東尋坊での飛び降りが失敗に終わった後、僕たちは福井県警の三国署に送られた。まさかパトカーにこんな形で乗せられるなんて、予想だにしなかった。
翠と僕は、それぞれ別々の部屋に入れられた。独房のような四壁に囲まれ、僕は一人でじっと思索にふけっていた。静かな部屋の中で、自分の存在がますます疎ましく思えてきた。
行方不明届が出ていたということは、どこかで親が僕の自殺願望を察したということだろうか。だが、どうしてもその理由がわからない。親との会話でも、いつも感情を隠していたし、行動も慎重にしていたはずだ。もちろん、失敗した今となってはその理由を考えること自体が無駄だろうが、心の中でそれを掘り下げずにはいられなかった。
今、親が大垣から駆けつけるらしい。しかし、正直言って会いたくない。僕がこんな形で失敗したことを、きっと大きな悲しみと絶望の目で見つめるだろう。そんな中で冷静に話し合うことなどできるわけがない。きっと、言い争いにしかならないだろう。
本当は、今すぐにでもこの場所を抜け出し、翠を連れて東尋坊に戻り、再度死を選びたかった。僕一人ならまだしも、翠を一緒に連れ出すとなると難しい。彼女もあの動揺からまだ気持ちが整理できていないだろうし、今無理に一緒に飛び込んでも契約違反になってしまう。それに、あの場面から何も動けない自分がとても情けなく感じられた。
そんなとき、扉が開き、刑事が一人入ってきた。
「刑事の鈴木です」
扉が開き、部屋に入ってきたのは東尋坊で僕たちを止めた警官とは違う男だった。
落ち着いた表情で、まるで何事もなかったかのように歩み寄ってくる。その冷徹な目が僕をじっと見つめて、僕の心の中に無言の圧力をかけてくるようだった。
自殺未遂者を目の前にしているにも関わらず、彼の姿勢には何の動揺も見えなかった。
「君はなんで自殺を試みたの?」
その質問はあまりにも直球で、鋭く、僕の胸に刺さる。何もかもが無意味に思えたあの瞬間、死にたかった理由を語ることが、また一層苦しくなる。
僕は彼の目を見なかった。
「受験に失敗して、そこから自分の人生がどうでもよくなったんです。生きるのが本当に苦痛すぎて……未来に夢や希望なんてないですから……」
刑事は黙って僕の話を聞きながら、ただうなずく。
その反応が、ますます冷たく感じてきた。僕の絶望に対して、全くの無関心のように見えるからだ。
「早く、この際限のない苦痛を取り除きたかった」
言葉が止まらなかった。まるで、胸の中に詰め込まれた想いが、一気に溢れ出すように。
「取り除くには、自殺しかなかったんです」
その瞬間、部屋の中の空気が凍りつくのがわかった。何かが途切れたような気がした。僕は悪いことをしていないと思いながらも、なぜか自分の中で何かを正当化しているような気がして、どこか緊張していた。
「君と一緒にいた女の子も自殺志願者?」
刑事の声が冷たく響く。
僕は静かに、けれど心の中では引き裂かれるような気持ちを抱えて答える。
「……はい、そうです」
彼女のことを語るのは、どこか痛かった。僕の心に、彼女がいないときの空虚感が一気に広がるからだ。
「ってことは、君の彼女?」
刑事の質問はまるで、僕をさらなる絶望に追い込もうとしているようだった。
「いえ、違います。彼女とは、『契約者』です」
言葉が口から出るたびに、自分がどれほどの虚無に囚われているかが浮き彫りになる。
「契約者?」
刑事はその言葉に少し眉をひそめた。興味を持ち、でも少し困惑したような表情をしている。
「元々、僕と彼女はそれぞれ一人で自殺することを考えていました」
その時、思い出したのは翠との最初の出会いだった。病院の屋上、あの時の空気と彼女の目に宿っていた深い絶望。それが、今も心の中で強く蘇る。 「しかし、ある日、病院の屋上で自殺を試みていた彼女と出会ったんです」
その出会いから、全てが変わった。まるで運命のように感じた。お互いに抱えていたもの、そして求めていたものが、あの瞬間に重なったのだ。
「その時も、僕は死ぬつもりでした。そして話していくうちに、彼女も『より確実に、楽に死ねる方法』を探していることがわかった」
翠と話しているうちに、僕は少しずつ、自分の心が深いところで温かく感じるのを覚えた。それは希望でもなく、単なる温もりだった。ただ、共に死を選ぶ者同士の、無言の契約だった。
「それで、共にそれを探すために契約を結びました」
契約者。それが、あの時、僕たちが結んだもの。
「そして、東尋坊で飛び降りるのが最善だという結論になり、今回親に内緒で来ました」
僕は全てを正直に話した。
その時、ふと思った。
ここで本心を語ることが、自分を追い詰めることなのか、それとも少しだけ楽になる方法なのか……。正直なところ、わからない。ただ、今の僕には、自分の苦しみを誰かに受け止めてもらいたかっただけなのだ。
刑事はしばらく黙っていた。その視線がどこか遠くを見つめるようで、僕には見えない何かを考えているようだった。話すことができたことに、少しだけ安心した気がしたが、結局のところ、何も変わるわけではないということを知っていた。
「俺に君の気持ちはわからない。俺は中卒で警察に就職したから、君がどれほどの思いで受験と向き合ってきたかは理解できないし、理解しようとする姿勢すら君に失礼だ。きっと君は並々ならぬ覚悟と思いを持って勉強を積み重ねてきたんだろう……」
刑事の言葉は、僕の胸の中で何かを弾けさせたような気がした。
その瞬間、過去の自分が目の前で浮かび上がってくる。あの二ヶ月間、不合格を受けてからの時間、僕はずっと自分の過去を否定して生きていた。どんなに努力してももう意味ない……明るい未来など訪れない……。
でも、彼の言葉で、少しだけその否定の気持ちが溶けていった。まるで氷の塊が割れるように、少しずつ、少しずつ苦しみが流れ始めた。
「君の言動でどれだけ多くの人に迷惑と心配をかけたかわかってる? これは事実として話しているんだ」
その声は、静かに、けれどしっかりと胸に響く。
僕は無意識に首をすくめた。心の中で「ごめんなさい」が少しずつ湧き上がってきた。でも、口に出すことはできない。
でも、どこかで「それでも死ぬしかない」という思いが絡みついて、心の中で繰り返される。罪を背負ってでも、死を選ぶことはできるのだろうか?
刑事はそのまま続けた。
「死ぬのをやめろなんて無責任なことは言わない。君の人生の最期を決める権利は君自身にあると思ってる……ただ、多くの人に迷惑と心配をかけた事を知って欲しかった」
その言葉に、何も言えなくなった。
もしかしたら、彼はただ、僕に現実を突きつけているだけなのかもしれない。自分の中に眠っていた「生きたい」という気持ちを無視して、どこか遠くに追いやってきたけれど、今その気持ちが少しだけ戻ってきたのかもしれない。
そして、刑事は言葉だけを残し、静かに部屋を出て行った。
その後、部屋の中に残された空気が、少しだけ軽くなったような気がした。でも、それも一瞬のことで、すぐに深い沈黙が包み込んだ。
どれくらいの時間が経ったのだろうか。
時計を見ると、深夜一時を指している。まるで時間が止まったように感じる中で、僕の心は静かに、でも確実に痛みを増していった。親に会うという現実が、僕をじわじわと圧迫する。
泣き顔を見せるのだろうか。それとも、平手打ちをされるのだろうか。
そんな想像をして、胸がギュッと締め付けられる。
会いたくない。顔も見たくない。言葉すら交わしたくないという気持ちが、強く、強く心を支配していた。
「宇佐美大和君。下にお母さんが迎えに来たので、来てください」
その声が響いた瞬間、体が硬直した。
父が来ると思っていたのに、母が来るとはまったく予想外だった。
足元がふらつくような気がした。重い足取りで荷物をまとめながら、心の中で何度も「会いたくない」と呟く。
それでも、足は自然とエレベーターに向かって動いていた。
エレベーターの中、ふと隣に立つ刑事鈴木が口を開いた。
「君は親のことどう思ってる?」
「恨んでいます」
「どストレートだね」
「この世に生まれて来なければこんな不憫な思いをしなくて済みましたから」
「君って卑屈だね」
「彼女にも言われました」
「でもそれが君だから……無理に今の性格を変えて生きて辛いのなら、死ぬのも一つの選択肢としてありな気がする」
「死を肯定してくれる人に初めて出会いました」
「職業上本当はこんなこと言ったらいけないんだけどね。君のように東尋坊で自殺を試みた人を何人も見てきた。自殺未遂者から話を聞いてわかったのは、俺みたいな日々に幸せを感じている人にはわからない葛藤や不安がみんなにあったってこと。そして、それらは簡単に解決できないほどに複雑だってこと。だからこそ頭ごなしに否定せずに話を聞いて、悩みを聞き出すのが一番いいと思ってる。自殺を決意した根本的な原因を解決できないのに首を突っ込んだり、今後のその人の人生に責任が持てないのに自殺を止めたりするのは違うって考えてる……」
鈴木さんの言葉は、僕の心に静かにしみ込んできた。
言葉ひとつひとつが重く、僕の中で何かが崩れていくような気がした。自殺を決意した背景を誰も理解してくれないと思っていたけれど、この刑事はその痛みを少しでも理解しようと努力してくれている……全てを受け入れようとしてくれている。
「ただこれだけは理解してほしい。君が死んで悲しむ人はいる。そして親は息子の心情の変化に気づけず、自殺という選択を取らせてしまった事を一生後悔する……俺にも息子が二人いるから君の親御さんの気持ちがわかる。昨日まで一緒に食卓を囲んでいた息子が急に消える悲しみは想像もしたくない。だから次思い詰めた時はしっかりと親御さんに話すといい。今の君にはわからないと思うけど、親は地球上で最高の理解者だと思うよ。君のいい部分も悪い部分も赤裸々に受け止めてくれる……きっと……」
僕の心を深く突き刺し、同時に切なさと痛みが込み上げてきた。
親は理解してくれるだろうか。今、こんな僕を受け入れ、支えてくれるだろうか。死ぬことが解決だと思っていたけれど、きっとその後に訪れるのは無数の後悔と孤独だったのかもしれない。
だが、今の僕にはまだ「生きたい」という欲望が湧いてこない。死にたい気持ちが強すぎて、それ以外の感情を感じる余裕はなかった。
エレベーターが一階に到着し、ドアがゆっくりと開いた。
その瞬間、嫌でも現実が押し寄せてきた。母親に会わなければならない。会いたくない、顔も見たくない。言葉を交わすのが恐ろしかった。
しかし、エレベーターの機械は僕の心情を無視し、ただ無機質にドアを開ける。
廊下の照明は最小限に抑えられ、不気味なほど静寂が漂っていた。
まるで深夜の病院のような冷たい空気が、僕を包み込む。
足音が響く中で、刑事は何も言わず先に歩いていく。僕はその後ろを無意識に追いながら、体を隠すようにして歩いた。
警察署の入口近くに、母親が座っていた。
目を合わせた瞬間、母の表情は変わらなかった。冷静で、どこか無理に落ち着こうとしているような印象を受けた。だが、それでも僕はその冷静さに驚く。もっと大きく、激しく動揺していると思っていたからだ。
母の隣に、もう一人痩せ細った女性が座っているのが見えた。遠目からでは顔の輪郭が定かにはわからないが、その佇まいや雰囲気がどこか翠に似ている。
きっと、あれは翠のお母さんだろう。
その瞬間、胸の奥がぎゅっと締め付けられた。自分が翠を連れ出して、あの場所に向かわせたことへの罪悪感が一気に押し寄せてきて、目の前の光景がぼやけていった。
僕は顔を背けた。まっすぐに見ることができなかった。翠を連れ出したことに対する後悔や申し訳なさが込み上げてきたわけではない。
ただ、彼女の母親に、翠の家族に対して、僕はどんな顔をして向き合えばいいのか分からなかった。どうしても、言葉が出てこなかった。
「どう気持ちは楽になった?」
婦人警官がにこやかに尋ねてきた。だけど、僕はその質問に対して、期待されていた答えとは真逆の言葉を返す。
「自殺をやめるとは言い切れないです……今でも死にたい……この世から消えたいという思いは強いです……」
僕は母親の前で、あまりにも率直に言ってしまった。その言葉に警官は少し驚いたようだったけれど、母は、どこか納得したような顔をしていた。
「本当にご迷惑をかけました。ほら、あんたからもなんか言いなさい」
母のその言葉に、僕は何も答えられなかった。何を言えばいいのか、全く分からない。自分の中で一番言いたくないことを、たくさんの人に話してしまっているのに、それでもなお、言葉が出てこない。多くの人を巻き込んで迷惑をかけてしまったという自覚はある。でも、その事実を認めることで、何かが崩れてしまう気がして、どうしても言葉にできなかった。
「あえて頑張れとは言わない。だから気楽に生きてみろ。無理なら死んでもいい」
鈴木さんは、淡々とそんなことを呟いて、部屋を後にした。その後ろ姿には、何とも言えない説得力があった。無理に励ますことなく、かといって見放すわけでもなく。彼女の言葉が、じわじわと僕の心に響いた。
その後、諸々の手続きを終えて、僕たちは三国警察署を後にした。外に出ると、目の前には満点の星空が広がっていた。その美しさに、思わず足を止めて見上げてしまった。あまりにも澄んだ夜空。まるで、この世のすべての悩みがどこか遠くに消えてしまうような、そんな感覚になった。
でも結局、僕は翠の姿を見ることはなかった。自殺未遂からしばらく経った今、僕はただ翠が今、何を思っているのかを知りたかった。もし「死にたい」と言ったら、僕はまた彼女の手を取って、共にその選択を選ぶつもりだ。だけど、もし彼女が「生きたい」と願っているのなら、僕は契約を解除して、ひとりで死ぬつもりだ。どちらにしても、翠を恨むことなんてない。彼女の気持ちを尊重したいと思っている。
母親の車に乗り込んで、高速道路を走りながら、僕は静かに外を眺めた。ナビの案内に従って、岐阜の家まであと三時間の道のりだ。心のどこかで、この帰路が永遠に続けばいいと思っていた。家に帰ったら、父親と会わなくてはいけない。でも、そのことがすごく恐ろしかった。どうしても顔を合わせたくなかった。
車内は、沈黙に包まれていた。母は運転席で、黙ってハンドルを握っている。僕は助手席に座ったまま、ただ何も言わずに外を見つめていた。会話をしなければならない雰囲気が漂っているのに、何を言えばいいのかが分からない。ただ、この空気が苦しい。
「翠ちゃんと一緒に出かけてたんだね」
母がぽつりとつぶやいた。その声には、少し驚いたような、でもどこか温かみが感じられた。僕はそれにただ、うなずくだけだった。
「……うん……」
「翠ちゃんに迷惑かけてない?」
その言葉に、僕はまた黙ってしまった。答えたくても、何も言えない。翠には確かに迷惑をかけてしまった。だけど、どうしても言葉が出てこなかった。
母の声が続いた。
「私はあんたが生きていてくれて、とても嬉しい」
その言葉が、僕の心に静かに響いた。母の声に、少し涙がこもっているのが分かった。普段の母なら見せない、弱さがにじみ出ている。
交わした言葉はそれだけだった。静かな車内に、また一層の沈黙が広がった。
時折、後ろを流れる街灯の光が、車の窓に反射して眩しく照らされる。その光景が、なぜだか無性に切なく感じて、目をそらしてしまった。車内の空気が重く、胸の奥に圧し掛かるような感覚があった。それでも、言葉を交わすことはできず、ただ静かに、車の進む方向に身を任せるしかなかった。
深夜四時。もう二度と戻らないと心に誓った自宅に、僕は帰ってきた。
街は完全に眠りに落ちていて、しんとした空気の中、自宅の玄関照明だけがやけに眩しく浮かび上がっていた。二日間しか留守にしていないはずなのに、その明かりの下に立つと、自分の家じゃないみたいに感じられた。
母が駐車場に車を停める。エンジンが止まると、世界から音が消えたようで、胸の奥まで冷たくなる。母が降りてくるのを待ちながら、僕は一人で先に玄関へ行くのが怖かった。帰る場所のはずなのに、どこか別の世界に連れて行かれるような不安がまとわりついていたからだ。
やがて母が僕の横に立ち、鍵を手にした。僕もそのままついて入ろうとすると、母は小さく首を振った。
「自宅なんだから、自分で扉を開けなさい」
その声はどことなく優しく聞こえた。
仕方なく、僕はドアノブに手をかけた。指先が冷たい金属に触れるだけで、鼓動が速くなる。ゆっくりと押し開けると、いつもと同じはずの扉がやけに重く、まるで僕を拒んでいるように感じられた。
玄関の照明がぱっと視界に流れ込み、瞳孔がきゅっと縮む。見慣れた光なのに、今日は鋭すぎて目に痛い。
そこには父が待っていた。まるで僕を待ち構えていたかのように、玄関の真ん中に座っていた。でも、その姿はいつもの威圧感に満ちた父ではなく、妙に小さく、頼りなく見えた。
目が合った。けれど父は表情を崩さない。僕の心の動揺を見透かすように、ただじっとこちらを見つめていた。
「……」
かける言葉が見つからず、喉の奥で声が絡まった。目を逸らそうとしても、玄関の強い光に照らされた父の瞳と視線が絡み合い、逃げ場がない。
張り詰めた空気が玄関いっぱいに広がり、呼吸すら思うようにできない。冷たい夜気が背中から忍び込んでくるのに、心臓だけが焼けるように熱かった。
父はじっと僕を見据えていた。その眼差しに責める色はなく、ただ何かを必死に押し殺しているように見える。僕の胸は痛みでいっぱいになった。
長い沈黙ののち、父が低い声で口を開いた。
「おかえり、大和……帰ってきたんだから、しっかりと挨拶しなさい」
その声音は厳格な調子を崩さぬまま、しかし震えを帯びていた。僕の心に鋭く突き刺さる。
喉が乾ききって、声が出せるかどうかすら不安だった。けれど、この一言だけは言わなくてはいけない。父が求めているのはただそれだけなのだ。
「……ただいま」
たった一言が、胸の奥にずしんと落ちる。
「よく……無事に帰ってきてくれた。おかえり……おかえり……大和」
次の瞬間、父は僕を力いっぱい抱きしめてきた。
肩に食い込むほど強い腕。普段なら威圧感しか覚えないその力が、今はただただ温かかった。
厳格な父がこんなふうに抱きしめてくれるなんて思いもしなかった。気づいたら、胸の奥から熱いものがこみ上げてくる。
「あああああああああああああああああああああ!」
涙腺が壊れたように、次から次へと涙が頬を伝った。
きっと安心感に包まれたせいだ。守られている、帰ってきてよかった……そんな気持ちが体中に広がっていく。
「おかえり」という言葉が、これほどまでに沁みたのは生まれて初めてだった。僕には帰る場所があって、待ってくれる人がいて、暖かい家庭があるのだと、胸の奥から実感した。
涙で滲む視界の中、世界が少しずつ色を取り戻していくのがわかる。さっきまで灰色だった景色が、父の背中越しに鮮やかに息を吹き返していく。
その変化に気づいた途端、また新しい涙があふれてきた。もはや止められない。恥ずかしいなんて気持ちは一切なかった。
――生きている。
喜怒哀楽を感じられる。人の温もりを受け取れる。それがこんなにも幸せなことだったなんて。
同時に、どれほど自分の言動で両親に迷惑と心配をかけたのか、はっきりと自覚させられた。父の腕の中で泣きながら、僕は胸の奥で何度も謝罪の言葉を繰り返していた。
リビングで話し合いをすることになった。父と母を正面に、僕は畳の上に小さく座る。二人の前に座るだけで、胸の奥に見えない手で押しつけられるような重さを感じた。
時計の針は深夜四時を指している。両親ともに明日も仕事なのに、こんな時間まで起こしてしまっている事実が胸を刺した。申し訳なさと居心地の悪さが入り混じり、呼吸が浅くなる。
沈黙を裂くように、僕はずっと喉に引っかかっていた疑問を吐き出した。
「なんで……居場所と、自殺しようとしていることがわかったの?」
言葉が空気に溶けていく。父は視線を落とし、ほんの少し間を置いてから口を開いた。
「居場所についてはGPSを頼りに特定した。小豆島にいたのはわかったんだが、その後、スマホの電源を大和が切ったのか、特定できなくなった。そして、次に特定できた場所が東尋坊だった。急いで警察に居場所を教えて、保護してもらったというわけだ」
父の声は努めて淡々としていた。けれど耳を澄ませば、震えにも似たかすかな揺らぎが混じっていた。悲しみと安堵、その両方を押し隠そうとしているのが伝わる。
僕は言葉を失った。最後に「もういい」と思ってスマホの電源を入れ直した、その一瞬の気まぐれが救出につながったなんて……。
背筋に冷たい汗がつたう。心臓を握られるような感覚がして、思わず俯いた。
「ホテルの予約から岡山にいるのを警察が特定して、本当は岡山で保護してもらうつもりだったんだけど、一歩先にチェックアウトされてしまってね……」
父の低い声がリビングに響く。母は膝の上で両手をぎゅっと組み、何度もうなずいていた。岡山で宿泊したホテルの前にパトカーが止まっていた時、すでに僕たちを捜索していたのか……。胸の奥がぎゅっと締めつけられる。僕は逃げていたつもりでも、ずっと誰かに追いかけられていたのだ。
「自殺の意思については、大和の部屋を捜索したら遺書の下書きらしきものがゴミ箱から出てきて、それで確信したんだよ」
父はそう言うと、机の上に一枚の紙を置いた。くちゃくちゃに折り目がつき、シワだらけになった紙切れだった。見覚えがある。あの日、家を出発する前に全部処分したつもりだった。近所のゴミ捨て場に投げ込んだはずなのに、一枚だけ忘れていたらしい。
紙面に目を落とす。『この遺書を読んでいるということは僕は既にこの世から消えているのでしょう……』 今にも消えそうなか細い文字で書かれていた。震える字を追った瞬間、背筋に冷たいものが走る。
深夜、机に突っ伏しながらこの言葉を絞り出した時の感覚が一気に蘇る。ただただ、胸の奥は苦痛で満ち溢れていた。生きているだけで身体の内側が焼けるように痛く、息をしていることすら罪のように感じていた。ペン先を紙に走らせることでしか、どうしようもない気持ちを吐き出せなかった。文字に変えるだけで少しだけ救われる気がした。けれど、その救いは一瞬の幻のように儚かった。
今、その紙を目の前で両親に突きつけられると、胸の奥から凍りつくような後悔が広がっていく。あの時の絶望を二人に見せてしまった。どんな顔をしていいかわからなかった。
「大和がいなくなった日に、アルバムや撮り溜めていたビデオを見て思い出に耽っていたんだよ。運動会のリレーで一位を取った時の映像や、家族で旅行した時の写真を見ていると、自然と涙が込み上げてしまってね。東尋坊にいるとわかった時、そして、大和から『さよなら』のLINEが送られてきた時、もうダメかと思ったよ……。もしかしたらもう大和の声を聞くことができないかもしれないって……無事に家に帰ってくることを、ただただ願っていたんだ」
父は泣きながら気持ちを吐露した。普段の厳格な姿からは想像もできない、弱々しい父の横顔。肩は震え、絞り出すような声に混じる嗚咽。僕の胸は締めつけられ、目の奥が熱くなった。涙を見せまいと歯を食いしばっても、もう無理だった。自分の意志では止められないほど、涙は次から次へと零れ落ちる。一筋の涙が頬をつたうたびに、罪悪感が深く刻み込まれていく。
「私は……ただ相談して欲しかった」
母の声は優しかった。叱るでもなく、責めるでもなく、深い慈悲のような響きを帯びていた。
「何も言わずにフラッと消えたのがショックだった……。そして、大和のほんとの気持ちが知りたい。どうして自殺という選択肢を選んでしまったのか……そして、今は何を思っているのか」
母の瞳は真っ直ぐに僕を射抜いていた。逃げ場のない問いかけ。けれど、その眼差しには恐怖ではなく、ただ「受け止めたい」という温もりが宿っているのがわかる。僕は胸の奥に押し込めてきたものを、ここで正直に言おうと決めた。もう隠す意味はない。嘘で覆ったままでは、この時間が台無しになってしまう。
「高校生になった頃から自分の人生に違和感を感じていた。生きていても幸せを感じない、社会に生かされているように感じたんだ。その頃から希死念慮が芽生え始めた。それに追い打ちをかけたのが受験失敗だった。自分の勉強を積み重ねた期間だけじゃなくて、人生そのものを否定された気がした。たとえもう一年頑張って第一志望に合格したとしても今後受験のような競争社会で生きていくことに大きな絶望を感じたんだ。勉強すれば勉強するほど日本で生きていくのは無理ゲーだと気がつき、それなら早めに死んで苦痛を取り除くのが得策だと考え、自殺を決意したんだ......」
「そうなんだ......辛かっただろうに気づいてあげられなくてごめんね」
母は言った。
「息子がここまで悩んでいたのに見抜けなかったなんて.....俺は父親失格だな」
父は言った。
その言葉を聞いた瞬間、僕の胸には後ろめたさがこみ上げた。心配をかけてしまっただけでなく、父と母にそんな言葉を吐かせてしまった自分が情けなかった。
正直、僕は父に対して苦手意識を持っていた。お金のことをぐちぐち言われるのが嫌だったからだ。生活に必要なことだと分かっていても、言葉の端々に責めるような響きがあり、心が削られていった。
僕が失踪したあの日、両親は深く話し合ったのだという。母は父に「もうお金のことを言わないで」と強く言ったそうだ。父はその時、仕事で失敗が続き、会社でも家庭でも自分の居場所を失っているように感じていたらしい。その苛立ちや惨めさを、無意識のうちに僕にぶつけていたのだと、今になってようやく気づいたという。
母の指摘を受けても、父は最初は言い訳を並べたらしい。だが、僕がいなくなったことで、初めて本当に自分の言動を振り返ることになった。反省と後悔が胸を締め付けたのだと、今の父の表情から伝わってきた。
「今は人の温かみを感じれて幸せ。生きてみようかなと思い始めてる......」
「嘘じゃない?」
「うん。嘘じゃない。僕には帰る場所があり、温かな両親がいるから幸せだよ」
母は静かに僕の手を包み込んだ。
「大和……私を母にしてくれてありがとう。生まれてきてくれて、本当にありがとう」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥から込み上げるものがあった。
僕はこれまで、存在してはいけない人間だと思い込んできた。生きていることそのものが迷惑で、誰の役にも立てていないと信じ込んでいた。だけど――母の「ありがとう」が、その思いを根本から覆してくれた。
僕はただの負担なんかじゃない。誰かに必要とされ、誰かの心を温めることができる存在なんだ。父と母にとって、僕は「生まれてきてよかった」と思わせる子どもでいられるんだ。そう気づいた瞬間、長い間胸を締め付けていた重石が少しずつ解けていくような気がした。
父も母も、不器用ながらも僕を愛してくれている。その愛に応えるように、僕もまた二人と共に生きていきたいと思った。生まれてきた意味を、これからの人生で見つけていけるかもしれない。いや、すでにここにある家族の温もりこそが、その答えなのかもしれない。
これからについては日を追って相談することになった。父は「今は思い詰めずに、まずはゆっくり休め」と優しく言った。
その言葉に胸の奥の緊張がほどけていくのを感じる。だから今は、考えるのをやめて、ただ休もう。 母は「翠ちゃんとちゃんと話しなさいよ」と小さく笑みを浮かべ、静かに寝室へと向かっていった。
自室に戻ると、机の上に一枚の紙切れが置かれていた。そこには母の字で「きっといいことあるよ」とだけ書かれている。
その短い言葉を目にした瞬間、胸の奥がじんわりと温かくなった。母は何も多くを語らなくても、僕に生きる希望を残してくれている。
――そうだ、僕にはまだ向き合うべきことがある。
契約の件も含めて、翠とちゃんと話をしたい。母が願ってくれたように、これからは逃げずに、言葉で気持ちを確かめ合おう。
お風呂に入る。今までは義務としか認識していなかった入浴に、大きな幸福を覚える。湯に浸かるだけで、体がじんわりとほぐれていく。今日一日の出来事を思い出すたびに、涙腺が緩み、頬を伝う雫が湯に溶けて消えていった。
そして……もう少しだけ、この世界で生きてみようと、初めて心の底から思えた。
机の上の「きっといいことあるよ」という言葉が、まるで未来への約束のように胸に残る。
窓の外では夜が明け、柔らかな朝の光が差し込んでいた。新しい一日が、確かに始まろうとしている。
目を覚ますと、既に昼過ぎだった。体が軽く、快眠をした実感が残っている。ここ数日、寝ても疲れが取れないことが多かったから、久しぶりにぐっすり眠れたような気がする。
父も母も、もう仕事に出ている。家の中は静かで、時計の針だけが刻む音が妙に大きく感じた。
最初に浮かんだのは、翠の顔だった。
彼女は今、何をしているんだろうか、そして、今何を感じているのだろうか?
僕は自然とスマホを手に取り、頭の中に思い浮かんだ言葉をメッセージに貼った。
>翠と会って話がしたい
既読はすぐについた。ドキドキしながら待つ。もしかしたら、昨日のことが原因で気まずさが残って、返信がないかもしれない。だけど、僕の心配は杞憂に過ぎなかった。
>私も大和君と話がしたい。今から会える?
そのメッセージを見て、安心感が胸を満たした。翠も会いたかったんだと思うと、何だかほっとした気持ちが湧き上がってきた。
公園のベンチで待ち合わせることに決め、僕は急いで身支度を整えた。自転車で行こうかとも思ったが、今日はなんとなく歩きたかった。歩くことで、気持ちを整理したいし、翠に伝えたいことを頭の中でしっかりまとめたかった。
歩きながら、風を感じる。青空が広がっていて、何もかもが鮮明に見える気がした。少し前までは、こんな風景に感動することなんてなかったけれど、今は不思議とその美しさに心を奪われる自分がいる。生きることの楽しさや、何気ない日常の大切さを、今、強く感じている自分に驚きながら。
公園に着くと、翠はすでにベンチに座っていた。制服姿で、少し俯いているその姿に、いつもの元気さが欠けているのが分かった。昨日の出来事が彼女にとってどれだけ重かったか、そしてその気持ちを抱えたまま過ごしていることを考えると、胸が痛んだ。
その姿に、僕は嬉しさよりも心配が先行していた。翠と会えたことは嬉しいけれど、彼女がどんな気持ちでいるのかを思うと、どうしても不安が大きかった。
僕はゆっくりと翠に近づく。
「翠……」
思わず口から出た名前に、少しだけ照れが混じる。それでも、翠は顔を上げて、僕に微笑んだ。その笑顔が、どこかぎこちなくて、それでも大切に感じた。
「大和君……」
「翠……その……」
準備してきた言葉が出てこない。あんなにも歩きながら紡ぐ言葉を整理してきたのに翠を前にすると喉の奥に感情が詰まってしまう。
僕は頭を下げる。自分にできる最大限の誠意だ。
「翠ごめん……僕のミスのせいで東尋坊で死にきれなくて」
準備していた言葉ではなかった。だが、ずっと謝りたかった。僕の行動のせいで翠を死なせてやれなかった後悔や罪悪感を少しでも誠意で晴したかった。なんとも自己中だがそういうことだ。
「大丈夫……自殺失敗したのは大和君のせいじゃないよ。あの時は私も動揺していたから……。気がついたら警察の方に保護され、家についていた。今でも何が起こったのかを鮮明に思い出せない……」
翠は虚ろな目を宿しており、まるで遠くの無機質なものを見つめているかのようだった。目を合わせようとする度に、彼女はその視線をそらしていく。その姿はまるで心を閉ざすかのようで、どこか疎遠な空気が漂っていた。僕はその違和感を感じずにはいられなかった。いつも元気で、周囲に光を与えていた翠が、今はまるで人形のように無機質に見えた。
彼女が抱える痛みが僕には分かっているつもりだった。
東尋坊での出来事を思い出すことがどれほど辛いことか、想像を絶していた。それでも、彼女がその苦しみを言葉にできないことを理解していた。思い出すことが、記憶の中で自分を傷つける行為だと脳が無意識に避けようとするのだろう。翠が目を合わせようとしないのは、その心の壁を感じ取っているからだ。
あの時の出来事が、今でも僕の頭をぐるぐると回る。冷たい空気、風の音、そしてあの瞬間に感じた死への恐怖と絶望。それらは消えることなく、僕の中に刻まれている。あの瞬間を思い出すたび、次に飛び降りることが怖くて、また体が萎縮してしまう。生の喜びを知った今でも、死の恐怖を考えるだけで胸が締め付けられる。
でも、それ以上に、どうしても言わなきゃいけないことがある。今、口にするべきかどうか迷っている自分がいる。もし、翠が「生きたい」と言わなければ、僕たちの関係は終わってしまうんじゃないかと、心の中で不安が広がっていた。翠との繋がりが切れることが、何よりも怖かった。
僕はもっと翠に伝えたかった。たとえそれが名目だけの言葉だったとしても、彼女と繋がっていたい。その証が欲しかった。今の翠にとっては、必要ないことかもしれないけれど、もし翠が「生きたい」と言ってくれたなら、僕たちの関係は続いていく。だけど、もし翠の口から「生きたい」が聞けなかったら、すべてが消えてしまう。そんな恐怖が僕を締め付けていた。
喉元まで言葉が出かかっていたけれど、どうしても怖くて言えなかった。翠が「生きたい」と言ってくれることを、心の底から願う自分がいる。でも、もしその言葉が返ってこなかったら、僕はどうすればいいのか。その思いが、僕の胸を苦しくさせていた。
二人の間に流れる空気が、どんどん重くなっていく。どんな言葉をかけるべきか分からず、ただ静かにその一言を待っている自分がいる。
「そんなことを言いにくるためにわざわざ私と会ったわけじゃないんでしょ」
おもむろに翠は呟いた。
「わかるの?」
「そりゃわかるよ。二ヶ月も一緒に大和君といるんだからさ」
その言葉に、僕は驚いた。翠がそんな風に考えているなんて、予想もしていなかったからだ。
そして、少し嬉しくもなった。
自意識過剰かもしれないが、僕の心の中を読まれるような気がして、翠が特別な存在だと再確認させられた。
そして、翠にとっても僕が何者かであることを、心のどこかで強く願ってしまう自分がいた。別に恋人だとか友達だとか、そんな名前がついてなくてもいい。ただ、ただ……特別であってほしい……。
「私は大和君の本当の気持ちが知りたい。自殺未遂を経てきっと心境の変化があったと思う……。私も色々と思うことがある……」
翠の言葉に、僕は少し躊躇しながらも、自分の本心を口にする決意をした。
心の中の引き出しから取り出した言葉。それは準備していたものではない。赤裸々で、ただ素直な自分の気持ちだ。きっと後で思い出すと恥ずかしくなるだろうけど、今は言うべきだと思った。
「……僕は少しの間でいいから生きてみたい……」
翠は僕の言葉を驚くことなく受け入れてくれた。黙って聞いていてくれた。
「生きるということは辛いことが多いに違いない。現世は苦痛で満ち溢れている。めんどくさい人間関係、絶えることのない将来への不安……それでも、生きてさえいれば幸せを感じれる。東尋坊から帰宅した後、両親に抱きしめられて、温かい人間関係が身近にいる喜びを味わった。そして、生きる喜びに気づいてしまったんだ……」
この言葉には嘘はない。
「だから、僕は生きてみたい。生きてもっとこの喜びを味わいたい……」
翠は否定も肯定もせず、ただ黙って頷いた。彼女がどう思っているのかはわからないけれど、自分の気持ちを隠しているようにも見えた。
「……これが僕の気持ち……」
長い沈黙が続いた。
僕は翠が何かを言うのを待っていた。彼女もきっと自分の本当の気持ちを話してくれるだろうと、そう信じていたから。
「伝えてくれてありがとう、大和君」
その一言が、僕にとっては何より大きな意味を持った。
ゆっくりと落ち着いた口調で、翠が話し始める。
僕はどこか緊張していた。翠との縁が切れるかもしれないという可能性に、無意識のうちに怯えていた。もし絶縁されることになったらどうしよう、と心の中で準備していた。今までこれほどまでに深い人間関係を築いたことはなかったからこそ、翠とは特別な存在であり続けたいと強く思う。
「私もあの日を境に心境の変化があったの……」
文字だけでは伝わらない普段の翠とはどこか違う、重い雰囲気だった。僕の心はますます緊張で満ちていく。
「私も生きたいと思っているよ……」
その言葉に、反するような深刻さが感じられた。まるで本心を隠しているようにも見える。
「それは翠の本心?」
思わず疑問を口にする。それほどに、普段の翠とはあまりにも違っていた。
「うん。これが私の本心……嘘じゃないよ……私も親と話し合って、人間関係なんかで死ぬのがバカバカしく感じちゃった……」
東尋坊での出来事がまだ整理できていないのだろう。その表情に心の整理が追いついていないのが分かる。これ以上、深く追及するのは翠にとっても失礼な気がした。
時間が経てばきっと、元気で天真爛漫な姿を取り戻してくれるだろう。それくらい、僕は翠のことを信頼していた。
そして、僕は今日一番伝えたかった言葉を口にする。自分の意思を言葉に乗せることがこんなに強く感じたことはなかった。
「僕は翠と共に生きていきたい。だから翠にはこれからも生きていてほしい。そして、生きていれば幸せを感じられることを、僕が証明したい」
翠は少し考えてから、にやっと笑うと僕の顔を覗き込んだ。
「それって、遠回しのプロポーズ?」
その問いに、僕は思わず目を逸らす。
「そんな安っぽいものじゃないよ。翠のことは好きだけどね」
「それって、恋愛的な意味で?」
「それは違う。もっと特別な意味での好きだよ」
気恥ずかしさから、どうしても言葉にブレーキをかけてしまった。いまだに、翠のことを異性としてどう思っているのか、自分でもはっきりとは分からない。
「なんだー、面白くないの」
翠は少し肩をすくめて笑う。
自分でも少しあざといと感じるくらい、今の発言は照れくさいものだった。普段あざとさを僕に振り撒く翠へのちょっとした仕返しとしては、ちょうどいい。少しでも動揺してくれたなら嬉しい……もちろんそれはいい意味での動揺だ。
「生きていくことをお互いに決意した今、契約違反だから、これで大和君と私の契約は終了だね」
翠はそう言って、少し意味深な笑みを浮かべた。 「うん、そうだね」
その言葉に、僕は少し胸が締め付けられる思いがした。でも、もうそれが自然なことだと感じていた。
死ぬことを辞めた今、契約関係を続けるのはおかしい。翠の気持ちを確かめたことで、僕も契約解除を望むようになった。きっとここからは名前のない、でもそれなりに意味のある別の関係が生まれるのだろう。
翠はベンチからゆっくり立ち上がり、僕と握手を交わす。
それは、契約が完全に終了したことを意味していた。
「契約は解消されちゃうけど、次死ぬ時も大和君と一緒がいいな」
翠は後ろを振り返り、呟いた。その声には少しだけ寂しさも混じっていた。
「それが実現するのは、六十年後くらいになりそうだね。それに、遠い未来の話を軽く言われると冗談ぽく聞こえるよ」
「本気だよ」
翠は真剣な眼差しで言う。
「嘘だったら?」
「その時は先に死んであげる」
僕はもう翠の冗談には慣れていた。彼女のそういう軽い言い回しが、どこか不思議で愛おしく思える。
「はいはい」 と軽く流しながらも、心の中では少しだけ切ない気持ちがこみ上げる。
翠が帰ろうと振り向いた時、僕は思い切って質問を投げかける。
「そういえば、東尋坊で飛び降りる寸前に言ってた翠の秘密って何?」
僕の脳に浮かんだ言葉をそのまま口に出す。ふと「秘密」というワードが気に留まったから。
「そんなこと言ったっけ?」
翠は振り返らず、少し不安げに答える。
「誤魔化しても無駄だよ。翠と違って、あの時の記憶は鮮明に覚えてるからね」
「うわー、それは困ったな。その件については、天国での私に一任しようとしてたんだけどな……」
どうやら、翠は言ったことを覚えていたらしい。しかし、わざととぼけていたようだ。
少し間を置いてから、僕は微笑む。
「いつかきっと言うよ……絶対に」
「言質とったからね」
その言葉に、翠は苦笑いを浮かべる。
話を切り上げ、翠は再び歩き出す。制服を着た彼女の姿は、風に揺れる黒髪とともに美しく、ただただ見惚れてしまう。
「じゃあね。大和君。さよなら」
翠は振り返らずに、僕に向けてとびきりの笑顔を作った。
その笑顔を見れただけで、僕は十分今日、ここに来た意味があったと思えた。
これからも、僕たちはこんな何気ない日常を積み重ねていくのだろう。歳をとり、少しずつ変わりながら。それでも、何かしらの形で繋がり続けるだろうという安堵感が、胸に広がる。
その夜、僕は翠にLINEを送る。
>イヤホンが公園のベンチに落ちてたんだけど、これって翠の?
翠が公園を去った後、座っていたベンチにイヤホンが落ちていた。翠が忘れたのだろうと思ってすぐに追いかけたが、もうすでに彼女は違う道を歩いていた。年季が入ったイヤホンだったから、長い間大切に使っていることが伝わってきた。そのまま家に届けようかとも考えたけれど、またすぐ会うだろうから、その時にでも渡せばいいと思った。
しかし、二時間、三時間と過ぎても既読はつかない。まるで翠が僕のメッセージを見ていないような感覚に陥る。普段の翠なら、あんなに早く返信をくれる。だけど今回は違った。何かがおかしい。初めて感じる、いつもと違う空気。僕の心の中に浮かぶ不安はどんどん膨らんでいく。
家の中で、無駄に時間が流れるたびに、僕の胸の中の焦燥感が増していった。嫌な想像が次々に浮かぶ。
もしかしたら、誘拐されてるんじゃないか?
事故にあったんじゃないか?
こんな想像をするたびに、胸が苦しくなった。でも、もしそうだったら、僕はどうする? どうしてあげられる?
僕は現実に起こるかもしれないその「最悪」を、心の底から恐れていた。
それでも、自分に言い聞かせる。「返信が来ないからって焦っても仕方ない。冷静になれ」と。だけど不安はどんどん膨らんでいって、どうにもならなくなった。心の中であれこれと考えを巡らせているうちに、僕はだんだんと無力感を感じ始める。
夜が深くなると、時間の流れが重く感じられた。夕食を終え、横になってスマホを触りながらも、目を閉じることができなかった。頭の中では、公園で会った時の翠の笑顔、話した内容、最後に交わした言葉がずっとリフレインしている。
気がつけば僕は、メッセージアプリを開いていた。部屋の時計は深夜二時をさしている。
「……これからも隣にいてほしい」
迷いながら打ったその一文を、結局は送信してしまった。画面にはすぐに「既読」が灯ったが、返事はこない。
送ってから数秒で、胸の奥がじんわり熱くなる。なんでこんな青臭いことを送ってしまったんだろう。まるで告白みたいじゃないか。布団に潜り込みたくなるほどの恥ずかしさがこみあげる。
だけど同時に、スマホを握る手はそわそわと落ち着かない。通知が来ないか何度も画面を見返してしまう。たった一分が、やけに長く感じられる。返事を待つ時間がこんなにも苦しいなんて、今まで知らなかった。
そうして何度も画面を確認しているうちに、気づけば窓の外が白んでいた。眠れないまま朝を迎えたせいで、まぶしいはずの光がやけに冷たく感じる。食欲も湧かず、ただ時計の針の音ばかりが、静まり返った部屋に刺さるようだった。
昼を過ぎても通知音は鳴らない。僕は何度もスマホを確認して、そのたびに落胆し、またため息をついた。
そんな時、不意にスマホが震えた。
画面に表示されたのは、「早乙女翠」の名前だった。
一瞬、胸がドキっとした。安心したのは、ほんの一瞬で、心臓が高鳴る音が自分でもわかった。手が震えて、スマホが顔に落ちそうになった。目をこすり、深呼吸をする。
昨日公園で話したばっかりなのに、実際に声を聞くのは久しぶりなような気がした。
翠の声をまた聞くことができる……そんな思いが胸の中で反響した。
何か言わなくちゃと思うけれど、言葉がうまく出てこない。今はただ、翠の声を聞くだけで、それだけで安心する自分がいた。
もしも、これが悪い知らせだったらどうしよう……。
そんな不安もよぎるけれど、今はただ、翠の声が聞きたかった。あの軽やかな笑い声を、少しでも感じたかった。
僕は、「応答」をタップしながら、少し震える手を落ち着けた。
「もしもし。こちら宇佐美大和君の携帯でよろしいでしょうか」
涙混じりの声が、僕の鼓膜を鋭く揺さぶった。美しく、透明な声……でも、これは翠の声ではない。もしかしたら、別の誰かの着信からを僕が勘違いしたのかもしれないと思い、画面をもう一度見返す。すると、そこにはやはり『早乙女翠』の名前が表示されていた。
その瞬間、全身が凍りついたように感じる。何かおかしい。何が起こっているんだろうか。今、ここで起こっていることが信じられない。困惑しながらも、冷や汗が背中を伝って流れるのを感じながら、僕は震える声で応答する。
「はい。僕が宇佐美大和です」
「私、翠の母親の早乙女京子です……」
その名前に、僕の胸が一瞬にして締め付けられる。翠の母親……。
何が起こったんだろう?
電話越しに伝わる声が、ますます悲しみに沈んでいくのが感じ取れる。声の奥から、嗚咽が漏れる。
その時、僕の全身が一気に硬直した。直感的に、これはただ事ではないと感じた。心臓が激しく鼓動し、耳鳴りが耳をつんざく。胸の奥が、急に苦しくなった。
「翠は、昨日の夜に飛び降り自殺をし、亡くなりました……」
その一言が、全てを奪った。頭の中が、目の前が真っ白になる。耳の奥で、音が遠くなるような感覚が走り、心臓がそのまま崩れ落ちていくような感覚に包まれる。言葉が一度、二度、何度も何度も繰り返される。
「え……」
何もかもが凍りついた。次の瞬間、手のひらからスマホがすり抜け、床に落ちる音だけが虚しく響く。体が動かない。どうしても、状況を理解しきれない。言葉の意味が、体の中で反響しているだけで、僕の心の中に入ってこない。『飛び降り自殺をし、亡くなりました』という言葉が、脳内でぐるぐると回り続ける。それがまるで現実だということを、じることができない。
翠は、どうして?
なんで彼女が、そんなことを……。あの時、契約を解除して一緒に生きようと決意したじゃないか……。どうして、こんなことに……。
「翠は……」
それ以外の言葉が、何も出てこない。目の前の世界が歪んで見える。声が出ない。涙も出ない。身体のどこかが麻導しているみたいに感じる。
翠の母の鳴咽が、どこまでも響く。僕はそれを受け入れることができなかった。胸が締め付けられて、息ができない。生きるために必死に呼吸しようとするけど、空気が喉を通らない。
視界が一気に白黒になる感覚が走る。
まるで全ての色が消え失せたような、冷たい世界に放り込まれたようだった。目の前の風景がぼんやりと溶けて、何もかもが霧の中に沈んでいく。現実が遠く感じられて、身体がまるで自分のものではないかのように思えた。
呼吸がうまくできない。
喉の奥に何かが詰まって、息が吸えない。肺が苦しみを訴えているのに、胸が重くて、どんなに深く息をしようとしても空気が足りない気がして、心臓だけが過剰に速く脈を打つ。僕の体が、何かしらの深い恐怖や絶望に支配されているのを感じた。
気がついたら、電話は切れており、
画面に映るはずの翠の母の涙の面影が、もう見えない。電話越しに聞こえていた嗚咽の声も、もうない。ただ、無機質な不通知音が耳の中で静かに鳴っていた。その音は、部屋の空気と一体となって、僕の世界をさらに無感覚にしていくような気がした。
不通知音は、徐々に環境音の一部となっていた。
その音だけが、まるで冷たく響いている。耳に響くその音に、心を持っていかれるような気がする。僕はそれを認識することしかできなかった。何も考えられない。言葉すらも思い浮かばない。
それくらいに、僕は呆気に取られていた。
ただ、無力にその場に立ち尽くしている。世界が音を立てて崩れていくような感覚を覚えた。翠がもういないという現実が、ゆっくりと、そして確実に胸に沈み込んでいく。その重みが、心の奥底でずっと響いていた。
状況を整理できていなかった。
何もかもがぼやけて、思考が止まっている。ただ、深い闇の中に沈んでいく自分を感じていた。それでも、この現実が何度も何度も頭を回り続け、信じたくなくても、理解しなければならないことが次第に迫ってきた。
翠が死んだ。
翠が「生きたい」と言ったあの言葉を、僕は何の疑いもなく信じてしまった。
その瞬間、胸の奥がふっと軽くなって、勝手に未来を描いてしまった。
これでもう大丈夫だと、これからも隣で笑ってくれるんだと、根拠のない安心にしがみついてしまった。
でも、あれは違った。
本当は声の震えに気づいていた。
視線が僕を通り抜けて遠くを見ていたこともわかっていた。
それなのに、僕は耳を塞ぎ、目を逸らした。
彼女の本音と向き合うのが怖かったから。
もし「生きたい」が嘘だったと知ってしまったら、僕はどうすればいいのか分からなかったから。
結局、僕は自分を守るために、翠の言葉を鵜呑みにしたんだ。
彼女を本当に救うためじゃなく、ただ「大丈夫」と思いたかっただけ。
その安易さが、彼女をひとりにしてしまった。
その愚かさが、あの夜の選択を止められなかった。
今となっては、後悔しか残っていない。
あの時、もっと強引にでも彼女の心の奥を覗き込み、言葉の裏に隠された孤独を掴み取っていたら……。
ほんの一言、ほんの一歩、勇気を出して寄り添えていたら……。
もしかしたら、未来は変わっていたかもしれないのに……。
そして、この瞬間。翠が最後に口にした「契約解除」という言葉の意味を、ようやく理解した。
「もう死ぬのはやめる」「これからは未来に向かって生きる」……僕はそう解釈して、安心してしまったのだ。まるで勝手に都合のいい翻訳をしてしまったみたいに……。
けれど本当は違った。
翠が先に死ぬから、この関係そのものが成り立たなくなる。だから、終わらせるしかなかったんだ。あの言葉には、そんな残酷な意味が隠されていた。
「契約解除」……それは現世に僕との未練を残さずに消えていくための、翠なりの最後の準備だったのかもしれない。
今になってようやく、彼女が残したメッセージが胸に突き刺さる。あのとき僕が感じた安堵も、笑みも、全部がただの錯覚だった。僕は翠を信じていたはずなのに、結局は自分に都合のいい夢を見ていただけだったんだ。
僕は、彼女に生き返ってほしかった。
そして、どうして黙って自ら命を絶つなんて選択をしたのか、その理由を聞きたかった。たとえ苦しい答えだったとしても、知りたかった。理由によっては、きっと僕も一緒に飛び降りただろう。彼女がひとりで先に行ったことが、どうしても許せなかった。
思い返すほどに、後悔ばかりが押し寄せる。
「ありがとう」を呆れるほどに口にすればよかった。
思うがまま抱きしめればよかった。
笑われてもいい。重いと思われてもいい。翠を繋ぎとめられるなら、なんだってすればよかった。
そんな希望的観測にすがっている自分が情けないとわかっているのに、それでも信じてしまう。もし、あのときそうしていたら……翠は自殺を踏みとどまってくれたかもしれない。いや、踏みとどまってくれるはずだった、とすら思い込んでしまう。
涙が勝手にあふれ出す。頬を伝って、顎から滴になって落ちる。止めようとしても、視界はにじんでいくばかりだった。胸の奥がひどく痛くて、息をするだけで心臓がきしむように苦しかった。
東尋坊から帰った夜、父に抱きしめられた時よりも、はるかに多く。涙は途切れることなく頬を伝い、呼吸さえも苦しくなるほど胸を締めつけた。
翠を失った痛みは、身体の奥深くまで染み込み、心臓をえぐり取られるように僕を蝕んでいく。世界の色がすべて薄れて、音も景色も遠のいていく。ただそこにあるのは、彼女がもういないという圧倒的な現実だった。
大切な人を失うということが、これほどまでに残酷で、逃げ場のない苦しみを伴うなんて思いもしなかった。立ち直る術を、僕は持っていない。
きっと僕の親も、あの時、同じ気持ちで僕の帰りを待っていたのだろう。二度と戻らないかもしれない存在を必死に求めながら、どうしようもない喪失の重さに押し潰されていたのだろう。
彼女は僕に秘密を伝えると嘘をついた。
彼女は僕と一緒に死ぬという約束を破った。
彼女は生きるという約束を破った。
彼女は「生きたい」と僕に嘘をついた。
翠と僕は、それぞれ別々の部屋に入れられた。独房のような四壁に囲まれ、僕は一人でじっと思索にふけっていた。静かな部屋の中で、自分の存在がますます疎ましく思えてきた。
行方不明届が出ていたということは、どこかで親が僕の自殺願望を察したということだろうか。だが、どうしてもその理由がわからない。親との会話でも、いつも感情を隠していたし、行動も慎重にしていたはずだ。もちろん、失敗した今となってはその理由を考えること自体が無駄だろうが、心の中でそれを掘り下げずにはいられなかった。
今、親が大垣から駆けつけるらしい。しかし、正直言って会いたくない。僕がこんな形で失敗したことを、きっと大きな悲しみと絶望の目で見つめるだろう。そんな中で冷静に話し合うことなどできるわけがない。きっと、言い争いにしかならないだろう。
本当は、今すぐにでもこの場所を抜け出し、翠を連れて東尋坊に戻り、再度死を選びたかった。僕一人ならまだしも、翠を一緒に連れ出すとなると難しい。彼女もあの動揺からまだ気持ちが整理できていないだろうし、今無理に一緒に飛び込んでも契約違反になってしまう。それに、あの場面から何も動けない自分がとても情けなく感じられた。
そんなとき、扉が開き、刑事が一人入ってきた。
「刑事の鈴木です」
扉が開き、部屋に入ってきたのは東尋坊で僕たちを止めた警官とは違う男だった。
落ち着いた表情で、まるで何事もなかったかのように歩み寄ってくる。その冷徹な目が僕をじっと見つめて、僕の心の中に無言の圧力をかけてくるようだった。
自殺未遂者を目の前にしているにも関わらず、彼の姿勢には何の動揺も見えなかった。
「君はなんで自殺を試みたの?」
その質問はあまりにも直球で、鋭く、僕の胸に刺さる。何もかもが無意味に思えたあの瞬間、死にたかった理由を語ることが、また一層苦しくなる。
僕は彼の目を見なかった。
「受験に失敗して、そこから自分の人生がどうでもよくなったんです。生きるのが本当に苦痛すぎて……未来に夢や希望なんてないですから……」
刑事は黙って僕の話を聞きながら、ただうなずく。
その反応が、ますます冷たく感じてきた。僕の絶望に対して、全くの無関心のように見えるからだ。
「早く、この際限のない苦痛を取り除きたかった」
言葉が止まらなかった。まるで、胸の中に詰め込まれた想いが、一気に溢れ出すように。
「取り除くには、自殺しかなかったんです」
その瞬間、部屋の中の空気が凍りつくのがわかった。何かが途切れたような気がした。僕は悪いことをしていないと思いながらも、なぜか自分の中で何かを正当化しているような気がして、どこか緊張していた。
「君と一緒にいた女の子も自殺志願者?」
刑事の声が冷たく響く。
僕は静かに、けれど心の中では引き裂かれるような気持ちを抱えて答える。
「……はい、そうです」
彼女のことを語るのは、どこか痛かった。僕の心に、彼女がいないときの空虚感が一気に広がるからだ。
「ってことは、君の彼女?」
刑事の質問はまるで、僕をさらなる絶望に追い込もうとしているようだった。
「いえ、違います。彼女とは、『契約者』です」
言葉が口から出るたびに、自分がどれほどの虚無に囚われているかが浮き彫りになる。
「契約者?」
刑事はその言葉に少し眉をひそめた。興味を持ち、でも少し困惑したような表情をしている。
「元々、僕と彼女はそれぞれ一人で自殺することを考えていました」
その時、思い出したのは翠との最初の出会いだった。病院の屋上、あの時の空気と彼女の目に宿っていた深い絶望。それが、今も心の中で強く蘇る。 「しかし、ある日、病院の屋上で自殺を試みていた彼女と出会ったんです」
その出会いから、全てが変わった。まるで運命のように感じた。お互いに抱えていたもの、そして求めていたものが、あの瞬間に重なったのだ。
「その時も、僕は死ぬつもりでした。そして話していくうちに、彼女も『より確実に、楽に死ねる方法』を探していることがわかった」
翠と話しているうちに、僕は少しずつ、自分の心が深いところで温かく感じるのを覚えた。それは希望でもなく、単なる温もりだった。ただ、共に死を選ぶ者同士の、無言の契約だった。
「それで、共にそれを探すために契約を結びました」
契約者。それが、あの時、僕たちが結んだもの。
「そして、東尋坊で飛び降りるのが最善だという結論になり、今回親に内緒で来ました」
僕は全てを正直に話した。
その時、ふと思った。
ここで本心を語ることが、自分を追い詰めることなのか、それとも少しだけ楽になる方法なのか……。正直なところ、わからない。ただ、今の僕には、自分の苦しみを誰かに受け止めてもらいたかっただけなのだ。
刑事はしばらく黙っていた。その視線がどこか遠くを見つめるようで、僕には見えない何かを考えているようだった。話すことができたことに、少しだけ安心した気がしたが、結局のところ、何も変わるわけではないということを知っていた。
「俺に君の気持ちはわからない。俺は中卒で警察に就職したから、君がどれほどの思いで受験と向き合ってきたかは理解できないし、理解しようとする姿勢すら君に失礼だ。きっと君は並々ならぬ覚悟と思いを持って勉強を積み重ねてきたんだろう……」
刑事の言葉は、僕の胸の中で何かを弾けさせたような気がした。
その瞬間、過去の自分が目の前で浮かび上がってくる。あの二ヶ月間、不合格を受けてからの時間、僕はずっと自分の過去を否定して生きていた。どんなに努力してももう意味ない……明るい未来など訪れない……。
でも、彼の言葉で、少しだけその否定の気持ちが溶けていった。まるで氷の塊が割れるように、少しずつ、少しずつ苦しみが流れ始めた。
「君の言動でどれだけ多くの人に迷惑と心配をかけたかわかってる? これは事実として話しているんだ」
その声は、静かに、けれどしっかりと胸に響く。
僕は無意識に首をすくめた。心の中で「ごめんなさい」が少しずつ湧き上がってきた。でも、口に出すことはできない。
でも、どこかで「それでも死ぬしかない」という思いが絡みついて、心の中で繰り返される。罪を背負ってでも、死を選ぶことはできるのだろうか?
刑事はそのまま続けた。
「死ぬのをやめろなんて無責任なことは言わない。君の人生の最期を決める権利は君自身にあると思ってる……ただ、多くの人に迷惑と心配をかけた事を知って欲しかった」
その言葉に、何も言えなくなった。
もしかしたら、彼はただ、僕に現実を突きつけているだけなのかもしれない。自分の中に眠っていた「生きたい」という気持ちを無視して、どこか遠くに追いやってきたけれど、今その気持ちが少しだけ戻ってきたのかもしれない。
そして、刑事は言葉だけを残し、静かに部屋を出て行った。
その後、部屋の中に残された空気が、少しだけ軽くなったような気がした。でも、それも一瞬のことで、すぐに深い沈黙が包み込んだ。
どれくらいの時間が経ったのだろうか。
時計を見ると、深夜一時を指している。まるで時間が止まったように感じる中で、僕の心は静かに、でも確実に痛みを増していった。親に会うという現実が、僕をじわじわと圧迫する。
泣き顔を見せるのだろうか。それとも、平手打ちをされるのだろうか。
そんな想像をして、胸がギュッと締め付けられる。
会いたくない。顔も見たくない。言葉すら交わしたくないという気持ちが、強く、強く心を支配していた。
「宇佐美大和君。下にお母さんが迎えに来たので、来てください」
その声が響いた瞬間、体が硬直した。
父が来ると思っていたのに、母が来るとはまったく予想外だった。
足元がふらつくような気がした。重い足取りで荷物をまとめながら、心の中で何度も「会いたくない」と呟く。
それでも、足は自然とエレベーターに向かって動いていた。
エレベーターの中、ふと隣に立つ刑事鈴木が口を開いた。
「君は親のことどう思ってる?」
「恨んでいます」
「どストレートだね」
「この世に生まれて来なければこんな不憫な思いをしなくて済みましたから」
「君って卑屈だね」
「彼女にも言われました」
「でもそれが君だから……無理に今の性格を変えて生きて辛いのなら、死ぬのも一つの選択肢としてありな気がする」
「死を肯定してくれる人に初めて出会いました」
「職業上本当はこんなこと言ったらいけないんだけどね。君のように東尋坊で自殺を試みた人を何人も見てきた。自殺未遂者から話を聞いてわかったのは、俺みたいな日々に幸せを感じている人にはわからない葛藤や不安がみんなにあったってこと。そして、それらは簡単に解決できないほどに複雑だってこと。だからこそ頭ごなしに否定せずに話を聞いて、悩みを聞き出すのが一番いいと思ってる。自殺を決意した根本的な原因を解決できないのに首を突っ込んだり、今後のその人の人生に責任が持てないのに自殺を止めたりするのは違うって考えてる……」
鈴木さんの言葉は、僕の心に静かにしみ込んできた。
言葉ひとつひとつが重く、僕の中で何かが崩れていくような気がした。自殺を決意した背景を誰も理解してくれないと思っていたけれど、この刑事はその痛みを少しでも理解しようと努力してくれている……全てを受け入れようとしてくれている。
「ただこれだけは理解してほしい。君が死んで悲しむ人はいる。そして親は息子の心情の変化に気づけず、自殺という選択を取らせてしまった事を一生後悔する……俺にも息子が二人いるから君の親御さんの気持ちがわかる。昨日まで一緒に食卓を囲んでいた息子が急に消える悲しみは想像もしたくない。だから次思い詰めた時はしっかりと親御さんに話すといい。今の君にはわからないと思うけど、親は地球上で最高の理解者だと思うよ。君のいい部分も悪い部分も赤裸々に受け止めてくれる……きっと……」
僕の心を深く突き刺し、同時に切なさと痛みが込み上げてきた。
親は理解してくれるだろうか。今、こんな僕を受け入れ、支えてくれるだろうか。死ぬことが解決だと思っていたけれど、きっとその後に訪れるのは無数の後悔と孤独だったのかもしれない。
だが、今の僕にはまだ「生きたい」という欲望が湧いてこない。死にたい気持ちが強すぎて、それ以外の感情を感じる余裕はなかった。
エレベーターが一階に到着し、ドアがゆっくりと開いた。
その瞬間、嫌でも現実が押し寄せてきた。母親に会わなければならない。会いたくない、顔も見たくない。言葉を交わすのが恐ろしかった。
しかし、エレベーターの機械は僕の心情を無視し、ただ無機質にドアを開ける。
廊下の照明は最小限に抑えられ、不気味なほど静寂が漂っていた。
まるで深夜の病院のような冷たい空気が、僕を包み込む。
足音が響く中で、刑事は何も言わず先に歩いていく。僕はその後ろを無意識に追いながら、体を隠すようにして歩いた。
警察署の入口近くに、母親が座っていた。
目を合わせた瞬間、母の表情は変わらなかった。冷静で、どこか無理に落ち着こうとしているような印象を受けた。だが、それでも僕はその冷静さに驚く。もっと大きく、激しく動揺していると思っていたからだ。
母の隣に、もう一人痩せ細った女性が座っているのが見えた。遠目からでは顔の輪郭が定かにはわからないが、その佇まいや雰囲気がどこか翠に似ている。
きっと、あれは翠のお母さんだろう。
その瞬間、胸の奥がぎゅっと締め付けられた。自分が翠を連れ出して、あの場所に向かわせたことへの罪悪感が一気に押し寄せてきて、目の前の光景がぼやけていった。
僕は顔を背けた。まっすぐに見ることができなかった。翠を連れ出したことに対する後悔や申し訳なさが込み上げてきたわけではない。
ただ、彼女の母親に、翠の家族に対して、僕はどんな顔をして向き合えばいいのか分からなかった。どうしても、言葉が出てこなかった。
「どう気持ちは楽になった?」
婦人警官がにこやかに尋ねてきた。だけど、僕はその質問に対して、期待されていた答えとは真逆の言葉を返す。
「自殺をやめるとは言い切れないです……今でも死にたい……この世から消えたいという思いは強いです……」
僕は母親の前で、あまりにも率直に言ってしまった。その言葉に警官は少し驚いたようだったけれど、母は、どこか納得したような顔をしていた。
「本当にご迷惑をかけました。ほら、あんたからもなんか言いなさい」
母のその言葉に、僕は何も答えられなかった。何を言えばいいのか、全く分からない。自分の中で一番言いたくないことを、たくさんの人に話してしまっているのに、それでもなお、言葉が出てこない。多くの人を巻き込んで迷惑をかけてしまったという自覚はある。でも、その事実を認めることで、何かが崩れてしまう気がして、どうしても言葉にできなかった。
「あえて頑張れとは言わない。だから気楽に生きてみろ。無理なら死んでもいい」
鈴木さんは、淡々とそんなことを呟いて、部屋を後にした。その後ろ姿には、何とも言えない説得力があった。無理に励ますことなく、かといって見放すわけでもなく。彼女の言葉が、じわじわと僕の心に響いた。
その後、諸々の手続きを終えて、僕たちは三国警察署を後にした。外に出ると、目の前には満点の星空が広がっていた。その美しさに、思わず足を止めて見上げてしまった。あまりにも澄んだ夜空。まるで、この世のすべての悩みがどこか遠くに消えてしまうような、そんな感覚になった。
でも結局、僕は翠の姿を見ることはなかった。自殺未遂からしばらく経った今、僕はただ翠が今、何を思っているのかを知りたかった。もし「死にたい」と言ったら、僕はまた彼女の手を取って、共にその選択を選ぶつもりだ。だけど、もし彼女が「生きたい」と願っているのなら、僕は契約を解除して、ひとりで死ぬつもりだ。どちらにしても、翠を恨むことなんてない。彼女の気持ちを尊重したいと思っている。
母親の車に乗り込んで、高速道路を走りながら、僕は静かに外を眺めた。ナビの案内に従って、岐阜の家まであと三時間の道のりだ。心のどこかで、この帰路が永遠に続けばいいと思っていた。家に帰ったら、父親と会わなくてはいけない。でも、そのことがすごく恐ろしかった。どうしても顔を合わせたくなかった。
車内は、沈黙に包まれていた。母は運転席で、黙ってハンドルを握っている。僕は助手席に座ったまま、ただ何も言わずに外を見つめていた。会話をしなければならない雰囲気が漂っているのに、何を言えばいいのかが分からない。ただ、この空気が苦しい。
「翠ちゃんと一緒に出かけてたんだね」
母がぽつりとつぶやいた。その声には、少し驚いたような、でもどこか温かみが感じられた。僕はそれにただ、うなずくだけだった。
「……うん……」
「翠ちゃんに迷惑かけてない?」
その言葉に、僕はまた黙ってしまった。答えたくても、何も言えない。翠には確かに迷惑をかけてしまった。だけど、どうしても言葉が出てこなかった。
母の声が続いた。
「私はあんたが生きていてくれて、とても嬉しい」
その言葉が、僕の心に静かに響いた。母の声に、少し涙がこもっているのが分かった。普段の母なら見せない、弱さがにじみ出ている。
交わした言葉はそれだけだった。静かな車内に、また一層の沈黙が広がった。
時折、後ろを流れる街灯の光が、車の窓に反射して眩しく照らされる。その光景が、なぜだか無性に切なく感じて、目をそらしてしまった。車内の空気が重く、胸の奥に圧し掛かるような感覚があった。それでも、言葉を交わすことはできず、ただ静かに、車の進む方向に身を任せるしかなかった。
深夜四時。もう二度と戻らないと心に誓った自宅に、僕は帰ってきた。
街は完全に眠りに落ちていて、しんとした空気の中、自宅の玄関照明だけがやけに眩しく浮かび上がっていた。二日間しか留守にしていないはずなのに、その明かりの下に立つと、自分の家じゃないみたいに感じられた。
母が駐車場に車を停める。エンジンが止まると、世界から音が消えたようで、胸の奥まで冷たくなる。母が降りてくるのを待ちながら、僕は一人で先に玄関へ行くのが怖かった。帰る場所のはずなのに、どこか別の世界に連れて行かれるような不安がまとわりついていたからだ。
やがて母が僕の横に立ち、鍵を手にした。僕もそのままついて入ろうとすると、母は小さく首を振った。
「自宅なんだから、自分で扉を開けなさい」
その声はどことなく優しく聞こえた。
仕方なく、僕はドアノブに手をかけた。指先が冷たい金属に触れるだけで、鼓動が速くなる。ゆっくりと押し開けると、いつもと同じはずの扉がやけに重く、まるで僕を拒んでいるように感じられた。
玄関の照明がぱっと視界に流れ込み、瞳孔がきゅっと縮む。見慣れた光なのに、今日は鋭すぎて目に痛い。
そこには父が待っていた。まるで僕を待ち構えていたかのように、玄関の真ん中に座っていた。でも、その姿はいつもの威圧感に満ちた父ではなく、妙に小さく、頼りなく見えた。
目が合った。けれど父は表情を崩さない。僕の心の動揺を見透かすように、ただじっとこちらを見つめていた。
「……」
かける言葉が見つからず、喉の奥で声が絡まった。目を逸らそうとしても、玄関の強い光に照らされた父の瞳と視線が絡み合い、逃げ場がない。
張り詰めた空気が玄関いっぱいに広がり、呼吸すら思うようにできない。冷たい夜気が背中から忍び込んでくるのに、心臓だけが焼けるように熱かった。
父はじっと僕を見据えていた。その眼差しに責める色はなく、ただ何かを必死に押し殺しているように見える。僕の胸は痛みでいっぱいになった。
長い沈黙ののち、父が低い声で口を開いた。
「おかえり、大和……帰ってきたんだから、しっかりと挨拶しなさい」
その声音は厳格な調子を崩さぬまま、しかし震えを帯びていた。僕の心に鋭く突き刺さる。
喉が乾ききって、声が出せるかどうかすら不安だった。けれど、この一言だけは言わなくてはいけない。父が求めているのはただそれだけなのだ。
「……ただいま」
たった一言が、胸の奥にずしんと落ちる。
「よく……無事に帰ってきてくれた。おかえり……おかえり……大和」
次の瞬間、父は僕を力いっぱい抱きしめてきた。
肩に食い込むほど強い腕。普段なら威圧感しか覚えないその力が、今はただただ温かかった。
厳格な父がこんなふうに抱きしめてくれるなんて思いもしなかった。気づいたら、胸の奥から熱いものがこみ上げてくる。
「あああああああああああああああああああああ!」
涙腺が壊れたように、次から次へと涙が頬を伝った。
きっと安心感に包まれたせいだ。守られている、帰ってきてよかった……そんな気持ちが体中に広がっていく。
「おかえり」という言葉が、これほどまでに沁みたのは生まれて初めてだった。僕には帰る場所があって、待ってくれる人がいて、暖かい家庭があるのだと、胸の奥から実感した。
涙で滲む視界の中、世界が少しずつ色を取り戻していくのがわかる。さっきまで灰色だった景色が、父の背中越しに鮮やかに息を吹き返していく。
その変化に気づいた途端、また新しい涙があふれてきた。もはや止められない。恥ずかしいなんて気持ちは一切なかった。
――生きている。
喜怒哀楽を感じられる。人の温もりを受け取れる。それがこんなにも幸せなことだったなんて。
同時に、どれほど自分の言動で両親に迷惑と心配をかけたのか、はっきりと自覚させられた。父の腕の中で泣きながら、僕は胸の奥で何度も謝罪の言葉を繰り返していた。
リビングで話し合いをすることになった。父と母を正面に、僕は畳の上に小さく座る。二人の前に座るだけで、胸の奥に見えない手で押しつけられるような重さを感じた。
時計の針は深夜四時を指している。両親ともに明日も仕事なのに、こんな時間まで起こしてしまっている事実が胸を刺した。申し訳なさと居心地の悪さが入り混じり、呼吸が浅くなる。
沈黙を裂くように、僕はずっと喉に引っかかっていた疑問を吐き出した。
「なんで……居場所と、自殺しようとしていることがわかったの?」
言葉が空気に溶けていく。父は視線を落とし、ほんの少し間を置いてから口を開いた。
「居場所についてはGPSを頼りに特定した。小豆島にいたのはわかったんだが、その後、スマホの電源を大和が切ったのか、特定できなくなった。そして、次に特定できた場所が東尋坊だった。急いで警察に居場所を教えて、保護してもらったというわけだ」
父の声は努めて淡々としていた。けれど耳を澄ませば、震えにも似たかすかな揺らぎが混じっていた。悲しみと安堵、その両方を押し隠そうとしているのが伝わる。
僕は言葉を失った。最後に「もういい」と思ってスマホの電源を入れ直した、その一瞬の気まぐれが救出につながったなんて……。
背筋に冷たい汗がつたう。心臓を握られるような感覚がして、思わず俯いた。
「ホテルの予約から岡山にいるのを警察が特定して、本当は岡山で保護してもらうつもりだったんだけど、一歩先にチェックアウトされてしまってね……」
父の低い声がリビングに響く。母は膝の上で両手をぎゅっと組み、何度もうなずいていた。岡山で宿泊したホテルの前にパトカーが止まっていた時、すでに僕たちを捜索していたのか……。胸の奥がぎゅっと締めつけられる。僕は逃げていたつもりでも、ずっと誰かに追いかけられていたのだ。
「自殺の意思については、大和の部屋を捜索したら遺書の下書きらしきものがゴミ箱から出てきて、それで確信したんだよ」
父はそう言うと、机の上に一枚の紙を置いた。くちゃくちゃに折り目がつき、シワだらけになった紙切れだった。見覚えがある。あの日、家を出発する前に全部処分したつもりだった。近所のゴミ捨て場に投げ込んだはずなのに、一枚だけ忘れていたらしい。
紙面に目を落とす。『この遺書を読んでいるということは僕は既にこの世から消えているのでしょう……』 今にも消えそうなか細い文字で書かれていた。震える字を追った瞬間、背筋に冷たいものが走る。
深夜、机に突っ伏しながらこの言葉を絞り出した時の感覚が一気に蘇る。ただただ、胸の奥は苦痛で満ち溢れていた。生きているだけで身体の内側が焼けるように痛く、息をしていることすら罪のように感じていた。ペン先を紙に走らせることでしか、どうしようもない気持ちを吐き出せなかった。文字に変えるだけで少しだけ救われる気がした。けれど、その救いは一瞬の幻のように儚かった。
今、その紙を目の前で両親に突きつけられると、胸の奥から凍りつくような後悔が広がっていく。あの時の絶望を二人に見せてしまった。どんな顔をしていいかわからなかった。
「大和がいなくなった日に、アルバムや撮り溜めていたビデオを見て思い出に耽っていたんだよ。運動会のリレーで一位を取った時の映像や、家族で旅行した時の写真を見ていると、自然と涙が込み上げてしまってね。東尋坊にいるとわかった時、そして、大和から『さよなら』のLINEが送られてきた時、もうダメかと思ったよ……。もしかしたらもう大和の声を聞くことができないかもしれないって……無事に家に帰ってくることを、ただただ願っていたんだ」
父は泣きながら気持ちを吐露した。普段の厳格な姿からは想像もできない、弱々しい父の横顔。肩は震え、絞り出すような声に混じる嗚咽。僕の胸は締めつけられ、目の奥が熱くなった。涙を見せまいと歯を食いしばっても、もう無理だった。自分の意志では止められないほど、涙は次から次へと零れ落ちる。一筋の涙が頬をつたうたびに、罪悪感が深く刻み込まれていく。
「私は……ただ相談して欲しかった」
母の声は優しかった。叱るでもなく、責めるでもなく、深い慈悲のような響きを帯びていた。
「何も言わずにフラッと消えたのがショックだった……。そして、大和のほんとの気持ちが知りたい。どうして自殺という選択肢を選んでしまったのか……そして、今は何を思っているのか」
母の瞳は真っ直ぐに僕を射抜いていた。逃げ場のない問いかけ。けれど、その眼差しには恐怖ではなく、ただ「受け止めたい」という温もりが宿っているのがわかる。僕は胸の奥に押し込めてきたものを、ここで正直に言おうと決めた。もう隠す意味はない。嘘で覆ったままでは、この時間が台無しになってしまう。
「高校生になった頃から自分の人生に違和感を感じていた。生きていても幸せを感じない、社会に生かされているように感じたんだ。その頃から希死念慮が芽生え始めた。それに追い打ちをかけたのが受験失敗だった。自分の勉強を積み重ねた期間だけじゃなくて、人生そのものを否定された気がした。たとえもう一年頑張って第一志望に合格したとしても今後受験のような競争社会で生きていくことに大きな絶望を感じたんだ。勉強すれば勉強するほど日本で生きていくのは無理ゲーだと気がつき、それなら早めに死んで苦痛を取り除くのが得策だと考え、自殺を決意したんだ......」
「そうなんだ......辛かっただろうに気づいてあげられなくてごめんね」
母は言った。
「息子がここまで悩んでいたのに見抜けなかったなんて.....俺は父親失格だな」
父は言った。
その言葉を聞いた瞬間、僕の胸には後ろめたさがこみ上げた。心配をかけてしまっただけでなく、父と母にそんな言葉を吐かせてしまった自分が情けなかった。
正直、僕は父に対して苦手意識を持っていた。お金のことをぐちぐち言われるのが嫌だったからだ。生活に必要なことだと分かっていても、言葉の端々に責めるような響きがあり、心が削られていった。
僕が失踪したあの日、両親は深く話し合ったのだという。母は父に「もうお金のことを言わないで」と強く言ったそうだ。父はその時、仕事で失敗が続き、会社でも家庭でも自分の居場所を失っているように感じていたらしい。その苛立ちや惨めさを、無意識のうちに僕にぶつけていたのだと、今になってようやく気づいたという。
母の指摘を受けても、父は最初は言い訳を並べたらしい。だが、僕がいなくなったことで、初めて本当に自分の言動を振り返ることになった。反省と後悔が胸を締め付けたのだと、今の父の表情から伝わってきた。
「今は人の温かみを感じれて幸せ。生きてみようかなと思い始めてる......」
「嘘じゃない?」
「うん。嘘じゃない。僕には帰る場所があり、温かな両親がいるから幸せだよ」
母は静かに僕の手を包み込んだ。
「大和……私を母にしてくれてありがとう。生まれてきてくれて、本当にありがとう」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥から込み上げるものがあった。
僕はこれまで、存在してはいけない人間だと思い込んできた。生きていることそのものが迷惑で、誰の役にも立てていないと信じ込んでいた。だけど――母の「ありがとう」が、その思いを根本から覆してくれた。
僕はただの負担なんかじゃない。誰かに必要とされ、誰かの心を温めることができる存在なんだ。父と母にとって、僕は「生まれてきてよかった」と思わせる子どもでいられるんだ。そう気づいた瞬間、長い間胸を締め付けていた重石が少しずつ解けていくような気がした。
父も母も、不器用ながらも僕を愛してくれている。その愛に応えるように、僕もまた二人と共に生きていきたいと思った。生まれてきた意味を、これからの人生で見つけていけるかもしれない。いや、すでにここにある家族の温もりこそが、その答えなのかもしれない。
これからについては日を追って相談することになった。父は「今は思い詰めずに、まずはゆっくり休め」と優しく言った。
その言葉に胸の奥の緊張がほどけていくのを感じる。だから今は、考えるのをやめて、ただ休もう。 母は「翠ちゃんとちゃんと話しなさいよ」と小さく笑みを浮かべ、静かに寝室へと向かっていった。
自室に戻ると、机の上に一枚の紙切れが置かれていた。そこには母の字で「きっといいことあるよ」とだけ書かれている。
その短い言葉を目にした瞬間、胸の奥がじんわりと温かくなった。母は何も多くを語らなくても、僕に生きる希望を残してくれている。
――そうだ、僕にはまだ向き合うべきことがある。
契約の件も含めて、翠とちゃんと話をしたい。母が願ってくれたように、これからは逃げずに、言葉で気持ちを確かめ合おう。
お風呂に入る。今までは義務としか認識していなかった入浴に、大きな幸福を覚える。湯に浸かるだけで、体がじんわりとほぐれていく。今日一日の出来事を思い出すたびに、涙腺が緩み、頬を伝う雫が湯に溶けて消えていった。
そして……もう少しだけ、この世界で生きてみようと、初めて心の底から思えた。
机の上の「きっといいことあるよ」という言葉が、まるで未来への約束のように胸に残る。
窓の外では夜が明け、柔らかな朝の光が差し込んでいた。新しい一日が、確かに始まろうとしている。
目を覚ますと、既に昼過ぎだった。体が軽く、快眠をした実感が残っている。ここ数日、寝ても疲れが取れないことが多かったから、久しぶりにぐっすり眠れたような気がする。
父も母も、もう仕事に出ている。家の中は静かで、時計の針だけが刻む音が妙に大きく感じた。
最初に浮かんだのは、翠の顔だった。
彼女は今、何をしているんだろうか、そして、今何を感じているのだろうか?
僕は自然とスマホを手に取り、頭の中に思い浮かんだ言葉をメッセージに貼った。
>翠と会って話がしたい
既読はすぐについた。ドキドキしながら待つ。もしかしたら、昨日のことが原因で気まずさが残って、返信がないかもしれない。だけど、僕の心配は杞憂に過ぎなかった。
>私も大和君と話がしたい。今から会える?
そのメッセージを見て、安心感が胸を満たした。翠も会いたかったんだと思うと、何だかほっとした気持ちが湧き上がってきた。
公園のベンチで待ち合わせることに決め、僕は急いで身支度を整えた。自転車で行こうかとも思ったが、今日はなんとなく歩きたかった。歩くことで、気持ちを整理したいし、翠に伝えたいことを頭の中でしっかりまとめたかった。
歩きながら、風を感じる。青空が広がっていて、何もかもが鮮明に見える気がした。少し前までは、こんな風景に感動することなんてなかったけれど、今は不思議とその美しさに心を奪われる自分がいる。生きることの楽しさや、何気ない日常の大切さを、今、強く感じている自分に驚きながら。
公園に着くと、翠はすでにベンチに座っていた。制服姿で、少し俯いているその姿に、いつもの元気さが欠けているのが分かった。昨日の出来事が彼女にとってどれだけ重かったか、そしてその気持ちを抱えたまま過ごしていることを考えると、胸が痛んだ。
その姿に、僕は嬉しさよりも心配が先行していた。翠と会えたことは嬉しいけれど、彼女がどんな気持ちでいるのかを思うと、どうしても不安が大きかった。
僕はゆっくりと翠に近づく。
「翠……」
思わず口から出た名前に、少しだけ照れが混じる。それでも、翠は顔を上げて、僕に微笑んだ。その笑顔が、どこかぎこちなくて、それでも大切に感じた。
「大和君……」
「翠……その……」
準備してきた言葉が出てこない。あんなにも歩きながら紡ぐ言葉を整理してきたのに翠を前にすると喉の奥に感情が詰まってしまう。
僕は頭を下げる。自分にできる最大限の誠意だ。
「翠ごめん……僕のミスのせいで東尋坊で死にきれなくて」
準備していた言葉ではなかった。だが、ずっと謝りたかった。僕の行動のせいで翠を死なせてやれなかった後悔や罪悪感を少しでも誠意で晴したかった。なんとも自己中だがそういうことだ。
「大丈夫……自殺失敗したのは大和君のせいじゃないよ。あの時は私も動揺していたから……。気がついたら警察の方に保護され、家についていた。今でも何が起こったのかを鮮明に思い出せない……」
翠は虚ろな目を宿しており、まるで遠くの無機質なものを見つめているかのようだった。目を合わせようとする度に、彼女はその視線をそらしていく。その姿はまるで心を閉ざすかのようで、どこか疎遠な空気が漂っていた。僕はその違和感を感じずにはいられなかった。いつも元気で、周囲に光を与えていた翠が、今はまるで人形のように無機質に見えた。
彼女が抱える痛みが僕には分かっているつもりだった。
東尋坊での出来事を思い出すことがどれほど辛いことか、想像を絶していた。それでも、彼女がその苦しみを言葉にできないことを理解していた。思い出すことが、記憶の中で自分を傷つける行為だと脳が無意識に避けようとするのだろう。翠が目を合わせようとしないのは、その心の壁を感じ取っているからだ。
あの時の出来事が、今でも僕の頭をぐるぐると回る。冷たい空気、風の音、そしてあの瞬間に感じた死への恐怖と絶望。それらは消えることなく、僕の中に刻まれている。あの瞬間を思い出すたび、次に飛び降りることが怖くて、また体が萎縮してしまう。生の喜びを知った今でも、死の恐怖を考えるだけで胸が締め付けられる。
でも、それ以上に、どうしても言わなきゃいけないことがある。今、口にするべきかどうか迷っている自分がいる。もし、翠が「生きたい」と言わなければ、僕たちの関係は終わってしまうんじゃないかと、心の中で不安が広がっていた。翠との繋がりが切れることが、何よりも怖かった。
僕はもっと翠に伝えたかった。たとえそれが名目だけの言葉だったとしても、彼女と繋がっていたい。その証が欲しかった。今の翠にとっては、必要ないことかもしれないけれど、もし翠が「生きたい」と言ってくれたなら、僕たちの関係は続いていく。だけど、もし翠の口から「生きたい」が聞けなかったら、すべてが消えてしまう。そんな恐怖が僕を締め付けていた。
喉元まで言葉が出かかっていたけれど、どうしても怖くて言えなかった。翠が「生きたい」と言ってくれることを、心の底から願う自分がいる。でも、もしその言葉が返ってこなかったら、僕はどうすればいいのか。その思いが、僕の胸を苦しくさせていた。
二人の間に流れる空気が、どんどん重くなっていく。どんな言葉をかけるべきか分からず、ただ静かにその一言を待っている自分がいる。
「そんなことを言いにくるためにわざわざ私と会ったわけじゃないんでしょ」
おもむろに翠は呟いた。
「わかるの?」
「そりゃわかるよ。二ヶ月も一緒に大和君といるんだからさ」
その言葉に、僕は驚いた。翠がそんな風に考えているなんて、予想もしていなかったからだ。
そして、少し嬉しくもなった。
自意識過剰かもしれないが、僕の心の中を読まれるような気がして、翠が特別な存在だと再確認させられた。
そして、翠にとっても僕が何者かであることを、心のどこかで強く願ってしまう自分がいた。別に恋人だとか友達だとか、そんな名前がついてなくてもいい。ただ、ただ……特別であってほしい……。
「私は大和君の本当の気持ちが知りたい。自殺未遂を経てきっと心境の変化があったと思う……。私も色々と思うことがある……」
翠の言葉に、僕は少し躊躇しながらも、自分の本心を口にする決意をした。
心の中の引き出しから取り出した言葉。それは準備していたものではない。赤裸々で、ただ素直な自分の気持ちだ。きっと後で思い出すと恥ずかしくなるだろうけど、今は言うべきだと思った。
「……僕は少しの間でいいから生きてみたい……」
翠は僕の言葉を驚くことなく受け入れてくれた。黙って聞いていてくれた。
「生きるということは辛いことが多いに違いない。現世は苦痛で満ち溢れている。めんどくさい人間関係、絶えることのない将来への不安……それでも、生きてさえいれば幸せを感じれる。東尋坊から帰宅した後、両親に抱きしめられて、温かい人間関係が身近にいる喜びを味わった。そして、生きる喜びに気づいてしまったんだ……」
この言葉には嘘はない。
「だから、僕は生きてみたい。生きてもっとこの喜びを味わいたい……」
翠は否定も肯定もせず、ただ黙って頷いた。彼女がどう思っているのかはわからないけれど、自分の気持ちを隠しているようにも見えた。
「……これが僕の気持ち……」
長い沈黙が続いた。
僕は翠が何かを言うのを待っていた。彼女もきっと自分の本当の気持ちを話してくれるだろうと、そう信じていたから。
「伝えてくれてありがとう、大和君」
その一言が、僕にとっては何より大きな意味を持った。
ゆっくりと落ち着いた口調で、翠が話し始める。
僕はどこか緊張していた。翠との縁が切れるかもしれないという可能性に、無意識のうちに怯えていた。もし絶縁されることになったらどうしよう、と心の中で準備していた。今までこれほどまでに深い人間関係を築いたことはなかったからこそ、翠とは特別な存在であり続けたいと強く思う。
「私もあの日を境に心境の変化があったの……」
文字だけでは伝わらない普段の翠とはどこか違う、重い雰囲気だった。僕の心はますます緊張で満ちていく。
「私も生きたいと思っているよ……」
その言葉に、反するような深刻さが感じられた。まるで本心を隠しているようにも見える。
「それは翠の本心?」
思わず疑問を口にする。それほどに、普段の翠とはあまりにも違っていた。
「うん。これが私の本心……嘘じゃないよ……私も親と話し合って、人間関係なんかで死ぬのがバカバカしく感じちゃった……」
東尋坊での出来事がまだ整理できていないのだろう。その表情に心の整理が追いついていないのが分かる。これ以上、深く追及するのは翠にとっても失礼な気がした。
時間が経てばきっと、元気で天真爛漫な姿を取り戻してくれるだろう。それくらい、僕は翠のことを信頼していた。
そして、僕は今日一番伝えたかった言葉を口にする。自分の意思を言葉に乗せることがこんなに強く感じたことはなかった。
「僕は翠と共に生きていきたい。だから翠にはこれからも生きていてほしい。そして、生きていれば幸せを感じられることを、僕が証明したい」
翠は少し考えてから、にやっと笑うと僕の顔を覗き込んだ。
「それって、遠回しのプロポーズ?」
その問いに、僕は思わず目を逸らす。
「そんな安っぽいものじゃないよ。翠のことは好きだけどね」
「それって、恋愛的な意味で?」
「それは違う。もっと特別な意味での好きだよ」
気恥ずかしさから、どうしても言葉にブレーキをかけてしまった。いまだに、翠のことを異性としてどう思っているのか、自分でもはっきりとは分からない。
「なんだー、面白くないの」
翠は少し肩をすくめて笑う。
自分でも少しあざといと感じるくらい、今の発言は照れくさいものだった。普段あざとさを僕に振り撒く翠へのちょっとした仕返しとしては、ちょうどいい。少しでも動揺してくれたなら嬉しい……もちろんそれはいい意味での動揺だ。
「生きていくことをお互いに決意した今、契約違反だから、これで大和君と私の契約は終了だね」
翠はそう言って、少し意味深な笑みを浮かべた。 「うん、そうだね」
その言葉に、僕は少し胸が締め付けられる思いがした。でも、もうそれが自然なことだと感じていた。
死ぬことを辞めた今、契約関係を続けるのはおかしい。翠の気持ちを確かめたことで、僕も契約解除を望むようになった。きっとここからは名前のない、でもそれなりに意味のある別の関係が生まれるのだろう。
翠はベンチからゆっくり立ち上がり、僕と握手を交わす。
それは、契約が完全に終了したことを意味していた。
「契約は解消されちゃうけど、次死ぬ時も大和君と一緒がいいな」
翠は後ろを振り返り、呟いた。その声には少しだけ寂しさも混じっていた。
「それが実現するのは、六十年後くらいになりそうだね。それに、遠い未来の話を軽く言われると冗談ぽく聞こえるよ」
「本気だよ」
翠は真剣な眼差しで言う。
「嘘だったら?」
「その時は先に死んであげる」
僕はもう翠の冗談には慣れていた。彼女のそういう軽い言い回しが、どこか不思議で愛おしく思える。
「はいはい」 と軽く流しながらも、心の中では少しだけ切ない気持ちがこみ上げる。
翠が帰ろうと振り向いた時、僕は思い切って質問を投げかける。
「そういえば、東尋坊で飛び降りる寸前に言ってた翠の秘密って何?」
僕の脳に浮かんだ言葉をそのまま口に出す。ふと「秘密」というワードが気に留まったから。
「そんなこと言ったっけ?」
翠は振り返らず、少し不安げに答える。
「誤魔化しても無駄だよ。翠と違って、あの時の記憶は鮮明に覚えてるからね」
「うわー、それは困ったな。その件については、天国での私に一任しようとしてたんだけどな……」
どうやら、翠は言ったことを覚えていたらしい。しかし、わざととぼけていたようだ。
少し間を置いてから、僕は微笑む。
「いつかきっと言うよ……絶対に」
「言質とったからね」
その言葉に、翠は苦笑いを浮かべる。
話を切り上げ、翠は再び歩き出す。制服を着た彼女の姿は、風に揺れる黒髪とともに美しく、ただただ見惚れてしまう。
「じゃあね。大和君。さよなら」
翠は振り返らずに、僕に向けてとびきりの笑顔を作った。
その笑顔を見れただけで、僕は十分今日、ここに来た意味があったと思えた。
これからも、僕たちはこんな何気ない日常を積み重ねていくのだろう。歳をとり、少しずつ変わりながら。それでも、何かしらの形で繋がり続けるだろうという安堵感が、胸に広がる。
その夜、僕は翠にLINEを送る。
>イヤホンが公園のベンチに落ちてたんだけど、これって翠の?
翠が公園を去った後、座っていたベンチにイヤホンが落ちていた。翠が忘れたのだろうと思ってすぐに追いかけたが、もうすでに彼女は違う道を歩いていた。年季が入ったイヤホンだったから、長い間大切に使っていることが伝わってきた。そのまま家に届けようかとも考えたけれど、またすぐ会うだろうから、その時にでも渡せばいいと思った。
しかし、二時間、三時間と過ぎても既読はつかない。まるで翠が僕のメッセージを見ていないような感覚に陥る。普段の翠なら、あんなに早く返信をくれる。だけど今回は違った。何かがおかしい。初めて感じる、いつもと違う空気。僕の心の中に浮かぶ不安はどんどん膨らんでいく。
家の中で、無駄に時間が流れるたびに、僕の胸の中の焦燥感が増していった。嫌な想像が次々に浮かぶ。
もしかしたら、誘拐されてるんじゃないか?
事故にあったんじゃないか?
こんな想像をするたびに、胸が苦しくなった。でも、もしそうだったら、僕はどうする? どうしてあげられる?
僕は現実に起こるかもしれないその「最悪」を、心の底から恐れていた。
それでも、自分に言い聞かせる。「返信が来ないからって焦っても仕方ない。冷静になれ」と。だけど不安はどんどん膨らんでいって、どうにもならなくなった。心の中であれこれと考えを巡らせているうちに、僕はだんだんと無力感を感じ始める。
夜が深くなると、時間の流れが重く感じられた。夕食を終え、横になってスマホを触りながらも、目を閉じることができなかった。頭の中では、公園で会った時の翠の笑顔、話した内容、最後に交わした言葉がずっとリフレインしている。
気がつけば僕は、メッセージアプリを開いていた。部屋の時計は深夜二時をさしている。
「……これからも隣にいてほしい」
迷いながら打ったその一文を、結局は送信してしまった。画面にはすぐに「既読」が灯ったが、返事はこない。
送ってから数秒で、胸の奥がじんわり熱くなる。なんでこんな青臭いことを送ってしまったんだろう。まるで告白みたいじゃないか。布団に潜り込みたくなるほどの恥ずかしさがこみあげる。
だけど同時に、スマホを握る手はそわそわと落ち着かない。通知が来ないか何度も画面を見返してしまう。たった一分が、やけに長く感じられる。返事を待つ時間がこんなにも苦しいなんて、今まで知らなかった。
そうして何度も画面を確認しているうちに、気づけば窓の外が白んでいた。眠れないまま朝を迎えたせいで、まぶしいはずの光がやけに冷たく感じる。食欲も湧かず、ただ時計の針の音ばかりが、静まり返った部屋に刺さるようだった。
昼を過ぎても通知音は鳴らない。僕は何度もスマホを確認して、そのたびに落胆し、またため息をついた。
そんな時、不意にスマホが震えた。
画面に表示されたのは、「早乙女翠」の名前だった。
一瞬、胸がドキっとした。安心したのは、ほんの一瞬で、心臓が高鳴る音が自分でもわかった。手が震えて、スマホが顔に落ちそうになった。目をこすり、深呼吸をする。
昨日公園で話したばっかりなのに、実際に声を聞くのは久しぶりなような気がした。
翠の声をまた聞くことができる……そんな思いが胸の中で反響した。
何か言わなくちゃと思うけれど、言葉がうまく出てこない。今はただ、翠の声を聞くだけで、それだけで安心する自分がいた。
もしも、これが悪い知らせだったらどうしよう……。
そんな不安もよぎるけれど、今はただ、翠の声が聞きたかった。あの軽やかな笑い声を、少しでも感じたかった。
僕は、「応答」をタップしながら、少し震える手を落ち着けた。
「もしもし。こちら宇佐美大和君の携帯でよろしいでしょうか」
涙混じりの声が、僕の鼓膜を鋭く揺さぶった。美しく、透明な声……でも、これは翠の声ではない。もしかしたら、別の誰かの着信からを僕が勘違いしたのかもしれないと思い、画面をもう一度見返す。すると、そこにはやはり『早乙女翠』の名前が表示されていた。
その瞬間、全身が凍りついたように感じる。何かおかしい。何が起こっているんだろうか。今、ここで起こっていることが信じられない。困惑しながらも、冷や汗が背中を伝って流れるのを感じながら、僕は震える声で応答する。
「はい。僕が宇佐美大和です」
「私、翠の母親の早乙女京子です……」
その名前に、僕の胸が一瞬にして締め付けられる。翠の母親……。
何が起こったんだろう?
電話越しに伝わる声が、ますます悲しみに沈んでいくのが感じ取れる。声の奥から、嗚咽が漏れる。
その時、僕の全身が一気に硬直した。直感的に、これはただ事ではないと感じた。心臓が激しく鼓動し、耳鳴りが耳をつんざく。胸の奥が、急に苦しくなった。
「翠は、昨日の夜に飛び降り自殺をし、亡くなりました……」
その一言が、全てを奪った。頭の中が、目の前が真っ白になる。耳の奥で、音が遠くなるような感覚が走り、心臓がそのまま崩れ落ちていくような感覚に包まれる。言葉が一度、二度、何度も何度も繰り返される。
「え……」
何もかもが凍りついた。次の瞬間、手のひらからスマホがすり抜け、床に落ちる音だけが虚しく響く。体が動かない。どうしても、状況を理解しきれない。言葉の意味が、体の中で反響しているだけで、僕の心の中に入ってこない。『飛び降り自殺をし、亡くなりました』という言葉が、脳内でぐるぐると回り続ける。それがまるで現実だということを、じることができない。
翠は、どうして?
なんで彼女が、そんなことを……。あの時、契約を解除して一緒に生きようと決意したじゃないか……。どうして、こんなことに……。
「翠は……」
それ以外の言葉が、何も出てこない。目の前の世界が歪んで見える。声が出ない。涙も出ない。身体のどこかが麻導しているみたいに感じる。
翠の母の鳴咽が、どこまでも響く。僕はそれを受け入れることができなかった。胸が締め付けられて、息ができない。生きるために必死に呼吸しようとするけど、空気が喉を通らない。
視界が一気に白黒になる感覚が走る。
まるで全ての色が消え失せたような、冷たい世界に放り込まれたようだった。目の前の風景がぼんやりと溶けて、何もかもが霧の中に沈んでいく。現実が遠く感じられて、身体がまるで自分のものではないかのように思えた。
呼吸がうまくできない。
喉の奥に何かが詰まって、息が吸えない。肺が苦しみを訴えているのに、胸が重くて、どんなに深く息をしようとしても空気が足りない気がして、心臓だけが過剰に速く脈を打つ。僕の体が、何かしらの深い恐怖や絶望に支配されているのを感じた。
気がついたら、電話は切れており、
画面に映るはずの翠の母の涙の面影が、もう見えない。電話越しに聞こえていた嗚咽の声も、もうない。ただ、無機質な不通知音が耳の中で静かに鳴っていた。その音は、部屋の空気と一体となって、僕の世界をさらに無感覚にしていくような気がした。
不通知音は、徐々に環境音の一部となっていた。
その音だけが、まるで冷たく響いている。耳に響くその音に、心を持っていかれるような気がする。僕はそれを認識することしかできなかった。何も考えられない。言葉すらも思い浮かばない。
それくらいに、僕は呆気に取られていた。
ただ、無力にその場に立ち尽くしている。世界が音を立てて崩れていくような感覚を覚えた。翠がもういないという現実が、ゆっくりと、そして確実に胸に沈み込んでいく。その重みが、心の奥底でずっと響いていた。
状況を整理できていなかった。
何もかもがぼやけて、思考が止まっている。ただ、深い闇の中に沈んでいく自分を感じていた。それでも、この現実が何度も何度も頭を回り続け、信じたくなくても、理解しなければならないことが次第に迫ってきた。
翠が死んだ。
翠が「生きたい」と言ったあの言葉を、僕は何の疑いもなく信じてしまった。
その瞬間、胸の奥がふっと軽くなって、勝手に未来を描いてしまった。
これでもう大丈夫だと、これからも隣で笑ってくれるんだと、根拠のない安心にしがみついてしまった。
でも、あれは違った。
本当は声の震えに気づいていた。
視線が僕を通り抜けて遠くを見ていたこともわかっていた。
それなのに、僕は耳を塞ぎ、目を逸らした。
彼女の本音と向き合うのが怖かったから。
もし「生きたい」が嘘だったと知ってしまったら、僕はどうすればいいのか分からなかったから。
結局、僕は自分を守るために、翠の言葉を鵜呑みにしたんだ。
彼女を本当に救うためじゃなく、ただ「大丈夫」と思いたかっただけ。
その安易さが、彼女をひとりにしてしまった。
その愚かさが、あの夜の選択を止められなかった。
今となっては、後悔しか残っていない。
あの時、もっと強引にでも彼女の心の奥を覗き込み、言葉の裏に隠された孤独を掴み取っていたら……。
ほんの一言、ほんの一歩、勇気を出して寄り添えていたら……。
もしかしたら、未来は変わっていたかもしれないのに……。
そして、この瞬間。翠が最後に口にした「契約解除」という言葉の意味を、ようやく理解した。
「もう死ぬのはやめる」「これからは未来に向かって生きる」……僕はそう解釈して、安心してしまったのだ。まるで勝手に都合のいい翻訳をしてしまったみたいに……。
けれど本当は違った。
翠が先に死ぬから、この関係そのものが成り立たなくなる。だから、終わらせるしかなかったんだ。あの言葉には、そんな残酷な意味が隠されていた。
「契約解除」……それは現世に僕との未練を残さずに消えていくための、翠なりの最後の準備だったのかもしれない。
今になってようやく、彼女が残したメッセージが胸に突き刺さる。あのとき僕が感じた安堵も、笑みも、全部がただの錯覚だった。僕は翠を信じていたはずなのに、結局は自分に都合のいい夢を見ていただけだったんだ。
僕は、彼女に生き返ってほしかった。
そして、どうして黙って自ら命を絶つなんて選択をしたのか、その理由を聞きたかった。たとえ苦しい答えだったとしても、知りたかった。理由によっては、きっと僕も一緒に飛び降りただろう。彼女がひとりで先に行ったことが、どうしても許せなかった。
思い返すほどに、後悔ばかりが押し寄せる。
「ありがとう」を呆れるほどに口にすればよかった。
思うがまま抱きしめればよかった。
笑われてもいい。重いと思われてもいい。翠を繋ぎとめられるなら、なんだってすればよかった。
そんな希望的観測にすがっている自分が情けないとわかっているのに、それでも信じてしまう。もし、あのときそうしていたら……翠は自殺を踏みとどまってくれたかもしれない。いや、踏みとどまってくれるはずだった、とすら思い込んでしまう。
涙が勝手にあふれ出す。頬を伝って、顎から滴になって落ちる。止めようとしても、視界はにじんでいくばかりだった。胸の奥がひどく痛くて、息をするだけで心臓がきしむように苦しかった。
東尋坊から帰った夜、父に抱きしめられた時よりも、はるかに多く。涙は途切れることなく頬を伝い、呼吸さえも苦しくなるほど胸を締めつけた。
翠を失った痛みは、身体の奥深くまで染み込み、心臓をえぐり取られるように僕を蝕んでいく。世界の色がすべて薄れて、音も景色も遠のいていく。ただそこにあるのは、彼女がもういないという圧倒的な現実だった。
大切な人を失うということが、これほどまでに残酷で、逃げ場のない苦しみを伴うなんて思いもしなかった。立ち直る術を、僕は持っていない。
きっと僕の親も、あの時、同じ気持ちで僕の帰りを待っていたのだろう。二度と戻らないかもしれない存在を必死に求めながら、どうしようもない喪失の重さに押し潰されていたのだろう。
彼女は僕に秘密を伝えると嘘をついた。
彼女は僕と一緒に死ぬという約束を破った。
彼女は生きるという約束を破った。
彼女は「生きたい」と僕に嘘をついた。

