水曜日。僕は裕太くんと一緒に、納品された楽譜の整理をしていた。

 これが誰かの手に届くんだ。そして、その誰かがまた、大切な誰かを感動させるんだ。

 音楽っていいな。音楽のおかげで、ピアノのおかげで、僕は先生と繋がれたんだ。

「ルイくん。俺、あっちの棚から追加するよ」
「うん!」

 僕は、愛のワルツの楽譜を手にした。

 会いたいな。先生。

 明日会えるけど。今日も、ちょっとでも会えたら嬉しいな……。

「真面目に頑張ってるじゃん」

 甘くて低い声。僕はまた飛び上がりそうになった。

「リョウ先生!」

 僕は満面の笑みで、先生を見上げた。会いに来てくれた!先生。先生。

「今日はニワトリにならないんだ?」

 先生はそう言いながら、ちょっと満足そうに笑った。僕が手に持ってる楽譜を、綺麗な目で見下ろしている。

「あの、リョウ先生……」
「ん?」
「何かやりたい曲があるかって、お話してたと思うんですけど……」
「俺、そんな話したっけ?」
 
 僕が固まると、先生がお腹を抱えて笑った。声は抑えてるけど、すごく楽しそうに笑っている。

 意地悪モードだ。でも、ほっぺを赤くして喜んでる僕がいる……。

 僕ったら、僕ったら!

「い、言ってましたよ! それで、僕はリョウ先生と連弾がしたいんです!」
「ふーん。何の曲?」

 楽譜見てるし、わかってるくせに。そう思いつつも、喜んでる僕がいる……。

 本当にもう、僕ったら!

「いつか連弾できたらいいねって、先生も言ってくれま……」
「ルイ。アウト」
「え?」
リョウ先生(・・・・・)

 あっ。

 僕は、両手で口を押さえた。

「頭の中では、いつも『先生』って呼んでるので……」
「なんで?」
「下の名前で呼ぶの、恥ずかしいので……」
「ふーん」

 先生は前髪をかき上げて、左側の口角をちょっと上げた。

「俺、それ知らないから」
「そ、そうですけど……」
「じゃあ俺は帰るね」
「えっ!?」

 大きな声を出してしまって、僕は再び口を両手で押さえた。

「か、帰っちゃうんですか!?」
「土曜日、すでに三回注意されてるからね?」

 か、数えられてる!でも、せっかく来てくれたのに……!

「帰って欲しくないなら、そう言えば?」
「え?」
「『帰らないで、リョウ先生』って、言えば?」

 先生の左側の口角が、完全に上がってる。どこか意地悪そうな表情で、目を細めて僕に微笑んでいる。

 ドックンドクンドクンドクンドクン————

 バイト先なのに。僕のこんな姿、誰かに見られたらどうしよう。

「か、帰らないでください……リョウ先生……」
帰らないで(・・・・・)

 ドキドキしてしまう。ゾクゾクしてしまう。

「か、か、かえ……」
「ルイ。前髪が目に入りそうだよ……? 俺に触って欲しくて、わざと伸ばしてるの……?」

 先生が僕の前髪を、長い指先で触ってくる。

 どうしよう。どうしよう。

 身体がもぞもぞしちゃう……!

「あれ? もしかして、ルイくんのピアノの先生ですか?」

 裕太くんが、脚立を片手に戻ってきた。コロコロされてる場合じゃない!バイトで頑張ってる姿も先生に見せなきゃ!ルイって結構頼りになるんだなって、先生に見直してもらうんだから!

「裕太くん! あっちの棚の整理、終わった? そう、ピアノの先生だよ!」

 しっかりしなきゃ!僕は得意げに先生を見上げた。

 先生は、全く笑っていなかった。

 僕のことも、全然見ていなかった。

裕太くん(・・・・)……ね」

 先生はつぶやいて、前髪をかき上げた。

 裕太くんをじっと見ている。ものすごく見ている。

「才賀です……。ルイがお世話になってます」
「あ、自分もここのバイトに入ったばっか……」
「才賀リョウです」
「え? あ、澤井裕太です……」

 裕太くんは脚立を足元に置いて、ぽかんとした。

「澤井裕太くん(・・・・)ね……ふーん」

 急に、先生は僕に視線を移した。

「ルイ」
「は、はい……!」

 今度は僕を、じっと見下ろしている。ちょっと上がった綺麗な二重瞼で、目力のある目で、僕をじっと見つめている。

 ドクドクドクドクドクドクドクドク————!

 先生。先生。僕、このあと先生と一緒に…………!

「ルイ。また明日、レッスンで」

 …………。

 え?

「か、帰っちゃうんですか!?」
「まだバイト中だろ?」
「そ、そうですけど……」

 このあと、どこかでお喋りしないの?

 また……抱きしめてくれないの?

「ルイ」
「はい……」
続きは(・・・)、また明日」

 先生は裕太くんに軽く頭を下げて、帰って行った。

 続きは(・・・)、また明日って……。

 続きって、続きって…………なに——————!?

「ルイくん、大丈夫?」

 本棚に何回もコツコツとおでこをぶつける僕に、裕太くんが声をかけた。

「ルイくんのピアノの先生、マジでイケメンなんだね?」
「うん……」
「俺さ、ルイくんの先生に睨まれた気がするんだけど……気のせい?」

 裕太くんが苦笑いをしている。

 ——俺、かなり嫉妬深いから——

 僕はほっぺをぺちぺちと叩いた。耳と頭から煙を出してる場合ではない!

 先生は僕と出かけると、必ず僕を家まで送ってくれる。

 僕の心を読んで、慰めてくれる。

 先生は愛情深くて、本当はとても優しい人だ。

「えっと……先生は裕太くんと一緒で、目がすごく綺麗で、ちょっと上がった綺麗な二重瞼で……」
「俺、あんなにイケメンじゃないけどね。ただ、俺も黙ってると、怒ってると思われるタイプでさ。そこは似てるかも?」

 二人ともキリッとした顔立ちだから、近寄りがたい印象があるのかもしれない。

「先生はね、すごく包容力があって……」
「バイト先にまで顔を出すなんて、面倒見がいいんだね?」

 先生が誤解されてないか、心配だったけど。裕太くんって冷静だな。よかった。

「だけどさ、ルイくん……」

 とっくに先生の姿は見えなくなっていたけど、裕太くんは、階段のほうを見つめた。

「どう見たってあれ、俺をけん制してたよ」
「え?」
「イケメン先生、ルイくんのこと好きなんじゃない?」

 ——続きは(・・・)、また明日——

 へなへなと、僕はしゃがみ込んだ。 

 先生が僕を好きなら、嬉しいんだけど。もしそうなら、すごく幸せなんだけど。

「ルイくん! 冗談だよ、冗談!」

 裕太くんも一緒にしゃがみ込んで、笑いながら僕の肩を叩いた。

「でも、冗談には見えないレベルだったけどね? 嫉妬した顔ってわかりやすいんだなあ。俺も気を付けよっと!」

 裕太くん。それ以上言われると、僕、立ち上がれなくなりそうです……。
 
 
『今日は来て下さって、ありがとうございました』

 お風呂に入ったあと、僕は先生にメッセージを送って、冷蔵庫を開けた。

 先生、晩ご飯食べたかな。

 バイト先に来てくれたから、一緒に食べられるかなって、ちょっと期待しちゃったや。

 晩ご飯を食べたあと散歩して、どこか公園に行って、それで…………。

 ——俺、かなり我慢してるよ……?——

 僕ったら!僕ったら!あの日からずっと、そんなことばっかり考えてる!

「はあああああ……」

 僕はテーブルに、左側のほっぺをくっつけた。冷たくて気持ちいい。ベッドの上のスマホ、振動してる……。

 あれ?ずっと振動してる?

 画面を見ると、先生からの着信だった。僕の心臓が飛び跳ねた。

「も、もしもし!?」

 僕はパジャマのズボンを握りしめて、ベッドの上で正座した。先生と電話するの、初めてだ!

「ルイ」

 甘くて低い声。いい声。

 ドキドキする。先生。先生。

「は、はい……」
「なんで彼のことは、裕太くん(・・・・)で、俺のことは名前で呼べないんだよ?」

 …………。
 
 え?

 先生……妬いてるの?

 胸がときめいてしまう。キュンキュンしてしまう。

 先生、やっぱり可愛い!

「次からは、ちゃんと『リョウ先生』って呼びます!」
「ふーん」

 拗ねてる。怒ってる。

 可愛い、可愛い……!

 僕はベッドに突っ伏して、足をジタバタさせた。

「じゃ、明日はいつも通りの時間でいいですね? 葉山さん(・・・・)

 ジタバタしてた足を、僕はピタリと止めた。

 あ、あれ……?

「リョウ先生、あの……」
「俺の名前を呼ばずにアウトになったから。また苗字からやり直しで」
 
 ええっ!さっき「ルイ」って言ってたのに!

 結局、僕コロコロされてる!さっきまでジタバタして、先生可愛いとか、優越感に浸ってたのに!

「な、名前で呼んでください!」
「なんで?」
「な、なんでって……! リョウ先生の『ルイ』が好きなんです!」
「そうなんだ。じゃ、おやすみ」
「リョウせん……」

 電話が切れてしまった。僕は、枕に顔をうずめた。

 先生を可愛いと感じるなんて、僕には一億年早かったってことだ。

 明日、どんな顔をして会ったらいいの……先生?

 スマホが振動した。僕はまた小指で、ちょんとメッセージをタップした。

『ルイ。言い忘れてた。続きは、また明日』


 あの、先生。僕、今夜もまた睡眠不足になりそうです……。