真っ暗な部屋に、耳障りなほど大きなアラームが鳴り響いた。手探りでスマホを掴み、画面をスワイプして音を止める。時刻は午前三時。今日が、僕の「最期の旅」の出発日。そして、彼女と約束した自殺へ踏み出す日だった。
待ち合わせの時間まで、まだ一時間ある。僕は布団から起き上がり、手早く部屋の整理を始めた。いわゆる「生前整理」というやつだ。死んだあと、親に余計な手間をかけさせたくない。ためらうことなく、要らないものを次々とゴミ袋へ放り込む。燃えるゴミも燃えないゴミも区別はしない。焼かれて灰になれば、結局は同じものだ。
気づけばゴミ袋が三つ、満杯になった。近所の集積所へ無造作に置く。収集日が二日後なのか、それ以降なのかなんて、もう僕には関係なかった。
部屋に戻り、普段は放り出している布団を丁寧に畳む。机の上も空っぽにした。痕跡をできるだけ残さないように……ただ一つ、「遺書」だけは鞄に忍ばせた。自分の死の意志が家族に知られて、途中で止められるのだけは絶対に避けたい。大ごとになるのは、僕が死んでからでいい。
時計の針は、もう出発時刻を指していた。僕は音を立てないように部屋を出て、スマホのライトで廊下を照らしながら階段を下りる。長年過ごしてきた家なのに、今夜だけは見慣れない風景に感じられる。「これを見るのも最期」だと思うからだろうか……。
もう二度と、この家には戻ってこない。そう決意を噛みしめながら玄関の引き戸を静かに開けると、ひんやりとした夜明け前の空気が全身を包み込んだ。その冷たさが、むしろ心を引き締めてくれる。
ふと、暗闇の中に小さな人影があった。スマホのライトを向けると、そこには彼女が立っていた。光に目を細めながら、手で顔を覆っている。
「……おはよう」
声をかけると、彼女はいつもと変わらない明るさで返す。
「おはよう、大和くん」
最期の旅立ちだというのに、彼女は少しも気負った様子を見せない。その無邪気さが、逆に胸に突き刺さる。
戸締まりを終えて彼女に歩み寄ると、制服ではない服装の彼女がそこにいた。普段は制服姿でしか会わないせいか、どこか新鮮で、大人びて見えた。女子高生というより、むしろ一人の女性……そう錯覚するほどに……。
そして僕は思った。
これから死にに行くはずなのに、彼女が少し綺麗に見えることが、妙に後ろめたかった。
「大和くん、この前書いた遺書……ちゃんと持ってきてる?」
彼女は封筒を掲げてみせた。表には達筆な字で「遺書」と書かれている。
「もちろん」
僕は鞄を軽く叩く。部屋を出る前に何度も確認したから、改めて確かめる必要はない。
「それじゃ、行こっか……最期の旅へ……」
彼女の声は驚くほど平然としていて、まるで遠足にでも行くかのようだった。僕はうなずき、駅へ向かって歩き出す。
駅までは徒歩で一時間。自転車は使わない。片道しか乗らない自転車を置き去りにすれば、ただの不法投棄になってしまうからだ。バスも電車もまだ動いていないこの時間帯、僕らはただ歩くしかなかった。
午前四時を少し過ぎた頃。空はまだ暗く、東の地平線がほんのりと白んでいる。眠り続ける街を、街灯と信号だけが照らしていた。普段は雑然とした交差点も、今は人影ひとつなく、たまに走り抜けるトラックの音だけが不気味に響く。
「ねぇ、大和くん」
彼女が並んで歩きながら、ふと口を開いた。
「なんか、不思議じゃない? これから死ぬのに、全くその実感がない」
「……ああ。むしろ、ちょっと浮いてる感じだよ」
自分でも驚くほど正直に答えてしまう。
胸の奥では、高揚感がふつふつと湧き上がっていた。ようやく人生のゴールテープを切れる……。続くことしか許されない苦痛のレースから、解放される。その思いは、安堵に近かった。きっと彼女も、同じように人間関係や日々のしがらみから逃れたいのだろう。
やがて、一時間ほど歩いた先に、岐阜駅が見えてきた。
シャッターが閉ざされた駅の入口は、どこか異様な空気を纏っている。頭上を轟音を立てて走り抜ける貨物列車の音が、ひどく耳に残った。昼間は人でごった返す改札や券売機の前も、今はまるで世界から切り離されたかのように静まり返っている。
――まるで、僕らだけがこの世界に取り残されたみたいに……。
僕と彼女は並んで券売機に立ち、切符を購入した。 券面には「大垣→高松」と印字されている。けれど、たとえ四国へ向かう切符を握っていても、旅に出るという実感はどこからも湧いてこなかった。
ホームへ向かう階段を上がる。始発の列車はすでに入線していて、あと二分で発車するところだった。ホームに立つ人影は少なく、がらんとした空気の中、僕らは余裕を持ってクロスシートに腰を下ろした。
窓の外に、まだ夜の気配を残す空が広がっている。
「……なんか、ワクワクするね」
隣で彼女が笑う。小さな声なのに、やけに心に響いた。
「否定しない」
僕はそう答えた。
電車に揺られ始めて、ようやく「旅に出る」という実感が胸に灯り始めた。自殺を決意して以来、日常からは幸せも活力も抜け落ちてしまったけれど……それでも「旅は楽しい」と思う気持ちだけは、正直に残っていた。
そしてその隣には、彼女がいる。
それだけで、死に向かう旅がほんの少しだけ特別に感じられた。
「私たちは今日岡山まで向かうんだっけ?」
「そうだよ」
「新幹線じゃなくて在来線で行くなんて新鮮だね」
「僕は新幹線で行きたかったのに君が在来線で行きたいと拗ねるから仕方なく僕が折れた。どうせ死ぬんだからお金は全部使い切ればいいのに……」
「親に葬儀代の負担はあまりかけたくないから、残せるだけのお金はとっておこうと思って……」
「これから自殺スポットに行くまで寄り道する人のセリフとは思えない。僕は死後の金銭問題なんて考えてないから遠慮なくお金は使うつもり。と言ってもたかがしれているけど」
「私は銀行口座から全てのお金おろしてきたよ。余ったお金は封筒に入れて、遺書の近くにおいてから飛び降りるつもり。遺書にも残ったお金は葬儀代に充ててくださいって書いたしね」
「親からすれば娘が残した葬式用の費用で執り行うだなんてさぞ悲しいだろうね」
列車がゆっくりとホームを離れていく。床下から響くポイント通過の音が、妙に遠く聞こえた。窓の外の景色は見慣れたはずの街並みなのに、もう二度と戻れないという思いが、すべてを淡く儚く染め上げていく。
「大和くんは、親に旅行のこと言った?」
コンビニで買ったおにぎりを口に運んでいると、彼女が不意に尋ねてきた。
「いや。浪人生が旅行に行くなんて言ったら、絶対に止められる……だから黙って抜け出してきた」
「私はね、二泊三日で友達と旅行に行くって言ってきたよ」
「……まさかとは思うけど、僕の名前は出してないよな?」
「流石に私もそこまでバカじゃないよ」
「君にはホームセンターでの前科があるから信用できない」
「あの時はふざけ過ぎただけ。そもそも男の子と行くなんて言ったらお父さん激怒するだろうから、通信制高校の女の子と行ってくるってしっかり嘘つきました」
「君に友達がいるなんて意外だよ」
「失礼な。こう見えても中学の友達は多い方だよ。まあ、実際には通信の高校に友達いないんだけど、親には友達いるふりしてる。心配かけたくないからね……」
彼女は笑いながら言ったが、その笑みはどこか心許なかった。
「心配かけたくないから」……その一言がやけに重く響く。僕らは死ぬために旅をしているのに、彼女は親への気遣いだけは捨てきれない。
他愛のない会話を交わしながら列車に揺られ、西を目指す。米原で新快速列車に乗り継ぎ、気づけば兵庫の姫路駅に着いていた。エスカレーターを右側で上っていく人の列を眺めて、ようやく関西に入ったことを実感する。だがそれ以上の特別な感情は湧かない。
彼女が駅構内のトイレに消え、僕は一人になった。ベンチに腰掛けた瞬間、ポケットの中でスマホが震える。無意識に取り出して、画面をのぞいた瞬間――思わず心臓が跳ねた。
ロック画面に浮かんでいたのは、母からのLINE通知。
ただそれだけのことなのに、背筋が冷たくなる。
>大和。今どこにいるの?
>図書館?
>お昼はいるの?
>何時までに帰ってくるのかしっかり連絡しなさい
まるで死に向かう僕を呼び止める「声」のように見えてしまった。
手のひらがじんわりと汗ばみ、画面を閉じる指先が震える。
――まさか、気づかれた?
理屈ではあり得ないとわかっていても、その疑念が胸にこびりつく。
さっきまでただの旅行気分でいたのに、急に現実が牙をむいた気がした。
既読だけをつけて、僕は返信しなかった。通知が鳴り続ける鬱陶しさに耐えられず、親のLINEをブロックする。画面から親の名前が消えた瞬間、胸の奥に冷たい隙間が広がった。罪悪感は確かに疼いている。けれどそれでも……自殺を遂げるために、余計な障害は取り除いておきたかった。そう自分に言い聞かせるしかなかった。
「大和君。行こっか」 「うん」
彼女の声に空返事をし、スマホをポケットへ押し込む。ポケット越しに熱を帯びた金属の感触が妙に生々しく、胸の奥をざわつかせる。歩き出した足は重いのか軽いのか、自分でもよくわからなかった。
姫路駅から数分、ビルの谷間を抜けると、白亜の城が姿を現した。青空を背にそびえる白壁は確かに美しかった。太陽の光を受け、瓦がかすかにきらめき、まるで絵画のような風景だ。だが僕の胸には何も満たされるものがなく、ただ奇妙な空虚さだけが残った。周りの観光客たちはカメラを構え、声を弾ませ、城を前にして笑顔を交わしている。その輪の中に入れない自分たちの立ち位置を、改めて突きつけられる。
「意外と感動しなんだね」
彼女は城を見上げて、あっけなくそう言った。
「一応世界遺産だから、多少なりはリスペクトした方がいいと思うよ」
「教科書に載ってるくらいだから、実際に見たら感動が押し寄せてくるんだろうって期待してたんだけどな」
「多分君の感性が豊かじゃないから、そんな感想を持つんだよ」
「うわー、ひどい」
軽口を叩き合いながら城下町を歩いた。けれど、心の奥にわずかな違和感が張りついている。観光客に混じって同じ道を歩いている自分たちが、ひどく場違いに思えたのだ。彼らは当たり前のように「明日」を抱えていて、自分たちはそれを手放そうとしている。その境界線が、歩を進めるごとにくっきりと浮かび上がってくる。
やがて岡山へ向かうため駅へ戻ると、電光掲示板には次の列車まで一時間以上あると表示されていた。仕方なく僕たちは駅構内のカフェへ入る。
磨き上げられた床に光が反射し、窓辺のテーブル席には柔らかな昼の光が差し込んでいた。カップに注がれたコーヒーから立ちのぼる香りは心地よく、ガラスの器に盛られたプリンの表面が艶やかに輝いている。だがその落ち着いた空間に身を置いても、心のざわめきは消えなかった。
スマホを取り出す。画面には、母から、父から、そして自宅からの不在着信がずらりと並んでいた。十件、二十件と続く数字が、無言の圧力を放っている。まるで画面の奥から誰かがこちらを覗き込んでいるような、不気味な感覚に襲われた。昼を過ぎても返事がない僕に、とうとう痺れを切らしたのだろう。親の気持ちを思うと胸の奥がずきりと痛む。だが、僕は通知を無視した。
コーヒーの苦味を舌に広げ、プリンの甘さで中和させる。口の中だけは一瞬穏やかになるのに、胸の奥ではざわざわとした不安が着実に膨らんでいく。そのざわめきがどこに辿り着くのか、僕はまだ考えようとしなかった。
「今日の夜ご飯何食べようか?」
「随分と唐突だね」
「せっかく行くのなら地元の名物食べたいじゃない」
「僕達は自殺を遂行するために今回の旅を立案したのに、君は純粋に旅行を楽しんでるみたいだね。僕はなんでもいいから君の好みに合わせるよ」
「ならホテルの部屋でコンビニのご飯を大食いしたい。昨日たまたま見た動画でコンビニのおすすめ商品がたくさん紹介されていたからそれ食べたくなっちゃて」
「岡山に来てまで随分とおかしなことするね。まあ君がそれを所望するならいいけど」
代案などないのだから、僕は彼女の提案をそのまま呑む。きっと彼女とする食事なら、嫌な時間にはならないだろう。そう思い込むようにして、残りのコーヒーを口に流し込んだ。
電車が出発する五分前、僕たちはカフェを出る。階段を上りきると、吹き抜けから差し込む光が傾きはじめており、ホームに並ぶ人々の影を長く伸ばしていた。列車はすでに停まっていて、開いた扉から乗客のざわめきと、空調の乾いた風が漏れ出している。
車内は想像以上に混んでいた。空席はわずかで、僕たちは後方の優先席に並んで腰を下ろす。座席の布地は少し擦り切れていて、そこに体を預けると、不思議と気持ちまで疲弊していく気がした。目的地までは一時間半、この空気に身を浸すことになる。
姫路の都会的な街並みが過ぎ去ると、車窓は一気に山の景色へと変わった。濃い緑の斜面が連なり、鬱蒼とした木々が視界を埋め尽くす。人の気配など微塵もなく、ただ風に揺れる枝葉のざわめきだけが想像できる。
「あの山の中にテントを設営すれば、バレずに練炭自殺できそうだね」
彼女は窓の外を指差し、まるでピクニックの相談でもするような声色で言った。
「あそこまで自殺道具を運ぶのはかなり大変だし、テントを設営できる平面もなさそうだから、沿線の小藪でやった方が合理的だね」
自分の口から「合理的」という言葉が出た瞬間、妙な寒気が背筋を走る。死ぬ方法を議論しながら、周囲の乗客は旅行の話題で笑い合っている。その落差が現実感を奪っていく。
「確かに。東尋坊での自殺が失敗した時のために場所選んでおきたいね」
彼女は当たり前のように続ける。僕たちの間で交わされるのは、生きるための計画ではなく、死ぬための段取りだった。けれど僕の心のどこかでは、飛び降り以外の手段を避けたいという気持ちが募っていた。確実に、一度で終わらせたい。そうでなければ、より深い地獄を味わうだけだ。
岡山に到着した時、すでに十六時を回っていた。駅の外に出ると、夕暮れの光が街を淡く染め、アスファルトに伸びる人々の影を赤く縁取っていた。会社帰りのサラリーマン、部活帰りの学生、買い物袋を提げた主婦……そのすべてが明日の生活を前提にした姿に見え、僕たちだけがその流れから外れている気がした。
コンビニで必要な物を買い込むと、会計は五千円を超えた。レジ袋二つに詰め込まれた商品はずっしりと重く、手に食い込む。今夜だけで食べきれる量ではないとわかっているのに、それでも彼女は笑顔で袋を抱え、「これで安心だね」と言った。その言葉に合わせるように僕も笑ったが、その笑みの奥では、言いようのない重苦しさが静かに沈殿していった。
彼女が言っていた通り、僕たちは同じ部屋だった。だが不思議と抵抗感はなかった。男女が一室に泊まるという事実に本来なら警戒するべきだろうが、僕にはもう先の未来がない。だから余計な気持ちが芽生えることもなく、ただ「信頼」の二文字で片付けてしまえるのだろう。きっと彼女も同じ気持ちで、僕を受け入れたのだと思う。もし同じベッドで眠ると言われたなら、それはさすがに拒否していたが……。
「同じ部屋なんてドキドキしちゃうね。こんな美女と一緒の部屋で一夜を越せるなんて、大和君は幸せ者だね。冥土の土産としては最高じゃない?」
部屋に入った途端、彼女は無邪気にベッドへとダイブする。白いシーツが一瞬ふわりと舞い上がり、窓から差すオレンジ色の夕陽を受けてきらめいた。その姿はあまりに呑気で、思わず呆れてしまう。
「確かに君は美しい。だからといってドキドキすることもないし、平常心を保てる自信があるよ」
「ものすごい自信だね。じゃあ一緒のベッドで寝て、大和君を限りなく誘惑しようかな」
「その時はグーで君を殴って、部屋から追い出す」 「えー、ひどい。一緒のベッドで女子と寝るのは全男子へのご褒美だと思ってたのに」
「自分の未来すらどうでもいい僕は、あいにく異性に興味もないからね。君が裸で襲ってきても抵抗できる自信あるよ」
「それは襲ってくれって意味かな、少年」
「断じて違う。ポジティブに他人の意見を解釈する君の姿勢は、見習ってもいいかもしれない」
「あの大和君が褒めるだなんて……なんか照れる」
言葉遊びのようなやり取りが続く。どこか馬鹿げていて、死の影をまとっているとは到底思えない。だがその軽さが逆に胸を締め付ける。今、この時間は確かに楽しいのに、もう二度と永遠には続かないのだ。
チェックインの際にもらい忘れたアメニティと浴衣を取りに、僕は一人でロビーへ向かうことになった。彼女は「その間に汗を流しておく」と言って浴室に入り、冗談めかして「覗くなよ」と言った。もちろん無視してドアを出る。
エレベータの前で待ちながら、心に奇妙な空虚が広がる。
本当に、四十八時間後にはこの世にいないのだろうか……。頭では理解しているのに、どうしても実感が伴わない。
用を済ませて部屋に戻っても、まだ彼女は入浴中だった。浴室のドアの向こうから響くシャワーの音が、ホテルの静けさに反響している。その音は決して僕の性欲を掻き立てることはない。
僕がスマホで明日のルートを確認していると、浴室の扉が音を立てて開いた。
蒸気とともに現れたのは、バスタオル一枚の無防備な彼女だった。水滴が頬を伝い、濡れた髪が首筋に張り付いている。その姿を見ても、僕の胸はざわめかなかった。。
「君……それはあざといを超えて変態だよ」
「違うの。大和君から浴衣受け取らずにお風呂入ったから……仕方なく」
彼女は少し顔を赤らめる。僕は彼女の挙動を観察する。
「流石の私でも着替えを覗かれるのは恥ずい……裸見られるより……」
今までも言動から僕は彼女に対して女子としての恥じらいがないと勝手に解釈していたが、どうやら彼女にも女子としての恥ずかしいという感情があるらしい。
結局僕は入室許可がおりるまで部屋の外で待機させられた。
「で、感想は?」
入室許可が降りて部屋に入ったや否や、感想を求められた。僕はなんのことだかわからない。
「感想って」
「もう言わせないでよ。この私のナイスバデイを見た感想だよ」
「特に何もないよ」
「はああああああ! 乙女の風呂上がりバスタオル姿を見ておきながら感想なしってひどい! スタイルには自信あるのに……」
本気で落ち込んでいるようなので僕はフォローを入れる。
「君が浴衣を持ってこなかったせいで僕は君のバスタオル姿を見ることになってしまったんだよ」というツッコミは入れない。
「僕が異性への興味が全くないからだよ。健全な男子なら君の魅惑にイチコロだと思うよ」
「棒読みで言うから説得力ないな。それにこれでも結構胸大きい方だと思うんだけど」
「残念ながら僕は貧乳派でね」
嘘だ。胸の大きさの好みを考えたことなどない。
「ひどい。傷ついた私を慰めなさい」
数分はぐだぐだと僕の発言にふてくされていたが、適当に慰めてようやく機嫌を戻してくれた。ここ数ヶ月で、彼女の扱い方にもだいぶ慣れてきた。気まぐれで子供っぽい彼女に振り回されるのも、もう日常の一部になっていた。
僕も彼女に続いて風呂に入る。浴室に足を踏み入れると、湯気とともにほのかに甘い香りが鼻をくすぐった。シャンプーや石鹸の匂いというよりも、彼女自身の体温を帯びた気配が空間に残っているようで、妙に生々しい。浴槽に浸かりながらその香りに包まれると、彼女が確かにここに生きて存在しているという事実を否応なく思い知らされる。
けれども次に頭をよぎるのは、明日のことだった。無事に東尋坊まで辿り着けるのか。無事に彼女と飛び降りることができるのか。本当に苦痛なく、この世を去ることができるのか。――考えるたび、胸の奥が強く掻きむしられる。彼女には絶対に悟らせないが、僕はとてつもない不安に苛まれていた。
時折、過去の記憶がフラッシュバックする。飛び降りようとしたのに体が勝手に拒否してしまったあの瞬間……。頭では「死にたい」と叫んでいるのに、足は地面に縫いとめられたように動かなかった。心と体がリンクしない。眼下に広がる地面を想像するだけで、胃がひっくり返りそうになる。
ふと浴室の曇った鏡に視線をやる。そこには、焦燥感を隠しきれない自分の顔が映っていた。唇はかすかに震え、眼差しには影がさしている。――彼女にだけは見せてはいけない。僕が崩れれば、この計画は途端に瓦解する。
僕は「彼女を支えなければならない」という奇妙な義務感に縛られていた。
表情を作り直し、浴室を出る。
彼女はベッドの上に座り、テレビの光に照らされていた。何の気なしに笑うタレントの声が、部屋の静けさをかき消している。
「大和君、ドライヤーするの手伝って」
僕の気も知らないで、彼女は無邪気に要求を突きつけてきた。
「嫌だよ」
「死ぬまでに男の子にドライヤーしてもらうことが夢なの……お願い」
「死ぬまでによっておきたい事リストは、ヒロインが不治の病を患った恋愛小説だけで許されるものであって、自殺志願者の女の子がやるのは違うと思うよ」
彼女はぎこちない笑みを浮かべ、一拍おいた。目元に一瞬、影が差した気がした。
「……それ言われたらなんも言い返せないじゃん。一生に一度のお願い」
一生に一度……。その言葉が、いつになく重く響いた。僕たちに残された時間の短さが、急に現実味を帯びる。拒否しても彼女は折れないだろう。ならば、余計なエネルギーを使わず受け入れた方がいい。
僕は無言で机の上に置かれたドライヤーを手に取り、彼女の背後へ回る。まだコンセントすら刺していないのに、彼女はどこか満足げに肩をすくめた。
「風量弱いね」
「ホテルのドライヤーなんてこんなもんでしょ」
「そうかなー」
僕がドライヤーをしている間、彼女はわざと小さく身体を揺らし、子供のように嬉しさを体現していた。 そんなに髪を他人に乾かしてほしかったのか、と僕は少し呆れる。風量が弱い上に、彼女の髪は腰近くまで伸びている。完全に乾ききるまでには思った以上の時間を要した。
「大和君にもやってあげようか?」
「結構だよ」
時計を見れば、夕食にちょうどいい時間だった。僕達は先ほどコンビニで買い込んだ品を袋ごと持ち出し、廊下の電子レンジで順番に温めた。小さな機械音と漂う匂いが、どこか修学旅行の夜を思い出させる。だが、今夜を含めて食事をできるのはあと二回。――人生の終点が近づいている実感が、ようやく胸に沁みてくる。けれど、自分の選んだ道に後悔はないと繰り返し言い聞かせた。
机の上いっぱいに並んだ弁当やお菓子から好きなものを選び、互いに差し合いながら口に運ぶ。くだらない雑談をしていると、時計の針はいつの間にか進んでいた。結局二人で食べきれたのは半分ほどで、残りのお菓子やパンは明日以降に回すことにした。
ゴミを片付けようとゴミ箱を覗くと、彼女が飲んだと思われる薬の空き袋が目に入った。難しい薬の名前までは分からない。だがきっと、春先らしく花粉症の薬だろう。――そんな日常的な痕跡が、この不自然な旅行の中に不思議な違和感を刻んでいた。
胃袋が悲鳴を上げるまで食べた僕達は、それぞれのベッドに仰向けになった。カーテンの隙間から覗く街灯りが、天井にぼんやりと映っている。早朝からの移動と、食後の血糖値のせいで意識は急速に薄れていく。
「おやすみ」の言葉は、誰の口からも出なかった。ただ二つの呼吸音だけが、同じ部屋の空気を静かに満たしていた。
気がついたら朝を迎えていた。彼女に肩を揺さぶられ、僕は目を覚ます。昨日の疲労もあってかぐっすり眠れ、目覚め自体は悪くない。だが、スマホを手に取った瞬間に胸がざわついた。通知には大量の不在着信。父と母からで、深夜にも執拗にかかってきていたらしい。僕は何も見なかったことにして画面を伏せた。
時刻は六時。観光客には少し早いが、僕らにとっては予定ぎりぎりの時間だ。慌ただしく身支度を整え、フロントに声をかけることなくホテルを出る。
ホテルの自動ドアを抜けた瞬間、視界の端に白い塊が飛び込んできた。岡山県警のパトカーだ。車体はまだ朝露に濡れ、街灯の残光を反射してぎらりと光っている。フロントガラス越しに置かれた赤色灯は消えていたが、いつでも点滅できるという無言の圧力を孕んでいた。
僕の足は一瞬すくみそうになった。血が逆流するような感覚。心臓が胸の奥で不規則に跳ね、呼吸が浅くなる。まるで自分だけが強烈なスポットライトに照らされているかのように、パトカーに存在を見透かされている気がした。
通勤途中らしいサラリーマンが何人か横を通り過ぎていく。彼らにとってはただの停車車両にすぎないのだろう。けれど僕には違った。あの無機質な鉄の塊が、僕と彼女の命の行方を握っているように見えた。もしドアが開いて制服姿の警察官が出てきて、「君たち、ちょっといいかな」と声をかけてきたら……逃げ道などどこにもない。
背中がじっとりと汗で濡れていく。耳鳴りがし、視界の端が霞んだ。とにかく平常心を装わなければと自分に言い聞かせ、僕は彼女に悟られぬよう笑顔を作る努力をした。しかし唇は思うように動かなかった。
「行こっか」と彼女が無邪気に歩き出す。僕は慌てて後を追った。パトカーの前を通り過ぎる一瞬、運転席に人影がないかを確認する勇気すら持てなかった。見てしまえば、現実になってしまうような気がしたからだ。
早足で岡山駅へ向かう道すがら、すれ違うスーツ姿の人間が全員刑事に見えた。ネクタイを締め、ビジネスバッグを提げただけの普通の社会人が、僕を追い詰める包囲網の一部にしか見えなかった。
だが結局、誰一人僕らを呼び止めることはなく、予定していた列車に滑り込むことができた。
四国に渡った僕達は、高松駅近くのうどん屋で朝食をとる。湯気の立つ器を前にすれば、周囲の観光客となんら変わらない。
船で小豆島に上陸すると、島は賑わいに包まれていた。アニメの聖地らしく若い観光客が行き交い、笑い声とカメラのシャッター音が絶えない。僕と彼女もその波にまぎれる。けれど胸の奥では、明るさがすべて異世界の光景のように感じられた。
観光案内所でレンタサイクルの申請をしていると、不意にスマホが震えた。 バイブ音が掌に伝わった瞬間、背筋を冷たいものが這い上がる。画面を覗き込んだ僕は、言いようのない悪寒に突き落とされた。
>携帯料金契約者様から位置情報が特定されます。一分後に自動で位置情報を送信します。位置情報を共有したくない場合は電源を切ってください。
どうやら僕が帰ってこないことに親が痺れを切らし、位置情報の特定を図ったらしい。通知の一覧に浮かんだ見慣れぬ警告文を目にした瞬間、背筋を冷たいものが這い上がった。僕は迷うことなくスマホの電源を切ったが、遅かったかもしれない。たった一分の間に、小豆島にいることがもう親に伝わっている可能性は十分にある。
胸の奥からじわじわと広がっていく恐怖。喉の奥が渇き、吐き気のようなものが込み上げる。……まさか、自殺の願望まで気づかれたのか?今朝、ホテルの前にいたパトカーの姿が脳裏に焼きついて離れない。あれは偶然の巡り合わせだったのか、それとも僕を連れ戻すための包囲網の一部だったのか。考えれば考えるほど答えは出ず、ただ心臓の鼓動だけが耳にうるさく響いた。
「大和君、行こ」
レンタサイクルの鍵を受け取った彼女が無邪気に僕へ声をかける。
「……うん」
なんとか声を絞り出す。僕の動揺に彼女が気づかれれば、余計な不安を彼女に背負わせることになる。もし彼女が躊躇したら、自殺の遂行そのものに影響が出かねない。それだけは避けなければならなかった。だからこの恐怖は、僕一人の内側で抱え込み、墓場まで持っていくと決めた。
その後、自転車で主要な観光地を巡った。だが観光客の笑い声や青い海のきらめきさえも、僕の心を晴らすことはなかった。視界の端に制服姿や警備員を見かけるたび、心臓をわし掴みにされるような錯覚を覚える。足元が揺らぎ、ペダルを漕ぐ脚に力が入らなくなる瞬間すらあった。
夕方、島の乗船場に戻る頃には、笑顔を貼り付けるだけで精一杯だった。僕たちはお土産を買わなかった。帰る家など、もう存在しないのだから。けれど彼女は小さな瓶に入った小豆島オリーブサイダーを買っていた。「寝台列車の中で飲もうよ」と言うその姿が、無邪気で、どこか切なかった。
船で高松へ戻り、買い物を済ませ、僕たちは寝台特急サンライズ瀬戸に乗り込んだ。予約していた二人用個室、サンライズツイン。木目調の壁と暖色のライトが、柔らかな安心感を演出していた。
「お酒って案外美味しいんだね」
もちろん僕達はは二十歳以上ではないのでこれはれっきとした違法行為だ。
「年確されなくて良かったね。もし未成年飲酒がバレたら、警察のお世話になって自殺どころではなかったと思うよ」
「まあ、年確されたら逃げるつもりだったし。死ぬ前に一度お酒を飲んでみたかったんだよね。どうせ普通に生きていても二十歳になる前に私は死ぬんだし」
「僕にそんなチャレンジ精神はないから、未成年飲酒をする君をある意味尊敬するよ。僕は代わりにエナジードリンクで乾杯するよ」
「私は安眠を誘うためにアルコール飲んでるのに、カフェインをたくさん含んでいるものを飲むなんて大和君は何だか変だね」
僕達はお互いの缶を軽く合わせ、明日の成功を願って乾杯した。プシュッと開いた缶の匂いと、安っぽい惣菜の匂いが狭い個室にこもる。お酒を片手におつまみをつまむ翠の姿は、仕事帰りのサラリーマンそのもので、とても明日命を絶つ人間には見えなかった。
――早乙女翠という人間は、本当に不可思議だ。
僕とは性格も生き方も正反対なのに、なぜか同じ終点を選び取っている。その偶然がいまだに理解できず、時折、夢の中の出来事のようにすら思える。
「大和君は今何を思ってる?」
車内の電気を全て落とし、物思いにふけりながら流れゆく窓の外を眺めていると、唐突に彼女が声をかけてきた。缶を置き、静かに僕のベッドに腰掛ける。駅を通過するたびに差し込むホームの灯りが、断続的に彼女の横顔を照らした。
その顔には確かに吹っ切れた強さがあった。けれど同時に、夜の帳に隠しきれない寂しさもにじんでいた。
不覚にも、今まで見た彼女の横顔の中で一番美しいと思ってしまった。
列車は現在、瀬戸大橋を渡り、四国から本州へと夜の海を越えていく。
窓の外、黒々とした海に点々と光る街灯が流れ、僕の心臓はそれに合わせるように静かに鼓動していた。
「明日本当に上手くいくのかという心配と、ようやく現世から去ることができる期待感かな」
本音を吐露する。
「君は?」
「君じゃない」
「え?」
「私たち出会ってかなりの時間経つし、喧嘩して仲直りしてお互いの気持ちもよく知っている。君だなんて他人行儀はやめてほしいな」
「なら翠」
名前を呼び捨てにすると、彼女は一瞬きょとんとしたあと、ふっと微笑んだ。満足そうで、でもどこか照れているようにも見える。胸の奥がじんわりと熱くなった。
「で、翠は今何を思ってる?」
「私は少し怖いかな」
そう言って翠は小さく息を吐き、僕の隣で肩を寄せるように座り直した。窓の外は闇に包まれ、瀬戸大橋の鉄骨が規則正しく流れていく。時折、橋のライトが車内をかすかに照らし、翠の横顔を浮かび上がらせる。その顔は、吹っ切れたようでいて、どこか泣き出しそうな儚さを含んでいた。
「大和君と病院の屋上で出会ったあの日と同じ感情が今芽生えてるの。飛び降りるのを想像しただけで怖い……でも、このまま生き続ける方がもっと怖い。私普段はヘラヘラしてるから意外かもしれないけど、今本当にどうにかなりそうなくらい怖い。恐怖を感じるのは当然だと思うの。本能に逆らって死のうとしてるんだから……でも、自分で決断したことをできずに今後生きていく方がもっと嫌……」
その声は震えていて、けれどどこか無理に強がっているようにも感じた。僕だからこそ分かる気持ち……それは軽い言葉では到底表現できない重さを持っている。
僕だって同じだ。マンションの屋上に立ち、決意したはずなのに足がすくんで飛び降りられなかった。闇に沈む地面を見下ろすだけで心臓が凍りつき、結局一歩も動けなかった。そんな自分の弱さを、何度も呪った。
「だから、あの日大和君と出会えて本当に嬉しかったの……この世に絶望しているのは私だけじゃないって思えたし、気丈に見える大和君さえも多少は死への恐怖があるんだなって」
「翠は僕のことを過大評価しすぎだよ……僕は感情を隠すのが上手いだけで、もしかしたら翠よりも自殺への感情的なハードルは高いかもしれない。明日崖を目の前にするだけでどうにかなりそうな気がするよ」
初めて、死への恐怖を赤裸々に言葉にした。彼女だけには隠したくなかったし、僕の弱さを知って安心してほしかった。
隣に座る翠の手が、ほんの少し僕の指先に触れた。気のせいかもしれない。でもその一瞬だけ、確かに心臓の鼓動が早まった。
「でも、大和君と一緒ならこの恐怖も克服できる気がする……東尋坊で飛び降りるときは手を繋いで自殺しようね」
「それがいいね。翠が言わなかったら、僕の方から言うつもりだった」
「なんかこれ私だけ手を繋ぎたいみたいで恥ずいじゃん」
「先に言った翠の負けだよ」
その瞬間、背中に柔らかいものが触れた。暗闇の中でもはっきりわかる。翠が抱きついてきたのだ。彼女の体温は僕より高く、鼓動が早鐘のように伝わってくる。けれど、僕の胸も同じくらい速く脈打っていた。
「これはハグだよ。今日まで私のわがままに付き合ってくれた、せめてものお礼」
声は軽い調子なのに、その抱きしめ方には小さな震えが混じっていた。きっと恐怖を紛らわせるためなのだろう。僕はそれを分かりながらも、そっと受け止める。
「言っておくけど、僕は翠のハグで興奮しないからね」
わざと冗談めかして言った。
「ならさ……キスしていい?」
不意の言葉に、時間が一瞬止まった。静かな声に、胸がきゅっと縮む。冗談じゃない、真剣な響きだった。考えるより先に「うん」と答えてしまう。
翠がゆっくり顔を近づけてくる。車内灯はすべて落ち、窓から差し込む月明かりだけが彼女の横顔を淡く照らしていた。長いまつ毛の影が頬に落ち、唇がわずかに震えているのが見える。僕の心臓も落ち着かなくて、呼吸すらうまくできない。
やがて、翠の唇が触れた。思っていたより柔らかく、温かい。けれど視線を感じて目を開けると、翠は目を閉じていなかった。
「キスする時は目閉じるんだよ」
照れたように笑いながら、翠が小声で言う。
「そっちだって」
言い返すと、再び唇が重なった。今度は僕も目を閉じた。すると、世界から光も形も消えて、翠の体温と心臓の鼓動だけが鮮明に迫ってくる。唇の感触がすべてで、体の奥がじんわりと熱を帯びていく。耳の奥で自分の鼓動が鳴り響き、彼女の呼吸が混ざり合う。
初めてのキスは、ドラマや漫画で想像していたよりもずっと素朴で、でも信じられないくらい心が落ち着くものだった。緊張と安心感がいっしょになって、胸が不思議と温かくなる。
だけど理解している。翠が僕に抱きつき、キスをしたのは恋愛感情からではなく、不安に押しつぶされそうで誰かに縋りたかったからだということを……。それでも僕は拒まず、ただその全てを受け止めることにした。
「ねえ大和君。この後どうすればいいか知ってる?」
翠が少し困惑した顔で僕に言った。
「この後って?」
真っ暗な室内に、僕と翠は二人きり。
抱きしめ合って、キスまで交わした。そこから先に進むことくらい、恋愛経験の乏しい僕でも想像できてしまう。胸の奥がざわつき、答えを出せないまま沈黙が流れた。
「私……その……服、脱いだ方がいい?」
翠が顔を伏せ、浴衣の帯に手をかける。
あまりに唐突で、僕は思わずその手を掴んで止めた。
「翠! ちょ、ちょっと待って!」
翠は手を止め、少し寂しげな瞳で僕を見つめる。
「大和君は……私と……その……したくないの?」
心臓が跳ねた。冗談なのか、本気なのか。彼女の声は震えていなくて、ただ真剣だった。
「それ、本気で言ってる?」
「……うん。私は本気。大和君になら、私の初めてをあげてもいいって思ったの」
視線を合わせようとしない翠。その横顔には、答えを待つ不安と覚悟が入り混じっているように見えた。
正直に言えば、僕だって翠を拒絶できない。可愛いと思うし、彼女を欲しいと一瞬でも思わなかったとは言えない。
でも……僕たちは恋人じゃない。これはあくまで「自殺の契約」で繋がった関係だ。流されてはいけない。翠は僕に安心感を求めている節もあるのだろう。
「僕は翠のことを大切に思ってる。でもそれは契約者としてであって、恋愛の意味じゃない」
迷いのない声でそう告げると、翠はふっと息を吐いて、優しく微笑んだ。
「知ってたよ。大和君が私に興味ないことも、同志としてしか見てないことも……。だから私は大和君を最期の相手に選んだんだよ」
彼女はほどけかけた帯を結び直し、姿勢を整える。
「もし、僕が翠を好きだって言ったら?」
気づけば、心の奥からそんな言葉が漏れていた。
「……その時は、大和君に別れを告げて、私は一人で死ぬかな」
翠の声は静かで、揺らぎがなかった。
「私は大和君に特別な感情を抱いてる。でもそれはライクやラブよりもずっと大きいけど、恋愛感情ではない」
その言葉に、僕はなぜかほっとした。
恋人にならない――その距離があるから、僕たちは同じ方向を見ていられる。もし恋だとか愛だとかを口にしてしまえば、この不安定な絆はきっと崩れてしまう。
だからこそ、僕と翠は……心の奥の感情を胸の内に閉じ込めたまま、契約者として並んで歩くしかなかった。
そして僕たちはそれぞれのベッドに戻り、並んで天井を見上げた。
「大和君。ついに明日だね」
「いや、もう日付を回ってるから……正式には今日、かな」
「もう、そういう細かいところ、ほんと大和君っぽい」
暗闇で互いの顔は見えなかったけれど、声の響きだけで翠が笑っているのがわかった。
それが不思議と胸を温める。
「大和君。今までありがとう。……私ね、今すごく幸せなんだ」
「幸せなら……死ぬのやめる?」
「やめないよ」
翠の声は揺らがなかった。
「こんなの、かりそめの幸福にすぎないもん。私の人生、ずっと頑張ってきたのに、報われなかった。もう努力だけじゃどうにもならないんだよ……。だから、生きていてもよくなることなんて絶対にない……今ここで死んだ方がいい」
言葉が胸に沈んでいく。僕は目を閉じて、静かに答えた。
「そうだね……。僕も翠と過ごす時間は楽しい。でもその幸せは、すぐに終わって、また苦しい現実に引き戻されるんだ。だから、幸せなまま一緒に死のう。痛みに耐えながら死ぬよりも、少しでも温かい気持ちで死ぬ方がいい。翠となら、一緒に死んでもいいって心から思える」
翠はしばらく黙っていた。
その沈黙が、返事よりも深く心に染みた。
「……おやすみ」
「おやすみ、大和君」
ブラインドを下ろし、それぞれのベッドで夜を越した。
小豆島で買ったオリーブサイダーは結局飲まなかった。
床から響くかすかなジョイント音と、ブラインドの隙間をかすめる車窓の光――そのリズムが、やけに心地よく思えた。
目を覚ますと、車窓の向こうに「横浜」の文字が見えた。終点の東京駅までは、あと二十分ほど。
隣では、翠がまだ子どものように無防備に眠っていた。浴衣は少し着崩れていて、掛け衿の隙間からかすかに下着がのぞく。その無警戒さに、僕は思わずため息をつく。……本当に、危機感がない。
できれば、このまま眠らせてやりたい。でも降車時間は迫っている。僕は仕方なく、翠の肩にそっと手を置いた。
「起きて」
翠はぱちりと目を開け、ぼんやりした顔で僕を見つめた。
「……わあ、乙女の寝起きの顔見たな。最低」
「このまま寝続けて、東京駅で駅員さんに寝顔と下着を見られる方がいい?」
僕がそう囁くと、翠の目が一瞬で覚めた。胸元に視線を落とし、慌てて浴衣を直す。そして今度は、野生動物みたいな鋭い目つきで僕をにらんできた。
「それは……そうだけど! てかもう横浜発車してるじゃん! なんでもっと早く起こしてくれないの!」 「むしろ到着の二十分前に起こした僕を褒めてほしいくらいだよ。駅員に起こされて焦る翠をホームから眺めるのも、それはそれで面白そうだけど」
「もしそんなことしたら、天国でも大和君の背後に取り憑くから」
「上等。その時は今みたいに、からかってあげるよ。やっぱり僕の方が一枚上手みたいだし」
翠はぶつぶつ文句を言いながらも、浴衣を着替え始めた。昨日のホテルではあれほど恥じらっていたのに、ここまで来ると僕に下着姿を見られることも、もう気にならないらしい。
やがて東京駅に着き、ホームに降り立つ。都会独特のざわめきと人の波に包まれながら、僕はひそかに思った。
――もう、こんな社会にしがみつく必要なんてない。
満員列車に押し込まれ、必死に走る人たちを見下ろしながら、心の奥で薄く笑った。
駅構内で朝食を済ませ、少し身体を休めてから北陸新幹線のホームへ向かう。
敦賀行き「はくたか号」。その車体を見上げた瞬間、胸の奥がかすかに震えた。
――これが、僕にとって人生最後の列車になるのか。
いつもと変わらないはずの新幹線が、今日はどこか荘厳に見える。
僕と翠は並んで二人席に腰を下ろした。定刻通りに列車は東京駅を発ち、ビル群があっという間に後方へ流れていく。窓に映るその光景を、僕は目に焼きつけるように眺めた。もう二度と、この景色を振り返ることはないのだ。
胸の鼓動が早まっている。まだ現地に着きさえしていないのに、死を意識するだけで身体は正直に怯えていた。横を見ると、翠もまた唇を固く結び、緊張を隠しきれずにいる。自ら選んだ死であっても、恐怖を消すことはできない。生きようとする本能に逆らっているのだから当然だ。
僕はそっと、翠の手を握った。すると翠は、僕よりも強く握り返してくる。そのぬくもりが頼もしくて、同時に切なかった。言葉は交わさず、ただ手と手を結んだまま、僕たちは芦原温泉駅まで揺られていった。
石川県に入ると小雨が窓を濡らしはじめ、福井県に入った途端、叩きつけるような豪雨に変わった。車窓を流れる水滴が線を引き、まるで時間の残りを削り取っていくように見える。
芦原温泉駅のホームに降り立った瞬間、冷たい風が体温を容赦なく奪った。東京駅の喧騒とは対照的に、改札付近は驚くほど閑散としていて、広すぎる設備が空虚に感じられる。これから温泉を楽しみに訪れる観光客とは対照的に、僕たちはただ、儚さと沈黙を纏っていた。期待よりも、恐怖と不安が胸の大部分を占めている。
接続する東尋坊行きのバスまで時間があったので、僕たちは駅の待合室で雨音を聞きながら過ごした。窓の外では雨脚が弱まるどころか、ますます激しさを増していく。
やがて出発の時刻が迫り、僕たちはコンビニで傘を買い、重たい空の下を歩いてバス乗り場へ向かった。灰色の雨幕をゆっくりと切り裂きながら、バスが滑り込んでくる。その車内からは、観光客や地元の人々が穏やかな表情で降りてきた。その明るさが、いっそう自分たちの影を濃くするように思えた。
「これが最期に乗る乗り物だね大和君。なんだか色々な感情が込み上げてくるな」
「きっと飛び降りた時は今まで見てきた景色が走馬灯のように流れるんだろうね……後悔も喜びも悲しみも全部映像となって……」
一番後ろの席を陣取る。雨と閑散期のせいか、僕と翠以外に乗客はいなかった。車内はエンジン音とワイパーの規則的な軋みだけが響き、やけに現実から切り離されたような空間に思えた。窓には水滴がびっしりと張りつき、指先で拭ってもすぐにまた曇ってしまう。ふと映り込んだ自分の顔は、薄暗いガラスの中でやつれて見えた。
定刻より少し遅れてバスは芦原温泉駅を発車した。舗装の甘い道を進むたびに車体が大きく縦に揺れ、僕たちの身体も不安定に上下する。握り合った手だけが、そんな心許なさから逃れる唯一の支えだった。
「大和君はここまでどうだった?」
「この旅はとても良かったよ」
「違う……」
翠は強く僕の手を握り直す。その体温が指先に食い込む。
「この旅じゃなくて……ここまでの半生……もうすぐ終わろうとしてるんだし人生を振り返ろうよ。慈悲深い最後もありだと思わない」
彼女の声はどこか震えていた。新幹線のときもそうだったが、きっと抑えきれない恐怖と不安を紛らわせるために、こうして言葉を交わそうとしているのだろう。
「僕の人生、楽しいことよりも辛いことの方が多かった。何度も何度も、生まれてこなければ苦痛や不安を味わわずに済んだのにと両親やこの社会を恨んだ……」
翠は僕の言葉を黙って吸収してくれた。否定も肯定もなく、ただ真っ直ぐに受け止めてくれる。その沈黙が、逆にありがたかった。
「ただ……」
そこで言葉に詰まる。
「翠と過ごした二ヶ月間は、人生の中で一番充実していた。口下手だから上手に言えないけれど、翠にはとても感謝してる。翠との自殺契約を結んでいなかったら、僕の人生はもっと暗かったに違いない。薔薇色とまではいかないけれど、無色透明な僕の世界に色を注ぎ込んでくれたのは間違いなく君だ。あと少し……死ぬまでの間、よろしく……」
気がついたら、勝手に言葉が零れ落ちていた。自分が何を言ったのかは、正直よく覚えていない。ただ、あまりに気恥ずかしい感謝だけが、胸に熱を残していた。
「なら次は私の番ね。実はね……一つだけ大和君に隠していたことがあるの」
「飛び降りる直前にそれをいうのはずるいよ……で、何なの?」
「この際だから秘密のまま死にたい。きっと天国で私たちは再会するだろうからその時に伝えるよ」
「天国に行けるだなんてすごい自信だね。死後に遺体処理や葬儀などで多くの人に迷惑かけることになるのだから、地獄に行くと考えるのが普通だと思う。翠の考えには希望的観測が含まれてるね」
「きっと天国に行けるよ。私たち現世でこんなにもがき苦しんだんだから、みんなに平等な神様は私たちに幸せな死後の世界を提供してくれる。それに、たとえ天国だろうが地獄だろうが異世界だろうが、大和君と一緒の場所に行きたいし、行ける気がしてる」
「異世界は嫌だな」
「そう? 異世界ってモンスターを討伐したりするから楽しそう。現代の競争社会に不満がある大和君にはぴったりだと思うな」
「僕は死後は雲になりたいかな。風に任せてのほほんと過ごすのは楽そうだし、物理的に高い位置から人間社会を見下ろすのは楽しそう」
「やっぱり大和君って卑屈だね。それにジェット気流のせいで気持ちよく過ごすのは無理だと思う」
「僕でも思いつかないことを思いつくなんて、翠の方が卑屈だね」
僕の冗談に、翠は笑い返してくれた。だがその笑みは、歯切れの悪い金属音のように不自然で、顔の筋肉に無理やり引っかけた表情にすぎなかった。僕も同じだ。心の底で膨れあがっていく恐怖を、薄い皮膜一枚で必死に押しとどめている。内側で崩れ落ちていく音が、骨の軋むような感覚と共に響いていた。
――そのとき、微かな欲望が胸を刺した。
翠と、もっと話したい。 ただそれだけの単純な願いが、喉を焦がす。もしその気持ちを悟られれば、翠はきっと今日を延期しようとするだろう。どこか雨風を避けられる場所で、少しでも言葉を交わそうと。明日へ、明後日へ、曖昧な猶予に飲み込まれ、決意は溶けていく。だから、この渇きは吐き出してはいけない。
それでも――。
ずっと、この時間が続いてほしい。
ずっと、翠の温い手の感触を離したくない。
ずっと、隣で同じ冷たい風を浴びていたい。
そう叫ぶ声は、胸の奥で血が沸騰するように熱く脈打つ。だが、これは恋情ではない。ただ、生のかけらに縋りつく本能の叫びだった。けれどそれを告げれば、優しい翠は自らの死を捨てて、苦しいこの世で生きていくことを選択するだろう。彼女の意思を踏みにじることも、彼女のいない現実で独り生き残ることも、僕には耐えられなかった。そして、この感情が一時的なもの、死を目の前にしているからこそ沸き起こっていることを僕は理解していた。「生きよう」と決意しても、どうせすぐ「死にたい」が心を支配する。何度もこの感情は繰り返してきた。だから僕はやはり、ここで死を選ぶ。
バスは停留所を過ぎても乗客を拾わず、雨粒が窓を叩く音だけが空間を埋めていた。到着した東尋坊で降り立った瞬間、雨は全身を鞭打つように叩きつけ、傘の骨を震わせ、容赦なく肌へと染み込んでいく。冷たい水は首筋から背中へと流れ、服の下で皮膚を張り付かせ、じわじわと体温を奪っていった。
五年ぶりの東尋坊だった。かつて家族旅行で訪れたときは潮風の匂いすら心地よかったはずなのに、今は海の塩気が喉に焼きつき、鉄の味が舌の奥にまとわりつく。笑い声に満ちていた記憶と、今の重苦しい湿気とが、頭の中でねじれるように交錯する。
バス停から崖まではほんの数分。閉じた露店の軒先では雨水が垂れ、土の匂いに腐りかけの木材の臭気が混じっていた。風が吹くたび、濡れた暖簾がちぎれそうに軋み、まるで「行け」と囁くように僕たちを見送る。
舗装されていない路地を並んで進む。靴底に泥が貼りつき、吸い込まれるように足が重くなる。生温い泥の感触がじわりと靴下に滲み、吐き気に似た不快感が腹を掴む。そのたびに、死への距離がさらに近づいていることを否応なく意識させられる。
途中ですれ違った人々の足音は、乾いた世界のリズムのように軽やかだった。けれど僕と翠の足音は、水に沈む石のように重く、濁った空気に溶けて消えていく。振り返る道は最初からなかった。
帰りのない旅。僕たちは確かに、冷えた指先で片道切符を握りしめているのだ。
「めっちゃ怖かった」「落ちたら確実に死ぬでしょあれ!」――崖を覗き込む無邪気な声が、風に削がれて微かに耳に触れる。あの人たちの口にする恐怖など、きっとこの後僕たちが味わうものとは比べものにならないほど小さい。
雨に打たれ続けた靴はすでにぐっしょりと重く、つま先は石に変わったように感覚を失っている。指先も冷えに蝕まれ、輪郭を忘れかけている。ただ、唯一......彼女と繋いでいる手だけが確かに温もりを帯びていた。皮膚越しに流れ込んでくる熱は、冷え切った血管に逆らって広がり、脳裏に焼き付く。人の体温がこれほど鮮烈に「生」を実感させるものだとは、今まで思いもしなかった。
崖の手前に立つ。潮風が刃のように顔を叩き、呼吸を奪う。風に混じる海の匂いは強烈な塩気に腐臭を帯び、喉奥を刺して吐き気を誘う。目を細める先、水平線が果てなく広がっている。とどまることを知らぬその線は、どれだけ見つめても近づくことはなく、むしろこちらの小ささだけを際立たせる。ふと、どこかのアニメで耳にした「人の目の高さから見える水平線はおよそ四キロメートル」という言葉が蘇る。――四キロの先に広がる世界と、ここに立つ自分。その落差を思い知った瞬間、胸の奥が空洞になる。僕一人が消えたところで、海はただ波を刻み続け、社会は淡々と時を進める。そう悟っただけで、自分の死は急に「当然のこと」のように思えた。
崖下は目算で二十メートル以上。ざわめく波が黒い口のように蠢いている。飛び込んだ瞬間に骨は砕け、臓器は粘土のように潰れるだろう。万が一助かったとしても、五体満足で戻ることはない。生と死の狭間に取り残されるその可能性が、足を竦ませる。崖に近づくたび、重力が増すように身体が引きずられる。
ふと、僕はポケットからスマホを取り出した。一日ぶりに電源を入れると、画面は狂ったように震え、親からの不在着信が何百件も溢れ出す。目に映るその数字の群れは、もはや救いの証ではなく、呪詛のように見えた。LINEはブロックしているから、言葉は一切届いてこない。だが僕は解除し、最後のメッセージだけを送る。文字を打つ指は震え、冷えた指先は自分のものではないようにぎこちなく動いていた。
>さようなら
『ありがとう』は翠に伝えるだけで十分だ。
手を繋いだまま、僕たちは崖のさらに手前へと歩を進める。あと五歩踏み出せば、足元の大地は途切れ、すべてが海へと飲み込まれる。足の裏には泥がこびりつき、じわじわと重力に引きずられるように前へ誘われる。
「翠って僕のこと好きでしょ」
僕は心に浮かんだ文字を、そのまま口にした。
「うん好きだよ……恋愛的な意味でもなく、友達としてでもなく、一人の人間として……」
「その回答は卑怯だよ」
「そういう大和君は私のこと好き?」
「好きだよ……翠と同じ理由で……」
そこから先は言葉が続かなかった。唇は震えているのに、舌が硬直し、声にならない。寒さのせいではない。凍りついているのは、きっと僕の心そのものだ。
僕は気づいていないふりをしているが、翠のことを恋愛的に好きになりかけているのかもしれない。だが「恋人になりたい」とは思わないし、仮に翠から告白されたとしても、僕は首を横に振るだろう。ただ、彼女と時間を共有し、他愛のない言葉を投げ合いたい――それだけだ。だがそれすら、伝えてはならない。優しい翠は、きっと自分の本心を押し殺してでも僕に合わせようとする。その本心が自殺願望をいまだ強く持ち続けていたとしても、生きることを望んでいたとしても、僕の意見によってここまで共に描き、創造してきた最期の形を変えたくなかった。恋人や友達といったありふえた関係ではなく、契約者という形で死にたかった。
何より、もう後戻りはできない。ここまで「確実な死」を前提に過ごしてきた。今さら普通の生活に戻ったとしても、精神はさらに深く蝕まれ、またすぐに死を願うだろう。翠と過ごす時間は、生を決意する特効薬ではない。せいぜい一瞬だけ痛みを和らげる抗生物質のようなものだ。僕はそれを理解していた。他人の温もりに頼らず、自分自身で越えられない限り、この呪縛からは逃れられない。だからこそ、死の恐怖と翠といる楽しさを同時に噛みしめながらも、僕はここで終わるのが最善だと信じていた。きっと翠も……同じだと。
だから僕は、せめて感謝だけを伝えることにした。本当の気持ちを飾って語ろうとも、それは毒になる。真実は天国まで取っておく。そこで翠に平手打ちをもらうのか、嘲笑されるのかはわからない。それでいい。
「もし翠と出会っていなかったら……」
気づけば、口が勝手に動いていた。どれほど言葉を紡いでも、最期を迎える結末は変わらない。けれど感謝を形にすることだけは、翠から学んだ大切な姿勢だったのかもしれない。
「僕は今以上に卑屈な人間で、今以上に塞ぎ込んだ気持ちになっていたに違いない。翠のおかげで自分を変えられたし、少しだけ自分を好きになれた。だから今まで本当にありがとう……翠」
ありがとう――その一語では到底足りない。僕が翠から受け取ったものは、計り知れないほど大きい。それでも、これ以上の言葉を僕は知らない。
「感謝を伝えなければいけないのは私の方だよ。大和君とあの日、病院の屋上で出会ったから……君と過ごした二ヶ月間は、かけがえのない思い出になった。きっとこの思い出は死後の世界にも持っていける。だから――こちらこそありがとう。私の苦しみを忘れさせてくれる存在になってくれて……そして、天国でまた会おう。飲み忘れたオリーブサイダーを飲みながら」
翠は涙を浮かべながら話してくれた。降りしきる雨粒にかき消されることなく、その涙ははっきりと僕の目に映った。雨水とは違い、彼女の頬をゆっくりと伝う透明な線は途切れることなく流れ落ちている。その姿はあまりに純粋で、世界でいちばん美しいものに見えた。
「ねえ、大和君! 私のこと、忘れないでね……」
そう言って翠は、涙を浮かべながらもいたずらっぽく笑ってみせた。笑顔と泣き顔が同時に重なり合うその表情は、僕の胸をひどく締めつける。忘れるはずがない――忘れられるはずがないのに。声に出して言えないまま、喉に熱が込み上げる。
僕たちはゆっくりと歩を進める。足元の岩は雨で濡れて滑りやすく、踏み出すたびに身体がわずかに揺れる。あと二歩。たったそれだけで、世界は終わる。崖の縁に吸い込まれるように、重力の糸が身体を下へ下へと引っ張っている気がした。けれど僕は手を離さなかった。翠の温もりが唯一の錨であり、死へ向かうための支えでもあった。
岩礁に砕ける波の轟音は、次第に耳を麻痺させるほど大きくなっていく。水飛沫が風に煽られ、顔に叩きつけられるたび塩辛さが舌に広がる。僕たちの足元には波が届かない。翠が選んだこの場所は、家族にせめて綺麗な遺体を返すための心遣いからだった。だが、容赦ない暴風雨と鋭い岩場がその願いを裏切るだろう。娘の変わり果てた姿を前に嗚咽するであろう翠の両親の姿を想像すると、胸の奥が切り裂かれるように痛んだ。
「さっき私が言った言葉、覚えてる?」
翠は水平線の彼方を見つめながら、まるでそこに答えがあるかのように静かな声で問う。
「どんな言葉? 今さら『オリーブサイダーを飲もう』って言っても遅いよ」
「違うよ。『私が大和君に一つ秘密を隠してる』って言ったこと」
「確かにそんなこと言ってたね。でも、どうせ教えてくれないんでしょ」
「うん。今言ったら、大和君は驚きのあまり慌てて……一人で落っこちちゃいそうだから」
「流石にそこまでおっちょこちょいじゃないよ。それに、一人で死ぬのは契約違反だし」
僕は努めて軽い調子を装いながら答える。声を出すたび、冷たい風が口内を切り裂くように感じた。それでも、僕の言葉で翠の不安がほんの少しでも和らげばいいと願った。
「約束通り、天国で伝えるよ……」
翠の目はまだ水平線の彼方に向けられたままだった。その視線がどこを見ているのか、僕には分からない。ただ、彼女の言葉を信じるしかなかった。秘密の内容を問い詰めるのは、もはや意味のないことに思えた。
やがて、五分ほどの沈黙が訪れた。雨音と風の唸り、岩礁にぶつかる波の轟音だけが周囲を満たしている。呼吸のたび、肺に冷気が突き刺さり、胸がぎこちなく上下する。翠の手の温もりだけが、現実と僕を繋ぎ止めていた。
あと一歩――。
自死への最後の一歩を、互いに踏み出せずに立ち尽くしていた。
そろそろ死ななければならない……そう頭では理解している。だが、まだ決意しきれていない。
怖い。
次の瞬間、自分の肉体が硬い地面に叩きつけられ、内臓がぐちゃぐちゃに破壊される光景が脳裏に浮かぶ。意識は一瞬で飛ぶだろうから痛みは感じないはずだ。それでも本能は正直だ。一瞬で逝くと分かっていても、自分の意思では堰き止められない恐怖が、波のように胸を打ち付けてくる。
日本海に突き出したこの古の岸壁は、きっと何十年、何百年と、僕のような自殺志願者の葛藤を黙って見守ってきたのだろう。幾人もの死を受け入れ、また幾人もの死を圧倒的な恐怖で思いとどまらせてきた。崖は冷たく濡れた石の塊でしかないはずなのに、まるで意志を持つかのように僕の足を掴み、「本当に越える覚悟があるのか」と問いかけてくる。これは……僕に課された最後の試練だ。この恐怖を乗り越えなければ、天国への片道切符は手に入らない。下手に躊躇って飛び降りれば、最悪「不完全な死」という形で現世への往復切符を押しつけられるだろう。
翠の横顔も硬い。彼女もまた、死の直前になって恐怖に飲み込まれているのがはっきりと分かる。普段の快活な表情は影もなく、唇は固く結ばれ、肩が小刻みに震えている。握り合った手の力は弱々しく、彼女の内側を押し寄せる不安がそのまま伝わってきた。
勇気を振り絞れ……僕……。
「そろそろ逝こう……共に……」
自分の本能に逆らうように、僕は声を絞り出す。不安を悟らせまいと、ぎこちない仮面を顔に貼りつける。心臓は耳元で鳴る太鼓のように早鐘を打ち、喉が乾いて唾も飲み込めない。
僕は彼女の手を強く握り直した。もう一方の手には、それぞれの遺書を封じた封筒を持っている。その重みが、ここから先に戻る道はないと告げている。「もう戻らない決意」が、手を通して非言語的に翠へ伝わることを願った。
僕は待った。ただただ待った。翠が「逝こう」と言葉にするのを……。
僕から急かしてしまうのは違う。死への恐怖を超えるには、彼女自身の意思であと一歩を踏み出すしかない。
翠は下を見つめたまま、目を閉じている。長い睫毛の先に、大粒の水滴が震えていた。それが涙なのか雨なのか、判別できない。いや……きっと涙だ。彼女は今、気持ちの整理をつけながら、これまでの人生を思い返しているのだろう。
三分ほど、時間が止まったように固まっていた。僕の耳には自分の鼓動しか聞こえない。
そして……ついに……。
「大和君……逝こう」
翠は小さな一歩を踏み出した。いや、それは間違いなく大きな一歩だった。生から死へ、永遠に戻れない境界を踏み越える最初の一歩。
僕たちの足元には、もうほとんど大地は残っていない。横にはまだ地面が広がっているのに、僕たちの真正面には「無」が口を開けて待っていた。
「大和君のタイミングで飛び降りよう」
翠は震える声で、それでもはっきりとそう言った。
「わかった。確実に死ねるように……落ちる時は頭から……」
「うん、分かってる。後遺症が残って生きていくなんて絶対に嫌。私は手を繋いだまま、大和君と最期を迎えたい」
彼女は再び強く握り返してくれた。その力は、さっきまでの弱さを振り払うように確かなものだった。
――ようやくだ。
ようやく死ぬことができる……。
そう思った瞬間、胸の奥から小さく震えが広がった。生きたいのか死にたいのか、自分でも分からない感情が入り混じる。
「ねえ……」
翠がぽつりと口を開いた。声は雨にかき消されそうに小さかったが、確かに僕の耳には届いた。
「死んだら、どうなるんだろうね」
僕は一瞬答えに迷う。死を目前にした今だからこそ、何を言っても薄っぺらく感じられる。
「うーん……わからない。でも、きっと苦しくはないと思う。少なくとも生き地獄よりは」
翠はくすっと笑った。雨で濡れた頬を涙が伝う。 「そっか。じゃあ安心だね」
しばらく無言になる。波が岩に叩きつけられる音が、会話の余白を満たした。
「大和君さ……」
翠が続ける。
「死ぬのに、どうしてこんなに心臓ってうるさいんだろう。今、爆発しそうなくらいドキドキしてる」
僕は自分の胸に手を当てた。確かに、心臓は暴れるように脈打っている。雨粒が叩く鼓動と重なって、胸の奥が軋むほどだ。
「きっと体はまだ、生きたいって言ってるんだよ。頭は死にたいって思ってても……」
翠は目を閉じた。まつ毛の先にまた一粒、水滴が光る。
「生きたいか……私、本当はどうなんだろう……」
僕は答えられなかった。答えてはいけない気がした。もし「生きてほしい」と言ってしまったら、この契約が崩れ、僕たちは再び苦痛で溢れた世界で生きなければならない。一時的な感情に流されてはいけない。だから、僕はただ手を強く握ることで返事にした。
翠がふと僕に身を寄せた。冷え切った身体が触れ合って、互いの震えがそのまま伝わる。
「ねぇ大和君……ぎゅってしてもいい?」
「うん」
僕は答えると、そっと腕を回した。雨に濡れた服越しでも、彼女の身体は細く、力を込めれば折れてしまいそうなほどだった。
躊躇いが一瞬あったけれど、次の瞬間には強く抱き寄せていた。まるで、この世から彼女を奪い去ろうとする風や雨から必死に守ろうとするみたいに。
びしょ濡れの髪が僕の頬や首筋に触れ、そこから冷たい水滴が伝い落ちていく。その冷たさとは裏腹に、抱きしめた胸の奥にはかすかな温もりがあった。その温もりが、離してはいけない理由のように思えて、腕にさらに力がこもる。
翠は僕の胸に額を押しつけ、小さく息を吐いた。その吐息が胸の奥にかすかに震えを残す。
「ねえ、大和君」
翠は目を開けて、僕の方を見た。
「最後は笑っててほしい。泣いてたら、私まで不安になるから」
僕は無理やり口角を上げた。きっと歪な笑顔だったと思う。でも翠は「うん」と頷いて、少し安心したような表情を見せた。
風が一層強く吹きつけて、僕たちの身体を押そうとする。まるで崖が「早く飛べ」と急かしているようだった。
「死んだらさ……天国で、また一緒におしゃべりしようね」
「うん。くだらない話ばっかりしよう」
「約束だよ」
翠の声は震えているのに、その瞳だけは真っ直ぐ僕を見ていた。そこに映る自分の姿が、なぜか見知らぬ人間のように感じられた。
僕は息を吸い込んだ。潮の匂いと鉄のような冷たい味が肺いっぱいに広がる。
「翠、怖い?」
「……正直に言うと、すごく怖い」
「僕も」
その一言で、僕たちは小さく笑った。怖いことを認め合っただけなのに、不思議と心が軽くなった。
――あと一歩。
その一歩を踏み出した瞬間、全てが終わる。
でも、その一歩を踏み出すまでの時間は、永遠に続くように思えた。
「大和君……そろそろ、本当に」
翠の声が揺れる。
僕は大きく頷いた。
「じゃあ……一緒に……飛ぼう」
僕がそう言った瞬間だった。
「君たち待ちなさい!」
風に乗って鋭い声が鼓膜を打ち破った。耳に突き刺さる現実の響き。
反射的に僕と翠は振り返った。そこには、黒い雨具に身を包んだ三人の警察官が立っていた。距離は十メートルほど。息を切らし、肩を上下させながら、じりじりとこちらへ歩みを進めてくる。
胸元には「福井県警」の文字。間違いなく、この土地の警官だ。
身体の奥から熱が一気にこみ上げた。崖下に心を向けていた全神経が、現実に引き戻される。翠の手が小さく震える。彼女も混乱を隠せていなかった。
「宇佐美大和君ですね!」
前に出た女性警官が声を張る。
「福井県警三国警察署の者です。親御さんから行方不明届が出ています。だから、保護しに来ました。自殺なんて――バカなことはやめて、こっちへ来なさい!」
『なんて』。
その一言が、僕の胸に引っかかった。まるで軽々しく、僕たちの決意を「取るに足らない気まぐれ」と言い捨てたように聞こえる。
こいつらは何をわかっている。ここに至るまで、翠と僕がどれだけ悩み、考え抜いて来たか。死を選ぶしかないと知りながら、どれほどの恐怖と戦ってきたか。
僕は声を荒げた。
「幸せなあなたたちに僕たちの気持ちはわからない!」
女性警官は一歩踏み出し、必死に言葉を投げかけてくる。 「そんなことない! 私たち三人も、生きていく大変さはよくわかってる。君たちがどんな人生を歩んできたのかは確かに知らない。でも……これだけは言える。君たちが死ねば、必ず誰かが悲しむ!」
どうにも言葉が軽く響いた。何度も耳にしてきた、あの空虚な説得。
死を選ぶ人間にとって、いちばん響かない台詞だ。
「あなたたちは僕たちを引き止めるのが仕事だから言ってるんでしょ!」
声が自然と震えた。怒りとも悔しさともつかぬ感情が胸を焼く。
「この後の生活に何の責任も取ってくれないのに、薄っぺらい言葉ばかり並べないでください! 無責任にも程がある!」
警察官の顔が固まった。反論しようとして、言葉を見つけられない様子だった。唇を動かしては閉じる。その沈黙が、僕の言葉の正しさを証明しているように見えた。
どんな要求だろうと呑むつもりはない。僕と翠の自殺を止める権利は誰にもないと確信していた。現世に引き戻そうとする彼らは、むしろ悪魔にしか見えなかった。
説得が通じないと踏んだのか、警官たちは互いに目配せをして、じりじりと距離を詰め始める。靴が砂利を踏みしめる乾いた音が、心臓の鼓動と重なって不快なリズムを刻む。もう三メートルもない。わずかに手を伸ばせば届く距離。もし一瞬でも隙を見せたら、取り押さえられるだろう。
僕と翠は、ほんの一歩後退すればもう崖の端。落ちる恐怖よりも、取り押さえられ、生かされる恐怖の方が圧倒的に勝っていた。無理やり日常に連れ戻され、また同じ苦しみを繰り返す未来が……何よりも恐ろしい。
本当は、今すぐにでも飛び降りたかった。だが隣の翠は、まだ動揺が収まっていない。肩が細かく震え、目は泳いでいる。無理に飛び込ませれば、頭から落ちる体勢を作れず、後遺症だけを残して生き延びてしまうかもしれない。その想像だけで背筋が凍った。僕は翠の心が固まるまで、時間を稼がなければならなかった。
その時だった……。
突如、轟くような風が吹き荒れた。海からの突風が横殴りに体を打ち、視界が一瞬白く霞む。髪が煽られ、呼吸が乱れ、僕と翠は思わず目を瞑ってしまう。
ほんの一瞬……だが致命的な隙……。
気づいた時には、二人の男の警官が一気に距離を詰め、僕の腕を掴んでいた。鉄のように硬い握力。次の瞬間、強引に横へ引き倒され、地面に背中を叩きつけられる。肺の中の空気が一気に押し出され、呼吸が止まった。
あまりに一瞬の出来事すぎて、何が起こったのか理解が追いつかない。
横を見ると、翠も女性警官に腕を掴まれていた。翠は抵抗せず、ただ力なく引かれて崖から離されていく。雨に濡れた髪が頬に張りつき、その目からは大粒の涙が溢れていた。
「なんで僕を死なせてくれない!」
喉の奥から、獣のような叫びが漏れた。理性など残っていなかった。見苦しさも関係ない。地面に押さえつけられながら、必死に声を張り上げた。
「産まれるかどうかの選択すらできなかったのに、死を選ぶ自由すら奪うのか! 生殺与奪の権を返せ!」
「理由がどうであろうと――私たちは君を死なせない!」
女性警官の声が震える。
「君には、生きる権利がある。そして……生きる義務もある!」
視界の端で、翠がその女性警官に優しく介抱されているのが見えた。涙を流し、ただ静かに頷いている。 その光景が、僕に現実を突きつける。僕たちの自殺は――未遂に終わったのだと。
抵抗も虚しく、僕と翠は警察に保護された。最後の最後で、死にきることはできなかった。
気づけば、さっきまで降りしきっていた雨は止み、空の端から淡い光が差し込んでいた。
待ち合わせの時間まで、まだ一時間ある。僕は布団から起き上がり、手早く部屋の整理を始めた。いわゆる「生前整理」というやつだ。死んだあと、親に余計な手間をかけさせたくない。ためらうことなく、要らないものを次々とゴミ袋へ放り込む。燃えるゴミも燃えないゴミも区別はしない。焼かれて灰になれば、結局は同じものだ。
気づけばゴミ袋が三つ、満杯になった。近所の集積所へ無造作に置く。収集日が二日後なのか、それ以降なのかなんて、もう僕には関係なかった。
部屋に戻り、普段は放り出している布団を丁寧に畳む。机の上も空っぽにした。痕跡をできるだけ残さないように……ただ一つ、「遺書」だけは鞄に忍ばせた。自分の死の意志が家族に知られて、途中で止められるのだけは絶対に避けたい。大ごとになるのは、僕が死んでからでいい。
時計の針は、もう出発時刻を指していた。僕は音を立てないように部屋を出て、スマホのライトで廊下を照らしながら階段を下りる。長年過ごしてきた家なのに、今夜だけは見慣れない風景に感じられる。「これを見るのも最期」だと思うからだろうか……。
もう二度と、この家には戻ってこない。そう決意を噛みしめながら玄関の引き戸を静かに開けると、ひんやりとした夜明け前の空気が全身を包み込んだ。その冷たさが、むしろ心を引き締めてくれる。
ふと、暗闇の中に小さな人影があった。スマホのライトを向けると、そこには彼女が立っていた。光に目を細めながら、手で顔を覆っている。
「……おはよう」
声をかけると、彼女はいつもと変わらない明るさで返す。
「おはよう、大和くん」
最期の旅立ちだというのに、彼女は少しも気負った様子を見せない。その無邪気さが、逆に胸に突き刺さる。
戸締まりを終えて彼女に歩み寄ると、制服ではない服装の彼女がそこにいた。普段は制服姿でしか会わないせいか、どこか新鮮で、大人びて見えた。女子高生というより、むしろ一人の女性……そう錯覚するほどに……。
そして僕は思った。
これから死にに行くはずなのに、彼女が少し綺麗に見えることが、妙に後ろめたかった。
「大和くん、この前書いた遺書……ちゃんと持ってきてる?」
彼女は封筒を掲げてみせた。表には達筆な字で「遺書」と書かれている。
「もちろん」
僕は鞄を軽く叩く。部屋を出る前に何度も確認したから、改めて確かめる必要はない。
「それじゃ、行こっか……最期の旅へ……」
彼女の声は驚くほど平然としていて、まるで遠足にでも行くかのようだった。僕はうなずき、駅へ向かって歩き出す。
駅までは徒歩で一時間。自転車は使わない。片道しか乗らない自転車を置き去りにすれば、ただの不法投棄になってしまうからだ。バスも電車もまだ動いていないこの時間帯、僕らはただ歩くしかなかった。
午前四時を少し過ぎた頃。空はまだ暗く、東の地平線がほんのりと白んでいる。眠り続ける街を、街灯と信号だけが照らしていた。普段は雑然とした交差点も、今は人影ひとつなく、たまに走り抜けるトラックの音だけが不気味に響く。
「ねぇ、大和くん」
彼女が並んで歩きながら、ふと口を開いた。
「なんか、不思議じゃない? これから死ぬのに、全くその実感がない」
「……ああ。むしろ、ちょっと浮いてる感じだよ」
自分でも驚くほど正直に答えてしまう。
胸の奥では、高揚感がふつふつと湧き上がっていた。ようやく人生のゴールテープを切れる……。続くことしか許されない苦痛のレースから、解放される。その思いは、安堵に近かった。きっと彼女も、同じように人間関係や日々のしがらみから逃れたいのだろう。
やがて、一時間ほど歩いた先に、岐阜駅が見えてきた。
シャッターが閉ざされた駅の入口は、どこか異様な空気を纏っている。頭上を轟音を立てて走り抜ける貨物列車の音が、ひどく耳に残った。昼間は人でごった返す改札や券売機の前も、今はまるで世界から切り離されたかのように静まり返っている。
――まるで、僕らだけがこの世界に取り残されたみたいに……。
僕と彼女は並んで券売機に立ち、切符を購入した。 券面には「大垣→高松」と印字されている。けれど、たとえ四国へ向かう切符を握っていても、旅に出るという実感はどこからも湧いてこなかった。
ホームへ向かう階段を上がる。始発の列車はすでに入線していて、あと二分で発車するところだった。ホームに立つ人影は少なく、がらんとした空気の中、僕らは余裕を持ってクロスシートに腰を下ろした。
窓の外に、まだ夜の気配を残す空が広がっている。
「……なんか、ワクワクするね」
隣で彼女が笑う。小さな声なのに、やけに心に響いた。
「否定しない」
僕はそう答えた。
電車に揺られ始めて、ようやく「旅に出る」という実感が胸に灯り始めた。自殺を決意して以来、日常からは幸せも活力も抜け落ちてしまったけれど……それでも「旅は楽しい」と思う気持ちだけは、正直に残っていた。
そしてその隣には、彼女がいる。
それだけで、死に向かう旅がほんの少しだけ特別に感じられた。
「私たちは今日岡山まで向かうんだっけ?」
「そうだよ」
「新幹線じゃなくて在来線で行くなんて新鮮だね」
「僕は新幹線で行きたかったのに君が在来線で行きたいと拗ねるから仕方なく僕が折れた。どうせ死ぬんだからお金は全部使い切ればいいのに……」
「親に葬儀代の負担はあまりかけたくないから、残せるだけのお金はとっておこうと思って……」
「これから自殺スポットに行くまで寄り道する人のセリフとは思えない。僕は死後の金銭問題なんて考えてないから遠慮なくお金は使うつもり。と言ってもたかがしれているけど」
「私は銀行口座から全てのお金おろしてきたよ。余ったお金は封筒に入れて、遺書の近くにおいてから飛び降りるつもり。遺書にも残ったお金は葬儀代に充ててくださいって書いたしね」
「親からすれば娘が残した葬式用の費用で執り行うだなんてさぞ悲しいだろうね」
列車がゆっくりとホームを離れていく。床下から響くポイント通過の音が、妙に遠く聞こえた。窓の外の景色は見慣れたはずの街並みなのに、もう二度と戻れないという思いが、すべてを淡く儚く染め上げていく。
「大和くんは、親に旅行のこと言った?」
コンビニで買ったおにぎりを口に運んでいると、彼女が不意に尋ねてきた。
「いや。浪人生が旅行に行くなんて言ったら、絶対に止められる……だから黙って抜け出してきた」
「私はね、二泊三日で友達と旅行に行くって言ってきたよ」
「……まさかとは思うけど、僕の名前は出してないよな?」
「流石に私もそこまでバカじゃないよ」
「君にはホームセンターでの前科があるから信用できない」
「あの時はふざけ過ぎただけ。そもそも男の子と行くなんて言ったらお父さん激怒するだろうから、通信制高校の女の子と行ってくるってしっかり嘘つきました」
「君に友達がいるなんて意外だよ」
「失礼な。こう見えても中学の友達は多い方だよ。まあ、実際には通信の高校に友達いないんだけど、親には友達いるふりしてる。心配かけたくないからね……」
彼女は笑いながら言ったが、その笑みはどこか心許なかった。
「心配かけたくないから」……その一言がやけに重く響く。僕らは死ぬために旅をしているのに、彼女は親への気遣いだけは捨てきれない。
他愛のない会話を交わしながら列車に揺られ、西を目指す。米原で新快速列車に乗り継ぎ、気づけば兵庫の姫路駅に着いていた。エスカレーターを右側で上っていく人の列を眺めて、ようやく関西に入ったことを実感する。だがそれ以上の特別な感情は湧かない。
彼女が駅構内のトイレに消え、僕は一人になった。ベンチに腰掛けた瞬間、ポケットの中でスマホが震える。無意識に取り出して、画面をのぞいた瞬間――思わず心臓が跳ねた。
ロック画面に浮かんでいたのは、母からのLINE通知。
ただそれだけのことなのに、背筋が冷たくなる。
>大和。今どこにいるの?
>図書館?
>お昼はいるの?
>何時までに帰ってくるのかしっかり連絡しなさい
まるで死に向かう僕を呼び止める「声」のように見えてしまった。
手のひらがじんわりと汗ばみ、画面を閉じる指先が震える。
――まさか、気づかれた?
理屈ではあり得ないとわかっていても、その疑念が胸にこびりつく。
さっきまでただの旅行気分でいたのに、急に現実が牙をむいた気がした。
既読だけをつけて、僕は返信しなかった。通知が鳴り続ける鬱陶しさに耐えられず、親のLINEをブロックする。画面から親の名前が消えた瞬間、胸の奥に冷たい隙間が広がった。罪悪感は確かに疼いている。けれどそれでも……自殺を遂げるために、余計な障害は取り除いておきたかった。そう自分に言い聞かせるしかなかった。
「大和君。行こっか」 「うん」
彼女の声に空返事をし、スマホをポケットへ押し込む。ポケット越しに熱を帯びた金属の感触が妙に生々しく、胸の奥をざわつかせる。歩き出した足は重いのか軽いのか、自分でもよくわからなかった。
姫路駅から数分、ビルの谷間を抜けると、白亜の城が姿を現した。青空を背にそびえる白壁は確かに美しかった。太陽の光を受け、瓦がかすかにきらめき、まるで絵画のような風景だ。だが僕の胸には何も満たされるものがなく、ただ奇妙な空虚さだけが残った。周りの観光客たちはカメラを構え、声を弾ませ、城を前にして笑顔を交わしている。その輪の中に入れない自分たちの立ち位置を、改めて突きつけられる。
「意外と感動しなんだね」
彼女は城を見上げて、あっけなくそう言った。
「一応世界遺産だから、多少なりはリスペクトした方がいいと思うよ」
「教科書に載ってるくらいだから、実際に見たら感動が押し寄せてくるんだろうって期待してたんだけどな」
「多分君の感性が豊かじゃないから、そんな感想を持つんだよ」
「うわー、ひどい」
軽口を叩き合いながら城下町を歩いた。けれど、心の奥にわずかな違和感が張りついている。観光客に混じって同じ道を歩いている自分たちが、ひどく場違いに思えたのだ。彼らは当たり前のように「明日」を抱えていて、自分たちはそれを手放そうとしている。その境界線が、歩を進めるごとにくっきりと浮かび上がってくる。
やがて岡山へ向かうため駅へ戻ると、電光掲示板には次の列車まで一時間以上あると表示されていた。仕方なく僕たちは駅構内のカフェへ入る。
磨き上げられた床に光が反射し、窓辺のテーブル席には柔らかな昼の光が差し込んでいた。カップに注がれたコーヒーから立ちのぼる香りは心地よく、ガラスの器に盛られたプリンの表面が艶やかに輝いている。だがその落ち着いた空間に身を置いても、心のざわめきは消えなかった。
スマホを取り出す。画面には、母から、父から、そして自宅からの不在着信がずらりと並んでいた。十件、二十件と続く数字が、無言の圧力を放っている。まるで画面の奥から誰かがこちらを覗き込んでいるような、不気味な感覚に襲われた。昼を過ぎても返事がない僕に、とうとう痺れを切らしたのだろう。親の気持ちを思うと胸の奥がずきりと痛む。だが、僕は通知を無視した。
コーヒーの苦味を舌に広げ、プリンの甘さで中和させる。口の中だけは一瞬穏やかになるのに、胸の奥ではざわざわとした不安が着実に膨らんでいく。そのざわめきがどこに辿り着くのか、僕はまだ考えようとしなかった。
「今日の夜ご飯何食べようか?」
「随分と唐突だね」
「せっかく行くのなら地元の名物食べたいじゃない」
「僕達は自殺を遂行するために今回の旅を立案したのに、君は純粋に旅行を楽しんでるみたいだね。僕はなんでもいいから君の好みに合わせるよ」
「ならホテルの部屋でコンビニのご飯を大食いしたい。昨日たまたま見た動画でコンビニのおすすめ商品がたくさん紹介されていたからそれ食べたくなっちゃて」
「岡山に来てまで随分とおかしなことするね。まあ君がそれを所望するならいいけど」
代案などないのだから、僕は彼女の提案をそのまま呑む。きっと彼女とする食事なら、嫌な時間にはならないだろう。そう思い込むようにして、残りのコーヒーを口に流し込んだ。
電車が出発する五分前、僕たちはカフェを出る。階段を上りきると、吹き抜けから差し込む光が傾きはじめており、ホームに並ぶ人々の影を長く伸ばしていた。列車はすでに停まっていて、開いた扉から乗客のざわめきと、空調の乾いた風が漏れ出している。
車内は想像以上に混んでいた。空席はわずかで、僕たちは後方の優先席に並んで腰を下ろす。座席の布地は少し擦り切れていて、そこに体を預けると、不思議と気持ちまで疲弊していく気がした。目的地までは一時間半、この空気に身を浸すことになる。
姫路の都会的な街並みが過ぎ去ると、車窓は一気に山の景色へと変わった。濃い緑の斜面が連なり、鬱蒼とした木々が視界を埋め尽くす。人の気配など微塵もなく、ただ風に揺れる枝葉のざわめきだけが想像できる。
「あの山の中にテントを設営すれば、バレずに練炭自殺できそうだね」
彼女は窓の外を指差し、まるでピクニックの相談でもするような声色で言った。
「あそこまで自殺道具を運ぶのはかなり大変だし、テントを設営できる平面もなさそうだから、沿線の小藪でやった方が合理的だね」
自分の口から「合理的」という言葉が出た瞬間、妙な寒気が背筋を走る。死ぬ方法を議論しながら、周囲の乗客は旅行の話題で笑い合っている。その落差が現実感を奪っていく。
「確かに。東尋坊での自殺が失敗した時のために場所選んでおきたいね」
彼女は当たり前のように続ける。僕たちの間で交わされるのは、生きるための計画ではなく、死ぬための段取りだった。けれど僕の心のどこかでは、飛び降り以外の手段を避けたいという気持ちが募っていた。確実に、一度で終わらせたい。そうでなければ、より深い地獄を味わうだけだ。
岡山に到着した時、すでに十六時を回っていた。駅の外に出ると、夕暮れの光が街を淡く染め、アスファルトに伸びる人々の影を赤く縁取っていた。会社帰りのサラリーマン、部活帰りの学生、買い物袋を提げた主婦……そのすべてが明日の生活を前提にした姿に見え、僕たちだけがその流れから外れている気がした。
コンビニで必要な物を買い込むと、会計は五千円を超えた。レジ袋二つに詰め込まれた商品はずっしりと重く、手に食い込む。今夜だけで食べきれる量ではないとわかっているのに、それでも彼女は笑顔で袋を抱え、「これで安心だね」と言った。その言葉に合わせるように僕も笑ったが、その笑みの奥では、言いようのない重苦しさが静かに沈殿していった。
彼女が言っていた通り、僕たちは同じ部屋だった。だが不思議と抵抗感はなかった。男女が一室に泊まるという事実に本来なら警戒するべきだろうが、僕にはもう先の未来がない。だから余計な気持ちが芽生えることもなく、ただ「信頼」の二文字で片付けてしまえるのだろう。きっと彼女も同じ気持ちで、僕を受け入れたのだと思う。もし同じベッドで眠ると言われたなら、それはさすがに拒否していたが……。
「同じ部屋なんてドキドキしちゃうね。こんな美女と一緒の部屋で一夜を越せるなんて、大和君は幸せ者だね。冥土の土産としては最高じゃない?」
部屋に入った途端、彼女は無邪気にベッドへとダイブする。白いシーツが一瞬ふわりと舞い上がり、窓から差すオレンジ色の夕陽を受けてきらめいた。その姿はあまりに呑気で、思わず呆れてしまう。
「確かに君は美しい。だからといってドキドキすることもないし、平常心を保てる自信があるよ」
「ものすごい自信だね。じゃあ一緒のベッドで寝て、大和君を限りなく誘惑しようかな」
「その時はグーで君を殴って、部屋から追い出す」 「えー、ひどい。一緒のベッドで女子と寝るのは全男子へのご褒美だと思ってたのに」
「自分の未来すらどうでもいい僕は、あいにく異性に興味もないからね。君が裸で襲ってきても抵抗できる自信あるよ」
「それは襲ってくれって意味かな、少年」
「断じて違う。ポジティブに他人の意見を解釈する君の姿勢は、見習ってもいいかもしれない」
「あの大和君が褒めるだなんて……なんか照れる」
言葉遊びのようなやり取りが続く。どこか馬鹿げていて、死の影をまとっているとは到底思えない。だがその軽さが逆に胸を締め付ける。今、この時間は確かに楽しいのに、もう二度と永遠には続かないのだ。
チェックインの際にもらい忘れたアメニティと浴衣を取りに、僕は一人でロビーへ向かうことになった。彼女は「その間に汗を流しておく」と言って浴室に入り、冗談めかして「覗くなよ」と言った。もちろん無視してドアを出る。
エレベータの前で待ちながら、心に奇妙な空虚が広がる。
本当に、四十八時間後にはこの世にいないのだろうか……。頭では理解しているのに、どうしても実感が伴わない。
用を済ませて部屋に戻っても、まだ彼女は入浴中だった。浴室のドアの向こうから響くシャワーの音が、ホテルの静けさに反響している。その音は決して僕の性欲を掻き立てることはない。
僕がスマホで明日のルートを確認していると、浴室の扉が音を立てて開いた。
蒸気とともに現れたのは、バスタオル一枚の無防備な彼女だった。水滴が頬を伝い、濡れた髪が首筋に張り付いている。その姿を見ても、僕の胸はざわめかなかった。。
「君……それはあざといを超えて変態だよ」
「違うの。大和君から浴衣受け取らずにお風呂入ったから……仕方なく」
彼女は少し顔を赤らめる。僕は彼女の挙動を観察する。
「流石の私でも着替えを覗かれるのは恥ずい……裸見られるより……」
今までも言動から僕は彼女に対して女子としての恥じらいがないと勝手に解釈していたが、どうやら彼女にも女子としての恥ずかしいという感情があるらしい。
結局僕は入室許可がおりるまで部屋の外で待機させられた。
「で、感想は?」
入室許可が降りて部屋に入ったや否や、感想を求められた。僕はなんのことだかわからない。
「感想って」
「もう言わせないでよ。この私のナイスバデイを見た感想だよ」
「特に何もないよ」
「はああああああ! 乙女の風呂上がりバスタオル姿を見ておきながら感想なしってひどい! スタイルには自信あるのに……」
本気で落ち込んでいるようなので僕はフォローを入れる。
「君が浴衣を持ってこなかったせいで僕は君のバスタオル姿を見ることになってしまったんだよ」というツッコミは入れない。
「僕が異性への興味が全くないからだよ。健全な男子なら君の魅惑にイチコロだと思うよ」
「棒読みで言うから説得力ないな。それにこれでも結構胸大きい方だと思うんだけど」
「残念ながら僕は貧乳派でね」
嘘だ。胸の大きさの好みを考えたことなどない。
「ひどい。傷ついた私を慰めなさい」
数分はぐだぐだと僕の発言にふてくされていたが、適当に慰めてようやく機嫌を戻してくれた。ここ数ヶ月で、彼女の扱い方にもだいぶ慣れてきた。気まぐれで子供っぽい彼女に振り回されるのも、もう日常の一部になっていた。
僕も彼女に続いて風呂に入る。浴室に足を踏み入れると、湯気とともにほのかに甘い香りが鼻をくすぐった。シャンプーや石鹸の匂いというよりも、彼女自身の体温を帯びた気配が空間に残っているようで、妙に生々しい。浴槽に浸かりながらその香りに包まれると、彼女が確かにここに生きて存在しているという事実を否応なく思い知らされる。
けれども次に頭をよぎるのは、明日のことだった。無事に東尋坊まで辿り着けるのか。無事に彼女と飛び降りることができるのか。本当に苦痛なく、この世を去ることができるのか。――考えるたび、胸の奥が強く掻きむしられる。彼女には絶対に悟らせないが、僕はとてつもない不安に苛まれていた。
時折、過去の記憶がフラッシュバックする。飛び降りようとしたのに体が勝手に拒否してしまったあの瞬間……。頭では「死にたい」と叫んでいるのに、足は地面に縫いとめられたように動かなかった。心と体がリンクしない。眼下に広がる地面を想像するだけで、胃がひっくり返りそうになる。
ふと浴室の曇った鏡に視線をやる。そこには、焦燥感を隠しきれない自分の顔が映っていた。唇はかすかに震え、眼差しには影がさしている。――彼女にだけは見せてはいけない。僕が崩れれば、この計画は途端に瓦解する。
僕は「彼女を支えなければならない」という奇妙な義務感に縛られていた。
表情を作り直し、浴室を出る。
彼女はベッドの上に座り、テレビの光に照らされていた。何の気なしに笑うタレントの声が、部屋の静けさをかき消している。
「大和君、ドライヤーするの手伝って」
僕の気も知らないで、彼女は無邪気に要求を突きつけてきた。
「嫌だよ」
「死ぬまでに男の子にドライヤーしてもらうことが夢なの……お願い」
「死ぬまでによっておきたい事リストは、ヒロインが不治の病を患った恋愛小説だけで許されるものであって、自殺志願者の女の子がやるのは違うと思うよ」
彼女はぎこちない笑みを浮かべ、一拍おいた。目元に一瞬、影が差した気がした。
「……それ言われたらなんも言い返せないじゃん。一生に一度のお願い」
一生に一度……。その言葉が、いつになく重く響いた。僕たちに残された時間の短さが、急に現実味を帯びる。拒否しても彼女は折れないだろう。ならば、余計なエネルギーを使わず受け入れた方がいい。
僕は無言で机の上に置かれたドライヤーを手に取り、彼女の背後へ回る。まだコンセントすら刺していないのに、彼女はどこか満足げに肩をすくめた。
「風量弱いね」
「ホテルのドライヤーなんてこんなもんでしょ」
「そうかなー」
僕がドライヤーをしている間、彼女はわざと小さく身体を揺らし、子供のように嬉しさを体現していた。 そんなに髪を他人に乾かしてほしかったのか、と僕は少し呆れる。風量が弱い上に、彼女の髪は腰近くまで伸びている。完全に乾ききるまでには思った以上の時間を要した。
「大和君にもやってあげようか?」
「結構だよ」
時計を見れば、夕食にちょうどいい時間だった。僕達は先ほどコンビニで買い込んだ品を袋ごと持ち出し、廊下の電子レンジで順番に温めた。小さな機械音と漂う匂いが、どこか修学旅行の夜を思い出させる。だが、今夜を含めて食事をできるのはあと二回。――人生の終点が近づいている実感が、ようやく胸に沁みてくる。けれど、自分の選んだ道に後悔はないと繰り返し言い聞かせた。
机の上いっぱいに並んだ弁当やお菓子から好きなものを選び、互いに差し合いながら口に運ぶ。くだらない雑談をしていると、時計の針はいつの間にか進んでいた。結局二人で食べきれたのは半分ほどで、残りのお菓子やパンは明日以降に回すことにした。
ゴミを片付けようとゴミ箱を覗くと、彼女が飲んだと思われる薬の空き袋が目に入った。難しい薬の名前までは分からない。だがきっと、春先らしく花粉症の薬だろう。――そんな日常的な痕跡が、この不自然な旅行の中に不思議な違和感を刻んでいた。
胃袋が悲鳴を上げるまで食べた僕達は、それぞれのベッドに仰向けになった。カーテンの隙間から覗く街灯りが、天井にぼんやりと映っている。早朝からの移動と、食後の血糖値のせいで意識は急速に薄れていく。
「おやすみ」の言葉は、誰の口からも出なかった。ただ二つの呼吸音だけが、同じ部屋の空気を静かに満たしていた。
気がついたら朝を迎えていた。彼女に肩を揺さぶられ、僕は目を覚ます。昨日の疲労もあってかぐっすり眠れ、目覚め自体は悪くない。だが、スマホを手に取った瞬間に胸がざわついた。通知には大量の不在着信。父と母からで、深夜にも執拗にかかってきていたらしい。僕は何も見なかったことにして画面を伏せた。
時刻は六時。観光客には少し早いが、僕らにとっては予定ぎりぎりの時間だ。慌ただしく身支度を整え、フロントに声をかけることなくホテルを出る。
ホテルの自動ドアを抜けた瞬間、視界の端に白い塊が飛び込んできた。岡山県警のパトカーだ。車体はまだ朝露に濡れ、街灯の残光を反射してぎらりと光っている。フロントガラス越しに置かれた赤色灯は消えていたが、いつでも点滅できるという無言の圧力を孕んでいた。
僕の足は一瞬すくみそうになった。血が逆流するような感覚。心臓が胸の奥で不規則に跳ね、呼吸が浅くなる。まるで自分だけが強烈なスポットライトに照らされているかのように、パトカーに存在を見透かされている気がした。
通勤途中らしいサラリーマンが何人か横を通り過ぎていく。彼らにとってはただの停車車両にすぎないのだろう。けれど僕には違った。あの無機質な鉄の塊が、僕と彼女の命の行方を握っているように見えた。もしドアが開いて制服姿の警察官が出てきて、「君たち、ちょっといいかな」と声をかけてきたら……逃げ道などどこにもない。
背中がじっとりと汗で濡れていく。耳鳴りがし、視界の端が霞んだ。とにかく平常心を装わなければと自分に言い聞かせ、僕は彼女に悟られぬよう笑顔を作る努力をした。しかし唇は思うように動かなかった。
「行こっか」と彼女が無邪気に歩き出す。僕は慌てて後を追った。パトカーの前を通り過ぎる一瞬、運転席に人影がないかを確認する勇気すら持てなかった。見てしまえば、現実になってしまうような気がしたからだ。
早足で岡山駅へ向かう道すがら、すれ違うスーツ姿の人間が全員刑事に見えた。ネクタイを締め、ビジネスバッグを提げただけの普通の社会人が、僕を追い詰める包囲網の一部にしか見えなかった。
だが結局、誰一人僕らを呼び止めることはなく、予定していた列車に滑り込むことができた。
四国に渡った僕達は、高松駅近くのうどん屋で朝食をとる。湯気の立つ器を前にすれば、周囲の観光客となんら変わらない。
船で小豆島に上陸すると、島は賑わいに包まれていた。アニメの聖地らしく若い観光客が行き交い、笑い声とカメラのシャッター音が絶えない。僕と彼女もその波にまぎれる。けれど胸の奥では、明るさがすべて異世界の光景のように感じられた。
観光案内所でレンタサイクルの申請をしていると、不意にスマホが震えた。 バイブ音が掌に伝わった瞬間、背筋を冷たいものが這い上がる。画面を覗き込んだ僕は、言いようのない悪寒に突き落とされた。
>携帯料金契約者様から位置情報が特定されます。一分後に自動で位置情報を送信します。位置情報を共有したくない場合は電源を切ってください。
どうやら僕が帰ってこないことに親が痺れを切らし、位置情報の特定を図ったらしい。通知の一覧に浮かんだ見慣れぬ警告文を目にした瞬間、背筋を冷たいものが這い上がった。僕は迷うことなくスマホの電源を切ったが、遅かったかもしれない。たった一分の間に、小豆島にいることがもう親に伝わっている可能性は十分にある。
胸の奥からじわじわと広がっていく恐怖。喉の奥が渇き、吐き気のようなものが込み上げる。……まさか、自殺の願望まで気づかれたのか?今朝、ホテルの前にいたパトカーの姿が脳裏に焼きついて離れない。あれは偶然の巡り合わせだったのか、それとも僕を連れ戻すための包囲網の一部だったのか。考えれば考えるほど答えは出ず、ただ心臓の鼓動だけが耳にうるさく響いた。
「大和君、行こ」
レンタサイクルの鍵を受け取った彼女が無邪気に僕へ声をかける。
「……うん」
なんとか声を絞り出す。僕の動揺に彼女が気づかれれば、余計な不安を彼女に背負わせることになる。もし彼女が躊躇したら、自殺の遂行そのものに影響が出かねない。それだけは避けなければならなかった。だからこの恐怖は、僕一人の内側で抱え込み、墓場まで持っていくと決めた。
その後、自転車で主要な観光地を巡った。だが観光客の笑い声や青い海のきらめきさえも、僕の心を晴らすことはなかった。視界の端に制服姿や警備員を見かけるたび、心臓をわし掴みにされるような錯覚を覚える。足元が揺らぎ、ペダルを漕ぐ脚に力が入らなくなる瞬間すらあった。
夕方、島の乗船場に戻る頃には、笑顔を貼り付けるだけで精一杯だった。僕たちはお土産を買わなかった。帰る家など、もう存在しないのだから。けれど彼女は小さな瓶に入った小豆島オリーブサイダーを買っていた。「寝台列車の中で飲もうよ」と言うその姿が、無邪気で、どこか切なかった。
船で高松へ戻り、買い物を済ませ、僕たちは寝台特急サンライズ瀬戸に乗り込んだ。予約していた二人用個室、サンライズツイン。木目調の壁と暖色のライトが、柔らかな安心感を演出していた。
「お酒って案外美味しいんだね」
もちろん僕達はは二十歳以上ではないのでこれはれっきとした違法行為だ。
「年確されなくて良かったね。もし未成年飲酒がバレたら、警察のお世話になって自殺どころではなかったと思うよ」
「まあ、年確されたら逃げるつもりだったし。死ぬ前に一度お酒を飲んでみたかったんだよね。どうせ普通に生きていても二十歳になる前に私は死ぬんだし」
「僕にそんなチャレンジ精神はないから、未成年飲酒をする君をある意味尊敬するよ。僕は代わりにエナジードリンクで乾杯するよ」
「私は安眠を誘うためにアルコール飲んでるのに、カフェインをたくさん含んでいるものを飲むなんて大和君は何だか変だね」
僕達はお互いの缶を軽く合わせ、明日の成功を願って乾杯した。プシュッと開いた缶の匂いと、安っぽい惣菜の匂いが狭い個室にこもる。お酒を片手におつまみをつまむ翠の姿は、仕事帰りのサラリーマンそのもので、とても明日命を絶つ人間には見えなかった。
――早乙女翠という人間は、本当に不可思議だ。
僕とは性格も生き方も正反対なのに、なぜか同じ終点を選び取っている。その偶然がいまだに理解できず、時折、夢の中の出来事のようにすら思える。
「大和君は今何を思ってる?」
車内の電気を全て落とし、物思いにふけりながら流れゆく窓の外を眺めていると、唐突に彼女が声をかけてきた。缶を置き、静かに僕のベッドに腰掛ける。駅を通過するたびに差し込むホームの灯りが、断続的に彼女の横顔を照らした。
その顔には確かに吹っ切れた強さがあった。けれど同時に、夜の帳に隠しきれない寂しさもにじんでいた。
不覚にも、今まで見た彼女の横顔の中で一番美しいと思ってしまった。
列車は現在、瀬戸大橋を渡り、四国から本州へと夜の海を越えていく。
窓の外、黒々とした海に点々と光る街灯が流れ、僕の心臓はそれに合わせるように静かに鼓動していた。
「明日本当に上手くいくのかという心配と、ようやく現世から去ることができる期待感かな」
本音を吐露する。
「君は?」
「君じゃない」
「え?」
「私たち出会ってかなりの時間経つし、喧嘩して仲直りしてお互いの気持ちもよく知っている。君だなんて他人行儀はやめてほしいな」
「なら翠」
名前を呼び捨てにすると、彼女は一瞬きょとんとしたあと、ふっと微笑んだ。満足そうで、でもどこか照れているようにも見える。胸の奥がじんわりと熱くなった。
「で、翠は今何を思ってる?」
「私は少し怖いかな」
そう言って翠は小さく息を吐き、僕の隣で肩を寄せるように座り直した。窓の外は闇に包まれ、瀬戸大橋の鉄骨が規則正しく流れていく。時折、橋のライトが車内をかすかに照らし、翠の横顔を浮かび上がらせる。その顔は、吹っ切れたようでいて、どこか泣き出しそうな儚さを含んでいた。
「大和君と病院の屋上で出会ったあの日と同じ感情が今芽生えてるの。飛び降りるのを想像しただけで怖い……でも、このまま生き続ける方がもっと怖い。私普段はヘラヘラしてるから意外かもしれないけど、今本当にどうにかなりそうなくらい怖い。恐怖を感じるのは当然だと思うの。本能に逆らって死のうとしてるんだから……でも、自分で決断したことをできずに今後生きていく方がもっと嫌……」
その声は震えていて、けれどどこか無理に強がっているようにも感じた。僕だからこそ分かる気持ち……それは軽い言葉では到底表現できない重さを持っている。
僕だって同じだ。マンションの屋上に立ち、決意したはずなのに足がすくんで飛び降りられなかった。闇に沈む地面を見下ろすだけで心臓が凍りつき、結局一歩も動けなかった。そんな自分の弱さを、何度も呪った。
「だから、あの日大和君と出会えて本当に嬉しかったの……この世に絶望しているのは私だけじゃないって思えたし、気丈に見える大和君さえも多少は死への恐怖があるんだなって」
「翠は僕のことを過大評価しすぎだよ……僕は感情を隠すのが上手いだけで、もしかしたら翠よりも自殺への感情的なハードルは高いかもしれない。明日崖を目の前にするだけでどうにかなりそうな気がするよ」
初めて、死への恐怖を赤裸々に言葉にした。彼女だけには隠したくなかったし、僕の弱さを知って安心してほしかった。
隣に座る翠の手が、ほんの少し僕の指先に触れた。気のせいかもしれない。でもその一瞬だけ、確かに心臓の鼓動が早まった。
「でも、大和君と一緒ならこの恐怖も克服できる気がする……東尋坊で飛び降りるときは手を繋いで自殺しようね」
「それがいいね。翠が言わなかったら、僕の方から言うつもりだった」
「なんかこれ私だけ手を繋ぎたいみたいで恥ずいじゃん」
「先に言った翠の負けだよ」
その瞬間、背中に柔らかいものが触れた。暗闇の中でもはっきりわかる。翠が抱きついてきたのだ。彼女の体温は僕より高く、鼓動が早鐘のように伝わってくる。けれど、僕の胸も同じくらい速く脈打っていた。
「これはハグだよ。今日まで私のわがままに付き合ってくれた、せめてものお礼」
声は軽い調子なのに、その抱きしめ方には小さな震えが混じっていた。きっと恐怖を紛らわせるためなのだろう。僕はそれを分かりながらも、そっと受け止める。
「言っておくけど、僕は翠のハグで興奮しないからね」
わざと冗談めかして言った。
「ならさ……キスしていい?」
不意の言葉に、時間が一瞬止まった。静かな声に、胸がきゅっと縮む。冗談じゃない、真剣な響きだった。考えるより先に「うん」と答えてしまう。
翠がゆっくり顔を近づけてくる。車内灯はすべて落ち、窓から差し込む月明かりだけが彼女の横顔を淡く照らしていた。長いまつ毛の影が頬に落ち、唇がわずかに震えているのが見える。僕の心臓も落ち着かなくて、呼吸すらうまくできない。
やがて、翠の唇が触れた。思っていたより柔らかく、温かい。けれど視線を感じて目を開けると、翠は目を閉じていなかった。
「キスする時は目閉じるんだよ」
照れたように笑いながら、翠が小声で言う。
「そっちだって」
言い返すと、再び唇が重なった。今度は僕も目を閉じた。すると、世界から光も形も消えて、翠の体温と心臓の鼓動だけが鮮明に迫ってくる。唇の感触がすべてで、体の奥がじんわりと熱を帯びていく。耳の奥で自分の鼓動が鳴り響き、彼女の呼吸が混ざり合う。
初めてのキスは、ドラマや漫画で想像していたよりもずっと素朴で、でも信じられないくらい心が落ち着くものだった。緊張と安心感がいっしょになって、胸が不思議と温かくなる。
だけど理解している。翠が僕に抱きつき、キスをしたのは恋愛感情からではなく、不安に押しつぶされそうで誰かに縋りたかったからだということを……。それでも僕は拒まず、ただその全てを受け止めることにした。
「ねえ大和君。この後どうすればいいか知ってる?」
翠が少し困惑した顔で僕に言った。
「この後って?」
真っ暗な室内に、僕と翠は二人きり。
抱きしめ合って、キスまで交わした。そこから先に進むことくらい、恋愛経験の乏しい僕でも想像できてしまう。胸の奥がざわつき、答えを出せないまま沈黙が流れた。
「私……その……服、脱いだ方がいい?」
翠が顔を伏せ、浴衣の帯に手をかける。
あまりに唐突で、僕は思わずその手を掴んで止めた。
「翠! ちょ、ちょっと待って!」
翠は手を止め、少し寂しげな瞳で僕を見つめる。
「大和君は……私と……その……したくないの?」
心臓が跳ねた。冗談なのか、本気なのか。彼女の声は震えていなくて、ただ真剣だった。
「それ、本気で言ってる?」
「……うん。私は本気。大和君になら、私の初めてをあげてもいいって思ったの」
視線を合わせようとしない翠。その横顔には、答えを待つ不安と覚悟が入り混じっているように見えた。
正直に言えば、僕だって翠を拒絶できない。可愛いと思うし、彼女を欲しいと一瞬でも思わなかったとは言えない。
でも……僕たちは恋人じゃない。これはあくまで「自殺の契約」で繋がった関係だ。流されてはいけない。翠は僕に安心感を求めている節もあるのだろう。
「僕は翠のことを大切に思ってる。でもそれは契約者としてであって、恋愛の意味じゃない」
迷いのない声でそう告げると、翠はふっと息を吐いて、優しく微笑んだ。
「知ってたよ。大和君が私に興味ないことも、同志としてしか見てないことも……。だから私は大和君を最期の相手に選んだんだよ」
彼女はほどけかけた帯を結び直し、姿勢を整える。
「もし、僕が翠を好きだって言ったら?」
気づけば、心の奥からそんな言葉が漏れていた。
「……その時は、大和君に別れを告げて、私は一人で死ぬかな」
翠の声は静かで、揺らぎがなかった。
「私は大和君に特別な感情を抱いてる。でもそれはライクやラブよりもずっと大きいけど、恋愛感情ではない」
その言葉に、僕はなぜかほっとした。
恋人にならない――その距離があるから、僕たちは同じ方向を見ていられる。もし恋だとか愛だとかを口にしてしまえば、この不安定な絆はきっと崩れてしまう。
だからこそ、僕と翠は……心の奥の感情を胸の内に閉じ込めたまま、契約者として並んで歩くしかなかった。
そして僕たちはそれぞれのベッドに戻り、並んで天井を見上げた。
「大和君。ついに明日だね」
「いや、もう日付を回ってるから……正式には今日、かな」
「もう、そういう細かいところ、ほんと大和君っぽい」
暗闇で互いの顔は見えなかったけれど、声の響きだけで翠が笑っているのがわかった。
それが不思議と胸を温める。
「大和君。今までありがとう。……私ね、今すごく幸せなんだ」
「幸せなら……死ぬのやめる?」
「やめないよ」
翠の声は揺らがなかった。
「こんなの、かりそめの幸福にすぎないもん。私の人生、ずっと頑張ってきたのに、報われなかった。もう努力だけじゃどうにもならないんだよ……。だから、生きていてもよくなることなんて絶対にない……今ここで死んだ方がいい」
言葉が胸に沈んでいく。僕は目を閉じて、静かに答えた。
「そうだね……。僕も翠と過ごす時間は楽しい。でもその幸せは、すぐに終わって、また苦しい現実に引き戻されるんだ。だから、幸せなまま一緒に死のう。痛みに耐えながら死ぬよりも、少しでも温かい気持ちで死ぬ方がいい。翠となら、一緒に死んでもいいって心から思える」
翠はしばらく黙っていた。
その沈黙が、返事よりも深く心に染みた。
「……おやすみ」
「おやすみ、大和君」
ブラインドを下ろし、それぞれのベッドで夜を越した。
小豆島で買ったオリーブサイダーは結局飲まなかった。
床から響くかすかなジョイント音と、ブラインドの隙間をかすめる車窓の光――そのリズムが、やけに心地よく思えた。
目を覚ますと、車窓の向こうに「横浜」の文字が見えた。終点の東京駅までは、あと二十分ほど。
隣では、翠がまだ子どものように無防備に眠っていた。浴衣は少し着崩れていて、掛け衿の隙間からかすかに下着がのぞく。その無警戒さに、僕は思わずため息をつく。……本当に、危機感がない。
できれば、このまま眠らせてやりたい。でも降車時間は迫っている。僕は仕方なく、翠の肩にそっと手を置いた。
「起きて」
翠はぱちりと目を開け、ぼんやりした顔で僕を見つめた。
「……わあ、乙女の寝起きの顔見たな。最低」
「このまま寝続けて、東京駅で駅員さんに寝顔と下着を見られる方がいい?」
僕がそう囁くと、翠の目が一瞬で覚めた。胸元に視線を落とし、慌てて浴衣を直す。そして今度は、野生動物みたいな鋭い目つきで僕をにらんできた。
「それは……そうだけど! てかもう横浜発車してるじゃん! なんでもっと早く起こしてくれないの!」 「むしろ到着の二十分前に起こした僕を褒めてほしいくらいだよ。駅員に起こされて焦る翠をホームから眺めるのも、それはそれで面白そうだけど」
「もしそんなことしたら、天国でも大和君の背後に取り憑くから」
「上等。その時は今みたいに、からかってあげるよ。やっぱり僕の方が一枚上手みたいだし」
翠はぶつぶつ文句を言いながらも、浴衣を着替え始めた。昨日のホテルではあれほど恥じらっていたのに、ここまで来ると僕に下着姿を見られることも、もう気にならないらしい。
やがて東京駅に着き、ホームに降り立つ。都会独特のざわめきと人の波に包まれながら、僕はひそかに思った。
――もう、こんな社会にしがみつく必要なんてない。
満員列車に押し込まれ、必死に走る人たちを見下ろしながら、心の奥で薄く笑った。
駅構内で朝食を済ませ、少し身体を休めてから北陸新幹線のホームへ向かう。
敦賀行き「はくたか号」。その車体を見上げた瞬間、胸の奥がかすかに震えた。
――これが、僕にとって人生最後の列車になるのか。
いつもと変わらないはずの新幹線が、今日はどこか荘厳に見える。
僕と翠は並んで二人席に腰を下ろした。定刻通りに列車は東京駅を発ち、ビル群があっという間に後方へ流れていく。窓に映るその光景を、僕は目に焼きつけるように眺めた。もう二度と、この景色を振り返ることはないのだ。
胸の鼓動が早まっている。まだ現地に着きさえしていないのに、死を意識するだけで身体は正直に怯えていた。横を見ると、翠もまた唇を固く結び、緊張を隠しきれずにいる。自ら選んだ死であっても、恐怖を消すことはできない。生きようとする本能に逆らっているのだから当然だ。
僕はそっと、翠の手を握った。すると翠は、僕よりも強く握り返してくる。そのぬくもりが頼もしくて、同時に切なかった。言葉は交わさず、ただ手と手を結んだまま、僕たちは芦原温泉駅まで揺られていった。
石川県に入ると小雨が窓を濡らしはじめ、福井県に入った途端、叩きつけるような豪雨に変わった。車窓を流れる水滴が線を引き、まるで時間の残りを削り取っていくように見える。
芦原温泉駅のホームに降り立った瞬間、冷たい風が体温を容赦なく奪った。東京駅の喧騒とは対照的に、改札付近は驚くほど閑散としていて、広すぎる設備が空虚に感じられる。これから温泉を楽しみに訪れる観光客とは対照的に、僕たちはただ、儚さと沈黙を纏っていた。期待よりも、恐怖と不安が胸の大部分を占めている。
接続する東尋坊行きのバスまで時間があったので、僕たちは駅の待合室で雨音を聞きながら過ごした。窓の外では雨脚が弱まるどころか、ますます激しさを増していく。
やがて出発の時刻が迫り、僕たちはコンビニで傘を買い、重たい空の下を歩いてバス乗り場へ向かった。灰色の雨幕をゆっくりと切り裂きながら、バスが滑り込んでくる。その車内からは、観光客や地元の人々が穏やかな表情で降りてきた。その明るさが、いっそう自分たちの影を濃くするように思えた。
「これが最期に乗る乗り物だね大和君。なんだか色々な感情が込み上げてくるな」
「きっと飛び降りた時は今まで見てきた景色が走馬灯のように流れるんだろうね……後悔も喜びも悲しみも全部映像となって……」
一番後ろの席を陣取る。雨と閑散期のせいか、僕と翠以外に乗客はいなかった。車内はエンジン音とワイパーの規則的な軋みだけが響き、やけに現実から切り離されたような空間に思えた。窓には水滴がびっしりと張りつき、指先で拭ってもすぐにまた曇ってしまう。ふと映り込んだ自分の顔は、薄暗いガラスの中でやつれて見えた。
定刻より少し遅れてバスは芦原温泉駅を発車した。舗装の甘い道を進むたびに車体が大きく縦に揺れ、僕たちの身体も不安定に上下する。握り合った手だけが、そんな心許なさから逃れる唯一の支えだった。
「大和君はここまでどうだった?」
「この旅はとても良かったよ」
「違う……」
翠は強く僕の手を握り直す。その体温が指先に食い込む。
「この旅じゃなくて……ここまでの半生……もうすぐ終わろうとしてるんだし人生を振り返ろうよ。慈悲深い最後もありだと思わない」
彼女の声はどこか震えていた。新幹線のときもそうだったが、きっと抑えきれない恐怖と不安を紛らわせるために、こうして言葉を交わそうとしているのだろう。
「僕の人生、楽しいことよりも辛いことの方が多かった。何度も何度も、生まれてこなければ苦痛や不安を味わわずに済んだのにと両親やこの社会を恨んだ……」
翠は僕の言葉を黙って吸収してくれた。否定も肯定もなく、ただ真っ直ぐに受け止めてくれる。その沈黙が、逆にありがたかった。
「ただ……」
そこで言葉に詰まる。
「翠と過ごした二ヶ月間は、人生の中で一番充実していた。口下手だから上手に言えないけれど、翠にはとても感謝してる。翠との自殺契約を結んでいなかったら、僕の人生はもっと暗かったに違いない。薔薇色とまではいかないけれど、無色透明な僕の世界に色を注ぎ込んでくれたのは間違いなく君だ。あと少し……死ぬまでの間、よろしく……」
気がついたら、勝手に言葉が零れ落ちていた。自分が何を言ったのかは、正直よく覚えていない。ただ、あまりに気恥ずかしい感謝だけが、胸に熱を残していた。
「なら次は私の番ね。実はね……一つだけ大和君に隠していたことがあるの」
「飛び降りる直前にそれをいうのはずるいよ……で、何なの?」
「この際だから秘密のまま死にたい。きっと天国で私たちは再会するだろうからその時に伝えるよ」
「天国に行けるだなんてすごい自信だね。死後に遺体処理や葬儀などで多くの人に迷惑かけることになるのだから、地獄に行くと考えるのが普通だと思う。翠の考えには希望的観測が含まれてるね」
「きっと天国に行けるよ。私たち現世でこんなにもがき苦しんだんだから、みんなに平等な神様は私たちに幸せな死後の世界を提供してくれる。それに、たとえ天国だろうが地獄だろうが異世界だろうが、大和君と一緒の場所に行きたいし、行ける気がしてる」
「異世界は嫌だな」
「そう? 異世界ってモンスターを討伐したりするから楽しそう。現代の競争社会に不満がある大和君にはぴったりだと思うな」
「僕は死後は雲になりたいかな。風に任せてのほほんと過ごすのは楽そうだし、物理的に高い位置から人間社会を見下ろすのは楽しそう」
「やっぱり大和君って卑屈だね。それにジェット気流のせいで気持ちよく過ごすのは無理だと思う」
「僕でも思いつかないことを思いつくなんて、翠の方が卑屈だね」
僕の冗談に、翠は笑い返してくれた。だがその笑みは、歯切れの悪い金属音のように不自然で、顔の筋肉に無理やり引っかけた表情にすぎなかった。僕も同じだ。心の底で膨れあがっていく恐怖を、薄い皮膜一枚で必死に押しとどめている。内側で崩れ落ちていく音が、骨の軋むような感覚と共に響いていた。
――そのとき、微かな欲望が胸を刺した。
翠と、もっと話したい。 ただそれだけの単純な願いが、喉を焦がす。もしその気持ちを悟られれば、翠はきっと今日を延期しようとするだろう。どこか雨風を避けられる場所で、少しでも言葉を交わそうと。明日へ、明後日へ、曖昧な猶予に飲み込まれ、決意は溶けていく。だから、この渇きは吐き出してはいけない。
それでも――。
ずっと、この時間が続いてほしい。
ずっと、翠の温い手の感触を離したくない。
ずっと、隣で同じ冷たい風を浴びていたい。
そう叫ぶ声は、胸の奥で血が沸騰するように熱く脈打つ。だが、これは恋情ではない。ただ、生のかけらに縋りつく本能の叫びだった。けれどそれを告げれば、優しい翠は自らの死を捨てて、苦しいこの世で生きていくことを選択するだろう。彼女の意思を踏みにじることも、彼女のいない現実で独り生き残ることも、僕には耐えられなかった。そして、この感情が一時的なもの、死を目の前にしているからこそ沸き起こっていることを僕は理解していた。「生きよう」と決意しても、どうせすぐ「死にたい」が心を支配する。何度もこの感情は繰り返してきた。だから僕はやはり、ここで死を選ぶ。
バスは停留所を過ぎても乗客を拾わず、雨粒が窓を叩く音だけが空間を埋めていた。到着した東尋坊で降り立った瞬間、雨は全身を鞭打つように叩きつけ、傘の骨を震わせ、容赦なく肌へと染み込んでいく。冷たい水は首筋から背中へと流れ、服の下で皮膚を張り付かせ、じわじわと体温を奪っていった。
五年ぶりの東尋坊だった。かつて家族旅行で訪れたときは潮風の匂いすら心地よかったはずなのに、今は海の塩気が喉に焼きつき、鉄の味が舌の奥にまとわりつく。笑い声に満ちていた記憶と、今の重苦しい湿気とが、頭の中でねじれるように交錯する。
バス停から崖まではほんの数分。閉じた露店の軒先では雨水が垂れ、土の匂いに腐りかけの木材の臭気が混じっていた。風が吹くたび、濡れた暖簾がちぎれそうに軋み、まるで「行け」と囁くように僕たちを見送る。
舗装されていない路地を並んで進む。靴底に泥が貼りつき、吸い込まれるように足が重くなる。生温い泥の感触がじわりと靴下に滲み、吐き気に似た不快感が腹を掴む。そのたびに、死への距離がさらに近づいていることを否応なく意識させられる。
途中ですれ違った人々の足音は、乾いた世界のリズムのように軽やかだった。けれど僕と翠の足音は、水に沈む石のように重く、濁った空気に溶けて消えていく。振り返る道は最初からなかった。
帰りのない旅。僕たちは確かに、冷えた指先で片道切符を握りしめているのだ。
「めっちゃ怖かった」「落ちたら確実に死ぬでしょあれ!」――崖を覗き込む無邪気な声が、風に削がれて微かに耳に触れる。あの人たちの口にする恐怖など、きっとこの後僕たちが味わうものとは比べものにならないほど小さい。
雨に打たれ続けた靴はすでにぐっしょりと重く、つま先は石に変わったように感覚を失っている。指先も冷えに蝕まれ、輪郭を忘れかけている。ただ、唯一......彼女と繋いでいる手だけが確かに温もりを帯びていた。皮膚越しに流れ込んでくる熱は、冷え切った血管に逆らって広がり、脳裏に焼き付く。人の体温がこれほど鮮烈に「生」を実感させるものだとは、今まで思いもしなかった。
崖の手前に立つ。潮風が刃のように顔を叩き、呼吸を奪う。風に混じる海の匂いは強烈な塩気に腐臭を帯び、喉奥を刺して吐き気を誘う。目を細める先、水平線が果てなく広がっている。とどまることを知らぬその線は、どれだけ見つめても近づくことはなく、むしろこちらの小ささだけを際立たせる。ふと、どこかのアニメで耳にした「人の目の高さから見える水平線はおよそ四キロメートル」という言葉が蘇る。――四キロの先に広がる世界と、ここに立つ自分。その落差を思い知った瞬間、胸の奥が空洞になる。僕一人が消えたところで、海はただ波を刻み続け、社会は淡々と時を進める。そう悟っただけで、自分の死は急に「当然のこと」のように思えた。
崖下は目算で二十メートル以上。ざわめく波が黒い口のように蠢いている。飛び込んだ瞬間に骨は砕け、臓器は粘土のように潰れるだろう。万が一助かったとしても、五体満足で戻ることはない。生と死の狭間に取り残されるその可能性が、足を竦ませる。崖に近づくたび、重力が増すように身体が引きずられる。
ふと、僕はポケットからスマホを取り出した。一日ぶりに電源を入れると、画面は狂ったように震え、親からの不在着信が何百件も溢れ出す。目に映るその数字の群れは、もはや救いの証ではなく、呪詛のように見えた。LINEはブロックしているから、言葉は一切届いてこない。だが僕は解除し、最後のメッセージだけを送る。文字を打つ指は震え、冷えた指先は自分のものではないようにぎこちなく動いていた。
>さようなら
『ありがとう』は翠に伝えるだけで十分だ。
手を繋いだまま、僕たちは崖のさらに手前へと歩を進める。あと五歩踏み出せば、足元の大地は途切れ、すべてが海へと飲み込まれる。足の裏には泥がこびりつき、じわじわと重力に引きずられるように前へ誘われる。
「翠って僕のこと好きでしょ」
僕は心に浮かんだ文字を、そのまま口にした。
「うん好きだよ……恋愛的な意味でもなく、友達としてでもなく、一人の人間として……」
「その回答は卑怯だよ」
「そういう大和君は私のこと好き?」
「好きだよ……翠と同じ理由で……」
そこから先は言葉が続かなかった。唇は震えているのに、舌が硬直し、声にならない。寒さのせいではない。凍りついているのは、きっと僕の心そのものだ。
僕は気づいていないふりをしているが、翠のことを恋愛的に好きになりかけているのかもしれない。だが「恋人になりたい」とは思わないし、仮に翠から告白されたとしても、僕は首を横に振るだろう。ただ、彼女と時間を共有し、他愛のない言葉を投げ合いたい――それだけだ。だがそれすら、伝えてはならない。優しい翠は、きっと自分の本心を押し殺してでも僕に合わせようとする。その本心が自殺願望をいまだ強く持ち続けていたとしても、生きることを望んでいたとしても、僕の意見によってここまで共に描き、創造してきた最期の形を変えたくなかった。恋人や友達といったありふえた関係ではなく、契約者という形で死にたかった。
何より、もう後戻りはできない。ここまで「確実な死」を前提に過ごしてきた。今さら普通の生活に戻ったとしても、精神はさらに深く蝕まれ、またすぐに死を願うだろう。翠と過ごす時間は、生を決意する特効薬ではない。せいぜい一瞬だけ痛みを和らげる抗生物質のようなものだ。僕はそれを理解していた。他人の温もりに頼らず、自分自身で越えられない限り、この呪縛からは逃れられない。だからこそ、死の恐怖と翠といる楽しさを同時に噛みしめながらも、僕はここで終わるのが最善だと信じていた。きっと翠も……同じだと。
だから僕は、せめて感謝だけを伝えることにした。本当の気持ちを飾って語ろうとも、それは毒になる。真実は天国まで取っておく。そこで翠に平手打ちをもらうのか、嘲笑されるのかはわからない。それでいい。
「もし翠と出会っていなかったら……」
気づけば、口が勝手に動いていた。どれほど言葉を紡いでも、最期を迎える結末は変わらない。けれど感謝を形にすることだけは、翠から学んだ大切な姿勢だったのかもしれない。
「僕は今以上に卑屈な人間で、今以上に塞ぎ込んだ気持ちになっていたに違いない。翠のおかげで自分を変えられたし、少しだけ自分を好きになれた。だから今まで本当にありがとう……翠」
ありがとう――その一語では到底足りない。僕が翠から受け取ったものは、計り知れないほど大きい。それでも、これ以上の言葉を僕は知らない。
「感謝を伝えなければいけないのは私の方だよ。大和君とあの日、病院の屋上で出会ったから……君と過ごした二ヶ月間は、かけがえのない思い出になった。きっとこの思い出は死後の世界にも持っていける。だから――こちらこそありがとう。私の苦しみを忘れさせてくれる存在になってくれて……そして、天国でまた会おう。飲み忘れたオリーブサイダーを飲みながら」
翠は涙を浮かべながら話してくれた。降りしきる雨粒にかき消されることなく、その涙ははっきりと僕の目に映った。雨水とは違い、彼女の頬をゆっくりと伝う透明な線は途切れることなく流れ落ちている。その姿はあまりに純粋で、世界でいちばん美しいものに見えた。
「ねえ、大和君! 私のこと、忘れないでね……」
そう言って翠は、涙を浮かべながらもいたずらっぽく笑ってみせた。笑顔と泣き顔が同時に重なり合うその表情は、僕の胸をひどく締めつける。忘れるはずがない――忘れられるはずがないのに。声に出して言えないまま、喉に熱が込み上げる。
僕たちはゆっくりと歩を進める。足元の岩は雨で濡れて滑りやすく、踏み出すたびに身体がわずかに揺れる。あと二歩。たったそれだけで、世界は終わる。崖の縁に吸い込まれるように、重力の糸が身体を下へ下へと引っ張っている気がした。けれど僕は手を離さなかった。翠の温もりが唯一の錨であり、死へ向かうための支えでもあった。
岩礁に砕ける波の轟音は、次第に耳を麻痺させるほど大きくなっていく。水飛沫が風に煽られ、顔に叩きつけられるたび塩辛さが舌に広がる。僕たちの足元には波が届かない。翠が選んだこの場所は、家族にせめて綺麗な遺体を返すための心遣いからだった。だが、容赦ない暴風雨と鋭い岩場がその願いを裏切るだろう。娘の変わり果てた姿を前に嗚咽するであろう翠の両親の姿を想像すると、胸の奥が切り裂かれるように痛んだ。
「さっき私が言った言葉、覚えてる?」
翠は水平線の彼方を見つめながら、まるでそこに答えがあるかのように静かな声で問う。
「どんな言葉? 今さら『オリーブサイダーを飲もう』って言っても遅いよ」
「違うよ。『私が大和君に一つ秘密を隠してる』って言ったこと」
「確かにそんなこと言ってたね。でも、どうせ教えてくれないんでしょ」
「うん。今言ったら、大和君は驚きのあまり慌てて……一人で落っこちちゃいそうだから」
「流石にそこまでおっちょこちょいじゃないよ。それに、一人で死ぬのは契約違反だし」
僕は努めて軽い調子を装いながら答える。声を出すたび、冷たい風が口内を切り裂くように感じた。それでも、僕の言葉で翠の不安がほんの少しでも和らげばいいと願った。
「約束通り、天国で伝えるよ……」
翠の目はまだ水平線の彼方に向けられたままだった。その視線がどこを見ているのか、僕には分からない。ただ、彼女の言葉を信じるしかなかった。秘密の内容を問い詰めるのは、もはや意味のないことに思えた。
やがて、五分ほどの沈黙が訪れた。雨音と風の唸り、岩礁にぶつかる波の轟音だけが周囲を満たしている。呼吸のたび、肺に冷気が突き刺さり、胸がぎこちなく上下する。翠の手の温もりだけが、現実と僕を繋ぎ止めていた。
あと一歩――。
自死への最後の一歩を、互いに踏み出せずに立ち尽くしていた。
そろそろ死ななければならない……そう頭では理解している。だが、まだ決意しきれていない。
怖い。
次の瞬間、自分の肉体が硬い地面に叩きつけられ、内臓がぐちゃぐちゃに破壊される光景が脳裏に浮かぶ。意識は一瞬で飛ぶだろうから痛みは感じないはずだ。それでも本能は正直だ。一瞬で逝くと分かっていても、自分の意思では堰き止められない恐怖が、波のように胸を打ち付けてくる。
日本海に突き出したこの古の岸壁は、きっと何十年、何百年と、僕のような自殺志願者の葛藤を黙って見守ってきたのだろう。幾人もの死を受け入れ、また幾人もの死を圧倒的な恐怖で思いとどまらせてきた。崖は冷たく濡れた石の塊でしかないはずなのに、まるで意志を持つかのように僕の足を掴み、「本当に越える覚悟があるのか」と問いかけてくる。これは……僕に課された最後の試練だ。この恐怖を乗り越えなければ、天国への片道切符は手に入らない。下手に躊躇って飛び降りれば、最悪「不完全な死」という形で現世への往復切符を押しつけられるだろう。
翠の横顔も硬い。彼女もまた、死の直前になって恐怖に飲み込まれているのがはっきりと分かる。普段の快活な表情は影もなく、唇は固く結ばれ、肩が小刻みに震えている。握り合った手の力は弱々しく、彼女の内側を押し寄せる不安がそのまま伝わってきた。
勇気を振り絞れ……僕……。
「そろそろ逝こう……共に……」
自分の本能に逆らうように、僕は声を絞り出す。不安を悟らせまいと、ぎこちない仮面を顔に貼りつける。心臓は耳元で鳴る太鼓のように早鐘を打ち、喉が乾いて唾も飲み込めない。
僕は彼女の手を強く握り直した。もう一方の手には、それぞれの遺書を封じた封筒を持っている。その重みが、ここから先に戻る道はないと告げている。「もう戻らない決意」が、手を通して非言語的に翠へ伝わることを願った。
僕は待った。ただただ待った。翠が「逝こう」と言葉にするのを……。
僕から急かしてしまうのは違う。死への恐怖を超えるには、彼女自身の意思であと一歩を踏み出すしかない。
翠は下を見つめたまま、目を閉じている。長い睫毛の先に、大粒の水滴が震えていた。それが涙なのか雨なのか、判別できない。いや……きっと涙だ。彼女は今、気持ちの整理をつけながら、これまでの人生を思い返しているのだろう。
三分ほど、時間が止まったように固まっていた。僕の耳には自分の鼓動しか聞こえない。
そして……ついに……。
「大和君……逝こう」
翠は小さな一歩を踏み出した。いや、それは間違いなく大きな一歩だった。生から死へ、永遠に戻れない境界を踏み越える最初の一歩。
僕たちの足元には、もうほとんど大地は残っていない。横にはまだ地面が広がっているのに、僕たちの真正面には「無」が口を開けて待っていた。
「大和君のタイミングで飛び降りよう」
翠は震える声で、それでもはっきりとそう言った。
「わかった。確実に死ねるように……落ちる時は頭から……」
「うん、分かってる。後遺症が残って生きていくなんて絶対に嫌。私は手を繋いだまま、大和君と最期を迎えたい」
彼女は再び強く握り返してくれた。その力は、さっきまでの弱さを振り払うように確かなものだった。
――ようやくだ。
ようやく死ぬことができる……。
そう思った瞬間、胸の奥から小さく震えが広がった。生きたいのか死にたいのか、自分でも分からない感情が入り混じる。
「ねえ……」
翠がぽつりと口を開いた。声は雨にかき消されそうに小さかったが、確かに僕の耳には届いた。
「死んだら、どうなるんだろうね」
僕は一瞬答えに迷う。死を目前にした今だからこそ、何を言っても薄っぺらく感じられる。
「うーん……わからない。でも、きっと苦しくはないと思う。少なくとも生き地獄よりは」
翠はくすっと笑った。雨で濡れた頬を涙が伝う。 「そっか。じゃあ安心だね」
しばらく無言になる。波が岩に叩きつけられる音が、会話の余白を満たした。
「大和君さ……」
翠が続ける。
「死ぬのに、どうしてこんなに心臓ってうるさいんだろう。今、爆発しそうなくらいドキドキしてる」
僕は自分の胸に手を当てた。確かに、心臓は暴れるように脈打っている。雨粒が叩く鼓動と重なって、胸の奥が軋むほどだ。
「きっと体はまだ、生きたいって言ってるんだよ。頭は死にたいって思ってても……」
翠は目を閉じた。まつ毛の先にまた一粒、水滴が光る。
「生きたいか……私、本当はどうなんだろう……」
僕は答えられなかった。答えてはいけない気がした。もし「生きてほしい」と言ってしまったら、この契約が崩れ、僕たちは再び苦痛で溢れた世界で生きなければならない。一時的な感情に流されてはいけない。だから、僕はただ手を強く握ることで返事にした。
翠がふと僕に身を寄せた。冷え切った身体が触れ合って、互いの震えがそのまま伝わる。
「ねぇ大和君……ぎゅってしてもいい?」
「うん」
僕は答えると、そっと腕を回した。雨に濡れた服越しでも、彼女の身体は細く、力を込めれば折れてしまいそうなほどだった。
躊躇いが一瞬あったけれど、次の瞬間には強く抱き寄せていた。まるで、この世から彼女を奪い去ろうとする風や雨から必死に守ろうとするみたいに。
びしょ濡れの髪が僕の頬や首筋に触れ、そこから冷たい水滴が伝い落ちていく。その冷たさとは裏腹に、抱きしめた胸の奥にはかすかな温もりがあった。その温もりが、離してはいけない理由のように思えて、腕にさらに力がこもる。
翠は僕の胸に額を押しつけ、小さく息を吐いた。その吐息が胸の奥にかすかに震えを残す。
「ねえ、大和君」
翠は目を開けて、僕の方を見た。
「最後は笑っててほしい。泣いてたら、私まで不安になるから」
僕は無理やり口角を上げた。きっと歪な笑顔だったと思う。でも翠は「うん」と頷いて、少し安心したような表情を見せた。
風が一層強く吹きつけて、僕たちの身体を押そうとする。まるで崖が「早く飛べ」と急かしているようだった。
「死んだらさ……天国で、また一緒におしゃべりしようね」
「うん。くだらない話ばっかりしよう」
「約束だよ」
翠の声は震えているのに、その瞳だけは真っ直ぐ僕を見ていた。そこに映る自分の姿が、なぜか見知らぬ人間のように感じられた。
僕は息を吸い込んだ。潮の匂いと鉄のような冷たい味が肺いっぱいに広がる。
「翠、怖い?」
「……正直に言うと、すごく怖い」
「僕も」
その一言で、僕たちは小さく笑った。怖いことを認め合っただけなのに、不思議と心が軽くなった。
――あと一歩。
その一歩を踏み出した瞬間、全てが終わる。
でも、その一歩を踏み出すまでの時間は、永遠に続くように思えた。
「大和君……そろそろ、本当に」
翠の声が揺れる。
僕は大きく頷いた。
「じゃあ……一緒に……飛ぼう」
僕がそう言った瞬間だった。
「君たち待ちなさい!」
風に乗って鋭い声が鼓膜を打ち破った。耳に突き刺さる現実の響き。
反射的に僕と翠は振り返った。そこには、黒い雨具に身を包んだ三人の警察官が立っていた。距離は十メートルほど。息を切らし、肩を上下させながら、じりじりとこちらへ歩みを進めてくる。
胸元には「福井県警」の文字。間違いなく、この土地の警官だ。
身体の奥から熱が一気にこみ上げた。崖下に心を向けていた全神経が、現実に引き戻される。翠の手が小さく震える。彼女も混乱を隠せていなかった。
「宇佐美大和君ですね!」
前に出た女性警官が声を張る。
「福井県警三国警察署の者です。親御さんから行方不明届が出ています。だから、保護しに来ました。自殺なんて――バカなことはやめて、こっちへ来なさい!」
『なんて』。
その一言が、僕の胸に引っかかった。まるで軽々しく、僕たちの決意を「取るに足らない気まぐれ」と言い捨てたように聞こえる。
こいつらは何をわかっている。ここに至るまで、翠と僕がどれだけ悩み、考え抜いて来たか。死を選ぶしかないと知りながら、どれほどの恐怖と戦ってきたか。
僕は声を荒げた。
「幸せなあなたたちに僕たちの気持ちはわからない!」
女性警官は一歩踏み出し、必死に言葉を投げかけてくる。 「そんなことない! 私たち三人も、生きていく大変さはよくわかってる。君たちがどんな人生を歩んできたのかは確かに知らない。でも……これだけは言える。君たちが死ねば、必ず誰かが悲しむ!」
どうにも言葉が軽く響いた。何度も耳にしてきた、あの空虚な説得。
死を選ぶ人間にとって、いちばん響かない台詞だ。
「あなたたちは僕たちを引き止めるのが仕事だから言ってるんでしょ!」
声が自然と震えた。怒りとも悔しさともつかぬ感情が胸を焼く。
「この後の生活に何の責任も取ってくれないのに、薄っぺらい言葉ばかり並べないでください! 無責任にも程がある!」
警察官の顔が固まった。反論しようとして、言葉を見つけられない様子だった。唇を動かしては閉じる。その沈黙が、僕の言葉の正しさを証明しているように見えた。
どんな要求だろうと呑むつもりはない。僕と翠の自殺を止める権利は誰にもないと確信していた。現世に引き戻そうとする彼らは、むしろ悪魔にしか見えなかった。
説得が通じないと踏んだのか、警官たちは互いに目配せをして、じりじりと距離を詰め始める。靴が砂利を踏みしめる乾いた音が、心臓の鼓動と重なって不快なリズムを刻む。もう三メートルもない。わずかに手を伸ばせば届く距離。もし一瞬でも隙を見せたら、取り押さえられるだろう。
僕と翠は、ほんの一歩後退すればもう崖の端。落ちる恐怖よりも、取り押さえられ、生かされる恐怖の方が圧倒的に勝っていた。無理やり日常に連れ戻され、また同じ苦しみを繰り返す未来が……何よりも恐ろしい。
本当は、今すぐにでも飛び降りたかった。だが隣の翠は、まだ動揺が収まっていない。肩が細かく震え、目は泳いでいる。無理に飛び込ませれば、頭から落ちる体勢を作れず、後遺症だけを残して生き延びてしまうかもしれない。その想像だけで背筋が凍った。僕は翠の心が固まるまで、時間を稼がなければならなかった。
その時だった……。
突如、轟くような風が吹き荒れた。海からの突風が横殴りに体を打ち、視界が一瞬白く霞む。髪が煽られ、呼吸が乱れ、僕と翠は思わず目を瞑ってしまう。
ほんの一瞬……だが致命的な隙……。
気づいた時には、二人の男の警官が一気に距離を詰め、僕の腕を掴んでいた。鉄のように硬い握力。次の瞬間、強引に横へ引き倒され、地面に背中を叩きつけられる。肺の中の空気が一気に押し出され、呼吸が止まった。
あまりに一瞬の出来事すぎて、何が起こったのか理解が追いつかない。
横を見ると、翠も女性警官に腕を掴まれていた。翠は抵抗せず、ただ力なく引かれて崖から離されていく。雨に濡れた髪が頬に張りつき、その目からは大粒の涙が溢れていた。
「なんで僕を死なせてくれない!」
喉の奥から、獣のような叫びが漏れた。理性など残っていなかった。見苦しさも関係ない。地面に押さえつけられながら、必死に声を張り上げた。
「産まれるかどうかの選択すらできなかったのに、死を選ぶ自由すら奪うのか! 生殺与奪の権を返せ!」
「理由がどうであろうと――私たちは君を死なせない!」
女性警官の声が震える。
「君には、生きる権利がある。そして……生きる義務もある!」
視界の端で、翠がその女性警官に優しく介抱されているのが見えた。涙を流し、ただ静かに頷いている。 その光景が、僕に現実を突きつける。僕たちの自殺は――未遂に終わったのだと。
抵抗も虚しく、僕と翠は警察に保護された。最後の最後で、死にきることはできなかった。
気づけば、さっきまで降りしきっていた雨は止み、空の端から淡い光が差し込んでいた。

