「今からお迎えに伺いますね」

 初めて先生に出会った日。あの衝撃を、きっと僕は忘れられないだろう。

 僕よりもずっと背が高く、僕よりも肩幅があって、スッと高い鼻と、ちょっと上がった綺麗な二重瞼。

 長い前髪を真ん中から分けていて、黒髪もすごく先生に似合っていた。
 
 僕のことを迎えに、マンションの下まで降りてきてくれた先生。オートロックのガラス扉の向こうから現れた姿に、僕はリュックの肩ひもを握りしめてしまった。

 先生、カッコいい————

「は、はじめまして! 葉山ルイです!」
「はじめまして。階段が急なので、気を付けてくださいね」

 僕は笑って頷いたけど、内心かなり緊張していた。
 
 写真だと背が高いのはわからなかったし、もっと細身で、中性的な人を想像していた。

 実際は、体つきがしっかりしていて、骨格も顔も、すごく男らしい。

 同じ大学生だなんて、信じられないな。

「あの……お迎えありがとうございます!」

 鉄筋コンクリートの建物で大きくお礼を言って、僕の声が響き渡ってしまった。

「ここのマンション入り組んでまして。一歩間違えると、迷路なんですよ」

 そう言って、先生は笑った。笑った声まで、僕の胸がときめくいい声だった。

 僕の声は高いとまでは言わないけど、ごく普通で。だからか、僕は低い声に憧れがある。

 先生の声は低いだけじゃなくて、すごく甘い。

 ゆったりと話す口調も、なんだか大人の余裕を感じる。

 ドクンドクンドクンドクン————

 ドキドキする胸を、僕は両手で必死にさすった。ピアノ!僕はピアノを習いに来たんだ!

 先生は階段を三階まで上がって、三方向に分かれた廊下を、まっすぐ進んだ。同じドアがずらりと並んでいて、廊下もひとつ間違えると、別のブロックに辿り着いてしまうようだ。

 エレベーターもあったけど、点検中の張り紙がしてあった。

 本当に迷路みたい。RPGのダンジョンみたい。

 ネイビーのシャツを着て、腕まくりをする先生。途中から二人で歩けるくらいの幅になって、僕は隣からまじまじと先生を見てしまった。

 大きな手、綺麗だな。指も長い。爪は深爪くらい切ってある。喉仏、ゴツゴツしてる……。

「ん?」

 どした?という顔で、先生が僕を見下ろしている。僕は先生を見上げて、顔を小さく左右に振った。

「な、何でもないです……」

 先生は身長、何センチだろう。僕は小柄だし、そもそも僕の名前は男なのか女なのか、わからないと思われることが多くて。

 僕の名前で先生みたいな見た目だったら、ギャップがあって良さそうなんだけどな。

「ここね。どうぞ」 

 ドアを押さえる先生に頭を下げて、僕は先に玄関に入った。
 
 小さなキッチンを抜けた、奥の部屋。先生から僕が、ピアノを教わる部屋だ。

 オープン棚には洋書、楽譜、レコードとレコードプレーヤー、ワインのボトルが、まるで売り物みたいに綺麗に並べられている。

 細長くて青い、綺麗なガラスの花瓶もあった。

 先生、お花が好きなのかな?

「そこで座って、待っててくださいね」

 部屋の隅っこに、二人掛けの小さなテーブルセットがあった。赤茶色で、角が丸くて可愛い。僕は、先生に言われた通り腰を下ろした。

 日当たりのいい、二重サッシのベランダ。すぐ近くに電子ピアノがあって、椅子がふたつ並んでいる。

 僕がまた、ピアノを弾くなんて……。

 僕は部屋の中を見渡した。先生、すごくおしゃれな人だな。ここでピアノを習えるなんて、僕のモチベーションもアップしそうだ。

「ピアノ教室、溢れてると思うんだけど。どうして俺のところにしてくれたんですか?」

 標準語と丁寧語を織り交ぜながら話す先生は、ティーカップをふたつテーブルに置いた。

 僕は、先生が淹れてくれたお茶をすすった。ローズヒップティーだ。僕もたまに飲む。カフェみたいな部屋も素敵だし、先生も穏やかだし、僕ここに来て本当に良かった。

 直人、店長さん、どうもありがとう……。

「葉山さん?」

 先生が僕を見つめている。ちょっと上がった綺麗な二重瞼で、僕をじっと見つめている。

「ピアノ教室、溢れてると思うんだけど。どうして俺のところにしてくれたんですか?」

 先生にセリフをリピートさせてしまった。ちょっと!僕ったら何をやってるんだ!

「えっと! 同じ大学生のほうが、いろいろ聞きやすいかなと思いまして!」
「ふーん。それが理由……ね」

 し、しまった……。先生の反応が薄い。

 実際は、いくつか体験レッスンに行っても、なかなかいいところに出会えてなかったのに!

「それだけじゃなくて、優しそうだったので! 素敵な笑顔だなって思ったので!」
「なんかさ、焦って無理やり言ってない?」

 先生は笑って、長い脚を組んだ。

 僕と向かい合わせで、ハーブティーをすする先生。綺麗な顔だな、目力があって羨ましい。見れば見るほど、僕とは違う顔をしている。

 僕、たぬき顔なんだよな……。短髪も似合わないから、いつも前髪を下ろしてるし。

 先生は短髪も似合いそうだ。顔立ちがキリッとしてるから、黙ってると、怒ってるって思われるタイプかもしれない。

 でも、話してみたら優しいだなんて。それこそ、最高のギャップだな。

 僕、舐められやすいから。顔も体も、もっと男っぽくなりたかったな。

「挨拶遅れたけど、才賀です」

 先生は、ティーカップをテーブルに置いた。サイガって響きも、なんだかカッコいい。

「フルネームは、才賀リョウです。よろしくね」

 もうメールで知ってたけど、僕は頷いた。

「葉山くん。『もう知ってたけど』って顔をしたよね?」

 え?

「い、いえいえ……! 有益な情報をありがとうございます!」

 僕の言葉に、先生はカッコいい顔で大笑いした。心を読まれたみたいで一瞬びっくりしたけど、「葉山さん」から「葉山くん」になったの、嬉しい。

 丁寧語じゃなくなったのも、すごく嬉しい。
 
 さっきから喜んでばっかりだ、僕。

「葉山くんって面白いね。大学でも人気あるでしょ?」
「そんなことは……大学の友達から『ルイちゃん』とか呼ばれてますし……」
「じゃあ俺もそう呼ぼうかな。ね、ルイちゃん?」

 僕はティーカップを持ったまま、固まってしまった。

「ノーコメントってことは、嫌ってこと?」
「ぜ、ぜひ……! ルイちゃんでお願いします!」

 先生がまた笑っている。僕、変な人だと思われてないか心配だ……。

 初対面では特に、僕は必死に話してしまうところがあって。サークルの集まりから帰ると、いつもぐったりしていた。

 でも……今日は、ちょっとそれとは違う。

 さっきから僕、ずっとソワソワしてる。

「やっぱり、俺は違う呼び方をしたいな」
「え?」
「俺は、ルイくんって呼ぼうかな?」

 先生は頬杖をついて、目力のある目で、僕をじっと見つめた。
 
 先生だけの特別感。甘くて低い声で、僕のことを「ルイくん」だなんて……!

「ノーコメントってことは、嫌ってこと?」
「い、嫌なわけ……ないです!」
「ふーん。嬉しいってこと?」

 ドクンドクンドクンドクン————

「は、はい……」
「そう。レッスン、そろそろやりますか」

 先生が立ち上がって、僕は両手で顔をあおいだ。


 僕がピアノを辞めたのは小学生の頃で、しばらく鍵盤にすら触っていない。

 大学に入学して一ヶ月ちょっと。バイトもしてるけど、家と大学の往復じゃ味気なく思えてきて、久しぶりにピアノを始めることにした。

 あんなにピアノを避けていたのに、何かしようと思い立ったとき、僕の頭に真っ先に浮かんだのは、やっぱりピアノだった。

「ルイちゃん。週末、俺のバイト先に飯食いに来てよ?」 

 大学の帰り道、友達の直人に誘われた。なかなかいいピアノ教室が見つからなくてと、僕が直人に相談をした日だった。

「演奏してる人にも聞いてみたら? 個人で教えてる人もいるかも。同じ大学生とかさ!」

 思いつきもしなかった。SNSでも探してはいたけど、そういうのが得意じゃない先生だっているはずだ。
  
「直人、さすがだね! 行ってみようかな?」
「だろうっ⁉ 店長に話しておくよ!」

 その週末、僕は直人のバイト先に初めて出向いた。こんなおしゃれなところで働いていたんだと、僕は驚いてしまった。
 
 アメリカンな雰囲気。【Wish】と書かれた店の看板は、赤いネオンがピカピカしていた。

 扉を開けて店内に入ると、バーカウンターが目に入った。カウンターの向こう側で、直人がフライドポテトを揚げたり、ビールを注いだり、楽しそうに働いている。

「ルイちゃん! 予約の札、置いてあるから!」 

 ホールの左側に進むと、途中から一段高くなっていた。小さなテーブル席が並んでいる。

 右側も同じように一段高くなっていて、ちょっとしたステージのようになっていた。

 そこには、クロスで覆われたグランドピアノがあった。両側に、ステージ用のライトが設置されている。
 
 テーブル席からコンサートが楽しめるんだ。いいなあ、ここ。

 そこまで大きくはないお店だけど、天井が高めで開放感がある。音楽を楽しむのに最高の空間だ。

「ポテトは店長がサービスだって。パニーニはもうちょい待って!」
「いいの? 僕、まだ挨拶できてないのに」
 
 直人は短髪で、涼し気な一重に、筋肉質な体格だ。声は僕よりもずっと低い。背は平均程度だって言ってるけど、バランスがいいのか大きく見える。

 直人は一浪してるから僕のひとつ上だけど、「呼び捨てでいいよ!」と言ってくれて、僕は呼び捨てにしている。

 最初は慣れずに「直人くん」と何回も言ってしまった僕も、やっと自然に呼べるようになった。
 
 直人は一緒にご飯を食べに行っても、サークルでも、お酒をよく飲んでいる。特にビールが大好きだ。直人はすごく、お酒が強い。

 でも、僕にお酒を勧めることは絶対にしない。

 直人は僕の、自慢の友達だ。

「店長が、ルイちゃんのこと『女の子みたいに可愛いね』ってさ」
「喜んでいいのかな……?」
「喜べ喜べ! 目がパッチリしてて、色が白くて、可愛いってさ。俺も二重がよかったなあ!」

 直人は笑って仕事に戻った。

 僕は直人みたいな、男らしい見た目のほうがよかったんだけども。華奢な僕と違って、直人は力こぶもある。ワックスで立ち上げてる前髪も、いつも決まってる。
 
 僕は、壁に設置された大きな鏡を見た。やっぱり、たぬき……。目、もうちょっとキリッとならないかなあ。

 しばらくすると、演奏が始まった。今日は誰もグランドピアノを弾いてなくて、クロスに覆われたままだった。

 代わりに、男の人が二人でアコースティックギターをかき鳴らしていた。ギターもピアノとは一味違って、素敵だな。

 音楽っていいな。僕もまた、ピアノを純粋に楽しめるようになりたいな……。

「ポテト、ごちそうして下さってありがとうございました!」

 コンサートが終わると、僕はすぐにカウンターに向かった。音楽を聴きながら飲むジンジャーエールと、熱々のポテト、パニーニは最高に美味しかった。

 細面で、顎髭をたくわえた店長さん。父さんくらいの人を想像していたけど、ずっと若そうだ。自分のお店を持ってるなんて、すごいな。

「直人から聞いたよ。ルイちゃんっていう可愛い友達が、ピアノの先生を探してるって」

 直人、話してくれたんだ。優しい。
 
「俺の知り合いで一人、大学生で、ピアノが好きなやつがいるよ」

 店長さんがスマホをいじり始めた。直人も横から、興味深そうに覗いている。

「うおおおい……ルイちゃん、こりゃイケメンだぞ」

 なぜか直人が興奮している。

「リョウって名前なんだけどね。たまにピアノを教えてる程度で。欲がないっていうか、何ていうか……」
 
 店長さんは笑いながら、僕にスマホの画面を見せてくれた。

 僕がさっきまで座っていた、小さなテーブル席。そこで、隣に座る店長さんに笑顔を見せる、綺麗な横顔の男の人が写っていた。

 僕と同じ大学生なんだ。僕よりもずっと、大人に見える。

「何年生なんですか?」
「リョウは四年で、来年は院に行くとか言ってたな。ルイちゃんの三つ上だね」

 いつの間にか店長さんまで、僕をルイちゃんと呼んでいる。

「すごく落ち着いて見えますね?」
「リョウは昔っからそうだよ。だけどね、これが可愛いところもあるんだよなあ!」
 
 店長さんとは古い付き合いらしい。店長さんがお勧めするくらいだから、すごくいい人なんだろうな。

「趣味でピアノを習いたい子にしか、リョウは教えてなくてね。実力は相当なものだけど、『音大に通ってるわけでもないから』って言っててさ」

 むしろ、僕にぴったりかもしれない。僕も趣味でピアノを習いたいだけだ。

 ピアノをまた、好きになりたいだけだ。

 ——葉山くん、逃げるんだ?——

 思い出したくない……。

 僕は下唇を、ぎゅっと噛んだ。

「優しくて、いいやつだよ。ルイちゃんにも合うと思うな」

 僕はスマホの画面を見つめた。この人が僕の先生なら、あんな思いをしなくて済みそうだ。

「店長さん。この先生の連絡先を、教えて欲しいです!」

 僕の言葉に、直人が驚いている。

「珍しいじゃん。だいたい俺に相談するのに」

 そうかも。どうしたんだろう?僕。

「……ってことは、このイケメン先生とルイちゃん、めっちゃくちゃ相性いいのかもよ?」

 直人が笑って、店長さんも笑って、僕も笑った。


 先生のメールアドレスを聞いて、僕は、その日のうちにメールを送った。

 数時間後、先生は僕に返信をくれた。

『はじめまして、才賀リョウです。メールありがとうございます。店長からも連絡を貰ってました。大学生同士、楽しく過ごしましょう。早速ですが、日程のご提案です』

 丁寧な人だなと、僕は安心した。体験レッスンは無料だということと、自分もピアノの先生と言い張れるほどではないからと、ほかの教室よりもかなり抑えられた金額が記載されていた。

 これでいいのかな?そう思ったけど、月謝がお得なのはありがたい。

 レッスン、楽しみだな。

 優しそうな先生に会うのも、すごく楽しみだ!


 そして当日。張り切って出向いたら、先生のマンションに三十分も前に着いてしまった。僕は周辺をうろうろして、時間を潰すことにした。

 美味しそうなケーキ屋、色とりどりのお花屋、テラス席のあるカフェ……。飽きない街だな、なんだかワクワクする。
 
 五分前にまたマンションに戻って、先生が教えてくれた部屋番号を押した。オートロックの呼び出し音が、ピンポーンと鳴り響いた。

 あがり症の僕は、カチャッと呼び出し音が止まった瞬間に、大きな声で自分の名前を言った。

「あっ、体験レッスンに来た葉山です! 葉山ルイです!」
 
 ややあって、先生は返事をした。

「……こんにちは。お待ちしてましたよ、葉山ルイさん」

 その声に、不覚にも僕はドキッとしてしまった。

 甘くて低くて、すごくいい声だ……。

 そんなこと、全く想像してなかった僕の鼓動は、一気に駆け足になった。

 ドクンドクンドクンドクンドクン————


「今からお迎えに伺いますね」