だよ」
「いいねえ! 告白されて、チューされて……次はエッチで決まりだね!」

 直人の大きな声に、まわりの学生が同時に僕たちを見た。僕は両手で顔を覆った。 


 大学のあと、僕と直人はWishに向かった。店の扉を開けると、バーカウンターの向こうから、店長さんが手を振って迎えてくれた。

「ルイちゃんが、店長と話したいらしいですよ!」
「おお、どうした?」

 まだ、お客さんはまばらだ。これから混むだろうから、すぐに話したほうがよさそう。

 僕はカウンターに両手を置いて、もじもじさせながら話を切り出した。

「店長さん。僕、リョウ先生と連弾の練習をしてて……」

 先生と僕のこと、口を滑らせないように気を付けなきゃ。

 先生と店長さんが親しいのは確かだ。でも、先生がそうだ(・・・)ってことを、店長さんが知らなかったら……。先生に迷惑がかかってしまう。

「連弾って、ひょっとして……?」
「はい。愛のワルツ……ワルツの十五番です」

 店長さんが口に手をあてて、上を向いている。ちょっと泣きそうだ。

「店長さん……?」
「ごめんねえ……。年取ると、涙腺が弱くなって」
「店長、まだ若いじゃないっすか! 店長が年取ってたら、俺とルイちゃん赤ちゃんになっちゃいますよ!」

 直人の突っ込みに店長さんが笑って、僕も笑った。

「僕がもっと上手になったら、Wishのグランドピアノで、リョウ先生と連弾してもいいですか?」

 先生にもっと、ピアノを好きになって欲しい。またグランドピアノに触れて欲しい。

 先生の寂しそうな表情、ときどき思い出してしまって。

「もちろん! リョウがまた、あの曲を弾くなんてね」

 お客さんが扉を開けて入ってきて、直人が対応している。僕、このまま話してていいのかな。

「リョウは昔、最低なピアノ教師に出会ってしまってね。この話、もう聞いたかな?」
「はい……」 
 
 店長さんはため息をついて、眉をひそめた。

「アイツ、優しいから。小さい子が手首に怪我をして、それでも自分に『大好き』って言って。『下手で、ごめんね?』って謝ってきた姿が、あまりにもショックだったみたいで。リョウは高校時代、一回も鍵盤に触れてなかったと思うよ」

 先生も大学に入ってから、ピアノを再開したんだ。僕も同じ状況だったら、ピアノを続ける気にはなれなかっただろうな。

「僕も、最後のピアノの先生が苦手だったんです。それで、ピアノから何年も離れてしまって……」
「子供にトラウマを植え付ける、悪い大人もいるからね」

 常連さんらしき人に店長さんが手を振って、ジョッキにビールを注いでいる。

「妻は昔、ピアノの先生をしててさ。可愛い男の子の生徒さんがいたらしいんだけど、親御さんが、ちょっと強引っていうのかな? その子のことが忘れられないって、今でもよく話してるよ」

 ——ルイが上達してるとは思えないのよ——

 母さんは、僕が男の人と付き合ってるって知ったら、ショックを受けるだろうな。先生がカッコよくても、どんなに優しくて包容力があっても、父さんも兄さんも、唖然とするかもしれない。

 ——男の子も、女の子も、みーんな葉山くんのことが大好きになるよ!——

 でも、僕には心の中に味方がいる。直人だってそうだ。先生だってそうだ。贅沢にあれこれ求めて、悩んだりしたらダメだ。

「僕、大好きなピアノの先生がいたんです。おっとりしてて、優しくて……」
「おっとりした先生も、ルイちゃんのことが大好きだっただろうね」

 ピンク色のポンポンがついたシャープペンシル。僕は、大切にまだ持っている。

 でも、目にすると切なくて、つらくなるから。

 公園で、湯飲みが入った紙袋にメッセージを書いたあの日。あれからずっと、実家でも、一人暮らしの家でも、シャーペンは箱の中に入れたままだ。

「その先生が僕に、ピンク色のポンポンがついたシャーペンをくれたんです。僕、それが宝物で……」

 常連さんにビールを渡すと、店長さんは驚いた表情で僕を見た。

「ピンク色の……そう……。ルイちゃん、苗字は何だっけ?」
「すみません。僕、お伝えしてなかったですね。葉山です」

 店長さんが硬直している。

「ルイちゃん。地元……ここじゃないよね?」
「はい」
「おっとりした先生、レッスンのときにチョコチップクッキーとか、紅茶を出してくれなかった?」

 僕は久しぶりに、身体中がしゅわしゅわするのを感じた。しゅわしゅわを通り越して、ぱちぱちキラキラ弾けてるみたいだ。

「は、はい! 僕、チョコチップクッキーが大好きで……!」
「ピンク色のポンポンがついたシャーペン、いつもルイちゃん褒めてたんだよね!?」

 唾を飲み込んで、僕は大きく頷いた。恋とは違うドキドキだ。もしかして、もしかして……!

「そうです! ポンポンが揺れてて可愛いって!」
「俺の妻だ……信じられない! こんな偶然があるんだ!」

 おっとりした先生。僕が大好きだった先生。

 ——可愛いものは、可愛い。カッコいいものは、カッコいい。素直にそう言える、大人になってね?——

 僕の味方でいてくれた先生。

「え? 二人とも泣いてる……ひょっとして俺、いいところ聞き逃してる?」

 接客を終えた直人が、カウンターに戻ってきた。

「直人……僕はそう思うよ?」
「直人……俺もその通りだと思うよ?」
「だろうっ!? いや、ちょっと! 俺にも聞かせて下さいよ!」

 僕と店長さんは涙ぐみながら笑って、直人が両手で、僕と店長さんの顔を交互にあおいできた。

「連弾の日、妻も呼ぶから聞かせてあげて。ずーっと葉山くんのことを……ルイちゃんのことを、気にかけてたから!」
「僕、練習頑張ります! 奥さんによろしくお伝えください!」
「二人とも……? そろそろ教えて?」

 三人で一緒に笑った。僕の身体は星屑みたいに、ぱちぱちキラキラ弾けていた。


 Wishから帰った僕は、ヘッドフォンをつけて練習を始めた。

 おっとりした先生。会いたい。僕ね、すごくカッコいい恋人ができたんだよ?その人と連弾をするんだよ?

 あのときはごめんなさいって、ちゃんと目を見て謝るんだ。それから、どうもありがとうって、たくさんお礼を言うんだ。

 僕は、ピンク色のポンポンがついたシャーペンをピアノの上に乗せた。これからたくさん使おう。

 先生にも、今日のことを話そう……!

 まるで、僕の心を読み取ったかのように、スマホが振動した。先生からの電話だ。

 僕は胸をさすって、ベッドに正座した。先生が僕を好きだなんて、まだちょっと信じられないや。

「こ、こ、こんばんは!」
「ニワトリさん、こんばんは」

 僕はスマホをぽいっとベッドに置いて、両手で顔を覆った。僕をからかう声も、いい声!甘くて低くて、いい声!先生、最高です!

「ルイ? もしもし?」
「あ、すみません。こうふ……いえ、ちょっと……」
「明日、どこか行きたいところある?」

 僕は先生と一緒なら、どこでも幸せなんだけど。先生がよく触ってくる前髪を、僕はぺたぺたと撫でた。

「前回は、僕が好きなところに出かけたので。明日は、先生が好きなところでどうでしょうか?」
「俺も花が好きだからね。フラワーガーデン、俺も楽しんでたよ」
「そっか!」

 今度フラワーガーデンに行ったら、先生と写真をたくさん撮りたいな。何度も訪れて、ケーキも全種類を制覇したいな。

 …………。

 あ、あれ!?

「す、すみません! そっかとか、標準語を使ってしまいました!」
「別にいいよ。俺たち、付き合ってるし」

 僕は正座したまま、ころんっと横に転がった。さらっとそういうこと言うの、反則です……先生。

「いいところがあった。この間と同じ改札前に、同じ時間でいい?」
「はい……」
「ルイ。どこに行くか、聞かなくていいの?」

 聞いても教えてくれないくせに。だけど、顔を赤くして喜んでる僕がいる……。

 僕ったら、僕ったら……!

 僕は、スマホを持つ手とは反対の手を、太ももの間に挟んだ。

「教えてくれるんですか……?」
「『教えて、リョウ先生』って言ったらね」
「教えて……リョウ先生?」

 ややあって、先生が言った。

「明日のお楽しみにしよう。おやすみ、ルイ」

 結局、教えてくれなかった。

 だけど、それをゾクゾクしながら喜んでる僕がいる。

 …………。 

 僕ったら、僕ったら、本当に……!

 僕は枕に顔をうずめた。いつものように、電話を切ったあと先生からメッセージが届いて。僕は片目をつぶって、小指でちょんとタップした。

『ルイ。言い忘れてた。昨日の続き、明日期待してるよ?』


 僕は眠るまでに、羊を数百匹数えた。世界中の羊を僕の頭に呼び寄せないと、僕は永遠と眠れないようだ。