夏目さんが帰ったその後も、ヘルパーの人が来てくれたりと、いつも通りの日常生活を送っていると、すぐに夕方の時間になっていた。
東京でがむしゃらに働いて、それなりのお金を稼いだが、俺が最後の生涯を過ごす地に選んだのは、東北の玄関口にある、俺が産まれ育った地元の祖父の家だった。
 祖父はとっくに他界していたが、祖父が切り盛りしていた、阿武隈川沿いの喫茶店はそのままになっていて、その家で俺は在宅医療と介護を受けながら一人で闘病を続けていた。

 どうしてこの地に戻ろうかと思ったのは、俺の人生のルーツはここにある気がして仕方なかったからだ。
 自分の生涯で、重要なポイントがあるとすれば、高校生から二十代のいわゆる青春時代と言われるあの年代だったと思う。若さ故の純粋さと、切なさと苦しさと、葛藤と、目まぐるしく変わりゆく感情を抱きながら、必死に何かを掴もうともがいていた、あの時期が俺にとっては忘れられない、一番輝いていた時期だった。

 阿武隈川に夕陽が降り注ぎ、水面を赤く染め始めるだろうという時間に、玄関のチャイムがなった。
俺は、うたた寝をしていたのか微睡の中にいて、
ある名前を口に出していた。

 「灯、、、?」

 
 自分の口からその懐かしい名前を出した時、俺は古い約束を思い出した。

 『佳月、またいつか、一緒に記憶花火を見ようね』

灯は俺に別れを告げる時にそう言ったのだ。

 「成瀬さん、朝と体調変わりない?もう皆んな集まって、屋台も凄い人でしたよ。混雑を避ける為に早めにでましょうか?」

夏目さんがそう言いながら、俺の部屋に入ってきて準備を始めた。携帯用の酸素ボンベを車イスに付け替えて、何かあった時の為の薬も準備した。花火会場は、家から歩いて数分だが、それでも家を出るだけで準備は大変だった。
 ベッドから車椅子に乗り換えると、夏目さんが車椅子を押してくれて、家を出た。

 「夏目さん、悪いなぁ」

夏目さんは、朝と変わらない調子で俺に言った。

 「時給五千円ですからね!あと、りんご飴も買ってもらいますよ!」

「百本くらい買ってもいいよ」

 「本当に買ってもらいますからねー!今日は成瀬さんの財布は私がしっかり握ってますからね」

 玄関から外へ出ると、阿武隈川から吹いている湿った暑い風が肌にあたった。お盆を過ぎれば時期に肌寒くなる、真夏のような蒸し暑さを感じるのは今が一番ピークだ。大きな山に囲まれて、綺麗な阿武隈川が流れているこの町を、昔は酷く窮屈に思っていたが、今では見る事が出来ないその景色を、心から愛おしく思う。
 
 目で見る事が出来ない分、他の感覚が研ぎ澄まされているのか、今まで感じる事の出来なかった、微妙な人の気持ちの変化や、匂い、肌触りなどに敏感になった気がする。花火大会で、楽しそうに浮かれあがっている人達や、暑くて人混みが怖くて泣いている赤ちゃん、威勢の良い的屋の呼び込みの声。
 全てがダイレクトに俺の耳から脳へと刺激していった。

 「成瀬さん、私、灯籠流しをしてくるので、少しここで待っていてもらえますか?」

「いいよ。ゆっくり行ってらっしゃい」

「すみません。毎年、お盆はここで灯籠流しをするんです。ちょっと行ってきますね」

夏目さんは、そう言うと車椅子のブレーキをかけて、口に出して酸素の確認をして、その場を去っていった。