アーリータイムズ

 母は、軽い膵炎を起こして入院したようだった。疲労の為か理由がわからず、暫く検査入院をするみたいだった。
 祖父に言われた通りに、病院の病室を訪ねると母がベッドで静かに横になっていた。俺が病室に入る音で目を覚ましたのか、母がゆっくりと俺の顔を見つめた。

 「あら?随分と久しぶりじゃない?私が病気にでもならない限り、実家にも帰ってこないの?」

母は嫌味っぽくそう言ったが、顔色はあまりよくなかった。

 「悪かったよ。言い訳だけど、帰ろうと何度も思ったけど、とにかく仕事でいっぱいいっぱいだった」

「佳月も一丁前に、奥さんに言い訳するサラリーマンみたいになったのね。私も歳をとるはずだわ」

母はそう言って少し笑った。今まで一度も母が病気になんてなった事はなかったので、俺は弱々しい母を見て不安を感じた。よく見ると、髪の毛には白髪が混じっているし、顔には小さな皺も刻まれていた。俺が家を出てから六年、時間は全ての人間に平等に流れていた。

 「もう年なんだから、あんまり無理して働き過ぎるなよ。今まで十分働いてきたんだから、じいちゃんだってもうだいぶ弱ってきたし」

「あんたは、そんな辛気臭い暗い事を言う為に帰ってきたの?辞めてちょうだい!あっそう言えば、この間灯ちゃんが、うちの病棟にピアノを弾きにきてくれたのよ?」

母が思い出したように、俺に言った。そう言えば、風太も灯もそんな話しをしていた。
灯の名前を聞くと、俺は自然に胸が少し痛んだ。

 「病棟の患者さん達、灯ちゃんのピアノを聴いて、もの凄く喜んでたわ。うちの病棟は、病状的には厳しい人達のいる病棟でしょ?絶望の中にいる人達が多いけど、灯ちゃんのピアノを聴いたら『生きる希望みたいな光を感じた』って。
素晴らしい事よね。私がいくら言葉で尽くしても、元気づけられない人間を、音楽だけで変えてしまう。音楽の根本の力って正にこれだと思ったわ」

 「音楽の根本の力、、、」

「灯ちゃんも言ってたわ"こういう人達の為に、私はピアノを弾きたかった。こんな最高のステージはない"って」

俺は思い出していた。あの日灯にぶつけた言葉を。

 "なあ、灯。灯はそんな所でピアノを弾いてるような人間じゃないだろ?もっと自分の価値を考えろよ"

全く何もわかっていなかった。灯が弾きたいピアノは、大きなステージで沢山のスポットライトを浴びて沢山の人から歓声を受けるようなピアノじゃなかった。
 たった一人の観客でも、その時の悲しみを一瞬でも忘れさせる事が出来るような、そんな優しいピアノが弾きたかったんじゃないか?

 「灯ちゃん、自分が何かを得る様な仕事じゃなくて、人の為に何か尽くせるような、そんな仕事をしたいと言ってたわ。誰かをサポートしたり、ケアしたり、灯ちゃんって昔からぶっ飛んでいたけど、気が効く、色んな事に気がつく子だったわよね」

お袋の言う通り、灯は部活のマネージャーでも部員の為に細かな仕事を率先してやっていたし、祖父の喫茶店でも色んな事に気を配りながら仕事をしていた。灯は昔から人をサポートするのが上手かった。俺は灯のピアノの才能ばかりに気を取られて、他のいい所を蔑ろにしていたんじゃないだろうか?