灯はピアノの前に行くと、一礼してピアノを弾き始めた。灯のピアノを聴くのはかなり久しぶりだった。灯は努力を重ねていて、昔に増してピアノの腕が上がっていた。昔、喫茶店で弾いていた時のように、灯の弾くピアノはきらきらと煌めいて、音が上から降ってくるみたいだった。打ち上げに参加していた人達も自然と灯のピアノに注目していた。

 「灯のピアノは相変わらずだね。綺麗で、自由で、楽しくて、輝いてる」

風太が俺の隣りで、灯を見ながら呟いた。

 「うん。昔から灯のピアノは人を惹きつけて離さなかったな」

「でも、不幸なのは灯がそれを望んでいない事だよね」

風太がいきなり俺にそんな事を言ってきたので驚いた。風太は俺を見て、少しにやっと笑った。

 「成瀬君、灯の気持ちを考えた事はある?灯はどんなに周りが灯のピアノを好きだと言っても彼女は全然嬉しくないんだよ。灯にとってピアノは、父親から強制された道具で、しかも姉を殺した道具でしかないんだ。だから絶対に好きにはなれない」

俺は軽い衝撃を受けた。灯が無理矢理ピアノを弾かされて、嫌だった事は知っていた。けれど、ジャズなら好きだと言っていたし、少なくとも昔、祖父の喫茶店でピアノを弾いている、灯は楽しそうに見えた、、、。

 「でも、クラシックは好きじゃないって言ってたけど、ジャズは好きなんじゃないのか?留学だって行って楽しそうにしてたし、、、。じいちゃんの喫茶店でも、楽しそうに弾いてたぞ?」

 「違うよ。なんで成瀬君ちの喫茶店でピアノを弾いていたかって、成瀬君と一緒にいられるからだよ。成瀬君と一緒に帰ってあの喫茶店に行きたいが為に、嫌いなピアノを弾いていたんだよ。嫌いなのに、自分にはピアノしか出来ないともがいてる。灯はずっと父親から逃れたいのに、逃れられなくて苦しんでる。 
 でも、先月に灯の父親亡くなったもんね」


えっ、、、?俺は酒なんて全然飲んでいないのに軽い眩暈がした気がした。

 灯の父親が亡くなった?そんな話しは全く聞かされていなかった。先月は、俺は殆ど仕事で海外にいて、灯との連絡も余り取れていなかった。けれど、どうして俺に一言も言ってこなかったのか、、、。

 「灯、これで自由になれるのかな?って言ってたよ。この間灯が地元に帰った時、成瀬君のお母さんが働いている病院で、患者さんに向けてピアノを弾いただろ?あれは凄く楽しかったみたいで『初めてピアノが弾けて良かったと思った』って言ってたよ」

全て俺の知らない灯の話しだった。
俺は一体どれくらいの間、灯とゆっくり話していなかったんだろう。灯は俺に話しをしようとしていたが、俺がそうさせなかったのかもしれない。
 とにかく忙しかった。目まぐるしく時間が過ぎていき、今の俺には恋愛なんてしている余裕がいっさいなかった。何かを掴もうとすると、何かは手放さなきゃいけない仕組みになっているのかもしれない。
 けれど、俺は灯だけは手放したくなくて必死だった。仕事を始めて、東京へ出て沢山の女性と知り合った。田舎にはいないような、洗練された女性、勿論接待で夜の店にも行って、煌びやか女性とも知り合った。
 それでも俺の中で変わらず、灯だけは誰にも替え難い存在だった。でも、俺は気づいていた。灯は本当は地元に帰りたいし、東京になんていたくない事も。
 
 灯はただ俺がいるから、ここにいるだけで、本当は今すぐにでも、阿武隈川の流れる美しい町に戻りたいんだ。しかし俺は、そんな灯の考えをつまらないと思っていた。
 灯なら世界へ出て、素晴らしい活躍が出来るはずだと。俺が仕事でどんどん変わって成長していくように、俺はいつのまにか灯にもそれを求めていたのかもしれない。