強い夜風が、容赦なく頬を殴りつける。その冷たさは、まるで生きることへの執着を試すかのようだった。私は屋上の錆びついた手すりを握りしめ、震える指先に自分の弱さを感じる。眼下には街灯に照らされた街並みが静かに横たわっている。人々の笑い声や温かな明かりの一つひとつが、私が二度と触れられない世界の象徴のように見えた。
ふと夜空を仰ぐと、澄んだ闇の中に満月が浮かんでいた。あまりにも儚げに輝くその光は、今にも崩れて散ってしまいそうで……それはまるで、私自身の命の行く末を映しているように思えた。
時刻は深夜二時、私は今、病院の屋上に立っている。
この細い鉄の柵を越えてしまえば、全ては終わる。二、三歩進めば、私の人生の重さも苦しみも、すべて無音の衝撃にかき消されていくはずだ。だが、心の奥底では必死に叫ぶ声がある。「まだ生きたい」と。けれど同時に別の声が囁く。「これ以上耐える必要はない」と。二つの声が胸の内でぶつかり合い、私は息をするたびに軋むような痛みに苛まれる。
足元に広がる闇は、果てしなく続く奈落のように私を誘う。地面は確かにそこにあるのに、私には底知れぬ深淵の口を開いて待ち構えているようにしか見えなかった。恐怖と安堵、絶望と解放、その全てが渦を巻き、私は一歩を踏み出すことも、引き返すこともできずに立ち尽くしていた。
夜の暗さが足元の高さを覆い隠し、深淵をただの影に変えてくれているのが救いだった。昼間のように、視界いっぱいに広がる落差を突きつけられれば、とても足を前に出す勇気など持てなかっただろう。夜の闇は、私にとって都合の良い仮面だった。
東尋坊のように荒れ狂う波が岩を叩きつける断崖絶壁ではない。そこに身を投げれば、冷たい海が屍を呑み込み、魚の餌となる未来まで想像してしまう。そんな惨めな最期に比べれば、この屋上からの一歩は、ずっと穏やかな終焉に思えた。
もちろん、怖い。怖くてたまらない。膝は震え、指先は汗ばみ、今すぐにでも逃げ出したい衝動に駆られている。だが、逃げ出した先に待っている現実の方が、もっと恐ろしい。治ることのない病への不安。削られていく未来への絶望。残り少ない時間を数える日々に押し潰される苦しみ。私はもう、それに耐え抜く自信を持てなかった。
だからこそ、私は決めた。自ら幕を下ろすという選択を……。
短すぎる寿命を「生き抜く」気力はないけれど、まだ自分の意思で終わらせることはできる。せめて元気なうちに、早乙女翠という人生に終止符を打ちたい――それが、最後に残された私の自由だった。
大和君といるのは、もちろん楽しい。彼と一緒にいるときだけ、私は病気のことを忘れ、まるで普通の日常を過ごしているかのように錯覚できる。何気ない会話が愛おしい。ふいに見せる無邪気な笑顔が好きだ。からかうと返ってくる、あの少し拗ねたような表情でさえ、私にとっては宝物だった。
けれど……それでも私は悩んだ。
不治の病であること……本当の自殺理由を彼に告げ、残り少ない人生をまるで恋愛小説のヒロインのように輝かせる。家族や彼に最期を見届けてもらい、涙の中で幕を下ろす。そんな物語のような最期を夢想したこともある。
でも、それは私のわがままだ。
私にそんな資格はない。そして、生きると決めた彼を、死へと引きずり込む権利なんて、私には到底許されていない。彼は一度、世界の残酷さに押し潰されながらも、それでも諦めず、理不尽を受け入れた上で生きる決意をした。そんな彼の手を、私が握ることなどできない。私はそこまで腐り切ってはいない。
大きく息を吸い込む。肺の奥に夜気を詰め込み、吐き出すたびに心臓の鼓動が加速していく。私はもう一歩、屋上の縁へと近づいた。あと半歩……あと半歩で、すべてが終わる。
足元から吹き上げてくるビル風は鋭い刃のように体温を削ぎ取り、私の体をふらつかせる。油断すれば、風の一押しだけで地面へと叩きつけられてしまうだろう。だからこそ、私は手すりを掴んだ。最期の瞬間だけは、自分の意思で逝きたい。無様に吹き飛ばされて死ぬなんて、あまりに惨めすぎる。
背後からは看護師たちの声が飛んでくる。必死に呼び止める声、震える声、電話越しに警察へ通報する声、そして私の両親に説明する声。幾重にも重なった声の断片が、風にちぎられながら耳に突き刺さる。だが、誰一人として近づいてはこない。私が動揺して飛び降りることを恐れているのだろう。私にとっては、むしろ好都合だった。
視線を下ろせば、病院の前に赤い光が滲んでいる。パトカーが数台、信号を無視して駆けつけていた。きっと私を説得し、生へと引き戻すために……。だが、もう遅い。
ここまで大勢を巻き込み、大仰な騒ぎとなってしまった以上、私は生き延びることなどできない。再び「自殺に失敗した人間」として明日を迎えるくらいなら、今この場で「早乙女翠」の人生に幕を下ろした方がまだ救いがある。惨めさに押し潰されるより、恐怖を抱えたままでも飛び込む方が、ずっと……楽だ。
心の奥底から溢れ出す、堰き止めることのできない死への恐怖に、私は必死に蓋をする。だがそれは粗末な木板のように脆く、今にも破れそうだった。全身が粟立ち、足元から血が引いていくのを感じながら、私は体重を前へと預ける。
その瞬間、ポケットの中で震える感触が走った。反射的にスマホを取り出す。画面には「宇佐美大和」の名前。そして開いた通知には、たった一行だけ。
「……これからも隣にいてほしい」
喉の奥から何かがこみ上げ、呼吸が詰まった。視界が滲み、指が震える。私は無意識に画面を押してしまう。確かにそこに私は既読」をつけた。
けれど、返事は打てない。打てるはずがなかった。
大和君のその願いに、私はもう応えられない。ずっと欲しかった言葉なのに……。
彼の優しさを踏みにじり、期待を裏切ることしかできない自分が、たまらなく惨めで、悔しくて、吐き気がするほどに情けなかった。
「ありがとう」「ごめんね」「先に逝きます」と一言返すだけでさえ、指は動かない……動いてくれない。
涙で滲んだ画面を見つめながら、心の奥底で何度も叫ぶ。
ごめんね、ごめんね、大和君。
それなのに声は喉の奥に貼りついて、どうしても外へ出てくれなかった。
恐怖に支配された瞼は、自らの意思に反して固く閉ざされ、闇の中へと世界を押しやった。 全身が震える中、私はついに足先に力を込め、体重を前へと預け、いよいよ飛び降りる。
耳に飛び込んできたのは、かすかに震える看護師の悲鳴。だがその声も、次第に遠ざかり、霧の中に吸い込まれていく。
内臓がふわりと浮き上がる感覚は、まるでジェットコースターに投げ出された瞬間のようだった。だが、安全装置も軌道もここにはない。落下の恐怖と同時に、何ものにも縛られぬ感覚が、確かに全身を撫でていく。
こんな感覚生まれて初めてだ。
ああ、そうか……。
私は今、この瞬間、本当の意味で自由になれたんだ。
地面に打ちつけられるまでの、ほんの数秒。けれどその短い時間に、走馬灯のように記憶が一気に脳を支配した。
東尋坊で大和君と一緒に過ごした時とは違い、今はまるで映画のスクリーンのように、彼と重ねてきた日々が鮮やかに脳裏を駆け巡っていく。
大和君と交わした何気ない会話。
コンビニのアイスを分け合って食べた図書館からの帰り道。
ふとした瞬間に視線が重なって、思わず目を逸らしたあの気まずさ。
駅前のベンチでジュースを飲みながら、取りとめのない話で笑い合った夕暮れ。
雨に降られて、二人でひとつのコンビニ傘にぎゅっと寄り添って歩いたこと。
古本屋で偶然同じ本に手を伸ばして、顔を見合わせて照れ笑いした瞬間。
バス停で何もせず並んで座っていたのに、不思議と心が満たされていった時間。
全部、全部が愛おしくて……生きていることの証みたいに心に焼きついていた。
どんな病気の記憶よりも、どんな苦しみよりも、大和君と過ごした時間だけが私の人生を確かに彩っていた。
――これが「死ぬ」ということなのだろう。
胸の奥で、氷のような静けさが広がっていく感覚が全身に広がっていく。
お父さん、お母さん。
本当にごめんなさい。
親より先に死に、自ら命を絶とうとする娘を、どうか許してください。
私はいつだってわがままで、迷惑ばかりをかけてきました。結局ひとつも親孝行らしいことをできないまま、こうして幕を下ろそうとしています。それが、胸に突き刺さる唯一の後悔です。
「生まれ変わってもまた二人の娘でいたい」……そんな綺麗事を私は言えません。けれど願わくば、もし次の生があるのなら、早乙女家の飼い猫にでも生まれ変わりたい。今度こそ、二人の最期まで寄り添い、見届けることができたら、それが私にできる唯一の償いだと思うのです。
私は二人が大好きです。生まれてから今日まで、感謝でいっぱいです。
もし病など抱えていなければ、私はきっともっと人生を楽しめたでしょう。旅も、恋も、未来も……手にできたはずでした。けれどそれを奪った運命を、私はもう恨んでいません。十分に考え、整理し、受け入れることができました。健康な体で産んでくれなかった二人のことを責める気持ちなど、微塵もありません。
大和君。
あなたと出会えたことが、私の唯一の救いでした。君がくれた何気ない言葉、ふいに笑った横顔、そして何よりも、私と積み重ねてくれた時間……そのひとつひとつが、私の心を温め、壊れかけた私を何度もつなぎ止めてくれました。
気づけば、君のことを考えてばかりでした。朝目覚めても、夜眠る前でも、頭のどこかに必ず君がいた。声を聞くだけで安らいで、隣を歩くだけで胸が高鳴って、ふと指先が触れそうになるたびに、息が止まるほど苦しくて……それでも幸せで。こんなにも人を好きになる気持ちが、この世にあったなんて知らなかった。君の存在は、私にとって恋そのものだった。
一緒に過ごした時間は短かったけれど、私の心をこんなにも揺さぶり、鮮やかに色づけてくれたのは、あなただけです。契約という枠組みを越えて、私は確かにあなたを愛してしまった。だからこそ、あなたの隣で過ごせた瞬間のすべてが、私にとっては宝物です。
もし違う世界で生まれ変われるのなら、今度は「契約者」なんて関係じゃなく、叶うならば「恋人」として、もっと自然に笑い合いたい。未来を語り合って、肩を寄せ合い、何気ない毎日を共に過ごしたい。
本当はね、ずっと「好き」って言いたかった。言葉にした瞬間、もう後戻りできなくなる気がして怖くて、だから卑怯にも手紙でしか君に「好き」と言えなかった。
どうしようもないくらい、君のことが好きでした。
何度も君への想いが言葉として喉まで出かかったのに、結局その一言が言えなかった。言ってしまえば、この関係が壊れてしまいそうで怖くて。契約に縛られた関係の中で、「好き」と口にすることが許されないように思えて、心の奥に押し込めるしかなかった。
けれど、君と過ごす時間のすべてが愛おしかった。歩く速度を合わせてくれる優しさも、困ったときに必ず差し伸べてくれる手も、ふと見せる無防備な笑顔も……全部が私を惹きつけてやまなかった。君の声を聞くたびに胸が震えて、隣にいるだけで世界が少しだけ明るくなる気がした。
だから、本当は君に伝えたかった。
「ありがとう」でも「ごめんね」でもなく、「好き」というたった一言を。
契約の言葉ではなく、私の心からの気持ちとして。
もし次と出会えたのなら、そのときは迷わず言いたい。
本当はずっと君が好きだった、と。
それでも……こうして自分の意思で飛び降りることができた今、私は幸せです。
……さようなら……大和君。
(終)
ふと夜空を仰ぐと、澄んだ闇の中に満月が浮かんでいた。あまりにも儚げに輝くその光は、今にも崩れて散ってしまいそうで……それはまるで、私自身の命の行く末を映しているように思えた。
時刻は深夜二時、私は今、病院の屋上に立っている。
この細い鉄の柵を越えてしまえば、全ては終わる。二、三歩進めば、私の人生の重さも苦しみも、すべて無音の衝撃にかき消されていくはずだ。だが、心の奥底では必死に叫ぶ声がある。「まだ生きたい」と。けれど同時に別の声が囁く。「これ以上耐える必要はない」と。二つの声が胸の内でぶつかり合い、私は息をするたびに軋むような痛みに苛まれる。
足元に広がる闇は、果てしなく続く奈落のように私を誘う。地面は確かにそこにあるのに、私には底知れぬ深淵の口を開いて待ち構えているようにしか見えなかった。恐怖と安堵、絶望と解放、その全てが渦を巻き、私は一歩を踏み出すことも、引き返すこともできずに立ち尽くしていた。
夜の暗さが足元の高さを覆い隠し、深淵をただの影に変えてくれているのが救いだった。昼間のように、視界いっぱいに広がる落差を突きつけられれば、とても足を前に出す勇気など持てなかっただろう。夜の闇は、私にとって都合の良い仮面だった。
東尋坊のように荒れ狂う波が岩を叩きつける断崖絶壁ではない。そこに身を投げれば、冷たい海が屍を呑み込み、魚の餌となる未来まで想像してしまう。そんな惨めな最期に比べれば、この屋上からの一歩は、ずっと穏やかな終焉に思えた。
もちろん、怖い。怖くてたまらない。膝は震え、指先は汗ばみ、今すぐにでも逃げ出したい衝動に駆られている。だが、逃げ出した先に待っている現実の方が、もっと恐ろしい。治ることのない病への不安。削られていく未来への絶望。残り少ない時間を数える日々に押し潰される苦しみ。私はもう、それに耐え抜く自信を持てなかった。
だからこそ、私は決めた。自ら幕を下ろすという選択を……。
短すぎる寿命を「生き抜く」気力はないけれど、まだ自分の意思で終わらせることはできる。せめて元気なうちに、早乙女翠という人生に終止符を打ちたい――それが、最後に残された私の自由だった。
大和君といるのは、もちろん楽しい。彼と一緒にいるときだけ、私は病気のことを忘れ、まるで普通の日常を過ごしているかのように錯覚できる。何気ない会話が愛おしい。ふいに見せる無邪気な笑顔が好きだ。からかうと返ってくる、あの少し拗ねたような表情でさえ、私にとっては宝物だった。
けれど……それでも私は悩んだ。
不治の病であること……本当の自殺理由を彼に告げ、残り少ない人生をまるで恋愛小説のヒロインのように輝かせる。家族や彼に最期を見届けてもらい、涙の中で幕を下ろす。そんな物語のような最期を夢想したこともある。
でも、それは私のわがままだ。
私にそんな資格はない。そして、生きると決めた彼を、死へと引きずり込む権利なんて、私には到底許されていない。彼は一度、世界の残酷さに押し潰されながらも、それでも諦めず、理不尽を受け入れた上で生きる決意をした。そんな彼の手を、私が握ることなどできない。私はそこまで腐り切ってはいない。
大きく息を吸い込む。肺の奥に夜気を詰め込み、吐き出すたびに心臓の鼓動が加速していく。私はもう一歩、屋上の縁へと近づいた。あと半歩……あと半歩で、すべてが終わる。
足元から吹き上げてくるビル風は鋭い刃のように体温を削ぎ取り、私の体をふらつかせる。油断すれば、風の一押しだけで地面へと叩きつけられてしまうだろう。だからこそ、私は手すりを掴んだ。最期の瞬間だけは、自分の意思で逝きたい。無様に吹き飛ばされて死ぬなんて、あまりに惨めすぎる。
背後からは看護師たちの声が飛んでくる。必死に呼び止める声、震える声、電話越しに警察へ通報する声、そして私の両親に説明する声。幾重にも重なった声の断片が、風にちぎられながら耳に突き刺さる。だが、誰一人として近づいてはこない。私が動揺して飛び降りることを恐れているのだろう。私にとっては、むしろ好都合だった。
視線を下ろせば、病院の前に赤い光が滲んでいる。パトカーが数台、信号を無視して駆けつけていた。きっと私を説得し、生へと引き戻すために……。だが、もう遅い。
ここまで大勢を巻き込み、大仰な騒ぎとなってしまった以上、私は生き延びることなどできない。再び「自殺に失敗した人間」として明日を迎えるくらいなら、今この場で「早乙女翠」の人生に幕を下ろした方がまだ救いがある。惨めさに押し潰されるより、恐怖を抱えたままでも飛び込む方が、ずっと……楽だ。
心の奥底から溢れ出す、堰き止めることのできない死への恐怖に、私は必死に蓋をする。だがそれは粗末な木板のように脆く、今にも破れそうだった。全身が粟立ち、足元から血が引いていくのを感じながら、私は体重を前へと預ける。
その瞬間、ポケットの中で震える感触が走った。反射的にスマホを取り出す。画面には「宇佐美大和」の名前。そして開いた通知には、たった一行だけ。
「……これからも隣にいてほしい」
喉の奥から何かがこみ上げ、呼吸が詰まった。視界が滲み、指が震える。私は無意識に画面を押してしまう。確かにそこに私は既読」をつけた。
けれど、返事は打てない。打てるはずがなかった。
大和君のその願いに、私はもう応えられない。ずっと欲しかった言葉なのに……。
彼の優しさを踏みにじり、期待を裏切ることしかできない自分が、たまらなく惨めで、悔しくて、吐き気がするほどに情けなかった。
「ありがとう」「ごめんね」「先に逝きます」と一言返すだけでさえ、指は動かない……動いてくれない。
涙で滲んだ画面を見つめながら、心の奥底で何度も叫ぶ。
ごめんね、ごめんね、大和君。
それなのに声は喉の奥に貼りついて、どうしても外へ出てくれなかった。
恐怖に支配された瞼は、自らの意思に反して固く閉ざされ、闇の中へと世界を押しやった。 全身が震える中、私はついに足先に力を込め、体重を前へと預け、いよいよ飛び降りる。
耳に飛び込んできたのは、かすかに震える看護師の悲鳴。だがその声も、次第に遠ざかり、霧の中に吸い込まれていく。
内臓がふわりと浮き上がる感覚は、まるでジェットコースターに投げ出された瞬間のようだった。だが、安全装置も軌道もここにはない。落下の恐怖と同時に、何ものにも縛られぬ感覚が、確かに全身を撫でていく。
こんな感覚生まれて初めてだ。
ああ、そうか……。
私は今、この瞬間、本当の意味で自由になれたんだ。
地面に打ちつけられるまでの、ほんの数秒。けれどその短い時間に、走馬灯のように記憶が一気に脳を支配した。
東尋坊で大和君と一緒に過ごした時とは違い、今はまるで映画のスクリーンのように、彼と重ねてきた日々が鮮やかに脳裏を駆け巡っていく。
大和君と交わした何気ない会話。
コンビニのアイスを分け合って食べた図書館からの帰り道。
ふとした瞬間に視線が重なって、思わず目を逸らしたあの気まずさ。
駅前のベンチでジュースを飲みながら、取りとめのない話で笑い合った夕暮れ。
雨に降られて、二人でひとつのコンビニ傘にぎゅっと寄り添って歩いたこと。
古本屋で偶然同じ本に手を伸ばして、顔を見合わせて照れ笑いした瞬間。
バス停で何もせず並んで座っていたのに、不思議と心が満たされていった時間。
全部、全部が愛おしくて……生きていることの証みたいに心に焼きついていた。
どんな病気の記憶よりも、どんな苦しみよりも、大和君と過ごした時間だけが私の人生を確かに彩っていた。
――これが「死ぬ」ということなのだろう。
胸の奥で、氷のような静けさが広がっていく感覚が全身に広がっていく。
お父さん、お母さん。
本当にごめんなさい。
親より先に死に、自ら命を絶とうとする娘を、どうか許してください。
私はいつだってわがままで、迷惑ばかりをかけてきました。結局ひとつも親孝行らしいことをできないまま、こうして幕を下ろそうとしています。それが、胸に突き刺さる唯一の後悔です。
「生まれ変わってもまた二人の娘でいたい」……そんな綺麗事を私は言えません。けれど願わくば、もし次の生があるのなら、早乙女家の飼い猫にでも生まれ変わりたい。今度こそ、二人の最期まで寄り添い、見届けることができたら、それが私にできる唯一の償いだと思うのです。
私は二人が大好きです。生まれてから今日まで、感謝でいっぱいです。
もし病など抱えていなければ、私はきっともっと人生を楽しめたでしょう。旅も、恋も、未来も……手にできたはずでした。けれどそれを奪った運命を、私はもう恨んでいません。十分に考え、整理し、受け入れることができました。健康な体で産んでくれなかった二人のことを責める気持ちなど、微塵もありません。
大和君。
あなたと出会えたことが、私の唯一の救いでした。君がくれた何気ない言葉、ふいに笑った横顔、そして何よりも、私と積み重ねてくれた時間……そのひとつひとつが、私の心を温め、壊れかけた私を何度もつなぎ止めてくれました。
気づけば、君のことを考えてばかりでした。朝目覚めても、夜眠る前でも、頭のどこかに必ず君がいた。声を聞くだけで安らいで、隣を歩くだけで胸が高鳴って、ふと指先が触れそうになるたびに、息が止まるほど苦しくて……それでも幸せで。こんなにも人を好きになる気持ちが、この世にあったなんて知らなかった。君の存在は、私にとって恋そのものだった。
一緒に過ごした時間は短かったけれど、私の心をこんなにも揺さぶり、鮮やかに色づけてくれたのは、あなただけです。契約という枠組みを越えて、私は確かにあなたを愛してしまった。だからこそ、あなたの隣で過ごせた瞬間のすべてが、私にとっては宝物です。
もし違う世界で生まれ変われるのなら、今度は「契約者」なんて関係じゃなく、叶うならば「恋人」として、もっと自然に笑い合いたい。未来を語り合って、肩を寄せ合い、何気ない毎日を共に過ごしたい。
本当はね、ずっと「好き」って言いたかった。言葉にした瞬間、もう後戻りできなくなる気がして怖くて、だから卑怯にも手紙でしか君に「好き」と言えなかった。
どうしようもないくらい、君のことが好きでした。
何度も君への想いが言葉として喉まで出かかったのに、結局その一言が言えなかった。言ってしまえば、この関係が壊れてしまいそうで怖くて。契約に縛られた関係の中で、「好き」と口にすることが許されないように思えて、心の奥に押し込めるしかなかった。
けれど、君と過ごす時間のすべてが愛おしかった。歩く速度を合わせてくれる優しさも、困ったときに必ず差し伸べてくれる手も、ふと見せる無防備な笑顔も……全部が私を惹きつけてやまなかった。君の声を聞くたびに胸が震えて、隣にいるだけで世界が少しだけ明るくなる気がした。
だから、本当は君に伝えたかった。
「ありがとう」でも「ごめんね」でもなく、「好き」というたった一言を。
契約の言葉ではなく、私の心からの気持ちとして。
もし次と出会えたのなら、そのときは迷わず言いたい。
本当はずっと君が好きだった、と。
それでも……こうして自分の意思で飛び降りることができた今、私は幸せです。
……さようなら……大和君。
(終)

