「ええっ!? 抱きしめられたあっ!?」

 直人の大きな声に、僕は慌ててまわりを見渡した。

 音が響きやすい大学の講堂。たくさんの学生が驚いたように僕たちを見て、顔を見合わせた。

「な、直人ったら! 声大きいよ!」
「ルイちゃん! 興奮するなってほうが無理だって!」

 月曜日の授業後。僕は、土曜日に先生に会ったこと、公園のベンチで抱きしめられたことを話した。

 直人は恋愛の先輩だ。いろいろとアドバイスも聞きたい。

「リョウ先生ね、ちょっと照れた顔をしてて。それがすごく可愛くて……」
「ほほお。さっそくお惚気ですか?」
「そ、そんな表情を初めて見たから!」

 直人が急に、唇を突き出してきた。

「イケメン先生と、これはしなかったの?」
「し、してない!」
「ほほお。ルイちゃん、一人で帰ったの?」

 晩ご飯を食べたら遅くなって。先生も帰るのが大変だから、一度は断ったけど……。

 ——俺に送られるの、嫌ってこと?——

「リョウ先生が、また僕の家の下まで送ってくれて……」
「家の下まで……ねえ?」
「ほ、本当だからね⁉ ご飯食べて、一緒に帰っただけだからね!?」

 あれこれ思い出しては、僕はベッドでジタバタしていて。この二日間で、羊をいったい何匹数えたのかわからないや……。
 
 恋ってドキドキするし、キュンキュンもするし、睡眠不足にもなるんだな。
 
「直人、今日ってバイトあるの?」
「ないよ」
「帰りに、いろいろ話したくて」
「もちろんいいよ!」

 僕と直人はカフェに向かった。僕は、キャロットケーキと炭酸入りのグレープジュース。直人は、チョコレートドーナツとカフェオレを選んだ。

 二人で二階に上がって、向かい合わせのソファー席に座った。
 
 平日の夕方。パソコンを開いて作業してる人がいたり、友達同士で語らっていたり。話すのにちょうどいい雰囲気だ。

 僕はキャロットケーキにフォークを刺した。フラワーガーデンのキャロットケーキ、可愛かったな。

 先生が僕の手を急に掴んで、どこか意地悪な表情で僕を見つめながら、左側の口角を上げて、フォークに近づいてきて…………。

「ルイちゃん。イケメン先生とのデートを思い出して、興奮してるでしょ?」
「こっ……! し、してない!」

 していたかもしれない。

「恋するルイちゃん。次のステップは、チューで決まりだね!」
「どぅだっ……でぃ……!」
「ルイちゃん、たびたび何語なのそれ?」

 チューとか!チューとか……!

 僕が耳まで真っ赤にすると、直人が嬉しそうにニヤニヤした。今日はドーナツのチョコレートを、口のまわりにくっつけている……。

「僕は、告白されたわけじゃないから……」
「だから、イケメン先生もキスを我慢したんじゃないの?」
「そうなのかな……」
 
 僕はTシャツの裾を引っ張って、身体をもぞもぞさせた。

「イケメン先生、ちゃんと順を追いそうじゃん」
「うん……」
「余裕があるし、紳士っぽいし」
「僕もそう思う……」
「でもなあ? なんでかSっぽさも感じるんだよなあ?」

 ——さっき、くすぐったかった?——

 僕はひじ掛けに突っ伏して、ぺしぺし!と何回もソファーを手のひらで叩いた。

 思い出しちゃう!思い出しちゃう!

「なんだあ? ルイちゃん、俺に話してないことあるんじゃないの?」

 直人が僕を見て笑っている。チョコレートまみれの口で笑っている。僕は炭酸入りのグレープジュースを、ストローで思い切り吸い込んだ。

 しゅわしゅわする。しゅわしゅわする。

「ある……けど……」
「ルイちゃん。もったいぶらないで、全部教えてよ?」

 ——俺、かなり我慢してるよ……?——

 しゅわしゅわしゅわしゅわしゅわ————!

「い、言えないよ! 僕の心臓が爆発しちゃう!」
「そりゃ大変だ!」

 直人は大笑いした。直人、僕のことなのにすごく嬉しそう。

 先生のこと、直人に話してよかったな。

「直人はさ、彼女がほかの男の子と仲良くしてて、嫉妬したこととかあった?」
「あったっていうか、現在進行形でもあるよ」

 僕は目をぱちぱちさせた。

「そうなの?」
「まあね。バイト先にイケメンが入ってきたとか言われるとさ。どんなヤツか、気になるわけよ」

 いつも頼りになって、リーダーっぽくて、カッコいいけど。直人にも、そんな一面があるんだ。

「しっかり者の直人も、嫉妬するんだね?」
「可愛いだろうっ!?」

 この反応は、先生とは違いそうだけども……。

「それを聞くってことは、イケメン先生が嫉妬してきたの?」
「『かなり嫉妬深いから』って、リョウ先生が言ってきて……」

 直人がまたニヤニヤしている。口のまわりがチョコレートだらけで、ドーナツの形のようになっている……。

「バイトの新しい男の子、裕太くんっていうんだけど。先生に、ちょっとだけ目元が似てて」

 僕は直人に紙ナプキンを渡した。直人がスマホの画面を見ながら、口のまわりのチョコレートを拭いている。

「髪型とか、声は違うんだけど。目がね、ちょっと上がった綺麗な二重瞼で……」
「ルイちゃん。それ、イケメン先生に言ったの?」

 僕はキャロットケーキを一口食べて、頷いた。

「ルイちゃん。それ、ガチで妬くやつだよ」

 直人は胸に両手をあてて、僕の真似をして目をぱちぱちさせた。

「ルイちゃんがこうやって、別の男にときめいてるわけだ?」
「と、ときめいてなんかいないよ!?」
「でも、目元が似てるんだろ? イケメン先生からしたら面白くないよ」

 先生と裕太くんは、口調もちょっと似てる。けど、親近感があるだけで、そういう感情で僕は裕太くんを見てないんだけど……。

「イケメン先生、ルイちゃんのバイト先に偵察に来るかもよ?」
「え?」

 直人は、おでこに手をかざして目を細めた。

「あのイケボで『俺に似てる男は、どいつだ?』って! 闘志を燃やしながら、メラメラと!」
「直人……?」
「前髪をかき上げて、色っぽく! あの綺麗な目で、裕太くんを睨んじゃったりして! たまんねえなオイ!」
「直人、たびたび何キャラなの……?」

 先生からバイト先の場所を聞かれて、楽譜フロアの担当だということも伝えたけど。

 いつか、顔を出してくれるかな……。

「恋するルイちゃん。イケメン先生はさ、なんでワルツの十五番を弾かなくなっちゃったの?」

 直人の言葉に、僕は複雑そうな表情をした店長さんを思い出した。

「僕もまだ、事情を知らなくて……」

 先生と一緒にいると、僕はいつもジェットコースターに乗らされて、コロコロされて。そんな僕じゃまだ、包容力は足りないかもしれないけど。

 それでもいつか、僕が先生の支えになれたらいいな。

「リョウ先生がね、いつか連弾できたらいいねって言ってくれて……」
「いいじゃん!」

 直人が笑って、カフェオレを飲んでいる。

「まだ早いかもしれないけど、木曜日に僕からお願いしようかなって思って」
「いいと思う! 『連弾』が何かわかんないけど」

 僕はソファーから転げ落ちそうになった。先生も直人も、僕を椅子から落とそうとしてくる。

「リョウ先生と一緒に、ピアノを弾くことね……」
「あー! 見たことある。隣同士で、イチャイチャしながら弾けるってことね?」
「イ、イチャ……! そんな余裕ないんだからね!? 必死なんだからね、僕は!」
「わかったよ、わかった!」

 天井を仰ぐ綺麗な横顔。鍵盤に触れる長い指先。メロディーに合わせて揺れる体。

 連弾の最中に、僕の心臓は本当に爆発しちゃうかもしれない……。

「ルイちゃんはさ、誰かと連弾したことあるの?」
「ううん。僕は、ないけど……」

 ——ルイくんみたいな子が、昔いてね——

 先生は、その子と愛のワルツの連弾がしたかったのに、できなかったのかな。

 それでピアノが嫌になって、愛のワルツも嫌になって、音楽から離れてしまったのかな。

「リョウ先生ね、音楽からもピアノからも、離れた時期があったって言ってて……」
「え? そうなんだ?」
「それを話してくれたとき、すごく寂しそうで……」

 うつむく僕に、直人が手を伸ばして僕のほっぺをつついてきた。

「ルイちゃん。恋愛は、持ちつ持たれつだよ」
「うん……」
「イケメン先生の心の傷をさ、ルイちゃんが癒せばいいんだよ」

 僕は頷いた。なんでかまた、泣きそうだ。

 僕と理由は違っても、「一番好きかもしれない」と話していた愛のワルツを、その曲を奏でるピアノを、どちらも嫌になってしまったなんて。

 先生のことを思うと、切ないからかな。

「ルイちゃん、泣くなよ! どうした?」
「わかんない……」

 先生に抱きしめられて、舞い上がってた僕だけど。

 僕はまだまだ、先生について知らないことばかりだ。

「ルイちゃん。これさ、弟にも言ったんだけど……」

 僕が顔を上げると、直人が朗らかに笑った。

「ちゃんと幸せになってよ? 俺、それが一番嬉しいからさ!」

 直人、優しい……。

 僕は、ぽろっと涙がこぼれてしまった。直人が焦って、僕の顔を両手であおいできて。僕はそれを見て、笑ってしまった。

 僕は直人といると、いつも元気になる。直人にとって僕も、そんな友達でありたい。

 先生にとっても、僕はそんな存在になりたい。

 でも、先生とは友達じゃなくて、僕は…………。


 ねえ、先生。僕はもっと、先生のことが知りたいな。

 いつか僕に、先生の心の傷を癒させてね?先生。