生前の彼女には似つかわしくない、土砂降りの雨の日に葬式は執り行われた。
斎場の外壁を叩く雨粒は無数の槍のように鋭く、地面に打ちつけられるたび重苦しい音を立てる。湿った空気は肺にまとわりつき、呼吸すら重たく感じる。空全体が沈んだ灰色に染まり、まるでこの世界そのものが喪に服しているようだった。
会場は黒一色の喪服と制服に包まれ、人で溢れ返っていた。焼香の列は玄関口から外の雨の中まで延び、並ぶ人々の傘からは絶え間なく水滴が落ちていた。
その列の先……正面に据えられた遺影を見た瞬間、僕は思わず息を止めた。
笑顔が今にも動き出しそうなほどに整った写真。光の当たり方も角度も完璧で、まるで「死ぬことを前提に、予め用意されていた」としか思えないほどの完成度。あの無邪気な笑みが、どうして死を目前にした人間の姿としてここに掲げられているのか。あまりに不自然で、ぞっとするほど綺麗すぎた。
そして、その下に眠る彼女の姿。
白布に包まれ、死化粧を施された翠は、やはり美しいままだった。いや、美しすぎた。長いまつ毛は影を落とし、薄く色づけられた唇はまだ息を吹き返しそうに見える。
本当に彼女は病院の屋上から身を投げたのか……。その問いが頭を離れない。
けれど、近づいてじっと見つめると、血の気を失った肌は石膏像のように白く、不自然な均一さを帯びている。目を背けたくなるその冷たさが、「彼女はもう息をしていない」という事実を容赦なく突きつけてきた。
すすり泣きがあちこちから洩れ、外の雨音すらかき消していた。会場の空気は重く沈殿し、湿度と涙が混ざった匂いが漂っている。
黒い喪服をまとった自分は、制服姿の同級生たちの群れの中で異物のように際立っていた。周囲から送られる視線も、慰めの言葉も、すべてが自分の皮膚に重石のようにのしかかる。
その時、耳に飛び込んできた同級生たちの嗚咽を含んだ囁き。 「交通事故なんだって……」「信じられないよな……あの翠が早死にするなんて……」
僕は思わず拳を握りしめた。
彼らは本当の死因を知らない。翠が「自殺」で命を絶ったことを知るのは、僕と、彼女の家族だけだ……。
翠は最後まで世界に嘘をつき通した。いや、違う。彼女が嘘をついたのは世界にではなく、僕に対してだけだった。
「友達なんていない」と彼女は言った。けれど、葬儀で泣き崩れる制服姿の同級生たちの姿を見れば、それが虚構だったことは一目でわかる。
胸の奥にひやりとした亀裂が走る。僕たちの関係の根底――「死ぬ理由を分かち合う」という前提は、初めから揺らいでいたのかもしれない。
それでも、僕は「裏切られた」とは思わなかった。なぜ僕にだけ孤独を装ったのか、その理由を探そうとする自分がいた。
同じ孤独を抱えていると思わせたかったのか。それとも、僕を安心させたかったのか。あるいは、僕が特別だからこそ「偽りの孤独」を共有してくれたのかもしれない。
どんな理由であれ、彼女が僕にだけ見せた嘘は、胸に深い痛みを残した。だがそれは裏切りではなく、彼女なりの優しさの一形態だったのだと……そう思わなければ、この感情に呑まれてしまう。悲しみに飲み込まれれば、自分の大事なものまで壊れてしまうのだから。
葬儀を終え、傘を持たずに外へ出た。
大粒の雨が容赦なく叩きつけ、喪服はすぐに重みを増して体に張りついた。髪は顔に貼りつき、下着までびしょ濡れになった。スマホもイヤホンも防水ではないので、きっと壊れている。だが、どうでもよかった。
ただ、この胸に渦巻く感情を雨がすべて洗い流してくれることを望んだ。しかし、雨は冷たさばかりを残し、何ひとつ流してはくれなかった。
家に戻ると、両親は僕を案じて「風邪を引くな」と口を揃えた。むしろ僕は風邪で寝込むことを期待していたのに、体は頑丈すぎてびくともしない。健康であることさえ、このときは憎らしかった。
僕の心理状態を心配した両親からは「間違っても自殺なんかするなよ」と何度も忠告された。その度に「しないよ」と口癖のような生返事を繰り返す。しかし、僕への心配が絶えないらしく、平日の昼間に仕事を抜けては家に来て、安否の確認をしに来る。LINEの返事が少しで遅れるようならばその度電話をしてくる。これ以上両親を心配させたくない僕は元気を取り繕う。
死んでもいいと思っていた。毎朝、毎夜「死にたい」が脳裏をよぎる。独り自室のベッドに体を預けているときに特にそう思う。彼女がいない孤独状態が僕の死にたい欲をさらに加速させる。実際には「死にたい」より「生きたくない」の方が感情としては近いのかもしれない。
翠がいない現実は、思った以上に残酷だった。彼女と共に過ごした時間が濃すぎて、今の生活のすべてが空っぽに感じられる。孤独はただの孤独ではなく、彼女の不在を証明する痛みとして、僕の胸に巣食っていた。
この胸の痛みは、僕を何度も夜の街へと駆り立てた。親に気づかれないよう忍び足で玄関を抜け出し、近所の十階建てマンションの屋上へ向かう。非常階段を上り詰めた先、重たい金属のドアを押し開けると、夜風が刃のように全身を切り裂いた。眼下には、止まることなく流れる車のテールランプと、果てしなく続く闇の街並み。足元の、吸い込まれそうな空白に身を投げ出せば、翠と同じ場所へ行ける……頭ではわかっているのに、体が言うことを聞かない。
一歩、縁へと足を踏み出すたびに、足首から冷たい痺れが這い上がり、背骨をつたい、喉を締め上げる。下を覗き込めば、風が耳元で唸り、吐き気と目眩が襲ってくる。何度も膝が震えて、結局その場にしゃがみ込むしかなかった。
……飛べない。
……自分の手で最期を決めることすらできないのか。
その事実が、僕をさらに嫌悪へと追い込む。死ぬことすらできない、中途半端な自分。彼女はもう、あんなにも潔く命を絶ったというのに。
そして再び朝を迎える。
朝が来るたび、僕は生きていることを突きつけられる。いや、「生き延びている」というより、「生き延ばされてる」のだ。望まないのに生かされ続ける感覚は、残酷な罰のようだった。
僕は現実世界にまだいた。
彼女のいない世界で生きていく自分を、どうしても思い描くことができなかった。ここまでの二ヶ月間、僕の生活は隅から隅まで彼女と重なっていた。朝、目を開ければ彼女の言葉を思い出し、夜、目を閉じる前には彼女とのやり取りを反芻した。そんな日々が当たり前になっていたからこそ、その喪失はあまりにも致命的だった。
今僕が生きている世界はまるで肺から空気が抜け落ち、息をするたびに胸の奥がひりつくようだった。
「未来にはきっと、美しい景色が待っている」……何度もそう自分に言い聞かせた。けれど、その言葉は虚空に放り出された声のように、反響もなく消えていく。彼女のいない未来など、ただの廃墟にすぎない。色彩を失ったキャンバスにどんなに絵具を塗り重ねても、そこに意味を見出すことはできなかった。結局、死んでしまう方が合理的だという答えに、心は何度も回帰してしまう。
それでも僕が辛うじてここに立っているのは、ひとつの理由だけだった。……彼女がどうして命を絶ったのか……そして、生前にどうして嘘の自死理由を僕に言ったのか……それを知るまでは死ねない、という執念。真実を知れば、どんな理由であれ、きっと僕は迷わず彼女の後を追うだろう。頭では愚かだとわかっている。だが胸の奥深くでは、既にそう決めてしまっていた。彼女は、僕の生きる理由であり、同時に死ぬ理由でもあったのだから。
葬儀から一週間。日数だけが無慈悲に積み重なっていく。世界はいつも通りの顔で回り続けるのに、僕の時間だけは止まったままだった。周囲の笑い声や電車のアナウンス、流れる風の音でさえ、自分には無関係な異物のように聞こえた。食事の味は砂を噛むように無機質で、眠りは浅く、目覚めるたびに彼女のいない現実へ叩き戻される。その繰り返しが、拷問のように続いていた。
僕はきっかけを求めていた。彼女の家へ行く理由を。そこに行けば、彼女の家族が真実を知っているかもしれない。あるいは、翠自身が最後に僕へ託した何かを残しているかもしれない。根拠のない望みに縋りつかねば、この足は一歩も前へ進めなかった。もし、何も得られなかったなら……そのときは迷わず、彼女を追う。それが僕にとって唯一の救いだった。
そんなある夜。机の上に放置していた白い有線イヤホンが、ふと目に留まった。最後に会った日、公園のベンチに忘れていった、彼女のもの。手に取った瞬間、胸の奥で何かが軋んだ。絡まったコードをほどきながら、耳にかけるわけでもないのに、そこに彼女の体温や吐息がまだ宿っているように錯覚した。小さなコード一本にまで、僕は必死に彼女の痕跡を探してしまう。哀しいほどに……。
けれど同時に、それは彼女の家を訪れる口実となった。恋愛小説のように洒落た理由はいらない。たとえわずかなものであっても、彼女に繋がる線があるのなら、縋らずにはいられなかった。
このイヤホンを手に、僕はようやく決心した。……彼女の家へ行こう、と。
翌朝、僕は彼女の家へ向かうことにした。
事前に連絡など取らない。彼女個人の連絡先しか知らないし、両親に電話をかけたところで、きっと辿々しい言葉しか出てこないだろう。まともな会話になる自信は、どこにもなかった。
玄関の鏡で身なりを確認していると、仕事へ出る前の母と目が合った。母は何かを察しているような、慈悲深い表情を浮かべていた。
「ちゃんと翠ちゃんに別れの挨拶をしてきなさい」
どうして翠の元に行くのを知っている? 口にした覚えもないのに……。
母という生き物は本当に恐ろしい、と思った。
母は白い封筒を差し出した。中には、折り目のないお札が何枚か入っている。驚きと同時に、妙に納得している自分もいた。ああ、母は僕の行動をすでに見抜いているのだ、と。
「いってらっしゃい。ちゃんと帰ってくるのよ」
その言葉には、微かな祈りと疑念が入り混じっていた。……「帰ってくる」という言葉が、やけに重く響いた。僕は本当のことを言えず、「行ってきます」とだけ小さな声で返した。
本当は、もう戻ってくるつもりはなかった。
彼女の家に行って、もし何も得られなかったなら……その時はそのまま遠くへ行こうと決めていた。どこか海外でもいい。自分の存在を知る者がいない場所で、ひっそりと最期を迎えるつもりだった。だから、前回の反省を活かし、位置情報を追われないようスマホは自室に置いてきた。今、僕の手元にあるのは財布、彼女のイヤホン、パスポート、そして母から受け取った白い封筒だけ。財布には、手持ちの全財産を詰め込んである。死に支度としては十分すぎるくらいだった。
彼女の家へ向かう途中、わざと寄り道をした。遠回りというほどでもない。ほんの少し歩く距離を増やしただけだ。時間を稼ぎたかったのか、それとも最後の瞬間まで「まだ生きている」という感覚にしがみつきたかったのか、自分でもよくわからなかった。
やがて、彼女の家の前に辿り着いた。
そこには、僕の記憶の中と何ひとつ変わらない家があった。生前、何度か訪れた時と同じ趣き。外壁の色も、窓の形も、表札に刻まれた名前の字も……。人が一人死んだくらいで、家が物理的に変わるわけがないのは当然だ。
けれど、僕は勝手に、そこがもっと重苦しい場所へと変貌しているだろうと想像していた。黒い影が家を覆い、息苦しい気配を漂わせているだろうと。……しかし、目の前にあるのは、ただの静かな一軒家だった。
その事実が、かえって僕の胸を強く締めつけた。
インターホンを押すと、ほとんど間を置かず女性の声が応えた。玄関に現れたのは、東尋坊での未遂の後、三国警察署で見かけた人だった。彼女の母、早乙女京子なのだと察する。
あの日でさえ痩せ細っている印象を受けたが、今はさらに輪郭が削がれて見えた。骨ばった肩、わずかに震える指先。その痩せ方は病ではなく、精神が削られ続けた人間だけが纏う陰影を帯びていた。娘を失ってまだ一週間。むしろ立っていること自体が奇跡のようにすら思えた。
僕が弔問のために来たと口にすると、自己紹介を交わす間もなく家に迎え入れられた。玄関には新しいスリッパが揃えて置かれており、京子さんはそれを丁寧に差し出した。心遣いに礼を言いながら履き替える自分が、どこか不自然に感じられる。
廊下を進むと、前に訪れたときと同じはずの家が、まるで違う家に思えた。電球の光量は変わらないのに、どこかに影が滞っている。視界にかかる濁った膜は、きっと僕の心そのものなのだろう。
案内された部屋には仏壇があった。襖を透かして差し込む外光は弱く、薄闇の中に仄白い線を描く。空気はひんやりとしていて、冷たさが皮膚の奥まで沁みこんでいく。畳から立ちのぼる井草の匂いだけが唯一柔らかく、鼓動の速さを辛うじて和らげてくれていた。
仏壇の前には、色とりどりの菓子や飲み物、手紙の束、折り鶴の山が積み重なっていた。駄菓子屋で買える小袋のお菓子から、洒落た洋菓子まで揃っていて、その一つひとつに差し出した人の想いが宿っているように見えた。中には「翠へ」と走り書きされた封筒や、手作りのキーホルダーまで供えられていた。おそらく彼女の同級生たちが立ち寄って置いていったものだろう。その数の多さが、彼女がどれだけ友に囲まれていたかを否応なく物語っていた。
やはり、彼女には多くの友達がいたのだ。
「友達なんていない」と僕にだけ告げた、あの言葉が頭の奥で反響する。あのとき彼女が見せた笑みが、今はひどく遠く感じられる。僕にだけ孤独を装い、僕にだけ嘘をついた……それは裏切りではなく、むしろ僕を守るための優しさだったのだと信じたかった。だが、この供物の山が、その優しさの重さを僕に突きつける。胸の奥に、言葉にできない痛みが広がっていった。
遺影は葬儀で見たときと同じ、満開の笑顔。頬の線、目尻のきらめき、すべてが美しく整っていて、まるで未来に使われることを予期していたかのような写真だった。声をかければ答えてくれるような気がして、けれど絶対に返ってはこないと知っている。その永遠の断絶を認めた瞬間、息が詰まるほどの苦しさが胸に満ちた。だから僕は、遺影に語りかけることを避けた。
京子さんの勧めで仏壇の蝋燭に火を点し、焼香をあげる。木魚の脇に置かれた小さな梵音具を打つと、澄み切った金属音が室内に鋭く響き渡った。その音は、僕の心の奥深くにまで届き、揺さぶる。僕は無心で両手を合わせ、目を閉じた。
音が完全に消え去るまで、じっと、動かずに待ち続けた。やがて静寂が戻ってくる。だが、その静けさは安らぎではなく、彼女の不在を突きつける残酷な静けさだった。
百八十度振り向き、彼女の母親と目を合わせる。そこにあったのは、優しさと深い悲しみの混ざり合った笑顔だった。まじまじと顔を直視するのは初めてだが、目の下の濃い隈や、頬に刻まれた深い影は、化粧ではどうしても覆い隠せないものだった。
その微笑みは、級友である僕に向けられたものというよりも、精神の限界を越えそうな心に必死で蓋をして絞り出したものに見えた。娘を喪った悲しみに耐えながら、それでも「娘の友達」にだけは穏やかな表情で接しなければならない……そんな強迫観念が、彼女を形作っている。
その笑顔を正面から受け止めると、胸の奥から強烈な痛みが突き上げてきた。彼女と共に東尋坊まで行った事実が、京子さんをさらに苦しめているかもしれない。あの時の僕の言動が、この人の疲労の原因の一端を担っているのだと思うと、謝罪の言葉を今すぐにでも口にしたくなる。しかし同時に、謝ったところで何が変わるのかという諦めが僕を押しとどめていた。
「アポも取らずに急な訪問をして申し訳ありません……翠さんには、生前、大変お世話になりました」
声が震えないよう、必死に喉を押さえつけて言葉を紡ぐ。
「全然大丈夫。生前は翠と仲良くしてくれてありがとう。……急な交通事故でのお別れとなってしまったけど、あの子にとっては、あなたみたいな素敵な友達に最期を看取られながら迎えられたこと、きっと嬉しかったはず……本当にありがとう」
掠れる声でそう告げた京子さんは、深々と頭を下げた。恭しく下げられたその頭が、重荷を背負ったまま地に沈んでしまうのではないかと思えるほどに痛々しく映る。
こんな態度を取らせてしまった自分がひどく惨めに感じ、胸が苦しくなった。
「実は、先週、翠さんと会っていました。その時にイヤホンを忘れていったので……届けに来ました」
ポケットから取り出した有線イヤホンを、畳の上にそっと置く。家を出る前に念入りにほどいたはずなのに、道中で再び絡まり合ってしまったらしい。
京子さんはそのイヤホンを両手で持ち上げ、じっと見つめた。
やわらかな震えがその指先に宿っている。
「……これは、間違いなく翠のイヤホンだわ。私があの子に最初に買い与えたものだから、よく覚えているの。まだ使ってくれていたのね、あの子……」
しんみりとした声に、押し殺された嗚咽の響きが混じる。赤く腫れあがった目元が、どれほど長い時間を涙とともに過ごしてきたのかを物語っていた。今にも再び泣き崩れそうなその姿に、僕はただただ黙り込み、時間の流れに身を委ねた。感傷に浸るその瞬間を邪魔することは、ここにいる者として決して許されないことだと分かっていたから……。
そして、その沈黙の中で僕は気づいた。彼女の訃報を聞いた際に電話で京子さんと声を交わしたが、僕が宇佐美大和であることは伝わっていなかったことに……。
京子さんにとって、僕はただの「娘の友達」に過ぎない。そして……京子さんが口にした「交通事故」という言葉。級友たちには死因が不慮の交通事故であると伝えていることに、確信が持てた。
本当は、自ら病院から飛び降りて命を絶った彼女……。
その瞬間、全身の血が逆流するような衝撃を覚えた。
なぜ真実を隠したのか……怒りにも似た問いが喉までせり上がったが、すぐに飲み込むことができた。彼女のことだから、その「嘘」はきっと優しさから来たものなのだろうと直感したからだ。
翠はきっと、みんなに「自殺した子」として記憶されることを望まなかった。そんな形で周囲の記憶に刻まれることを、何よりも嫌ったのだろう。もし自分が自ら命を絶ったと知られてしまえば、友人たちは自責の念に苛まれ、家族は一生説明できぬ痛みを背負うことになる。それを避けるために、彼女は最後まで「交通事故」という穏やかなで偶然の理由を選んだ。
……最後まで、嘘をついて。
でも、その嘘は誰かを傷つけるためのものではない。むしろ、誰も傷つけないためのものだった。
それを思うと胸が張り裂けそうになった。僕だけが、その「嘘」を嘘だと知っている。この重さを抱え込むことは、残酷なほどの孤独を意味するはずなのに、不思議と怒りではなく、ひどく切ない温もりのようなものが胸に広がった。
彼女は最期の瞬間まで、世界に優しい嘘を与え続けたのだ。
最期の瞬間までも自分を犠牲にして、みんなの穏やかな未来を守ろうとした。
それが、彼女らしい……あまりにも彼女らしい結末だった。
きっと僕が名前を告げた瞬間、彼女の母親は表情を大きく変えるだろう。
娘をあんな危険な自殺旅行に巻き込んだことに、憤慨するかもしれない。
娘の自殺を助長したと責められるかもしれない。
何発か殴られるかもしれない。
……それで構わなかった。
生前、あんな危険な目に愛娘を巻き込んだのだから。どれだけ罵倒されても仕方がない。
覚悟を決め、息を詰めて名を告げる。
「僕は……」
ただ、自分の名前を口にするだけなのに喉の奥に言葉が詰まる。
「……宇佐美大和といいます……」
その瞬間、彼女の母親はまるで時が止まったかのように動きを止めた。
瞳が見開かれ、声を失ったまま僕を凝視する。唇が震えて、言葉にならない声が小さく漏れた。
やがて、右手をそっと口元に当てる。その指先がかすかに震えている。
「……宇佐美、大和……?」
まるで遠い記憶を確かめるように、ゆっくりと僕の名前を繰り返す。
沈黙が落ちた。
仏間を満たす空気が一層冷たくなった気がして、僕は正座の膝がじんわりと痺れてくるのを感じた。
次に返ってくる言葉が罵倒でも非難でも、受け止める覚悟はできていた。
だが、返ってきたのはまるで別の響きだった。
「……君だったのね」
震えた声は、次の瞬間一気に崩れ落ちる。
「良かった……本当に来てくれて良かった……。君が来るのを、翠が亡くなった日から……自殺した日からずっと待っていたの」
僕の予想は完全に裏切られた。
京子さんから溢れ出したのは怒りでも、憎悪でもなく、感謝と安堵の涙だった。
その場に崩れ落ちるように泣き崩れた母親の姿に、僕はしばし言葉を失う。
その涙は悲しみだけではなく、再会を果たした映画の一場面を思わせるほど強いものだった。
胸の奥で、硬く閉ざしていた何かが少しずつ溶けていく。自殺の理由を知ることとは別に、ただここに来ただけで少しでも彼女の母親を救えたのだと感じられたからだ。
やがて母親は目元を拭い、一度離席した。二階へと足を運ぶ軽い足音がして、仏間に取り残される。
仏壇に背を向けて、ひとり呼吸を整える。遺影の彼女がこちらを見ている気配が背中に刺さる。落ち着かない時間だった。
すぐに、少し駆け足気味で母親が戻ってきた。手には茶色の封筒を携えている。
畳の上にそっと置かれたそれを見た瞬間、視界に飛び込んできた文字に息を呑む。
『宇佐美大和君へ』
達筆な筆跡。間違いなく、彼女の字だ。
一緒に遺書を書いたとき、嫌になるほど見せつけられたあの癖のある文字。懐かしさが胸を締めつける。
だが、その文面はあの時のものではない。明らかに、新たに書かれたものだった。今回の自殺企図に際し、焼き直された……そんな確信があった。
涙腺が崩れそうになるのを、必死にこらえる。呼吸が浅くなる。
母親の声が落ちてきた。
「君だけには死因が自殺であることを伝え、この封筒を渡して欲しいって……私たちへの遺書の中に書いてあったの」
淡々とした声色。しかし、その抑えた響きの奥に冷たい鋭さがあった。僕を責めるでもなく、ただ事実を告げる声。
封筒には皺ひとつない。開封口には「〆」と朱筆され、未開封の痕跡がしっかりと残っていた。
その几帳面さは、どこか雑なところのある彼女の性格には似つかわしくなかった。だからこそ、余計に胸が苦しくなる。死を覚悟したとき、人はここまで整然とした振る舞いを見せるのか。
母親は正座のまま封筒を押しやり、静かに促す。
「翠の最期の言葉だから……この場で読んで欲しいの」
僕は手を伸ばし、指先を震わせながらカッターナイフで封を切った。中から現れたのは見覚えのある紙。あの日、一緒に遺書を書いたときと同じ種類の便箋。
手紙は二つに分かれていた。
読もうと何度も決意した。けれど、そのたびに胸が締めつけられ、指先は紙に触れることすら拒んだ。
封筒を手にしているだけで、背中に冷たい汗が流れ落ちる。まるで彼女の声なき声が「まだ開けないで」と囁いているかのようだ。
触れるだけで罪悪感を覚えた。僕には読む資格がないのではないか、と。
手紙からは、とてつもなく大きな圧力が放たれている気がした。僕が今後生きるにせよ、死を選ぶにせよ、そのすべてを決定づける何かが、この数枚の紙に閉じ込められている。そんな予感があった。
知ってはいけない真実もある。
そう直感していた。
だが同時に、この中には彼女が生前「死ぬ前に必ず話す」と約束していた秘密、本当の理由が刻まれているに違いないとも思えた。
知りたい……けれど……怖い。心が真っ二つに裂かれる。
それに、これを読んでしまえば、彼女との繋がりが完全に途切れてしまうようで恐ろしかった。
手紙は、天国にいる彼女と僕を結ぶ最後の糸だ。
LINEを送っても、既読は二度とつかない。電話をしても、もう声は返ってこない。当然だ。
火葬場で骨となった彼女をこの目で見た。それでもまだ、「死んだ」という事実を心の奥で拒んでいた。
どこかで……彼女はまだこの世界のどこかで生きていて、また他愛もない会話を交わせるのではないか。そんな不可能な期待を、子どものように抱き続けていた。
もちろん、それが叶わないことぐらい分かっている。
けれど、僕は「死」を受け入れきれずにいた。
だけど、永遠に立ち止まっているわけにはいかない。
真実を見るのはとても怖い。けれど、真実から逃げ続ける方がもっと怖い。
彼女の死に正面から向き合うこと、それが僕に与えられた唯一の義務であり、最後の役目なのだ。
僕は深く息を吸った。震える手を押さえつけながら、封筒を開く。
最初の一枚を取り出し、そっと広げる。
……手紙を京子さんから渡されてから二十分。
その間、彼女の母親は僕の動揺をただ優しく見守ってくれていた。
「読んでくれる」と信じている眼差しを背中に感じながら、僕はついに、一枚目に目を落とした。
『拝啓。宇佐美大和君
この手紙を読んでいるということは、きっと私は無事自殺に成功してこの世から消えたってことかな……。(すごくありきたりだね笑)
大和君には二つ謝りたいことがあります。(謝罪から始まってごめん笑)
一つ目は私が先に死んだことです。
怒られるかもしれないけど許してほしい……これにはちゃんと理由があるの……二つ目で詳しく話すね。
二つ目は私が大和君に隠していた秘密を言うという約束を破ったことです。この秘密は私の自殺理由に大きく関係している……。
実は私病気だったの……それも絶対に治ることのない心臓の病気で、お医者さんがいうには今年の夏を越せないらしい……。
私だって色々悩んだ……だけど、病院のベッドで無理やり生かされた状態で最期を迎えるのは嫌だった。死ぬなら元気なうちに外の世界で私らしく死にたかった。
私だって自殺するのは怖いし、もっと大和君と生きたかった。でも、大和君には必死に隠していたけど私の体調はどんどん悪化していき、体力も落ちていった。生きる気力も削られていった……。より元気な状態で死ぬのを最優先したかったから、大和君の生きる気持ちを確認したのち、寿命を待たずに病院の屋上から一人で飛び降りることを選択した。
大和君と公園で約束した時点で私は病院の屋上から飛び降り、秘密は言わないと決意していたの。
君に嘘をつくような形になってしまい、本当にごめんね。
早乙女翠(次の手紙への続く)』
全てを読み終えた今、僕は言葉にできないほどの感情に襲われていた。
苦しい……苦しい……。胸の奥が焼けるように……。
胃の底から何かが逆流する。まともに食べてもいないのに吐き気に襲われ、喉が酸っぱくなる。
震える指先を膝に押しつけなければ、紙を取り落としそうだった。
繋がってしまった。
今まで点のように散らばっていた出来事が、一つの線に収束してしまった。
僕と彼女が病院で出会ったこと。
屋上で出会ったとき、彼女が入院着を着ていたこと。
岡山で泊まったホテルのゴミ箱に、薬の包装が山のように捨てられていたこと。
遺影が、まるで生前に「この一枚を選んで」と準備したかのように整っていたこと。
「自分の自殺理由はどうにもならない」と呟いていたこと。
遺書にだけは、自殺理由を書くことを頑なに拒んでいたこと。
全部、答えだったのだ。
彼女が病気であることを示す、十分すぎるヒント。
それなのに僕は、何一つ気づくことができなかった。
後悔。
その二文字が、脳の奥で何度も何度も反芻した。
あんなに近くにいて、笑い合って、秘密まで共有したのに……。
一番大事なことにだけ、僕は触れることができなかった。
いや、仮に気づいて問いただしたとしても、きっと彼女は微笑んで「違うよ」と否定しただろう。
早乙女翠という人間は、そういう優しさを持ったやつだ。
現実が追いつかない。
死んで一週間が経ち、ようやく少しだけ受け入れようとしていたのに、さらにその上から「不治の病」という事実が重石のようにのしかかる。
――本当に? そんなはずが?
振り返れば、伏線はいくつもあった。
彼女はきっと、僕に気づいて欲しくて、あえてヒントを残していたのかもしれない。
だが、彼女は生前に一度も弱音を見せなかった。
余命の限られた人間が、あんなに自然に、あんなに穏やかに振る舞えるはずがあるだろうか。
精神力や薬で誤魔化せる次元を超えている……そう思えてならなかった。
「……彼女は……翠さんは、本当に病気だったんですか?」
自分でもひどく失礼な問いだと分かっていた。
けれど、堰き止められなかった。
疑うためじゃない。
心のどこかで「病気じゃなかった」という答えを、まだ願っていたのだ。
「あの子……やっぱり君には話していなかったのね」
彼女の母親は、僕の愚かな問いに怒るでもなく、柔らかい声で答えた。
その優しさに胸を刺され、僕は自分の言葉を深く恥じた。
母親はそっと立ち上がり、近くの引き出しを開ける。
そして、大きめの封筒を一つ取り出した。
「これを……君に見てほしいの」
差し出された封筒。
右下には、僕と彼女が出会った市民病院の名前が、はっきりと印字されていた。
何層にも厳重に封が閉じられている。震える指先でゆっくりと糊付けを剥がすと、乾いた紙の匂いがふわりと立ち上り、胸の奥を締め付けた。中には分厚い診断書と心電図の結果が何枚も重ねられている。
診断書には「早乙女翠」の名前と、長く難解な病名……心臓に関わる致命的な発作を繰り返す病だと記されていた。医師の捺印もきっちりと押されている。偽造などでは決してない。
目の前に突きつけられた真実を、僕はまだ受け入れられない……それでも、受け入れざるを得ない。認めよう。彼女は本当に、心臓の病気だったのだ。
「あの子が高校を退学して通信制に転校したのは知ってる?」
「はい……存じ上げています……」
「病気の影響で長期入院が必要になってしまって、このままでは進級できないとわかったの。だから本人の意思で通信制に転校したのよ……全日制で、たくさん友達に囲まれて過ごしていたのにね。親としては、丈夫な体で産んであげられなかったことが、ただただ申し訳なくて……」
京子さんの声は途中で震え、大粒の涙が頬をつたい落ちていく。間接照明に照らされて、涙は淡く光を帯びながら畳の上に消えていった。その一滴一滴が、母の痛みを何よりも雄弁に物語っていた。
「でもね……翠の葬式に参列してくれた多くの友達を見て、嬉しかったの。あの子が築いた人間関係は間違っていなかったんだって……我が子ながら誇らしく思ったわ」
慈悲深く彼女の母親は言った。僕は静かに頷いた。
けれど、正直に言えば驚いていた。僕の知る翠は、どちらかといえば一人で静かに本を読み、独りの世界に安らぎを見いだす子だった。昼休みに大勢と笑い合う姿も、放課後に友人たちに囲まれる姿も、想像すらできない。
……でも、僕が見ていなかった場所で、翠は確かに人と繋がっていたのだ。だからこそ、葬式に集まった友人たちの多さは、僕の中で新しい事実として鋭く突き刺さった。
彼女は決して孤独ではなかった……その事実は僕に安堵を与えた。だが同時に、深い悔しさも呼び起こした。どうして僕はそのことを知らなかったのだろう。あんなに近くで時を重ねたのに、なぜ一番大切な彼女の真実に触れられなかったのだろう。
いや、違う。翠は僕に「友達なんていない」と告げていた。あの言葉は、今となっては残酷な嘘だ。けれどきっと、僕を翠だけの特別な存在にするためについてくれた嘘なのだろう。
その優しさは、今の僕には刃のように胸を抉る。彼女が抱えていた孤独は演技で、優しさゆえの欺瞞で……それを信じて疑わなかった自分だけが取り残されている。
どうしてだろう……。あまりに悲しい出来事なのに、目の奥は乾いたままだった。せめて悲しみを形にしようと、無理やり涙を絞り出そうとした。けれど、涙腺は頑なに沈黙を守り続けた。そのとき初めて知った。人は本当の悲劇や受け入れ難い事実に直面すると、感情すら凍りついてしまうのだと……。
「今日は突然押しかけてしまい申し訳ありません……」
玄関で去り際に僕は社交辞令のように口にした。けれど、その声音には自分でも気づくほどの震えが混じっていた。今日知った事実を、頭も心もまだ咀嚼しきれていない。
「あの子が君に病気のことを隠したのは、きっと理由があって……そして君のために隠したんだと思う。なんで隠したのかはわからないけど、私はきっと、他人を思う優しさと、自分を守るために嘘をついたんだと思ってる。親バカだけど、あの子は人を思いやれる優しい子だから」
母親の声は柔らかく、どこか救いを与えようとする響きを帯びていた。だが僕には、その優しさが重荷にすら感じられた。優しさを信じたくないわけではない。ただ、翠が僕についた嘘の真意を、どうしても自分の中で納得させられないのだ。
家族に宛てた遺書も読ませてもらった。遺書の中には、家族への感謝の言葉が丁寧に綴られていた。それは疑いようもなく翠の優しさの証だ。だが……どうして自分の死の理由だけは、嘘で覆ったのか。その答えはまだ見えない。けれど、知りたい。いや、知るべきだ。そう思わずにはいられなかった。
「親としてのお願いだけれども、君には翠の分まで生きてほしい。あの子が最後まで信じていた君が生きているだけで、私は前を向ける気がするの。それと、いつでも翠に会いに来てくれていいのよ。きっとあの子も、それを望んでいる」
胸が痛んだ。
「あなたは娘の残像を僕に投影して、今の悲しみから逃れているだけじゃないですか」……そんな残酷な言葉が喉までせり上がった。けれど、吐き出せるはずがない。僕は代わりに、京子さんの期待に沿うような言葉を選んだ。
「……頑張って生きてみようと思います。機会があれば、また翠さんに会いに行きます」
口にした瞬間、それが嘘だとわかった。翠がもしここにいたら、こんな僕をきっと笑うだろう。
「生きるか死ぬかは、他でもない君自身が決めることだよ」
耳の奥に、彼女の声がよみがえる。生きることの苦しみを誰より知っていた翠だからこそ、そんな言葉を残すに違いない。
自室の机の上には、まだ開かれていないもう一枚の手紙が残っている。
その中に、僕が抱える疑問、翠が本当の自殺理由を隠した答えがあるのかもしれない。希望と恐怖の両方を孕んだ紙切れが、ただ静かに僕を待っていた。
死にたい気持ちに、いまは蓋をするしかない。
そして、いつの日か決めた。この手紙を読もう、と。
彼女の最後の言葉に触れてからでも、死ぬことは遅くない。
死ぬなんて、いつだってできる。
だから……もし読み終えても心が変わらなかったら、そのときは彼女の後を追えばいい。
斎場の外壁を叩く雨粒は無数の槍のように鋭く、地面に打ちつけられるたび重苦しい音を立てる。湿った空気は肺にまとわりつき、呼吸すら重たく感じる。空全体が沈んだ灰色に染まり、まるでこの世界そのものが喪に服しているようだった。
会場は黒一色の喪服と制服に包まれ、人で溢れ返っていた。焼香の列は玄関口から外の雨の中まで延び、並ぶ人々の傘からは絶え間なく水滴が落ちていた。
その列の先……正面に据えられた遺影を見た瞬間、僕は思わず息を止めた。
笑顔が今にも動き出しそうなほどに整った写真。光の当たり方も角度も完璧で、まるで「死ぬことを前提に、予め用意されていた」としか思えないほどの完成度。あの無邪気な笑みが、どうして死を目前にした人間の姿としてここに掲げられているのか。あまりに不自然で、ぞっとするほど綺麗すぎた。
そして、その下に眠る彼女の姿。
白布に包まれ、死化粧を施された翠は、やはり美しいままだった。いや、美しすぎた。長いまつ毛は影を落とし、薄く色づけられた唇はまだ息を吹き返しそうに見える。
本当に彼女は病院の屋上から身を投げたのか……。その問いが頭を離れない。
けれど、近づいてじっと見つめると、血の気を失った肌は石膏像のように白く、不自然な均一さを帯びている。目を背けたくなるその冷たさが、「彼女はもう息をしていない」という事実を容赦なく突きつけてきた。
すすり泣きがあちこちから洩れ、外の雨音すらかき消していた。会場の空気は重く沈殿し、湿度と涙が混ざった匂いが漂っている。
黒い喪服をまとった自分は、制服姿の同級生たちの群れの中で異物のように際立っていた。周囲から送られる視線も、慰めの言葉も、すべてが自分の皮膚に重石のようにのしかかる。
その時、耳に飛び込んできた同級生たちの嗚咽を含んだ囁き。 「交通事故なんだって……」「信じられないよな……あの翠が早死にするなんて……」
僕は思わず拳を握りしめた。
彼らは本当の死因を知らない。翠が「自殺」で命を絶ったことを知るのは、僕と、彼女の家族だけだ……。
翠は最後まで世界に嘘をつき通した。いや、違う。彼女が嘘をついたのは世界にではなく、僕に対してだけだった。
「友達なんていない」と彼女は言った。けれど、葬儀で泣き崩れる制服姿の同級生たちの姿を見れば、それが虚構だったことは一目でわかる。
胸の奥にひやりとした亀裂が走る。僕たちの関係の根底――「死ぬ理由を分かち合う」という前提は、初めから揺らいでいたのかもしれない。
それでも、僕は「裏切られた」とは思わなかった。なぜ僕にだけ孤独を装ったのか、その理由を探そうとする自分がいた。
同じ孤独を抱えていると思わせたかったのか。それとも、僕を安心させたかったのか。あるいは、僕が特別だからこそ「偽りの孤独」を共有してくれたのかもしれない。
どんな理由であれ、彼女が僕にだけ見せた嘘は、胸に深い痛みを残した。だがそれは裏切りではなく、彼女なりの優しさの一形態だったのだと……そう思わなければ、この感情に呑まれてしまう。悲しみに飲み込まれれば、自分の大事なものまで壊れてしまうのだから。
葬儀を終え、傘を持たずに外へ出た。
大粒の雨が容赦なく叩きつけ、喪服はすぐに重みを増して体に張りついた。髪は顔に貼りつき、下着までびしょ濡れになった。スマホもイヤホンも防水ではないので、きっと壊れている。だが、どうでもよかった。
ただ、この胸に渦巻く感情を雨がすべて洗い流してくれることを望んだ。しかし、雨は冷たさばかりを残し、何ひとつ流してはくれなかった。
家に戻ると、両親は僕を案じて「風邪を引くな」と口を揃えた。むしろ僕は風邪で寝込むことを期待していたのに、体は頑丈すぎてびくともしない。健康であることさえ、このときは憎らしかった。
僕の心理状態を心配した両親からは「間違っても自殺なんかするなよ」と何度も忠告された。その度に「しないよ」と口癖のような生返事を繰り返す。しかし、僕への心配が絶えないらしく、平日の昼間に仕事を抜けては家に来て、安否の確認をしに来る。LINEの返事が少しで遅れるようならばその度電話をしてくる。これ以上両親を心配させたくない僕は元気を取り繕う。
死んでもいいと思っていた。毎朝、毎夜「死にたい」が脳裏をよぎる。独り自室のベッドに体を預けているときに特にそう思う。彼女がいない孤独状態が僕の死にたい欲をさらに加速させる。実際には「死にたい」より「生きたくない」の方が感情としては近いのかもしれない。
翠がいない現実は、思った以上に残酷だった。彼女と共に過ごした時間が濃すぎて、今の生活のすべてが空っぽに感じられる。孤独はただの孤独ではなく、彼女の不在を証明する痛みとして、僕の胸に巣食っていた。
この胸の痛みは、僕を何度も夜の街へと駆り立てた。親に気づかれないよう忍び足で玄関を抜け出し、近所の十階建てマンションの屋上へ向かう。非常階段を上り詰めた先、重たい金属のドアを押し開けると、夜風が刃のように全身を切り裂いた。眼下には、止まることなく流れる車のテールランプと、果てしなく続く闇の街並み。足元の、吸い込まれそうな空白に身を投げ出せば、翠と同じ場所へ行ける……頭ではわかっているのに、体が言うことを聞かない。
一歩、縁へと足を踏み出すたびに、足首から冷たい痺れが這い上がり、背骨をつたい、喉を締め上げる。下を覗き込めば、風が耳元で唸り、吐き気と目眩が襲ってくる。何度も膝が震えて、結局その場にしゃがみ込むしかなかった。
……飛べない。
……自分の手で最期を決めることすらできないのか。
その事実が、僕をさらに嫌悪へと追い込む。死ぬことすらできない、中途半端な自分。彼女はもう、あんなにも潔く命を絶ったというのに。
そして再び朝を迎える。
朝が来るたび、僕は生きていることを突きつけられる。いや、「生き延びている」というより、「生き延ばされてる」のだ。望まないのに生かされ続ける感覚は、残酷な罰のようだった。
僕は現実世界にまだいた。
彼女のいない世界で生きていく自分を、どうしても思い描くことができなかった。ここまでの二ヶ月間、僕の生活は隅から隅まで彼女と重なっていた。朝、目を開ければ彼女の言葉を思い出し、夜、目を閉じる前には彼女とのやり取りを反芻した。そんな日々が当たり前になっていたからこそ、その喪失はあまりにも致命的だった。
今僕が生きている世界はまるで肺から空気が抜け落ち、息をするたびに胸の奥がひりつくようだった。
「未来にはきっと、美しい景色が待っている」……何度もそう自分に言い聞かせた。けれど、その言葉は虚空に放り出された声のように、反響もなく消えていく。彼女のいない未来など、ただの廃墟にすぎない。色彩を失ったキャンバスにどんなに絵具を塗り重ねても、そこに意味を見出すことはできなかった。結局、死んでしまう方が合理的だという答えに、心は何度も回帰してしまう。
それでも僕が辛うじてここに立っているのは、ひとつの理由だけだった。……彼女がどうして命を絶ったのか……そして、生前にどうして嘘の自死理由を僕に言ったのか……それを知るまでは死ねない、という執念。真実を知れば、どんな理由であれ、きっと僕は迷わず彼女の後を追うだろう。頭では愚かだとわかっている。だが胸の奥深くでは、既にそう決めてしまっていた。彼女は、僕の生きる理由であり、同時に死ぬ理由でもあったのだから。
葬儀から一週間。日数だけが無慈悲に積み重なっていく。世界はいつも通りの顔で回り続けるのに、僕の時間だけは止まったままだった。周囲の笑い声や電車のアナウンス、流れる風の音でさえ、自分には無関係な異物のように聞こえた。食事の味は砂を噛むように無機質で、眠りは浅く、目覚めるたびに彼女のいない現実へ叩き戻される。その繰り返しが、拷問のように続いていた。
僕はきっかけを求めていた。彼女の家へ行く理由を。そこに行けば、彼女の家族が真実を知っているかもしれない。あるいは、翠自身が最後に僕へ託した何かを残しているかもしれない。根拠のない望みに縋りつかねば、この足は一歩も前へ進めなかった。もし、何も得られなかったなら……そのときは迷わず、彼女を追う。それが僕にとって唯一の救いだった。
そんなある夜。机の上に放置していた白い有線イヤホンが、ふと目に留まった。最後に会った日、公園のベンチに忘れていった、彼女のもの。手に取った瞬間、胸の奥で何かが軋んだ。絡まったコードをほどきながら、耳にかけるわけでもないのに、そこに彼女の体温や吐息がまだ宿っているように錯覚した。小さなコード一本にまで、僕は必死に彼女の痕跡を探してしまう。哀しいほどに……。
けれど同時に、それは彼女の家を訪れる口実となった。恋愛小説のように洒落た理由はいらない。たとえわずかなものであっても、彼女に繋がる線があるのなら、縋らずにはいられなかった。
このイヤホンを手に、僕はようやく決心した。……彼女の家へ行こう、と。
翌朝、僕は彼女の家へ向かうことにした。
事前に連絡など取らない。彼女個人の連絡先しか知らないし、両親に電話をかけたところで、きっと辿々しい言葉しか出てこないだろう。まともな会話になる自信は、どこにもなかった。
玄関の鏡で身なりを確認していると、仕事へ出る前の母と目が合った。母は何かを察しているような、慈悲深い表情を浮かべていた。
「ちゃんと翠ちゃんに別れの挨拶をしてきなさい」
どうして翠の元に行くのを知っている? 口にした覚えもないのに……。
母という生き物は本当に恐ろしい、と思った。
母は白い封筒を差し出した。中には、折り目のないお札が何枚か入っている。驚きと同時に、妙に納得している自分もいた。ああ、母は僕の行動をすでに見抜いているのだ、と。
「いってらっしゃい。ちゃんと帰ってくるのよ」
その言葉には、微かな祈りと疑念が入り混じっていた。……「帰ってくる」という言葉が、やけに重く響いた。僕は本当のことを言えず、「行ってきます」とだけ小さな声で返した。
本当は、もう戻ってくるつもりはなかった。
彼女の家に行って、もし何も得られなかったなら……その時はそのまま遠くへ行こうと決めていた。どこか海外でもいい。自分の存在を知る者がいない場所で、ひっそりと最期を迎えるつもりだった。だから、前回の反省を活かし、位置情報を追われないようスマホは自室に置いてきた。今、僕の手元にあるのは財布、彼女のイヤホン、パスポート、そして母から受け取った白い封筒だけ。財布には、手持ちの全財産を詰め込んである。死に支度としては十分すぎるくらいだった。
彼女の家へ向かう途中、わざと寄り道をした。遠回りというほどでもない。ほんの少し歩く距離を増やしただけだ。時間を稼ぎたかったのか、それとも最後の瞬間まで「まだ生きている」という感覚にしがみつきたかったのか、自分でもよくわからなかった。
やがて、彼女の家の前に辿り着いた。
そこには、僕の記憶の中と何ひとつ変わらない家があった。生前、何度か訪れた時と同じ趣き。外壁の色も、窓の形も、表札に刻まれた名前の字も……。人が一人死んだくらいで、家が物理的に変わるわけがないのは当然だ。
けれど、僕は勝手に、そこがもっと重苦しい場所へと変貌しているだろうと想像していた。黒い影が家を覆い、息苦しい気配を漂わせているだろうと。……しかし、目の前にあるのは、ただの静かな一軒家だった。
その事実が、かえって僕の胸を強く締めつけた。
インターホンを押すと、ほとんど間を置かず女性の声が応えた。玄関に現れたのは、東尋坊での未遂の後、三国警察署で見かけた人だった。彼女の母、早乙女京子なのだと察する。
あの日でさえ痩せ細っている印象を受けたが、今はさらに輪郭が削がれて見えた。骨ばった肩、わずかに震える指先。その痩せ方は病ではなく、精神が削られ続けた人間だけが纏う陰影を帯びていた。娘を失ってまだ一週間。むしろ立っていること自体が奇跡のようにすら思えた。
僕が弔問のために来たと口にすると、自己紹介を交わす間もなく家に迎え入れられた。玄関には新しいスリッパが揃えて置かれており、京子さんはそれを丁寧に差し出した。心遣いに礼を言いながら履き替える自分が、どこか不自然に感じられる。
廊下を進むと、前に訪れたときと同じはずの家が、まるで違う家に思えた。電球の光量は変わらないのに、どこかに影が滞っている。視界にかかる濁った膜は、きっと僕の心そのものなのだろう。
案内された部屋には仏壇があった。襖を透かして差し込む外光は弱く、薄闇の中に仄白い線を描く。空気はひんやりとしていて、冷たさが皮膚の奥まで沁みこんでいく。畳から立ちのぼる井草の匂いだけが唯一柔らかく、鼓動の速さを辛うじて和らげてくれていた。
仏壇の前には、色とりどりの菓子や飲み物、手紙の束、折り鶴の山が積み重なっていた。駄菓子屋で買える小袋のお菓子から、洒落た洋菓子まで揃っていて、その一つひとつに差し出した人の想いが宿っているように見えた。中には「翠へ」と走り書きされた封筒や、手作りのキーホルダーまで供えられていた。おそらく彼女の同級生たちが立ち寄って置いていったものだろう。その数の多さが、彼女がどれだけ友に囲まれていたかを否応なく物語っていた。
やはり、彼女には多くの友達がいたのだ。
「友達なんていない」と僕にだけ告げた、あの言葉が頭の奥で反響する。あのとき彼女が見せた笑みが、今はひどく遠く感じられる。僕にだけ孤独を装い、僕にだけ嘘をついた……それは裏切りではなく、むしろ僕を守るための優しさだったのだと信じたかった。だが、この供物の山が、その優しさの重さを僕に突きつける。胸の奥に、言葉にできない痛みが広がっていった。
遺影は葬儀で見たときと同じ、満開の笑顔。頬の線、目尻のきらめき、すべてが美しく整っていて、まるで未来に使われることを予期していたかのような写真だった。声をかければ答えてくれるような気がして、けれど絶対に返ってはこないと知っている。その永遠の断絶を認めた瞬間、息が詰まるほどの苦しさが胸に満ちた。だから僕は、遺影に語りかけることを避けた。
京子さんの勧めで仏壇の蝋燭に火を点し、焼香をあげる。木魚の脇に置かれた小さな梵音具を打つと、澄み切った金属音が室内に鋭く響き渡った。その音は、僕の心の奥深くにまで届き、揺さぶる。僕は無心で両手を合わせ、目を閉じた。
音が完全に消え去るまで、じっと、動かずに待ち続けた。やがて静寂が戻ってくる。だが、その静けさは安らぎではなく、彼女の不在を突きつける残酷な静けさだった。
百八十度振り向き、彼女の母親と目を合わせる。そこにあったのは、優しさと深い悲しみの混ざり合った笑顔だった。まじまじと顔を直視するのは初めてだが、目の下の濃い隈や、頬に刻まれた深い影は、化粧ではどうしても覆い隠せないものだった。
その微笑みは、級友である僕に向けられたものというよりも、精神の限界を越えそうな心に必死で蓋をして絞り出したものに見えた。娘を喪った悲しみに耐えながら、それでも「娘の友達」にだけは穏やかな表情で接しなければならない……そんな強迫観念が、彼女を形作っている。
その笑顔を正面から受け止めると、胸の奥から強烈な痛みが突き上げてきた。彼女と共に東尋坊まで行った事実が、京子さんをさらに苦しめているかもしれない。あの時の僕の言動が、この人の疲労の原因の一端を担っているのだと思うと、謝罪の言葉を今すぐにでも口にしたくなる。しかし同時に、謝ったところで何が変わるのかという諦めが僕を押しとどめていた。
「アポも取らずに急な訪問をして申し訳ありません……翠さんには、生前、大変お世話になりました」
声が震えないよう、必死に喉を押さえつけて言葉を紡ぐ。
「全然大丈夫。生前は翠と仲良くしてくれてありがとう。……急な交通事故でのお別れとなってしまったけど、あの子にとっては、あなたみたいな素敵な友達に最期を看取られながら迎えられたこと、きっと嬉しかったはず……本当にありがとう」
掠れる声でそう告げた京子さんは、深々と頭を下げた。恭しく下げられたその頭が、重荷を背負ったまま地に沈んでしまうのではないかと思えるほどに痛々しく映る。
こんな態度を取らせてしまった自分がひどく惨めに感じ、胸が苦しくなった。
「実は、先週、翠さんと会っていました。その時にイヤホンを忘れていったので……届けに来ました」
ポケットから取り出した有線イヤホンを、畳の上にそっと置く。家を出る前に念入りにほどいたはずなのに、道中で再び絡まり合ってしまったらしい。
京子さんはそのイヤホンを両手で持ち上げ、じっと見つめた。
やわらかな震えがその指先に宿っている。
「……これは、間違いなく翠のイヤホンだわ。私があの子に最初に買い与えたものだから、よく覚えているの。まだ使ってくれていたのね、あの子……」
しんみりとした声に、押し殺された嗚咽の響きが混じる。赤く腫れあがった目元が、どれほど長い時間を涙とともに過ごしてきたのかを物語っていた。今にも再び泣き崩れそうなその姿に、僕はただただ黙り込み、時間の流れに身を委ねた。感傷に浸るその瞬間を邪魔することは、ここにいる者として決して許されないことだと分かっていたから……。
そして、その沈黙の中で僕は気づいた。彼女の訃報を聞いた際に電話で京子さんと声を交わしたが、僕が宇佐美大和であることは伝わっていなかったことに……。
京子さんにとって、僕はただの「娘の友達」に過ぎない。そして……京子さんが口にした「交通事故」という言葉。級友たちには死因が不慮の交通事故であると伝えていることに、確信が持てた。
本当は、自ら病院から飛び降りて命を絶った彼女……。
その瞬間、全身の血が逆流するような衝撃を覚えた。
なぜ真実を隠したのか……怒りにも似た問いが喉までせり上がったが、すぐに飲み込むことができた。彼女のことだから、その「嘘」はきっと優しさから来たものなのだろうと直感したからだ。
翠はきっと、みんなに「自殺した子」として記憶されることを望まなかった。そんな形で周囲の記憶に刻まれることを、何よりも嫌ったのだろう。もし自分が自ら命を絶ったと知られてしまえば、友人たちは自責の念に苛まれ、家族は一生説明できぬ痛みを背負うことになる。それを避けるために、彼女は最後まで「交通事故」という穏やかなで偶然の理由を選んだ。
……最後まで、嘘をついて。
でも、その嘘は誰かを傷つけるためのものではない。むしろ、誰も傷つけないためのものだった。
それを思うと胸が張り裂けそうになった。僕だけが、その「嘘」を嘘だと知っている。この重さを抱え込むことは、残酷なほどの孤独を意味するはずなのに、不思議と怒りではなく、ひどく切ない温もりのようなものが胸に広がった。
彼女は最期の瞬間まで、世界に優しい嘘を与え続けたのだ。
最期の瞬間までも自分を犠牲にして、みんなの穏やかな未来を守ろうとした。
それが、彼女らしい……あまりにも彼女らしい結末だった。
きっと僕が名前を告げた瞬間、彼女の母親は表情を大きく変えるだろう。
娘をあんな危険な自殺旅行に巻き込んだことに、憤慨するかもしれない。
娘の自殺を助長したと責められるかもしれない。
何発か殴られるかもしれない。
……それで構わなかった。
生前、あんな危険な目に愛娘を巻き込んだのだから。どれだけ罵倒されても仕方がない。
覚悟を決め、息を詰めて名を告げる。
「僕は……」
ただ、自分の名前を口にするだけなのに喉の奥に言葉が詰まる。
「……宇佐美大和といいます……」
その瞬間、彼女の母親はまるで時が止まったかのように動きを止めた。
瞳が見開かれ、声を失ったまま僕を凝視する。唇が震えて、言葉にならない声が小さく漏れた。
やがて、右手をそっと口元に当てる。その指先がかすかに震えている。
「……宇佐美、大和……?」
まるで遠い記憶を確かめるように、ゆっくりと僕の名前を繰り返す。
沈黙が落ちた。
仏間を満たす空気が一層冷たくなった気がして、僕は正座の膝がじんわりと痺れてくるのを感じた。
次に返ってくる言葉が罵倒でも非難でも、受け止める覚悟はできていた。
だが、返ってきたのはまるで別の響きだった。
「……君だったのね」
震えた声は、次の瞬間一気に崩れ落ちる。
「良かった……本当に来てくれて良かった……。君が来るのを、翠が亡くなった日から……自殺した日からずっと待っていたの」
僕の予想は完全に裏切られた。
京子さんから溢れ出したのは怒りでも、憎悪でもなく、感謝と安堵の涙だった。
その場に崩れ落ちるように泣き崩れた母親の姿に、僕はしばし言葉を失う。
その涙は悲しみだけではなく、再会を果たした映画の一場面を思わせるほど強いものだった。
胸の奥で、硬く閉ざしていた何かが少しずつ溶けていく。自殺の理由を知ることとは別に、ただここに来ただけで少しでも彼女の母親を救えたのだと感じられたからだ。
やがて母親は目元を拭い、一度離席した。二階へと足を運ぶ軽い足音がして、仏間に取り残される。
仏壇に背を向けて、ひとり呼吸を整える。遺影の彼女がこちらを見ている気配が背中に刺さる。落ち着かない時間だった。
すぐに、少し駆け足気味で母親が戻ってきた。手には茶色の封筒を携えている。
畳の上にそっと置かれたそれを見た瞬間、視界に飛び込んできた文字に息を呑む。
『宇佐美大和君へ』
達筆な筆跡。間違いなく、彼女の字だ。
一緒に遺書を書いたとき、嫌になるほど見せつけられたあの癖のある文字。懐かしさが胸を締めつける。
だが、その文面はあの時のものではない。明らかに、新たに書かれたものだった。今回の自殺企図に際し、焼き直された……そんな確信があった。
涙腺が崩れそうになるのを、必死にこらえる。呼吸が浅くなる。
母親の声が落ちてきた。
「君だけには死因が自殺であることを伝え、この封筒を渡して欲しいって……私たちへの遺書の中に書いてあったの」
淡々とした声色。しかし、その抑えた響きの奥に冷たい鋭さがあった。僕を責めるでもなく、ただ事実を告げる声。
封筒には皺ひとつない。開封口には「〆」と朱筆され、未開封の痕跡がしっかりと残っていた。
その几帳面さは、どこか雑なところのある彼女の性格には似つかわしくなかった。だからこそ、余計に胸が苦しくなる。死を覚悟したとき、人はここまで整然とした振る舞いを見せるのか。
母親は正座のまま封筒を押しやり、静かに促す。
「翠の最期の言葉だから……この場で読んで欲しいの」
僕は手を伸ばし、指先を震わせながらカッターナイフで封を切った。中から現れたのは見覚えのある紙。あの日、一緒に遺書を書いたときと同じ種類の便箋。
手紙は二つに分かれていた。
読もうと何度も決意した。けれど、そのたびに胸が締めつけられ、指先は紙に触れることすら拒んだ。
封筒を手にしているだけで、背中に冷たい汗が流れ落ちる。まるで彼女の声なき声が「まだ開けないで」と囁いているかのようだ。
触れるだけで罪悪感を覚えた。僕には読む資格がないのではないか、と。
手紙からは、とてつもなく大きな圧力が放たれている気がした。僕が今後生きるにせよ、死を選ぶにせよ、そのすべてを決定づける何かが、この数枚の紙に閉じ込められている。そんな予感があった。
知ってはいけない真実もある。
そう直感していた。
だが同時に、この中には彼女が生前「死ぬ前に必ず話す」と約束していた秘密、本当の理由が刻まれているに違いないとも思えた。
知りたい……けれど……怖い。心が真っ二つに裂かれる。
それに、これを読んでしまえば、彼女との繋がりが完全に途切れてしまうようで恐ろしかった。
手紙は、天国にいる彼女と僕を結ぶ最後の糸だ。
LINEを送っても、既読は二度とつかない。電話をしても、もう声は返ってこない。当然だ。
火葬場で骨となった彼女をこの目で見た。それでもまだ、「死んだ」という事実を心の奥で拒んでいた。
どこかで……彼女はまだこの世界のどこかで生きていて、また他愛もない会話を交わせるのではないか。そんな不可能な期待を、子どものように抱き続けていた。
もちろん、それが叶わないことぐらい分かっている。
けれど、僕は「死」を受け入れきれずにいた。
だけど、永遠に立ち止まっているわけにはいかない。
真実を見るのはとても怖い。けれど、真実から逃げ続ける方がもっと怖い。
彼女の死に正面から向き合うこと、それが僕に与えられた唯一の義務であり、最後の役目なのだ。
僕は深く息を吸った。震える手を押さえつけながら、封筒を開く。
最初の一枚を取り出し、そっと広げる。
……手紙を京子さんから渡されてから二十分。
その間、彼女の母親は僕の動揺をただ優しく見守ってくれていた。
「読んでくれる」と信じている眼差しを背中に感じながら、僕はついに、一枚目に目を落とした。
『拝啓。宇佐美大和君
この手紙を読んでいるということは、きっと私は無事自殺に成功してこの世から消えたってことかな……。(すごくありきたりだね笑)
大和君には二つ謝りたいことがあります。(謝罪から始まってごめん笑)
一つ目は私が先に死んだことです。
怒られるかもしれないけど許してほしい……これにはちゃんと理由があるの……二つ目で詳しく話すね。
二つ目は私が大和君に隠していた秘密を言うという約束を破ったことです。この秘密は私の自殺理由に大きく関係している……。
実は私病気だったの……それも絶対に治ることのない心臓の病気で、お医者さんがいうには今年の夏を越せないらしい……。
私だって色々悩んだ……だけど、病院のベッドで無理やり生かされた状態で最期を迎えるのは嫌だった。死ぬなら元気なうちに外の世界で私らしく死にたかった。
私だって自殺するのは怖いし、もっと大和君と生きたかった。でも、大和君には必死に隠していたけど私の体調はどんどん悪化していき、体力も落ちていった。生きる気力も削られていった……。より元気な状態で死ぬのを最優先したかったから、大和君の生きる気持ちを確認したのち、寿命を待たずに病院の屋上から一人で飛び降りることを選択した。
大和君と公園で約束した時点で私は病院の屋上から飛び降り、秘密は言わないと決意していたの。
君に嘘をつくような形になってしまい、本当にごめんね。
早乙女翠(次の手紙への続く)』
全てを読み終えた今、僕は言葉にできないほどの感情に襲われていた。
苦しい……苦しい……。胸の奥が焼けるように……。
胃の底から何かが逆流する。まともに食べてもいないのに吐き気に襲われ、喉が酸っぱくなる。
震える指先を膝に押しつけなければ、紙を取り落としそうだった。
繋がってしまった。
今まで点のように散らばっていた出来事が、一つの線に収束してしまった。
僕と彼女が病院で出会ったこと。
屋上で出会ったとき、彼女が入院着を着ていたこと。
岡山で泊まったホテルのゴミ箱に、薬の包装が山のように捨てられていたこと。
遺影が、まるで生前に「この一枚を選んで」と準備したかのように整っていたこと。
「自分の自殺理由はどうにもならない」と呟いていたこと。
遺書にだけは、自殺理由を書くことを頑なに拒んでいたこと。
全部、答えだったのだ。
彼女が病気であることを示す、十分すぎるヒント。
それなのに僕は、何一つ気づくことができなかった。
後悔。
その二文字が、脳の奥で何度も何度も反芻した。
あんなに近くにいて、笑い合って、秘密まで共有したのに……。
一番大事なことにだけ、僕は触れることができなかった。
いや、仮に気づいて問いただしたとしても、きっと彼女は微笑んで「違うよ」と否定しただろう。
早乙女翠という人間は、そういう優しさを持ったやつだ。
現実が追いつかない。
死んで一週間が経ち、ようやく少しだけ受け入れようとしていたのに、さらにその上から「不治の病」という事実が重石のようにのしかかる。
――本当に? そんなはずが?
振り返れば、伏線はいくつもあった。
彼女はきっと、僕に気づいて欲しくて、あえてヒントを残していたのかもしれない。
だが、彼女は生前に一度も弱音を見せなかった。
余命の限られた人間が、あんなに自然に、あんなに穏やかに振る舞えるはずがあるだろうか。
精神力や薬で誤魔化せる次元を超えている……そう思えてならなかった。
「……彼女は……翠さんは、本当に病気だったんですか?」
自分でもひどく失礼な問いだと分かっていた。
けれど、堰き止められなかった。
疑うためじゃない。
心のどこかで「病気じゃなかった」という答えを、まだ願っていたのだ。
「あの子……やっぱり君には話していなかったのね」
彼女の母親は、僕の愚かな問いに怒るでもなく、柔らかい声で答えた。
その優しさに胸を刺され、僕は自分の言葉を深く恥じた。
母親はそっと立ち上がり、近くの引き出しを開ける。
そして、大きめの封筒を一つ取り出した。
「これを……君に見てほしいの」
差し出された封筒。
右下には、僕と彼女が出会った市民病院の名前が、はっきりと印字されていた。
何層にも厳重に封が閉じられている。震える指先でゆっくりと糊付けを剥がすと、乾いた紙の匂いがふわりと立ち上り、胸の奥を締め付けた。中には分厚い診断書と心電図の結果が何枚も重ねられている。
診断書には「早乙女翠」の名前と、長く難解な病名……心臓に関わる致命的な発作を繰り返す病だと記されていた。医師の捺印もきっちりと押されている。偽造などでは決してない。
目の前に突きつけられた真実を、僕はまだ受け入れられない……それでも、受け入れざるを得ない。認めよう。彼女は本当に、心臓の病気だったのだ。
「あの子が高校を退学して通信制に転校したのは知ってる?」
「はい……存じ上げています……」
「病気の影響で長期入院が必要になってしまって、このままでは進級できないとわかったの。だから本人の意思で通信制に転校したのよ……全日制で、たくさん友達に囲まれて過ごしていたのにね。親としては、丈夫な体で産んであげられなかったことが、ただただ申し訳なくて……」
京子さんの声は途中で震え、大粒の涙が頬をつたい落ちていく。間接照明に照らされて、涙は淡く光を帯びながら畳の上に消えていった。その一滴一滴が、母の痛みを何よりも雄弁に物語っていた。
「でもね……翠の葬式に参列してくれた多くの友達を見て、嬉しかったの。あの子が築いた人間関係は間違っていなかったんだって……我が子ながら誇らしく思ったわ」
慈悲深く彼女の母親は言った。僕は静かに頷いた。
けれど、正直に言えば驚いていた。僕の知る翠は、どちらかといえば一人で静かに本を読み、独りの世界に安らぎを見いだす子だった。昼休みに大勢と笑い合う姿も、放課後に友人たちに囲まれる姿も、想像すらできない。
……でも、僕が見ていなかった場所で、翠は確かに人と繋がっていたのだ。だからこそ、葬式に集まった友人たちの多さは、僕の中で新しい事実として鋭く突き刺さった。
彼女は決して孤独ではなかった……その事実は僕に安堵を与えた。だが同時に、深い悔しさも呼び起こした。どうして僕はそのことを知らなかったのだろう。あんなに近くで時を重ねたのに、なぜ一番大切な彼女の真実に触れられなかったのだろう。
いや、違う。翠は僕に「友達なんていない」と告げていた。あの言葉は、今となっては残酷な嘘だ。けれどきっと、僕を翠だけの特別な存在にするためについてくれた嘘なのだろう。
その優しさは、今の僕には刃のように胸を抉る。彼女が抱えていた孤独は演技で、優しさゆえの欺瞞で……それを信じて疑わなかった自分だけが取り残されている。
どうしてだろう……。あまりに悲しい出来事なのに、目の奥は乾いたままだった。せめて悲しみを形にしようと、無理やり涙を絞り出そうとした。けれど、涙腺は頑なに沈黙を守り続けた。そのとき初めて知った。人は本当の悲劇や受け入れ難い事実に直面すると、感情すら凍りついてしまうのだと……。
「今日は突然押しかけてしまい申し訳ありません……」
玄関で去り際に僕は社交辞令のように口にした。けれど、その声音には自分でも気づくほどの震えが混じっていた。今日知った事実を、頭も心もまだ咀嚼しきれていない。
「あの子が君に病気のことを隠したのは、きっと理由があって……そして君のために隠したんだと思う。なんで隠したのかはわからないけど、私はきっと、他人を思う優しさと、自分を守るために嘘をついたんだと思ってる。親バカだけど、あの子は人を思いやれる優しい子だから」
母親の声は柔らかく、どこか救いを与えようとする響きを帯びていた。だが僕には、その優しさが重荷にすら感じられた。優しさを信じたくないわけではない。ただ、翠が僕についた嘘の真意を、どうしても自分の中で納得させられないのだ。
家族に宛てた遺書も読ませてもらった。遺書の中には、家族への感謝の言葉が丁寧に綴られていた。それは疑いようもなく翠の優しさの証だ。だが……どうして自分の死の理由だけは、嘘で覆ったのか。その答えはまだ見えない。けれど、知りたい。いや、知るべきだ。そう思わずにはいられなかった。
「親としてのお願いだけれども、君には翠の分まで生きてほしい。あの子が最後まで信じていた君が生きているだけで、私は前を向ける気がするの。それと、いつでも翠に会いに来てくれていいのよ。きっとあの子も、それを望んでいる」
胸が痛んだ。
「あなたは娘の残像を僕に投影して、今の悲しみから逃れているだけじゃないですか」……そんな残酷な言葉が喉までせり上がった。けれど、吐き出せるはずがない。僕は代わりに、京子さんの期待に沿うような言葉を選んだ。
「……頑張って生きてみようと思います。機会があれば、また翠さんに会いに行きます」
口にした瞬間、それが嘘だとわかった。翠がもしここにいたら、こんな僕をきっと笑うだろう。
「生きるか死ぬかは、他でもない君自身が決めることだよ」
耳の奥に、彼女の声がよみがえる。生きることの苦しみを誰より知っていた翠だからこそ、そんな言葉を残すに違いない。
自室の机の上には、まだ開かれていないもう一枚の手紙が残っている。
その中に、僕が抱える疑問、翠が本当の自殺理由を隠した答えがあるのかもしれない。希望と恐怖の両方を孕んだ紙切れが、ただ静かに僕を待っていた。
死にたい気持ちに、いまは蓋をするしかない。
そして、いつの日か決めた。この手紙を読もう、と。
彼女の最後の言葉に触れてからでも、死ぬことは遅くない。
死ぬなんて、いつだってできる。
だから……もし読み終えても心が変わらなかったら、そのときは彼女の後を追えばいい。

