空を見上げて、思わず深呼吸する。今日は、本当にいい天気だ。
空はどこまでも青く澄み切っていて、雲ひとつない。太陽は眩しいけれど、光は柔らかく、肌に当たる感触はどこか心地いい。木々の緑は朝の光にきらきらと輝き、遠くで小鳥たちが楽しげにさえずっている。
もう、長袖じゃ少し暑いくらいの季節だ。道端には紫陽花が咲き誇り、雨上がりの名残なのか、花びらには小さな水滴が光っている。風が吹くたび、花の香りがふんわりと漂って、僕の胸の奥まで届くようだ。自転車のベルの音や、学校へ急ぐ子どもたちの声が、夏の始まりを告げている。
翠がいなくなってから、今日で二年が経った。
あの日のことは、まるで昨日のことのように思い出す。
翠の死後、しばらくの間僕は本当に迷った。何度も翠の後を追おうと考えて、実行寸前まで心が動かされた。でも、翠が最後に残したメッセージが、僕を現実に生き残らせた。
全く、「早乙女翠」ってやつは本当に迷惑な人だ。もしあのメッセージがなければ、僕は今頃翠の元にいて、天国を謳歌できていたというのに……。
僕は心の中で翠を皮肉った。そして、そっと笑う。少し苦くて、でもどこか温かい笑いだった。
空を仰ぐと、光の粒がぼんやりと目に映る。街路樹の葉は風に揺れ、地面には淡い影模様が水面のように広がっていた。小鳥の声や遠くを走る電車の音が、空の青さをいっそう際立たせている。
その空の下で、翠との思い出がふと蘇る。笑い声、手の温もり、少し拗ねた横顔。何気ない仕草のひとつひとつが、胸の奥で消えずに光を放ち続けていた。
あの日から時間は流れて、僕は今もなんとか生きている。結局、受験もした。第一志望には届かなかったけれど、滑り止めの大学に進むことになった。けれど不思議なことに、その選択に後悔はなかった。
受験を決意した日から結果が出るまでの間、僕は何度も「死にたい」と「生きてやる」のあいだを揺れ動きながら、ただ苦しい日々が過ぎるのを待っていた。
それでも、今は少し違う。苦しさを越えてきたからこそ、キャンパスで友達と笑った瞬間や、帰り道に見上げた夕焼けでさえ胸が熱くなる。翠が残してくれたものは、ただの思い出……一緒に過ごした日々だけじゃない。
生きることはつらくて、でも同時にこんなにも愛おしいのだという実感だった。
朝の電車の窓から見える街路樹の緑、図書館で隣の席の人がくすっと笑った瞬間、帰り道に通り過ぎるカフェから漂ってくるコーヒーの香り……そんな何気ない日常のひとつひとつが、以前よりも鮮やかに胸に染みる。苦しい時間を経験したからこそ、小さな出来事に最上級の喜びを感じられる自分がいる。
生きることは、時に重く、時に苦しい。けれど、その重さを知ったからこそ、光や香りや笑顔のありがたさが、以前よりも深く感じられる。
線路脇にひっそりと立つ彼女の墓へ向かう。
強さの中にどこか優しさを含んだ陽射しが線路を包み、遠くを走る電車の音が穏やかな空気を震わせながら胸の奥に届いてくる。
手には小さな桶とひしゃく。水を墓前に注ぐと、冷たいしずくが石に伝い落ち、静かに地面を濡らした。
墓石にはただ「早乙女翠」と刻まれている。それだけなのに、名前を目にするたび胸の奥が強く締め付けられる。墓石に触れる指先が震えて、思わず視線を落とした。まるで彼女がまだ生きているかのように、その文字が呼吸をしているように思えてしまう。
僕は静かに息を吐き、花をそっと供える。淡い香りが風に乗って広がると、胸の奥で小さな痛みと同時に、なつかしい温かさがこみ上げてきた。
……「ねえ、大和君! 私のこと忘れないでね」
ふいに記憶の底から、東尋坊で放った彼女の声が蘇る。いたづらに笑いながらも、どこか真剣な眼差しで僕を見つめていた翠。今になってその一言が心に刺さる。
名前を見つめるたび、僕は何度でも問いかけてしまう。
どうして君はいなくなったのか。どうして僕だけが、こうして現世に残されているのか……。
先週供えた花はすっかりしおれてしまっていたから、新しい花に差し替えた。淡いピンクの花びらが風に揺れ、ほんのり甘い香りが漂う。そのかすかな香りに触れただけで、不思議と心の奥に温もりが広がっていく。
ここに来るとき、僕はいつも一枚の手紙を持ってくる。
それは翠が生前に書き残してくれたもの。困ったとき、迷ったとき、心が塞ぎ込んだとき、死にたいと思ったとき……その文字を読み返すたびに、「大丈夫、もう少しだけ頑張ってみよう」「生きてみよう」と思える。
何度も何度も、翠の言葉を心の中で繰り返す。それは、彼女が飛び降りる直前に僕へ託してくれた、最後のメッセージだった。
風がそっと吹き、花びらを揺らす。
その小さな揺れのひとつひとつに、翠の面影を重ねてしまう。まるで彼女がすぐそばにいるようで、自然と僕は目を閉じた。
瞼の裏には、あの日の笑顔が浮かぶ。少し不器用で、でもどこまでも優しかった笑顔。胸が痛いほど恋しくて、だけど同じくらい愛おしくて……涙が落ちそうになるのを必死にこらえる。
『大和君へ
これが、私、早乙女翠から宇佐美大和君に送る最後の言葉です。
多くは書かないよ。だって、大切なこと、伝えたいことは生きている間にたくさん言ってきたからね。
まず、謝り忘れていたことがあるから書いておくね。
病気のことを大和君に伝えず、嘘の自殺理由を教えてしまって本当にごめんなさい。
私にとって、「病気で死ぬ」という現実を大和君の前で「真実」にしてしまうのが、どうしても怖かったの。だからこそ「人間関係での自殺」という「別の物語」を選んだ。死の理由を自分で選ぶことで、せめて最期くらいは自分の意志で生きた証を残したかったんだ。あの嘘は、大和君に余計な重荷を背負わせないためでもあり、同時に私自身が弱さに押しつぶされないようにするためでもあった。
もちろん、君に病気の事実を伝えて余命を全うすることも考えたよ。だけど、弱っていく姿を見せる勇気がどうしても出なかった。それに、延命治療で生かされている自分には絶対になりたくなかった。 そして何より……公園で大和君に私の死にたい気持ちが強いままだと告げてしまったら、きっと優しい君は自分の気持ちを隠して、私と一緒に飛び降りてしまうに違いない。だから私は黙って、一人で死を選んだ……。
本音を言えばね、大和君と過ごした時間は、私に「もっと生きたい」「もっと一緒に未来を見たい」って強く思わせてしまった。君と笑って、泣いて、喧嘩して、仲直りして……そんな当たり前をずっと続けたかった。
そして……もしかしたら、私は君のことが異性として好きでした。
だって、君と出会ってからの私は、心臓が自分のものじゃないみたいに勝手に高鳴る瞬間ばかりだったからさ。君が笑ったときの横顔、名前を呼んでくれた声、ふいに触れた指先の温かさ……どれも胸の奥に焼きついて離れない。きっとあれは全部、「恋」って呼ぶものなんだよね。
ねえ、大和君。もしかして、君も少しでも私のことを好きでいてくれた?
もしそうだったなら、それだけで私は幸せ。だって、世界でたった一人の君の心の中に、ほんの一瞬でも私がいたのなら、それ以上の奇跡はないから。
契約を結んだとき、私は「下手に仲良くなりたくない」なんて強がってみせたよね。でもね、大和君。実際にはそんなこと、できなかった。君と過ごす時間が増えるたび、私は気づかないふりをしながらも、確実に惹かれていった。――気づけばもう、後戻りできないくらいに……。
本当はね、「付き合いたい」って思ったこともある。隣を歩きながら、手を繋ぐ未来を夢見てしまったことだってあった。でも、それを望んでしまったら、私はもっと君を好きになってしまう。もっと欲張りになってしまう。そうしたら……名前のある関係なんかになってしまったら、とても死ぬなんてできなくなる。現世への未練ばかりで、きっと旅立てなくなる。
だから、生きている間は言えなかった。けれど――もうこの世界にいない今だから、ようやく素直に言える。
本当は、ずっと君のことが好きでした。
だからこそ、病気が憎かった。なんで私だけ、こんなに早く終わらなきゃいけないの、って何度も思った。
それでも、最後の最後に君と出会えたことが、私の人生でいちばんの奇跡です。 病院の屋上でたまたま出会えたあの日から、灰色だった私の世界は色を取り戻した。君と出会ってなかったら病気が判明してから無色透明なままだった私の余生がずっと続いていた。君と出会い、時を積み重ね、いろいろな体験をしていくにつれて私の視界は色で満ち、カラフルに染まっていった。大和君に出会えなかったら、私は「生きたい」とすら思わずに終わっていた。(一人で飛び降りるのはとても怖いけど、きっと私なら大丈夫。天国で先に待っているから!)
だから、最期にお願いがあります。一生に一度のお願いです。
どうか君は、私の分まで生きてください。生きていると理不尽も絶望もあるけど、それ以上に、人生には幸せが隠れている。これは大和君が私に教えてくれたことなんだよ。君がそれを見つけてくれるなら、私は天国で心から笑って過ごせる。
でもね……もしどうしてもつらくなったら、無理をしなくていいんだよ。死にたいときは死んでしまってもいい(思い通りに生きることのできない辛さは私が一番わかっているからさ)。最悪そう思えるだけで、人生は少しだけ楽になると思う。もし天国に来た時はその理由を私がみっちり聞いてあげるから(笑)。
それまでは、君の笑顔を私に見せてほしい。君が生きていてくれるだけで、私はずっと幸せでいられるからさ。
そろそろ行くね。
さよならじゃなくて……ありがとう。 じゃあ……またね。
早乙女翠』
何度も、何度も読み返した。そのたびに気がつく。
戻ってきた世界に翠はいない、と……。
これはもう動かせない事実だ。けれど今の僕は、その痛みを抱えたままでも歩いていける。歩かなければならない。
翠は教えてくれた。人はいついなくなるかわからないから、感謝も想いも後回しにしてはいけない、と。だから僕は、「ありがとう」「大好き」「がんばったね」を大切にして過ごしている。
この世界は、不満と苦痛で埋め尽くされている。
思い描いた通りに進むことのほうが稀で、願いは裏切られ、努力は報われず、理不尽だけが容赦なく押し寄せてくる。
避けようとしても逃げ場はなく、ただ受け止めるしかない。
分かり合えない人だっている。絶望する時だってたくさんある。でも、それでいいんだ。「生きる」ということはそういうものを全部まとめて抱え込むことだ。否定してはいけない。
この世界で生きている限り、きっとこれからも死にたい……消えたいという気持ちが頻繁に訪れるだろう。死にたいときは死んでやる……自殺したっていい。翠が伝えてくれた通り、僕はそう思いながらなんとか生き抜いている。「最悪死んでもいい」と思えるだけで、心は少し軽くなる。
翠が命を懸けて残してくれたこの世界で、小さな幸せを探しながら今日も僕は命を燃やす。
なんの変哲もない日常だって、よく見るとたくさんの温もりに満ちている。
風のやさしさ、誰かの笑顔、ほんのささいな出来事……その全部が、生きている証のように思える。
だから今日も、明日を迎えてみようと思える。
『生きてさえいれば、きっと幸せが訪れる』
それをいつか翠に伝えるために、僕は今日もこの世界で息をする。
まだ答えは見つからないけれど、きっと生きる意味はどこかに隠れているはずだ。だから諦めない。
そしていつの日か、胸を張って「生きる意味を見つけた」と翠に伝えてみせる。
春の風が吹き抜け、枝から零れた花びらがふわりと舞い上がった。その一瞬が、まるで翠が隣で「大丈夫だよ」と微笑んでいるようで、胸の奥に張り付いていた重さがほんの少し和らいだ気がした。
空はどこまでも青く澄み切っていて、雲ひとつない。太陽は眩しいけれど、光は柔らかく、肌に当たる感触はどこか心地いい。木々の緑は朝の光にきらきらと輝き、遠くで小鳥たちが楽しげにさえずっている。
もう、長袖じゃ少し暑いくらいの季節だ。道端には紫陽花が咲き誇り、雨上がりの名残なのか、花びらには小さな水滴が光っている。風が吹くたび、花の香りがふんわりと漂って、僕の胸の奥まで届くようだ。自転車のベルの音や、学校へ急ぐ子どもたちの声が、夏の始まりを告げている。
翠がいなくなってから、今日で二年が経った。
あの日のことは、まるで昨日のことのように思い出す。
翠の死後、しばらくの間僕は本当に迷った。何度も翠の後を追おうと考えて、実行寸前まで心が動かされた。でも、翠が最後に残したメッセージが、僕を現実に生き残らせた。
全く、「早乙女翠」ってやつは本当に迷惑な人だ。もしあのメッセージがなければ、僕は今頃翠の元にいて、天国を謳歌できていたというのに……。
僕は心の中で翠を皮肉った。そして、そっと笑う。少し苦くて、でもどこか温かい笑いだった。
空を仰ぐと、光の粒がぼんやりと目に映る。街路樹の葉は風に揺れ、地面には淡い影模様が水面のように広がっていた。小鳥の声や遠くを走る電車の音が、空の青さをいっそう際立たせている。
その空の下で、翠との思い出がふと蘇る。笑い声、手の温もり、少し拗ねた横顔。何気ない仕草のひとつひとつが、胸の奥で消えずに光を放ち続けていた。
あの日から時間は流れて、僕は今もなんとか生きている。結局、受験もした。第一志望には届かなかったけれど、滑り止めの大学に進むことになった。けれど不思議なことに、その選択に後悔はなかった。
受験を決意した日から結果が出るまでの間、僕は何度も「死にたい」と「生きてやる」のあいだを揺れ動きながら、ただ苦しい日々が過ぎるのを待っていた。
それでも、今は少し違う。苦しさを越えてきたからこそ、キャンパスで友達と笑った瞬間や、帰り道に見上げた夕焼けでさえ胸が熱くなる。翠が残してくれたものは、ただの思い出……一緒に過ごした日々だけじゃない。
生きることはつらくて、でも同時にこんなにも愛おしいのだという実感だった。
朝の電車の窓から見える街路樹の緑、図書館で隣の席の人がくすっと笑った瞬間、帰り道に通り過ぎるカフェから漂ってくるコーヒーの香り……そんな何気ない日常のひとつひとつが、以前よりも鮮やかに胸に染みる。苦しい時間を経験したからこそ、小さな出来事に最上級の喜びを感じられる自分がいる。
生きることは、時に重く、時に苦しい。けれど、その重さを知ったからこそ、光や香りや笑顔のありがたさが、以前よりも深く感じられる。
線路脇にひっそりと立つ彼女の墓へ向かう。
強さの中にどこか優しさを含んだ陽射しが線路を包み、遠くを走る電車の音が穏やかな空気を震わせながら胸の奥に届いてくる。
手には小さな桶とひしゃく。水を墓前に注ぐと、冷たいしずくが石に伝い落ち、静かに地面を濡らした。
墓石にはただ「早乙女翠」と刻まれている。それだけなのに、名前を目にするたび胸の奥が強く締め付けられる。墓石に触れる指先が震えて、思わず視線を落とした。まるで彼女がまだ生きているかのように、その文字が呼吸をしているように思えてしまう。
僕は静かに息を吐き、花をそっと供える。淡い香りが風に乗って広がると、胸の奥で小さな痛みと同時に、なつかしい温かさがこみ上げてきた。
……「ねえ、大和君! 私のこと忘れないでね」
ふいに記憶の底から、東尋坊で放った彼女の声が蘇る。いたづらに笑いながらも、どこか真剣な眼差しで僕を見つめていた翠。今になってその一言が心に刺さる。
名前を見つめるたび、僕は何度でも問いかけてしまう。
どうして君はいなくなったのか。どうして僕だけが、こうして現世に残されているのか……。
先週供えた花はすっかりしおれてしまっていたから、新しい花に差し替えた。淡いピンクの花びらが風に揺れ、ほんのり甘い香りが漂う。そのかすかな香りに触れただけで、不思議と心の奥に温もりが広がっていく。
ここに来るとき、僕はいつも一枚の手紙を持ってくる。
それは翠が生前に書き残してくれたもの。困ったとき、迷ったとき、心が塞ぎ込んだとき、死にたいと思ったとき……その文字を読み返すたびに、「大丈夫、もう少しだけ頑張ってみよう」「生きてみよう」と思える。
何度も何度も、翠の言葉を心の中で繰り返す。それは、彼女が飛び降りる直前に僕へ託してくれた、最後のメッセージだった。
風がそっと吹き、花びらを揺らす。
その小さな揺れのひとつひとつに、翠の面影を重ねてしまう。まるで彼女がすぐそばにいるようで、自然と僕は目を閉じた。
瞼の裏には、あの日の笑顔が浮かぶ。少し不器用で、でもどこまでも優しかった笑顔。胸が痛いほど恋しくて、だけど同じくらい愛おしくて……涙が落ちそうになるのを必死にこらえる。
『大和君へ
これが、私、早乙女翠から宇佐美大和君に送る最後の言葉です。
多くは書かないよ。だって、大切なこと、伝えたいことは生きている間にたくさん言ってきたからね。
まず、謝り忘れていたことがあるから書いておくね。
病気のことを大和君に伝えず、嘘の自殺理由を教えてしまって本当にごめんなさい。
私にとって、「病気で死ぬ」という現実を大和君の前で「真実」にしてしまうのが、どうしても怖かったの。だからこそ「人間関係での自殺」という「別の物語」を選んだ。死の理由を自分で選ぶことで、せめて最期くらいは自分の意志で生きた証を残したかったんだ。あの嘘は、大和君に余計な重荷を背負わせないためでもあり、同時に私自身が弱さに押しつぶされないようにするためでもあった。
もちろん、君に病気の事実を伝えて余命を全うすることも考えたよ。だけど、弱っていく姿を見せる勇気がどうしても出なかった。それに、延命治療で生かされている自分には絶対になりたくなかった。 そして何より……公園で大和君に私の死にたい気持ちが強いままだと告げてしまったら、きっと優しい君は自分の気持ちを隠して、私と一緒に飛び降りてしまうに違いない。だから私は黙って、一人で死を選んだ……。
本音を言えばね、大和君と過ごした時間は、私に「もっと生きたい」「もっと一緒に未来を見たい」って強く思わせてしまった。君と笑って、泣いて、喧嘩して、仲直りして……そんな当たり前をずっと続けたかった。
そして……もしかしたら、私は君のことが異性として好きでした。
だって、君と出会ってからの私は、心臓が自分のものじゃないみたいに勝手に高鳴る瞬間ばかりだったからさ。君が笑ったときの横顔、名前を呼んでくれた声、ふいに触れた指先の温かさ……どれも胸の奥に焼きついて離れない。きっとあれは全部、「恋」って呼ぶものなんだよね。
ねえ、大和君。もしかして、君も少しでも私のことを好きでいてくれた?
もしそうだったなら、それだけで私は幸せ。だって、世界でたった一人の君の心の中に、ほんの一瞬でも私がいたのなら、それ以上の奇跡はないから。
契約を結んだとき、私は「下手に仲良くなりたくない」なんて強がってみせたよね。でもね、大和君。実際にはそんなこと、できなかった。君と過ごす時間が増えるたび、私は気づかないふりをしながらも、確実に惹かれていった。――気づけばもう、後戻りできないくらいに……。
本当はね、「付き合いたい」って思ったこともある。隣を歩きながら、手を繋ぐ未来を夢見てしまったことだってあった。でも、それを望んでしまったら、私はもっと君を好きになってしまう。もっと欲張りになってしまう。そうしたら……名前のある関係なんかになってしまったら、とても死ぬなんてできなくなる。現世への未練ばかりで、きっと旅立てなくなる。
だから、生きている間は言えなかった。けれど――もうこの世界にいない今だから、ようやく素直に言える。
本当は、ずっと君のことが好きでした。
だからこそ、病気が憎かった。なんで私だけ、こんなに早く終わらなきゃいけないの、って何度も思った。
それでも、最後の最後に君と出会えたことが、私の人生でいちばんの奇跡です。 病院の屋上でたまたま出会えたあの日から、灰色だった私の世界は色を取り戻した。君と出会ってなかったら病気が判明してから無色透明なままだった私の余生がずっと続いていた。君と出会い、時を積み重ね、いろいろな体験をしていくにつれて私の視界は色で満ち、カラフルに染まっていった。大和君に出会えなかったら、私は「生きたい」とすら思わずに終わっていた。(一人で飛び降りるのはとても怖いけど、きっと私なら大丈夫。天国で先に待っているから!)
だから、最期にお願いがあります。一生に一度のお願いです。
どうか君は、私の分まで生きてください。生きていると理不尽も絶望もあるけど、それ以上に、人生には幸せが隠れている。これは大和君が私に教えてくれたことなんだよ。君がそれを見つけてくれるなら、私は天国で心から笑って過ごせる。
でもね……もしどうしてもつらくなったら、無理をしなくていいんだよ。死にたいときは死んでしまってもいい(思い通りに生きることのできない辛さは私が一番わかっているからさ)。最悪そう思えるだけで、人生は少しだけ楽になると思う。もし天国に来た時はその理由を私がみっちり聞いてあげるから(笑)。
それまでは、君の笑顔を私に見せてほしい。君が生きていてくれるだけで、私はずっと幸せでいられるからさ。
そろそろ行くね。
さよならじゃなくて……ありがとう。 じゃあ……またね。
早乙女翠』
何度も、何度も読み返した。そのたびに気がつく。
戻ってきた世界に翠はいない、と……。
これはもう動かせない事実だ。けれど今の僕は、その痛みを抱えたままでも歩いていける。歩かなければならない。
翠は教えてくれた。人はいついなくなるかわからないから、感謝も想いも後回しにしてはいけない、と。だから僕は、「ありがとう」「大好き」「がんばったね」を大切にして過ごしている。
この世界は、不満と苦痛で埋め尽くされている。
思い描いた通りに進むことのほうが稀で、願いは裏切られ、努力は報われず、理不尽だけが容赦なく押し寄せてくる。
避けようとしても逃げ場はなく、ただ受け止めるしかない。
分かり合えない人だっている。絶望する時だってたくさんある。でも、それでいいんだ。「生きる」ということはそういうものを全部まとめて抱え込むことだ。否定してはいけない。
この世界で生きている限り、きっとこれからも死にたい……消えたいという気持ちが頻繁に訪れるだろう。死にたいときは死んでやる……自殺したっていい。翠が伝えてくれた通り、僕はそう思いながらなんとか生き抜いている。「最悪死んでもいい」と思えるだけで、心は少し軽くなる。
翠が命を懸けて残してくれたこの世界で、小さな幸せを探しながら今日も僕は命を燃やす。
なんの変哲もない日常だって、よく見るとたくさんの温もりに満ちている。
風のやさしさ、誰かの笑顔、ほんのささいな出来事……その全部が、生きている証のように思える。
だから今日も、明日を迎えてみようと思える。
『生きてさえいれば、きっと幸せが訪れる』
それをいつか翠に伝えるために、僕は今日もこの世界で息をする。
まだ答えは見つからないけれど、きっと生きる意味はどこかに隠れているはずだ。だから諦めない。
そしていつの日か、胸を張って「生きる意味を見つけた」と翠に伝えてみせる。
春の風が吹き抜け、枝から零れた花びらがふわりと舞い上がった。その一瞬が、まるで翠が隣で「大丈夫だよ」と微笑んでいるようで、胸の奥に張り付いていた重さがほんの少し和らいだ気がした。

