——これ、ピアノの先生に渡してあげて——
日帰りで温泉に行った母さんは、レッスンに向かう僕に紙袋を渡した。
「母からのお土産です」
女の先生は、ガサゴソと包装紙を開いた。
母さんのお土産は、湯飲みだった。色も渋くて、デザインも好みが分かれそうなもので、僕はその時点で嫌な予感がしていた。
「ダッサ! いつ使うのよ、これ!」
湯飲みを見ながら、ゲラゲラと女の先生は笑った。
「お母さんって、センスないよねえ……?」
僕には返す言葉が何も浮かばなかった。
なぜ、おっとりした先生がダメで、なぜ、攻撃的なこの先生を母さんが選んだのか。
僕にも母さんにセンスがあるとは、思えなかったから。
「無口な葉山くん。これ持って帰って」
雑に包装紙にくるんで、女の先生は僕に湯飲みを差し出した。
「僕、いらないです……」
「あたしもいらない。ほら、とっとと座る!」
やっぱり僕、この先生、苦手だ————
レッスンの帰り道。僕は公園のベンチに、湯飲みが入った紙袋を置いた。
【きれいです。誰か使ってください】
ピンク色のポンポンを揺らしながら、僕は紙袋にメッセージを書いた。家に持って帰ったら母さんが悲しむだろうし、だからと言って、クラスの誰かにあげられるものではない。
僕の目に、じわっと涙が溢れた。
「ごめんね……」
僕は湯飲みに謝った。
「ごめんなさい……」
おっとりした先生にも謝った。
僕、何してるんだろう。僕、何がしたいんだろう。
「今日のレッスン、どうだった? 先生、お土産喜んでた?」
家に帰ると、母さんは僕に質問を繰り返した。
「喜んでたよ」
嘘を言った。母さんは嬉しそうだった。
「先生を変えて正解だわ。ルイは厳しいくらいが合ってるのよ。お母さんをガッカリさせないでよ?」
しんどい。
行きたくない。
会いたくない。
あの女の先生に、会いたくない……————
それでも僕は通った。逃げてはダメだと思った。だけど、女の先生はいつもイライラしながら誰かを罵っていて。
毎回嫌な言葉を浴びせられる僕の心は、どんどん影を落としていった。
水曜日、来なければいいのに。
水曜日なんて、嫌いだ。
そう思いながらも、通い続けたある日。トルコ行進曲が課題曲になった。
モーツァルトは、もともと大好きな作曲家だった。僕は練習した。必死に練習をしたけど、無理なことがわかった。
届かない。
ラとオクターブ高いラを同時に弾こうとすると、小指で手前のソも押してしまう。小指を無理やり届かせようとすると、今度は親指でシを押してしまう。
黒い鍵盤に触れると、最悪な状況になった。音が汚くなってしまう。
指が届かないならば、和音を分解して弾くアルペジオという方法だとか、代わりはいくらでもあったと思う。
だけど、女の先生がそれを許すはずがなかった。
「葉山くん、もう高学年だよね!? なんでそんなに手がちっちゃいのよ!」
レッスンでも当然、弾けなかった。女の先生は僕を怒鳴り飛ばした。
隣から見てて、僕の手が小さいのをわかってたはずなのに。
どうしてこの曲を選んだの?
ストレス発散のために、トルコ行進曲を選んだの?
僕の心は、悲しみでいっぱいだった。
「おとなしい葉山くん。昔のピアニストは水かきを切ったって噂話、知ってる?」
先生は立ち上がって、カッターナイフを手にして戻ってきた。
僕は背筋が凍った。急に大きな声を出したり、何をするのかわからない人だったから。
「ここと、ここと、ここと、ここと……」
刃は出していなかった。だけど、女の先生は僕の水かきのところを、カッターナイフで叩くようにして示した。
「葉山くん、勇気なさそうだから。代わりに切ってあげようか?」
怖い。
「ぼ、僕……嫌です……」
「いっつもいっつも懲りずに来て。何を言われても、翌週にはニッコニコして……」
怖い。誰か、誰か、助けて……。
「どうせ今日のことだって、センスのないお母さんにも、誰にも何も言えないくせ……」
「僕、嫌です!」
僕は叫んで立ち上がった。恐怖で足がガクガクしていた。
女の先生は椅子の背もたれに寄り掛かって、呆れたように僕を見た。
「冗談も通じない、女みたいな顔、女みたいな体、女よりも小さい手。葉山くん、何のためにピアノ習ってるの?」
「…………」
「口が利けないの?」
「…………」
「葉山ゲイくん?」
母さん。
ごめん、もう無理だ……。
ここにいたら潰れてしまう。
僕はこのままだと、音符に身を任せて、そのまま空に溶けたくなってしまうよ、母さん……。
「僕、辞めます。今までありがとうございました」
靴を履いて、僕は言った。頭を下げて、ドアノブを握りしめて、もう帰る準備は万端となった状態で、僕は言った。
女の先生は鼻で笑った。
「葉山くん、逃げるんだ?」
「…………」
「ダッサ! あの湯飲みくらい、ダッサ!」
ゲラゲラ笑う女の先生を背にして、僕は家まで走った。泣きながら走った。
逃げた。必死に逃げた。
湯飲み、ごめん。母さん、ごめん。
——可愛いものは、可愛い。カッコいいものは、カッコいい。素直にそう言える、大人になってね?——
おっとりした先生、ごめんなさい……————
「ルイ……?」
先生が僕を見つめている。ちょっと上がった綺麗な二重瞼で、先生らしくない戸惑った表情で、僕を見つめている。
「ごめん。俺、嫌な話をルイに……」
「ぼ、僕も『逃げるんだ』って、女の先生に言われました……」
先生が長い親指で、僕の涙を優しく拭った。
「僕、女の先生に『みずかき切ってあげようか』って、カッターナイフを持って来られて……」
長い親指を動かす先生の表情が、途端に険しくなった。
「僕が嫌がったら『冗談が通じない』って言われて……母さんが買った湯飲みを渡したら『ダサい』って言われて……窓際に猫が来て大嫌いだから水ぶっかけてやったってゲラゲラ笑ってて、お掃除の優しいおばあちゃんのことも歩くのが遅い邪魔なババアって言ってて、なんでそんなに手がちっちゃいんだって僕を怒鳴りつけてきて、僕のことを葉山ゲイって呼んできて、だから僕は、ピアノ教室に行くと、いつもいつも、僕は…………!」
先生が僕を抱きしめて、僕の頭を優しく撫でてきて。僕は堰を切ったように、涙がたくさん溢れ出した。
「その子だって、その子だって! リョウ先生と連弾したくて、たくさん頑張ったんだよ……!」
「そうだな」
「ピアノが大好きだったはずなのに! リョウ先生だって、ピアノが大好きだったのに……!」
「ルイ。合ってるよ、合ってる……」
先生。先生。
僕、今まで誰にも話せなかったのに……。
先生には話せたよ?先生。
「ルイ」
甘くて低い声。先生は穏やかに僕の名前を呼んで、自分のおでこと、僕のおでこをくっつけた。
涙でしょっぱくなった唾を、僕はつっかえながら飲み込んだ。
「俺がピアノから離れた理由は、それだけじゃなかった。俺をライバル視してくる人間と張り合うのも面倒だった。裏アカウントを作って、ピアノ教室のSNSに俺の悪口を書きこんでくる、そいつの心の闇を見るのも嫌だった。音楽の世界なんて競争ばかりでつまらないと、そう思ってしまった」
僕はやっと流れる涙が落ち着いて、おでこがくっついたままの、すぐ近くにある先生の綺麗な目を見つめた。
先生も僕を見つめている。
「あんな乾いた音、二度と聴きたくない……。経営者との連弾後に俺はそう思った。放送されたのは、ほんの一部だったよ。当然だよ、何の見せ場もないんだから。経営者にざまあみろなんて思って、俺はそのままピアノ教室を辞めてね。でも、数年たった今、俺はまたこうしてピアノを弾いてる」
僕は頷いた。そのまま先生が永遠に離れてしまったら、ピアノも悲しみに暮れていたはずだ。
「『音楽の世界に戻ってきて下さって、良かったです』っていうルイの言葉。覚えてる?」
「はい……」
「俺、すごく嬉しかったよ」
先生は、僕のおでこから自分のおでこを離して、またじっと僕を見つめた。
「困ったな。ルイ、なんで今日眼鏡なんだよ?」
「え?」
「眼鏡同士だと、ぶつかりそうだよ」
ぶつかるって?
僕の心を読んだのか、先生は意地悪を言わずに、その意味をすぐに教えてくれた。
「ルイ。キスしてもいい?」
僕の心臓が飛び跳ねた。僕のほっぺを、先生が長い指先で撫でている。
「は、はい……」
「眼鏡。俺とルイと……どっちが外すのがいい?」
ドックンドックンドックンドックン————
僕の初めてのキス。大好きな先生とのキス。大切にしたい。
僕が眼鏡を外したら、先生の顔がちゃんと見えなくなってしまいそうだ。ギリギリまで、先生の顔を見ていたい。キスが終わったあとも、先生の顔を見ていたい。
「あ、あの、リョウ先生に眼鏡を外して欲しいです……」
「いいよ」
先生は僕の眼鏡に、長い指先を添えた。
え?
「えっと、えっと……僕じゃなくて……」
「だから今、俺が外そうとしてるだろ?」
先生は、左側の口角を上げて笑った。いつものように、どこか意地悪な表情で、目を細めて微笑んでいる。
「ルイの眼鏡を俺が外すか、ルイが自分で外すかって意味だったんだけど?」
ドクドクドクドクドクドクドクドク————!
「俺が外すわけないだろ。ルイの戸惑った表情、見られなくなるじゃん」
「リョウせん……せ……」
僕が言い終わる前に、先生が綺麗な顔を近づけてきて。僕は慌てて、ぎゅっと目をつぶった。
…………。
……あれ?
僕は片目を開けた。先生の綺麗な顔が目の前にある。唇と唇が触れる直前で、止まっている。
「このまましてもいいんだけど。ルイはきっと、心でこう考えるだろうから。『リョウ先生はどうして、僕にキスをするんだろう』ってね……?」
僕は両手を自分の胸に当てた。僕なら考えそうだ。考えてしまいそうだ。
今だけじゃなくて未来まで、先生は僕の心を読むことができるんだ。
「どうして俺がルイにキスをするか、知りたい?」
知りたいに決まってる。意地悪だ。先生、意地悪だ……。
「『教えて、リョウ先生』って、言ってみて?」
——続きは、また明日——
昨日話してたのは、これなの?先生。
「お、教えてください、リョウ先生……」
「教えて」
僕は唇を舐めた。ドキドキする。ゾクゾクする。
「教えて、リョウ先生……?」
先生は嬉しそうに笑った。笑って前髪をかき上げた。
そして、甘くて低い声で、僕を見つめて言った。
「好きだからだよ。ルイ」
先生は僕に、優しくキスをした。僕は身体に力が入ったけど、先生が僕の肩をゆっくり撫でてきて。
僕は先生の胸に手を添えて、先生の服を掴みながら、そのまま先生にくっついた。
先生の柔らかい唇が、僕の唇からそっと離れて。僕はほっぺを真っ赤にしながら、自分の思いを伝えた。
「僕も……です……」
「僕も、何?」
僕は、すぐそばにある先生の顔を見上げた。先生が僕を見つめている。ちょっと上がった綺麗な二重瞼で、僕をじっと見つめている。
「ぼ、僕も、リョウ先生が好きです……」
恥ずかしくて、先生の胸板に顔をうずめた僕だったけど。先生はそんな僕の顎を、長い親指で持ち上げた。
「ルイ」
「はい……」
「知ってるよ」
先生の二回目のキスは、愛のワルツを何度も繰り返すくらい、長く続いた。
すごく優しくて、甘くて。だんだん先生が興奮してくるのが伝わってきて……。
先生は、僕の後ろ頭を大きな手で押さえながら、僕の唇をこじ開けるようにキスをしてきて……。僕は戸惑いながらも気持ちがよくて、やめて欲しくなくて。
先生の唇、柔らかい。舌も柔らかい。変な声が出そう。恥ずかしい。
僕の背中を、先生がくすぐるように触ってくる。僕は背中をくねらせた。
「くすぐったい……?」
甘くて低い声で、先生が囁くように聞いてきて。僕は何度も小さく頷いた。
「ルイ」
先生が僕を抱き寄せて、公園のベンチでしてきたみたいに、僕の頭の上に顎を乗せた。
「ベッド、買うか……」
先生がつぶやいて、僕は身体がカチコチになった。
「え……?」
「その棚から寝具を出すよりも、ベッドのほうがすぐに……ね?」
長い親指と長い中指で、先生は僕のほっぺを挟んで。僕の顔を、棚のほうに向かせた。
「ベッド、その棚の前に置こうかな。ルイ、どう思う?」
ドキドキしてしまう。ゾクゾクしてしまう。
「俺がベッドを欲しい理由……ルイ、いい子だからわかるよね?」
先生がわざと、僕の耳元で囁きながら聞いてくる。身体がもぞもぞしてしまう。僕は両手を太ももの間に挟んで、肩をすぼませた。
「言ってみてよ、ルイ」
「リョ……せん……」
「当てたら、ご褒美あげるよ……?」
ドクドクドクドクドクドクドクドク————!
「そ、その……リョウ先生と僕が、キスの先に進む……」
「俺が風呂から上がったら、すぐに寝られるためだけど?」
…………。
え?
「ルイ。何さっきから勘違いして、興奮してんの?」
僕は両手で顔を覆った。先生がお腹を抱えて笑っている。
「レッスン。続きやるよ」
「い、今からですか……?」
「エッチなルイくん。ピアノに集中しよう」
「エッッ……! リョウ先生!」
僕は前世も、現世も、来世も永遠に、先生のボールなのかもしれないや……。

日帰りで温泉に行った母さんは、レッスンに向かう僕に紙袋を渡した。
「母からのお土産です」
女の先生は、ガサゴソと包装紙を開いた。
母さんのお土産は、湯飲みだった。色も渋くて、デザインも好みが分かれそうなもので、僕はその時点で嫌な予感がしていた。
「ダッサ! いつ使うのよ、これ!」
湯飲みを見ながら、ゲラゲラと女の先生は笑った。
「お母さんって、センスないよねえ……?」
僕には返す言葉が何も浮かばなかった。
なぜ、おっとりした先生がダメで、なぜ、攻撃的なこの先生を母さんが選んだのか。
僕にも母さんにセンスがあるとは、思えなかったから。
「無口な葉山くん。これ持って帰って」
雑に包装紙にくるんで、女の先生は僕に湯飲みを差し出した。
「僕、いらないです……」
「あたしもいらない。ほら、とっとと座る!」
やっぱり僕、この先生、苦手だ————
レッスンの帰り道。僕は公園のベンチに、湯飲みが入った紙袋を置いた。
【きれいです。誰か使ってください】
ピンク色のポンポンを揺らしながら、僕は紙袋にメッセージを書いた。家に持って帰ったら母さんが悲しむだろうし、だからと言って、クラスの誰かにあげられるものではない。
僕の目に、じわっと涙が溢れた。
「ごめんね……」
僕は湯飲みに謝った。
「ごめんなさい……」
おっとりした先生にも謝った。
僕、何してるんだろう。僕、何がしたいんだろう。
「今日のレッスン、どうだった? 先生、お土産喜んでた?」
家に帰ると、母さんは僕に質問を繰り返した。
「喜んでたよ」
嘘を言った。母さんは嬉しそうだった。
「先生を変えて正解だわ。ルイは厳しいくらいが合ってるのよ。お母さんをガッカリさせないでよ?」
しんどい。
行きたくない。
会いたくない。
あの女の先生に、会いたくない……————
それでも僕は通った。逃げてはダメだと思った。だけど、女の先生はいつもイライラしながら誰かを罵っていて。
毎回嫌な言葉を浴びせられる僕の心は、どんどん影を落としていった。
水曜日、来なければいいのに。
水曜日なんて、嫌いだ。
そう思いながらも、通い続けたある日。トルコ行進曲が課題曲になった。
モーツァルトは、もともと大好きな作曲家だった。僕は練習した。必死に練習をしたけど、無理なことがわかった。
届かない。
ラとオクターブ高いラを同時に弾こうとすると、小指で手前のソも押してしまう。小指を無理やり届かせようとすると、今度は親指でシを押してしまう。
黒い鍵盤に触れると、最悪な状況になった。音が汚くなってしまう。
指が届かないならば、和音を分解して弾くアルペジオという方法だとか、代わりはいくらでもあったと思う。
だけど、女の先生がそれを許すはずがなかった。
「葉山くん、もう高学年だよね!? なんでそんなに手がちっちゃいのよ!」
レッスンでも当然、弾けなかった。女の先生は僕を怒鳴り飛ばした。
隣から見てて、僕の手が小さいのをわかってたはずなのに。
どうしてこの曲を選んだの?
ストレス発散のために、トルコ行進曲を選んだの?
僕の心は、悲しみでいっぱいだった。
「おとなしい葉山くん。昔のピアニストは水かきを切ったって噂話、知ってる?」
先生は立ち上がって、カッターナイフを手にして戻ってきた。
僕は背筋が凍った。急に大きな声を出したり、何をするのかわからない人だったから。
「ここと、ここと、ここと、ここと……」
刃は出していなかった。だけど、女の先生は僕の水かきのところを、カッターナイフで叩くようにして示した。
「葉山くん、勇気なさそうだから。代わりに切ってあげようか?」
怖い。
「ぼ、僕……嫌です……」
「いっつもいっつも懲りずに来て。何を言われても、翌週にはニッコニコして……」
怖い。誰か、誰か、助けて……。
「どうせ今日のことだって、センスのないお母さんにも、誰にも何も言えないくせ……」
「僕、嫌です!」
僕は叫んで立ち上がった。恐怖で足がガクガクしていた。
女の先生は椅子の背もたれに寄り掛かって、呆れたように僕を見た。
「冗談も通じない、女みたいな顔、女みたいな体、女よりも小さい手。葉山くん、何のためにピアノ習ってるの?」
「…………」
「口が利けないの?」
「…………」
「葉山ゲイくん?」
母さん。
ごめん、もう無理だ……。
ここにいたら潰れてしまう。
僕はこのままだと、音符に身を任せて、そのまま空に溶けたくなってしまうよ、母さん……。
「僕、辞めます。今までありがとうございました」
靴を履いて、僕は言った。頭を下げて、ドアノブを握りしめて、もう帰る準備は万端となった状態で、僕は言った。
女の先生は鼻で笑った。
「葉山くん、逃げるんだ?」
「…………」
「ダッサ! あの湯飲みくらい、ダッサ!」
ゲラゲラ笑う女の先生を背にして、僕は家まで走った。泣きながら走った。
逃げた。必死に逃げた。
湯飲み、ごめん。母さん、ごめん。
——可愛いものは、可愛い。カッコいいものは、カッコいい。素直にそう言える、大人になってね?——
おっとりした先生、ごめんなさい……————
「ルイ……?」
先生が僕を見つめている。ちょっと上がった綺麗な二重瞼で、先生らしくない戸惑った表情で、僕を見つめている。
「ごめん。俺、嫌な話をルイに……」
「ぼ、僕も『逃げるんだ』って、女の先生に言われました……」
先生が長い親指で、僕の涙を優しく拭った。
「僕、女の先生に『みずかき切ってあげようか』って、カッターナイフを持って来られて……」
長い親指を動かす先生の表情が、途端に険しくなった。
「僕が嫌がったら『冗談が通じない』って言われて……母さんが買った湯飲みを渡したら『ダサい』って言われて……窓際に猫が来て大嫌いだから水ぶっかけてやったってゲラゲラ笑ってて、お掃除の優しいおばあちゃんのことも歩くのが遅い邪魔なババアって言ってて、なんでそんなに手がちっちゃいんだって僕を怒鳴りつけてきて、僕のことを葉山ゲイって呼んできて、だから僕は、ピアノ教室に行くと、いつもいつも、僕は…………!」
先生が僕を抱きしめて、僕の頭を優しく撫でてきて。僕は堰を切ったように、涙がたくさん溢れ出した。
「その子だって、その子だって! リョウ先生と連弾したくて、たくさん頑張ったんだよ……!」
「そうだな」
「ピアノが大好きだったはずなのに! リョウ先生だって、ピアノが大好きだったのに……!」
「ルイ。合ってるよ、合ってる……」
先生。先生。
僕、今まで誰にも話せなかったのに……。
先生には話せたよ?先生。
「ルイ」
甘くて低い声。先生は穏やかに僕の名前を呼んで、自分のおでこと、僕のおでこをくっつけた。
涙でしょっぱくなった唾を、僕はつっかえながら飲み込んだ。
「俺がピアノから離れた理由は、それだけじゃなかった。俺をライバル視してくる人間と張り合うのも面倒だった。裏アカウントを作って、ピアノ教室のSNSに俺の悪口を書きこんでくる、そいつの心の闇を見るのも嫌だった。音楽の世界なんて競争ばかりでつまらないと、そう思ってしまった」
僕はやっと流れる涙が落ち着いて、おでこがくっついたままの、すぐ近くにある先生の綺麗な目を見つめた。
先生も僕を見つめている。
「あんな乾いた音、二度と聴きたくない……。経営者との連弾後に俺はそう思った。放送されたのは、ほんの一部だったよ。当然だよ、何の見せ場もないんだから。経営者にざまあみろなんて思って、俺はそのままピアノ教室を辞めてね。でも、数年たった今、俺はまたこうしてピアノを弾いてる」
僕は頷いた。そのまま先生が永遠に離れてしまったら、ピアノも悲しみに暮れていたはずだ。
「『音楽の世界に戻ってきて下さって、良かったです』っていうルイの言葉。覚えてる?」
「はい……」
「俺、すごく嬉しかったよ」
先生は、僕のおでこから自分のおでこを離して、またじっと僕を見つめた。
「困ったな。ルイ、なんで今日眼鏡なんだよ?」
「え?」
「眼鏡同士だと、ぶつかりそうだよ」
ぶつかるって?
僕の心を読んだのか、先生は意地悪を言わずに、その意味をすぐに教えてくれた。
「ルイ。キスしてもいい?」
僕の心臓が飛び跳ねた。僕のほっぺを、先生が長い指先で撫でている。
「は、はい……」
「眼鏡。俺とルイと……どっちが外すのがいい?」
ドックンドックンドックンドックン————
僕の初めてのキス。大好きな先生とのキス。大切にしたい。
僕が眼鏡を外したら、先生の顔がちゃんと見えなくなってしまいそうだ。ギリギリまで、先生の顔を見ていたい。キスが終わったあとも、先生の顔を見ていたい。
「あ、あの、リョウ先生に眼鏡を外して欲しいです……」
「いいよ」
先生は僕の眼鏡に、長い指先を添えた。
え?
「えっと、えっと……僕じゃなくて……」
「だから今、俺が外そうとしてるだろ?」
先生は、左側の口角を上げて笑った。いつものように、どこか意地悪な表情で、目を細めて微笑んでいる。
「ルイの眼鏡を俺が外すか、ルイが自分で外すかって意味だったんだけど?」
ドクドクドクドクドクドクドクドク————!
「俺が外すわけないだろ。ルイの戸惑った表情、見られなくなるじゃん」
「リョウせん……せ……」
僕が言い終わる前に、先生が綺麗な顔を近づけてきて。僕は慌てて、ぎゅっと目をつぶった。
…………。
……あれ?
僕は片目を開けた。先生の綺麗な顔が目の前にある。唇と唇が触れる直前で、止まっている。
「このまましてもいいんだけど。ルイはきっと、心でこう考えるだろうから。『リョウ先生はどうして、僕にキスをするんだろう』ってね……?」
僕は両手を自分の胸に当てた。僕なら考えそうだ。考えてしまいそうだ。
今だけじゃなくて未来まで、先生は僕の心を読むことができるんだ。
「どうして俺がルイにキスをするか、知りたい?」
知りたいに決まってる。意地悪だ。先生、意地悪だ……。
「『教えて、リョウ先生』って、言ってみて?」
——続きは、また明日——
昨日話してたのは、これなの?先生。
「お、教えてください、リョウ先生……」
「教えて」
僕は唇を舐めた。ドキドキする。ゾクゾクする。
「教えて、リョウ先生……?」
先生は嬉しそうに笑った。笑って前髪をかき上げた。
そして、甘くて低い声で、僕を見つめて言った。
「好きだからだよ。ルイ」
先生は僕に、優しくキスをした。僕は身体に力が入ったけど、先生が僕の肩をゆっくり撫でてきて。
僕は先生の胸に手を添えて、先生の服を掴みながら、そのまま先生にくっついた。
先生の柔らかい唇が、僕の唇からそっと離れて。僕はほっぺを真っ赤にしながら、自分の思いを伝えた。
「僕も……です……」
「僕も、何?」
僕は、すぐそばにある先生の顔を見上げた。先生が僕を見つめている。ちょっと上がった綺麗な二重瞼で、僕をじっと見つめている。
「ぼ、僕も、リョウ先生が好きです……」
恥ずかしくて、先生の胸板に顔をうずめた僕だったけど。先生はそんな僕の顎を、長い親指で持ち上げた。
「ルイ」
「はい……」
「知ってるよ」
先生の二回目のキスは、愛のワルツを何度も繰り返すくらい、長く続いた。
すごく優しくて、甘くて。だんだん先生が興奮してくるのが伝わってきて……。
先生は、僕の後ろ頭を大きな手で押さえながら、僕の唇をこじ開けるようにキスをしてきて……。僕は戸惑いながらも気持ちがよくて、やめて欲しくなくて。
先生の唇、柔らかい。舌も柔らかい。変な声が出そう。恥ずかしい。
僕の背中を、先生がくすぐるように触ってくる。僕は背中をくねらせた。
「くすぐったい……?」
甘くて低い声で、先生が囁くように聞いてきて。僕は何度も小さく頷いた。
「ルイ」
先生が僕を抱き寄せて、公園のベンチでしてきたみたいに、僕の頭の上に顎を乗せた。
「ベッド、買うか……」
先生がつぶやいて、僕は身体がカチコチになった。
「え……?」
「その棚から寝具を出すよりも、ベッドのほうがすぐに……ね?」
長い親指と長い中指で、先生は僕のほっぺを挟んで。僕の顔を、棚のほうに向かせた。
「ベッド、その棚の前に置こうかな。ルイ、どう思う?」
ドキドキしてしまう。ゾクゾクしてしまう。
「俺がベッドを欲しい理由……ルイ、いい子だからわかるよね?」
先生がわざと、僕の耳元で囁きながら聞いてくる。身体がもぞもぞしてしまう。僕は両手を太ももの間に挟んで、肩をすぼませた。
「言ってみてよ、ルイ」
「リョ……せん……」
「当てたら、ご褒美あげるよ……?」
ドクドクドクドクドクドクドクドク————!
「そ、その……リョウ先生と僕が、キスの先に進む……」
「俺が風呂から上がったら、すぐに寝られるためだけど?」
…………。
え?
「ルイ。何さっきから勘違いして、興奮してんの?」
僕は両手で顔を覆った。先生がお腹を抱えて笑っている。
「レッスン。続きやるよ」
「い、今からですか……?」
「エッチなルイくん。ピアノに集中しよう」
「エッッ……! リョウ先生!」
僕は前世も、現世も、来世も永遠に、先生のボールなのかもしれないや……。

