閉園の時間になって、先生と僕は駅に向かった。

 一日中ジェットコースターに乗ってる気分だったけど、幸せだったな。

 また来たい。先生と一緒に、また来たい。

 先生も楽しかったかな。先生も僕と同じ気持ちかな……。

「リョウ先生も、お花が好きなんですか?」
「ルイ。俺も好きだよ」

 ドキッとしてしまった。自分で質問しておいて、自分で顔を真っ赤にしている……。

「俺、花の名前とか全然詳しくないけどね」
「僕もです……」
「でも、好きなものは好きだから」

 僕は先生を見上げた。

 店長さんが僕に話していた。先生は、昔からピアノが好きだと。

 先生は、ピアノもお花も大好きで。ただ純粋に、どちらも楽しみたいのかもしれない。

 ——ルイくんみたいな子が、昔いてね——

 その子は、ピアノを辞めてしまったのかな。

 僕と同じで、ピアノを見ることさえ嫌になってしまったのかな……。

「ルイ」

 甘くて低い声。僕の頭の中を、愛のワルツが駆け巡る。

 先生はどうして、愛のワルツを弾かなくなってしまったんだろう。

 どうして僕には、弾いてくれたんだろう。

「木曜日。次は何が弾きたいか考えておいて」

 先生にぴったりな、愛のワルツ。

 僕の大好きな、愛のワルツ。 

 ピアノを再開したばかりで生意気かもしれない。

 でも……。

 僕は先生と一緒に、愛のワルツを弾きたい。

「あの……僕は、ブラームスの……」
「改札、右側のほうが空いてる」

 先生と僕は右側の改札を使って、ホームに向かった。

 電車はかなり混んでいた。ぎゅうぎゅうに近かった。

 先生は、また僕をドアに寄り掛からせてくれた。電車内で話してる人もいたけど、先生はずっと黙っていた。銀色のポールに掴まって、僕を潰さないようにしてくれた。

 反対側のドアが開閉して、次の駅も、その次の駅も、先生と僕は電車を一旦降りずに済んだ。

 だけど、駅ごとに人が乗ってきて、先生もどんどん押されて。僕の顔の前に、先生の胸板があるような状態で……。

 僕はドキドキして、どこを見ればいいのかわからなかった。

 電車が揺れるたび、僕の鼻先が先生の胸板に当たってしまって。僕は、顔が燃えそうなくらいに熱くなった。

「ルイ。次、降りるよ」
「は、はい……!」

 反対側のドアだ。背の高い男の人も多くて、僕は埋もれそうになって、先生の背中を上手く追えず。

 どうしよう。降りられない。先生、待って。

「す、すみません……ちょっと……」

 そう言いながら、人の波をかきわけた。僕の声に先生が振り返って、僕の手を掴んで電車を降りた。

「あ、ありがとうございます……」

 僕の手を先生が握っている。

 ホームで、たくさんの人が先生と僕を見ている。

 先生、ただでさえカッコよくて目立つのに。男の僕の手を握っていたら、みんな驚いて当然だ。

「晩ご飯まで散歩しよう」

 ぱっと離れた先生の手。

 急に離された僕の手。

 僕は、自分の小さな手のひらを見つめた。

 離されて当然だ。何をショックを受けて、寂しがってるんだろう。

 別に先生は、僕と手を繋ぎたかったわけじゃない。僕が降りられないから、助けてくれただけだ。

 ただ、それだけだ。それ以上でも、それ以下でも何でもない。

 僕って、自意識過剰だ。

「人が多いから……」

 先生がつぶやいて、僕は先生を見上げた。先生は前を向いていた。僕が見上げると、絶対に僕を見下ろしてくるのに。

 じっと見つめてきたり、左側の口角を上げて、ちょっと意地悪そうに目を細めて微笑んできたりするのに。

 そのときだけは、先生は前を向いていた。だから、僕も前を向いて歩いた。

 僕に歩幅を合わせてくれる先生の隣で、てくてくと歩いた。

 二人で公園に向かった。二人の影が伸びていた。

 背の高さ、全然違うな。先生は、影の形までカッコいいや……。

 僕は黙っていた。いつも必死に話してるのに、何も思いつかなくて。

 先生も、ずっと話さない。無言の時間が過ぎてしまった。

「ルイ」

 先生が長い指でベンチをさして、僕は座った。先生も、僕の隣に腰を下ろした。

 船がゆっくりと進んでいる。海が見える公園。花壇に咲くお花が、とても綺麗なベンチ。

 先生は、お花が見えるところに僕を連れて行ってくれる。

 カフェでもそうだった。僕と席を交換してくれて……先生は、本当に優しい。

 ちょっと意地悪だけど、それを大きく上回って優しくて、包容力がある。

 先生と一緒にいると、僕は幸せだ。

 だけど、つらい。

 僕、今日すごく楽しかったのに。

 先生。僕、つらい……。

「ルイ」
「はい……」
「なんでさっきから、何も話さないんだよ?」 

 先生が僕を見つめた。僕も先生を見つめた。

 太陽が海に沈んでいく。

 ——太陽が海に沈むとき。海に反射して、キラキラしてて綺麗だろ?——

 あっという間に、辺りは暗くなった。

 太陽、沈んじゃった。

 先生。太陽、沈んじゃったよ?

 僕の目も、先生から見えなくなっちゃうの?

 太陽が沈むと、先生は僕の心を読めなくなっちゃうの?

「今日が楽しくて……」
「楽しくて?」

 終わっちゃう。今日が、終わっちゃう。

 先生との時間が、終わっちゃう。

「それが、つらいからです……」
「何だよ、それ」

 そう言ったあと、いつも笑うのに。

 先生は、僕をじっと見つめているだけだった。

 僕、先生の気持ちがわからないよ。先生。

「リョウ先生、僕は……」
「ルイ。ご褒美、何か教えてあげようか?」

 先生は優しく微笑んだ。その微笑みに、僕はまた胸が締め付けられて。

 好きになったらダメだったのに。傷つくだけだったのに。

 僕は先生のことが大好きで。

 とっくにもう、大好きで。

 いまさら引き返せないよ。先生……。

「どうせ、教えてくれないじゃないですか……」
「よくわかったね?」

 先生が笑って、僕も笑った。笑った僕を見て、先生がまた微笑んだ。

「ルイ」
「はい……」
「ご褒美。これだよ」

 先生は、僕の頼りない背中に手を回して、僕の身体を強く抱きしめた。

 え…………?

「せん……せ……」
リョウ先生(・・・・・)

 ドキドキする。ドキドキする。

 なのに、どうしてだろう。

 同時にすごく、安心する……。

 先生、あったかい。先生の体温、あったかい。

「ノーコメントってことは、俺に抱きしめられるのが嫌ってこと?」
「嫌なわけ……ないです」

 先生は笑って、僕の頭の上に顎を乗せた。僕の背中を優しくさすっている。

 くすぐったい。くすぐったいけど、なんだか気持ちいい。

 もっとして欲しい。やめて欲しくない。

 僕は両手を太ももの間に挟んで、身体をもぞもぞさせた。

「ルイ。あんまり刺激するなよ」
「え?」
「俺、かなり我慢してるよ……?」

 甘くて低い声で、耳元で囁かれて。僕は身体がカチコチになった。

 だけど、もっと先生を感じたくて……。僕は、両手を伸ばして先生の背中に手を回した。

 広い背中。僕と全然違う。

 僕は自分の鼻先を、先生の鎖骨にくっつけた。

 先生、いい匂いがする。癒される。

 僕は、鼻先をちょっと動かした。先生。僕、先生と、もっと…………。

「ルイ。あんまり刺激するなってば……」
「す、すみません……」
「そろそろ晩ご飯に行こう」

 急に立ち上がった先生の顔を、僕は見上げた。

 先生は、ちょっと照れたような顔をしていた。

 僕は先生のその表情を見て、いつもカッコいいと思っていたのに、すごく大人だと思っていたのに。

 先生って可愛いなって。先生のことが、さらに愛おしくなった。

「ん?」
「えっと……何でもないです」
「何だよ、それ」

 先生が笑って、僕も笑った。

 僕、やっぱり期待してもいいのかな?

 僕、このまま大好きでいてもいいのかな?

 先生。先生……?


 僕の心を読む先生は、そのときは「ダメだよ」とは言わなかった。

 目を閉じて、愛のワルツを弾く前のように、綺麗な顔で夜空を仰いで。

 心地良さそうに美しく、風を感じて歩いていた。