「眼鏡になっちゃった……」

 最近ずっとドキドキしたり、キュンキュンしたり、睡眠不足が続いてて。

 コンタクトの在庫、うっかりしてたや。

 楽譜がはっきり見えないと困るし、大学の授業は、とてもじゃないけど裸眼では受けられない。僕の眼鏡姿を貴重がって、なぜか直人がスマホで写真を撮っていた。

「イケメン先生もさ、ルイちゃんの眼鏡姿にドキドキするかもね!」

 僕は目をぱちぱちさせた。シルバーのリムレスの眼鏡で、なんてことないと思ってたんだけど。

 直人がそう言ってくれるなら、眼鏡でよかったのかも……?

「ルイちゃん。イケメン先生との甘い報告、待ってるよ!」
「え?」
「これこれ!」

 直人が唇を突き出してきて、僕は顔を真っ赤にして電車に乗り込んだ。直人が笑いながら、ドアの向こうから手を振っている。

 直人ったら!直人ったら!ぼ、僕は別に、先生とのキスを期待してるわけでは……!

 ——続きは(・・・)、また明日——

 本音を言えば、すごく期待してるかもしれない。

 先生が後ろから登場しないか、僕は歩きながら何度も振り返った。だけど、今日は先生は現れなくて。

 珍しく、僕はちょうどいい時間にマンションに到着して、オートロックのボタンで先生の部屋番号を押した。

 呼び出し音が止まって、カチャッと音が聞こえた。

 でも、先生は何も言わなくて……あれ?

「リョウ先生?」
「……どうぞ」

 甘くて低い声。体験レッスンのときに、ここで先生の声を聞いて。すっごく鼓動が速くなったんだっけ。

 僕はエレベーターで三階に上がった。迷わないよう廊下を歩いて、先生の部屋の前にたどり着いた。

 インターホンを押すと、ガチャリとドアが開いた。

 眼鏡を掛けた先生が、そこにいた。

「リ、リョウ先生も……眼鏡なんですね?」

 ネイビーのフレームの、スリムな形の眼鏡。先生の高い鼻と、キリッとした目にすごく似合っていた。

 先生、カッコいい————

 しゅわしゅわ、最近落ち着いてきたのに。今度は、身体のもぞもぞが増えてしまって困っている。

 僕は、Tシャツの裾を引っ張った。
 
「さっきカメラで見えたよ」
「え?」
「オートロックのカメラ。ルイも眼鏡だなって、そう思った」

 僕は奥の部屋に向かった。先生は変わらない様子で、キッチンでお茶を淹れてくれている。

 なんだか緊張する。昨日も会えたのにな。

 土曜日、二人で出掛けたからかな……。

 ——ルイ。あんまり刺激するなよ——

 僕は両手で顔を覆って、足をジタバタさせた。

 思い出すな、思い出すな!僕はピアノを習いに来てるんだ!また抱きしめて欲しいとか思うんじゃない!すごく思っちゃってるけど、思うんじゃない!キスとか期待するんじゃない!期待しちゃってるけど、するんじゃない!

「ルイ。何さっきから興奮してんの?」

 先生がキッチンからやってきた。直人と一緒で、先生ったら直球すぎる。

「こ、こ、興奮なんてしてません!」
「どうかな。かなり暴れてたけどね?」

 先生はハーブティーを注いでくれた。僕がお土産で買った、薔薇のハーブティー。

 先生の眼鏡のレンズが、湯気で少し曇っている。綺麗な目が隠れちゃうの、もったいない気もするけど。

 いつもとは違う先生。眼鏡の先生。先生の新しい姿を見て、僕は先生がもっと好きになってしまいそうだ。

「リョウ先生、眼鏡も似合いますね?」
「ルイも似合ってるよ。眼鏡」

 ハーブティーをすすっていた先生が、僕に視線を移した。

 僕をじっと見つめている。ちょっと上がった綺麗な二重瞼で、眼鏡の奥から見つめている。

 どこか期待してしまう僕がいる。

 ドクンドクンドクンドクン————

「あ、あの、リョウ先生……」
「レッスン、やろうか」

 僕はハーブティーをすすって心を落ち着けて、ピアノの椅子に座った。

 譜面台の楽譜を見て、僕は両手で口を押さえた。

 愛のワルツの、連弾の楽譜だった。

「ルイ、弾きたいみたいだから」

 先生は優しく微笑んだ。

「ありがとうございます!」
「ちょっとアレンジしたよ。ルイが弾きやすいようにね」

 小さな手の僕のために、僕が弾きづらいところは先生がカバーするよう、作り直された楽譜だった。

 先生。パソコンで作って、確認して、プリントして……。

「嬉しいです……」

 心があったかくなる。先生。先生。

 なんでだろう。ドキドキするのに、同時に安心する。

 まるで、公園で抱きしめられたときみたいだ。

「リョウ先生……」
「ん?」
「ひとつ、お願いしてもいいですか……?」
「やだ」

 僕は椅子からずり落ちそうになった。せっかく、いい雰囲気だったのに!

「ま、まだ何も言ってません!」
「何?」
「僕、リョウ先生が弾く愛のワルツがすごく好きで。レッスンの前に、もう一度聴きたいです」

 先生は立ち上がった。前髪をかき上げて、僕を見下ろしている。

「いいよ」

 僕も立ち上がった。僕はいつものように、先生を見上げた。

 何度会っても、何度見上げても、僕は先生に胸がときめいてしまう。

 先生。先生。

 僕は、先生と一緒にもっと、もっと…………。

「ニワトリさん。席を交換しよう」
「二、ニワ……!」

 僕の新しいあだ名が、いつの間にか誕生していた。

「これから何回、ルイにリクエストされるんだろうね?」

 先生は笑うと、鍵盤に長い指先を乗せて、天井を仰いだ。

 静かに目を閉じている。

 体験レッスンのときとは違って、先生の横顔に緊張感がある気がして。

 このまま、この静けさの中で待っていていいのか。わからなくなるほどだった。

 先生。先生。

 もし、つらいなら。もし、愛のワルツを弾きたくないのなら…………。

 先生は目を開けて、鍵盤に視線を落とした。

 そして、奏でるメロディーに合わせて、ゆったりと体を揺らした。

 まるで、グランドピアノを聴いているかのような、贅沢な旋律。

 先生はピアノに愛されてる。

 すごくすごく、愛されてるよ。先生————

「ありがとうございます!」

 僕が拍手を止めても、先生は呆然としていて。

 椅子から立ち上がろうとしなかった。

「店長から聞かれたよ。『ワルツの十五番を弾いたんだって?』ってね……」

 先生は、ぽつりとつぶやくように言った。

 ——イケメン先生の心の傷をさ、ルイちゃんが癒せばいいんだよ——

 僕は、直人の言葉を浮かべて拳を握りしめた。

 先生。僕じゃまだ、力不足かもしれないけど……。

「あの、リョウ先生……」
「ん?」
「僕に似てる子がいたって、前にお話ししてましたが……」
「俺、言ったっけ? そんなこと」

 意地悪モードのときは、先生は左側の口角を上げるのに。お腹を抱えて笑ったりするのに。

 先生は窓の外を眺めて、ぼんやり遠くを見たままだった。

「その子と、愛のワルツの連弾をする予定だったんですか……?」
「ルイ。どうしてそんなことを聞くの?」

 僕は先生と出会ってから、またピアノが大好きになって。

 人を好きになる喜びと、切なさを知って。

 先生に恋をした僕に、直人は弟さんのことを話してくれて。そのおかげで、僕と直人の友情は、さらに深まって……。

「僕は、リョウ先生にお礼がしたいんです」
「お礼って?」
「リョウ先生から僕は、たくさんのものを受け取ってるので。それで、その……」

 先生は、僕のほうを向いて座り直した。

「ルイ……」

 僕の名前を呼ぶ先生の声は、物悲しさが漂っていた。甘くて低い声なのに。いい声なのに。

 いつもとはどこか、違っていた。

「その子のピュアな旋律を聴くと……俺は癒されて。なんでだか、その子は俺によくなついててね」

 先生は、僕の小さな拳をじっと見つめた。何かを思い出すように、じっと。

「俺のピアノの先生は、経営者でもあってね。彼はもともと野心家だったけど、途中からはピアノのことなんてどうでもよさそうで。傲慢で、承認欲求の塊で、いいねの数に執着して……。俺の横顔も、SNSに勝手にアップしてね」
「え……?」

 僕もSNSを利用する。でも、それはお花のイベントを知るためだったり、美味しそうなお店を調べるためだったり、便利だからであって……。

 誰かを不安にさせたり、傷つけるために使ったことは、一度もない。

「あるとき、取材が入ることになってね。コンサートホールでの発表会に向けて、彼は張り切ったわけだ。年齢差があり実力も違う、いいねが大量に集まった中学生の少年と、やっとランドセルを背負ったくらいの、まだ幼さが残る男の子。二人が愛のワルツの連弾を成功させて、彼は称賛されたいんだなと……俺はそう思ってた。その段階ではね」

 先生は眉間にしわを寄せて、ゆっくりと目を閉じた。

「はっきり言って不可能だろうと思ったよ。手だってまだ小さい。だから、俺は生意気にも意見したよ。けど『あの子には簡単な楽譜を渡すから、才賀くんも練習を続けろ』と……。疑心暗鬼だったのに、俺も、まだうぶでね」

 先生の眉尻が、どんどん下がっていく。

「簡単に言ってしまえば、俺とその子は、彼に……ピアノを愛していない、傲慢な経営者に利用されてしまった。その子、俺の前のレッスン時間だったはずなのに、途中から会わなくなって。最後に会ったのは、発表会の前日。ピアノ教室の近くで、母親と一緒に俺を待っててさ」

 先生は目を開けた。いつも目力のある先生の目が、いつもキリッとしている先生の目が。

 とても悲しそうに、下を向いていた。

「『この子、連弾のことを隠してたの』って、その子の母親が俺に謝ってきて。『看護師なのに気づいてあげられなかった』って、自分のことを責めててさ。シングルマザーで、忙しそうで。その子は母親が仕事に行ってる間に、必死に練習して。ひどい腱鞘炎になってて……」
 
 僕の心が悲しみで、くしゃくしゃになっていく。

「包帯で巻かれた両腕で、その子が俺を見上げてさ。『リョウくんのこと大好き! でも、ごめんね。下手で、ごめんね?』って……。下手とかじゃない。努力でどうこうなる問題じゃない。ウサギに空を飛べって言ってるようなもんだ」

 ——なんでそんなに手がちっちゃいのよ!——

「傲慢な経営者が、その子に言ったらしい。『お母さんにも、リョウくんにも、内緒で練習して、当日に驚かせようね?』ってね……。ピュアなその子は、その言葉を真に受けてしまった」

 先生は再びピアノと向き合って座ると、鍵盤に長い指先を乗せた。

「発表会当日、その子は来なかった。そのままピアノ教室も辞めてしまった。代わりに俺は、傲慢な経営者と連弾をした。憎悪しか浮かばない、グランドピアノの乾いた音。薄っぺらい旋律。愛のない、悲しみのワルツ……」

 ——リョウが弾いたの⁉ワルツの十五番を⁉——

「傲慢な経営者は、俺に言ったよ。『幼い子が怪我をしても頑張る姿で、動画の再生回数が上がりそうだったのに』って。『あの子が逃げたせいで水の泡だ』ってね。何だよ、それ……。だから、アレンジもしてない楽譜を与えて……」

 ——葉山くん、逃げるんだ?——

「それを聞いて、俺は……」

 先生は、僕に視線を移して口を閉ざした。


 僕のほっぺに、静かに涙が流れていた。