四月に景色を彩っていた桜は、とうに枝を離れ、地面に降り積もった薄紅の花弁は雨に流され、いまは跡形もない。花を失った並木道は骨のように裸となり、灰色の道路をむき出しにしていた。だが五月に入ると、若葉が枝々から顔をのぞかせ、日に日に緑を濃くしていく。まるで死んだように見えた木々が、静かに呼吸を取り戻していくかのようだった。
その生命力に満ちた緑を目にするたびに、胸の奥にひどい違和感が広がる。世界はこんなにも循環し、確かに生きようとしているのに、僕たちはその流れに逆らって「死」を選ぼうとしている。生命の営みの中で、自分たちだけが取り残されているように思えた。
それでも、僕と彼女は迷わなかった。毎日のように顔を合わせ、幾度も話し合いを重ねた末に、最期の場所を福井県の東尋坊と決めた。海へと切り立つ断崖絶壁は、まるで死を受け入れるために用意された舞台のように思えたからだ。
そして今日。具体的な行程や遺書の作成を相談するために、彼女が僕の部屋へやって来ている。
「意外と綺麗な部屋だね」
開口一番に彼女はそんなことを言った。
部屋はちゃんと片付けてあるつもりだ。だから「意外と」と言われて、ちょっとだけ胸を張る気持ちになる。
今日の彼女も制服姿。普通に可愛い女子高生で、もし母さんと鉢合わせしたら面倒なことになるのは目に見えていた。だからこそ、用事が済んだらすぐに帰ってもらおうと決めていた。
テーブルを挟んで座ると、彼女はノートを開きながら言った。
「じゃあ、まず旅行の日程から決めよっか」
僕はノートパソコンで地図を表示する。彼女はペンを握って、妙に真剣な顔をしている。
「東尋坊までのルートだけど……」
そう言いかけた瞬間、彼女が身を乗り出した。
「待って! その前に行きたいところがあるの。そこに寄ってから、東尋坊に行きたい」
「……僕たち、観光に行くわけじゃないんだよ」 呆れたけれど、強くは言えない。どうせ彼女には敵わない。
「わかったよ」
「やったー! 大和君大好き!」
「……軽々しく異性に大好きなんて言うもんじゃないよ。僕みたいに恋愛に興味のない男じゃなければ、勘違いする」
「勘違いしてくれた方が面白いのに」
茶化すような笑顔に、つい「はいはい」と流してしまう。彼女の冗談には慣れていたし、僕が本気にしないとわかっているからこそ、こんなふうに言えるのだろう。
「で、行きたいところって?」
もしとんでもなく遠く、それこそ南極大陸とか言い出したら、即却下だ。
「小豆島!」
彼女が答えた瞬間、思わず少し驚いた。瀬戸内海に浮かぶ島。オリーブで有名で、実は僕も行ってみたいと思っていた場所だ。
「小豆島……?」
「うん。私の好きなアニメの聖地なの。死ぬ前にどうしても、この目で見ておきたいんだ」
スマホで検索してみると、『からかい上手の高橋さん』というアニメが出てきた。中学生の女の子が主人公の男の子をからかい続けるラブコメディ。島そのものも“聖地巡礼”で盛り上がっているらしい。
「恋愛アニメが好きなんて意外。君ってアニメよりドラマ派に見えるのに」
「むしろドラマは嫌い。三次元の女の子には興味ないんだよ。二次元の女の子の方がずっと可愛いし、裏切らないから」
その言葉に、少しだけ胸がざわついた。彼女の過去を思えば、それは冗談ではなくきっと本音なのだろう。
調べていくうちに、小豆島へは香川県の高松駅近くの港から船が出ていることを知った。さらに検索を進めると、彼女が急に声を弾ませる。
「ねえ、大和君! サンライズ瀬戸って寝台特急があるんだって。これに乗って高松駅まで行こうよ!」
画面に映し出されたのは、木目調の壁にシンプルなベッド、窓の外を流れる夜景。彼女は子どもみたいに瞳を輝かせて、完全に心を奪われている。僕もつい、そこに身を置く自分を想像してしまった。
特に断る理由もなく空席を調べると、僕たちが行く予定の日に、二人用個室の「サンライズツイン」が空いていた。競争率が高いと聞いていたのに、あっさりと取れてしまった。それはまるで、この旅そのものが僕たちを歓迎してくれているように思えた。
そうして話し合いを重ねるうちに、おおよその行程が固まっていった。
始発で大垣駅を出発し、岡山まで向かう。途中、彼女の「姫路城を見たい」という希望に応えて姫路駅で途中下車。岡山で一泊したあと、翌日は瀬戸大橋を渡って香川県の高松へ。そこから船で小豆島へ渡り、夕方には島を離れて再び港へ戻る。その夜は寝台特急サンライズ瀬戸で東京へ。さらに北陸新幹線に乗り換えて芦原温泉駅に行き、そこからバスに揺られて東尋坊へ……。
地図に書き起こすと、まるで冒険小説のルート図のようで、どこかおかしさを覚える。普通の旅行客なら絶対に選ばないような遠回りで片道切符しか許されていない旅。それでも僕たちには、それが「自分たちらしい」と思えた。
行程が決まったところで、次の段階に移る。
遺書の作成だ。
「大和君は誰宛に書くの?」
「僕は特に宛名はないかな。ただ、自分の思いを正直に残すつもり。……君は?」
「私は家族に宛てるよ。感謝と、それから謝罪……」
「感謝はいいけど、謝罪はいらないんじゃない?」
僕がそう言うと、彼女は少しだけ手を止めた。便箋の上に置いたペン先が、かすかに震えている。
「どうして?」
「だって、謝られたほうは余計つらくなると思うからさ」
彼女はすぐには答えなかった。視線を落としたまま、指先でペンをゆっくり回している。 それから、どこか遠くを見るみたいに窓の外へ目を向けた。夜の街灯の光が、彼女の横顔を淡く照らしている。
「……そうかもしれないね」
小さくそう言ってから、少しだけ笑った。
「でもさ、私、いっぱい心配かけちゃったから」
「心配?」
「うん」
翠は曖昧に頷く。 そして、ほんの一瞬だけ言葉を探すように口を開きかけて、結局そのまま閉じた。
「……家に帰るのが遅かったりとか、そういうのじゃなくて」
そう言ってから、少しだけ困ったように笑う。
「もっと……長い間かな」
僕は意味がよくわからず、ただ彼女を見る。
視線を便箋に落としたまま、小さく肩をすくめていた。
「だから最後くらいはね、ちゃんと『ありがとう』と『ごめんね』を書いておきたいんだ。私の場合、両親にいっぱい迷惑かけた自覚があるから流石に言おうと思って」 それぞれ遺書の草稿を書き始めた。変に下書きが見つかって騒ぎになっては困るので、ノートパソコンを使う。文字を打ち込むたびに、旅の明るい計画とは対照的な現実の影が、静かに画面の中に積み重なっていくようだった。
やがて下書きが完成し、僕たちはそれをお互いに見せ合った。
「『この遺書を読んでいるということは僕はこの世からいなくなったんですね』ってありきたりすぎない?」
「僕は文豪じゃないんだからこういうのはありきたりでいいんだよ」
「それに大和君の遺書だいぶ思想強いね」
「まあ、これが僕の十八年の集大成みたいな物だから」
「『僕はお金はあるが希望のない自分の未来を歩みたくありません』って流石に悲観的すぎない?」
「そうかな。むしろ客観的に事実を分析できているから褒めて欲しいくらいだよ。痩せ細っていくこの国で将来を創っていこうとは思えない」
「そういう点なら、私は今ある悩みの種を解決したら生きようと思えるかもしれない。でも、その悩みの種が絶対に解決できないんだけどね」
全くその通りだと思った。
たとえ「自殺する」という選択が同じでも、その理由は人それぞれだ。彼女と僕とではまるで違う。だから相手の理由を否定するのは筋違いだし、ましてや他人に理解されないのも当然のことだと思う。そして、改善の余地がないからこそ、人は「自殺」という最終選択肢に手を伸ばすのだ。
可能であるなら……僕たちは怖いから自殺なんてしたくない。その感情は本能として正しい、と彼女と僕は同意していた。
「大和君は、親を恨んでるの?」
彼女が静かに尋ねる。部屋の中の空気がわずかに重くなった気がした。
「……恨んでいるとも。なんで僕なんかを産んだんだって、本当は両親にぶつけたいくらいだよ。でも、あの責任感の強い両親の悲しむ顔を、生きている間は絶対に見たくない。……だから、遺書も濁そうかと思ったけど、それは自分の意思に反する気がしたんだ」 言葉を吐き出しながら、自分の胸の奥に渦巻いていた澱が、少しずつ形を持っていくのを感じる。
「……そういう君は? 親への恨みもなく、感謝でいっぱいって言うけど……それは本心なの?」
「本心だよ。私の自殺の理由は全部、私にある。……大和君と違って、『生まれてこなければよかった』なんて思ったことは一度もないかな。私は死にたいんじゃなくて、ただこれ以上生きたくない、って感覚に近いんだと思う」
その言葉は、胸に深く沈み込んでいく。彼女の最後の一言には、大きな説得力があった。
一度は僕も行き着いた考えだ。
ただ、生きていることそのものが嫌で……その時間を終わらせるために、自死を選ぶ人もいる。 「死ぬための自殺」じゃなくて、「生きるのを終わらせる自殺」。結果だけを切り取れば同じに見えるけど、その始まりの感情はまるで違う。僕の場合は、現実に絶望して行き場をなくした、典型的な後者だった。
彼女の書いた遺書を覗くと、そこには家族への感謝の言葉が並んでいた。でも、自分がどうして自殺するのか……その理由については一言も触れられていなかった。
不自然に思えて「なんで書かないの?」と尋ねると、彼女は少し間を置いてから、小さな声で答えた。 「……友達とのすれ違いが原因で高校を退学して、家族に迷惑かけて……人間関係に疲れたから、生きるのを諦めた、なんて……そんなこと言えるわけないよ」
そう言って浮かべた笑顔は、まるでガラス細工みたいに脆くて危なっかしかった。口元は笑っているのに、瞳の奥は笑っていなかった。痛みを隠そうとして、逆に隠しきれないものが滲み出てしまっている……そんな笑みだった。
僕は、胸の奥がぎゅっと掴まれるような感覚に襲われながらも、そのぎこちなさをあえて流した。彼女を追い詰めるように問い詰めたら、きっともう二度と僕の前で笑わなくなる気がしたから。
何も言わずに受け流すことが、唯一できる「優しさ」だと思い込むしかなかった。
遺書の見せ合いを終えて、ふと彼女がぽつりと呟いた。
「……もし飛び降りに失敗したら、どうしようか……」
「その時は……練炭で死ぬかな。そうすれば確実でしょ」
あまりにも淡々とした言い方に、僕は返す言葉を失う。彼女が本当に覚悟を固めていることを、突きつけられた気がした。
重苦しい空気を振り払うみたいに、彼女はふいに立ち上がると、そのまま僕のベッドに腰を下ろした。制服のスカートがふわりと揺れ、白いシーツの上に淡い影を落とす。
「ちょ、ちょっと……」
思わず声が上ずる。さっきまで遺書の話をしていた空気が、急に別のものへ変わった気がした。
「……ねえ、大和君」
翠は少しだけ首を傾げて、下から僕を見上げる。長いまつ毛の影が頬に落ち、どこかいたずらっぽい表情をしていた。
「えっちなこと、しなくていいの?」
軽い調子の言葉なのに、心臓がどくんと大きく跳ねる。
距離が近い。 手を伸ばせば触れてしまうくらいに。
「……僕に襲われたいのか? それとも、ただの椅子みたいにベッドを使っただけなのか」
「ふふ、どっちだと思う?」
翠はくすっと笑った。その笑顔は、さっきまで遺書を書いていた同じ人とは思えないくらい柔らかい。
けれどその瞳の奥には、ほんのわずかに揺れるものがあった。
翠はベッドの上で体を少し横にずらし、ぽん、と隣を軽く叩く。
「座りなよ」
僕は戸惑いながらも、ゆっくりとベッドの端に腰を下ろした。 思ったより距離が近い。
肩と肩の間には、ほんの数センチしか隙間がない。
沈黙が落ちる。
翠はふっと息を吐いて、天井を見上げた。
「ねえ」
「なに」
「契約、覚えてる?」
この状況で三つあるうちのどれを指すかなど恋愛経験の乏しい僕でもわかる。
「……お互いを好きにならないこと、だろ」
「そう」
翠は小さく頷く。
それから、ゆっくり僕のほうを向いた。
「もしさ……今ここで、大和君が私に触れたら」
言葉が少しだけ途切れる。
「それって契約違反になるのかな」
僕は答えられない。
翠はそんな僕をじっと見つめている。 その視線は、からかうみたいで、でもどこか真剣で魅惑的だった。
やがて彼女は、小さく笑う。
「実を言うと……怖いんだよね、ちょっと」
「死ぬのが?」
「うん。だから君に近づいて不安を和らげたかった」
翠はベッドのシーツを指先でなぞる。
「本当に最後までできるのかなって、たまに思う」
その声は、今にも消えてしまいそうなくらい弱かった。
けれど次の瞬間、翠は僕の顔を覗き込むように近づいてくる。
吐息が触れそうな距離。
「だからさ」
少しだけ笑う。
「大和君が契約守れるか、試してみたの」
僕の心臓が、嫌になるほど速くなる。
翠の瞳は近くて、静かで、そしてどこか寂しそうだった。
ほんの少し手を伸ばせば、彼女の頬に触れられる。
でも僕は動かなかった。
触れた瞬間、この関係が変わってしまう気がしたからだ。
翠はしばらく僕を見つめてから、ふっと目を細めた。
「……やっぱり大和君は真面目だね」
そう言って、ベッドの上で仰向けになる。制服の髪がシーツの上に広がる。
「ちょっと期待したのに」
からかうように言いながら、天井を見上げて小さく笑った。
僕は隣に座ったまま、何もできない。
ただ、こんなに近くにいるのに―― どうしてか触れてはいけない気がしていた。
ケラケラ笑う彼女の声は、妙に明るい。けれどその明るさが、さっきまでの暗い呟きを覆い隠すためのものだとわかってしまうから、僕は余計にやるせなさを覚える。
彼女は笑いながらベッドに腰掛けたまま、ちらりと僕を見上げる。その瞳の奥に、やっぱりほんの少しの翳りが残っていて――僕は視線を逸らした。
ふと時計を見ると、時刻は夕方の五時を回った頃だった。
遺書を書き終え、彼女が帰宅の準備をしていると、玄関の扉が開く音が聞こえる。
「ただいまー」
一階から母の声。僕は条件反射で「おかえり」と返してしまった。
――やばい。
頭の中で警報が鳴り響く。彼女がまだここにいる。もし恋愛脳の母と鉢合わせでもしたら、面倒なことになるのは目に見えている。必死にどうやってバレずに彼女を家から出すか考えていると、下から微かに母の声がした。
「この女物のローファーって……?」
血の気が引く。
続いて階段を上がってくる足音。ドンドンと響くたび、僕の心臓までが跳ねる。
だというのに、目の前の彼女はどこ吹く風。危機感のかけらもなく、むしろ口元に笑みすら浮かべている。
「ねえ、大和君のお母さん? 会うの楽しみだなー」 おいおい、冗談じゃない。僕は胃のあたりがひっくり返る思いで、机の上の遺書を慌てて隠した。これがバレたら、東尋坊どころかこの場でゲームオーバーだ。幸い、彼女の分はすでに鞄の中にしまわれていたので、僕の分だけ死角に押し込む。
コンコン、と扉をノックする音。 次の瞬間、母が顔を出した。
母はまず、彼女を一目見て、ぽかんと口を開ける。 「まあ……可愛い子! 本物のお人形さんみたいね。大和、この子は誰なの?」
十八年間、息子に女っ気がないことを密かに心配していた母。その目は、明らかに期待で輝いている。恋愛脳がフル回転しているのが、痛いほどわかった。
僕は必死に紹介の言葉を探すが、喉が詰まって出てこない。そんな僕を横目に、彼女が一歩前に出て、ふわりと笑った。
「早乙女翠です。大和君とは図書館でたまたま出会いました。現在十七歳です」
その声は落ち着いていて、どこか柔らかく、まるでこの場面を楽しんでいるようにすら見えた。
「もしかして……大和の彼女とか?」
恋愛脳全開の母は、にやにやと頬を緩ませ、彼女をじっと見つめている。
僕が慌てて否定しようと口を開くより早く、彼女は爆弾を投げ込んだ。
「はい! 私は大和君の恋人です。先日からお付き合いさせていただいております」
……は?
一瞬、耳を疑った。
「ちょっと待ってくれ」と訂正しかけたけれど、母の輝くような笑顔と、彼女の満足げな表情を見た途端、言葉が喉に詰まる。
めんどうだ……訂正するのがあまりにもめんどうくさい……。
それに、どうせ一か月後には僕たちはこの世にいない。なら、このまま嘘の関係を貫き通したところで何の弊害がある? むしろ「恋人がいる」という設定は、現実がそれなりに充実していると思わせ、自殺を疑われるリスクを減らす「隠れ蓑」になる。
そう考えると、彼女の爆弾発言は僕にとっても悪くない。
……ただ、このまま母と彼女を接触させ続けるのは危険だ。母の好奇心と、彼女の無邪気な暴走心が合わされば、何をしでかすかわからない。早めに切り上げるべきだ。
「もしよかったら、一緒に晩ご飯食べていかない?」 お節介な母が、案の定とどめを刺してきた。
……ダメだ。食卓に並んで話していたら、絶対に二つ三つ墓穴を掘る。いや、下手をしたら自殺の計画まで勘づかれるかもしれない。
「翠はこの後、予定があるから。すぐ帰らないといけないんだ」
恋人らしく名前を呼び、彼氏らしく彼女の鞄を持ち上げ、そのまま玄関へと誘導する。ここで終わらせるのが一番だ。
だが彼女は、僕の必死のフォローを堂々と否定した。
「いえ、その予定は後日に延びたので、晩ご飯食べていけます」
……おい。
母は、まるで宝くじに当たったかのように頬をほころばせる。
その光景に、僕は内心で盛大に頭を抱えた。
もう少しお客らしく遠慮してくれれば助かるのに……そう思いながらも、僕の危惧は杞憂に終わった。
食事の間、母と彼女の会話は驚くほど弾み、食卓は終始にこやかな雰囲気に包まれていた。彼女はにこにこと笑い、母の質問にも嫌味なく答え、自然に場を掌握していた。
母は容姿端麗で愛想のいい彼女を、完全に「息子の恋人」として受け入れてしまったようだ。これだけ空気が出来上がってしまえば、もはや「嘘だ」と訂正する余地なんてないし、その必要もない。僕の心に巣食う後ろめたさを見透かすことなく、母はただ安心したように笑っていた。
「翠ちゃんを近くまで送っていきなさい。二人は恋人なんだから」
母の言葉は冗談めいていたけれど、その裏には本気の安心感が混じっていた。
僕は何も言い返せず、ただ「うん」と頷くしかなかった。
彼女の自宅までは距離がある。帰りのことを考えて、僕は自転車を選んだ。けれど、彼女を置いて一人だけ自転車で走るわけにもいかない。結局、自転車を押しながら彼女と並んで歩くことにした。
夕日はすでに沈み、夜の帳が街を覆い始めていた。街灯のオレンジ色の光がアスファルトに滲み、月明かりがその隙間を埋める。夏の夜特有の湿った風が頬を撫で、遠くからは虫の鳴き声が規則正しく響いていた。人通りもまばらで、まるで世界に僕たち二人しかいないような錯覚に陥る。
やっと二人きりになれたので、先ほどの件にメスを入れる。
「なんで君は僕の恋人なんて嘘をついたの?」
彼女は歩きながら、少し肩をすくめる。
「なんとなく面白そうだったから……。私、今まで彼氏いたことないから恋人の存在に憧れていてね」
「意外だね。容姿端麗な君ならいたことありそうだし、その辺の男に交際を申し込めばすぐにオッケーされそうだけど」
「容姿端麗って……大和君は私のこと美人だなと思って見てたんだ」
からかうような声音に、街灯の下で彼女の唇がかすかに笑った。
「僕はあくまで客観的に見た容姿の感想を言ったに過ぎないよ。中身は置いておいて、君は見た目だけで判断したらモテそうだからね」
「うわー、見た目だけかよ。割と中身も自信あるのになー」
彼女は苦笑し、長い髪を耳にかけて流す。その仕草が無意識に絵になって、僕は言葉に詰まった。
「今まで私に言い寄ってくる男子はたくさんいたんだよね。でも、その人たちはあからさまに私の気を引こうとする人ばかりで……」
そう言って、隣を歩いていた彼女はふいに僕を追い越した。月明かりを背にして振り返り、ニヤッとした表情を作る。その視線はあざとさを含んでいるのに、どこか真剣だった。
「だ・か・ら、私は君を最期のお供に選んだの。病院の屋上で出会った時に確信した。君なら私に言い寄ってこないって……。明らかに他の男の子と雰囲気が違って、この人なら私の最後を託しても大丈夫だって」
どうやら僕は彼女から、たいそう信頼されているらしい。胸の奥で何かがわずかに震えた。
「もしも僕が好きで付き合ってほしいって言ったら、君はどうする?」
思わず口をついて出た言葉。意味なんてなかった。ただ、会話の流れに乗せられて、軽い気持ちで放っただけだった。
けれど、その瞬間……彼女は立ち止まった。 夜道にピタリと凛とした姿で立ち尽くす。街灯の光が制服姿の彼女をスポットライトのように照らし出し、その横顔を際立たせる。息を呑むほど美しかった。
僕が軽率に投げた言葉を、彼女は真剣に受け止めている。目の奥で何かを計算し、揺らぎ、選び取ろうとしていた。そこまで深く考えなくていいのに……そう思いながらも、僕にはその思考を止める権利がなかった。
「告白を断り、大和君との契約も解除する」 彼女は力強く宣言した。その声は夜気を切り裂き、瞳の奥には曇りのない決意が宿っていた。
僕はその答えに胸の奥で安堵を覚えた。
――やはりそうだ。僕らは恋愛なんかで繋がってはいけない。自殺という一点で結ばれているからこそ成立している関係だ。ここに「生きたい」「付き合いたい」という気持ちが少しでも紛れ込んだら、全てが崩れてしまう。
神社の鳥居の前で僕が「それじゃ」と言うと、彼女は僕の裾を掴んで強く引っ張った。女子の力なんてたかが知れているので体勢を崩すほどではないが、その意志の固さは十分伝わってくる。 「せっかくだから境内まで行こうよ」 「いやいいよ。僕はこのまま直帰したい」
彼女は頬をふぐのように膨らませ、わざと子供っぽい表情を作る。僕が家の方向に体を傾けても、裾を掴む手はびくともしなかった。
このしつこさに、なぜか「可愛い」と思ってしまった自分に戸惑う。もし僕がごく普通の思春期男子なら、もう恋に落ちていただろう。だが今の僕にそんな資格はない。不毛な思考を振り払い、余計なエネルギーを使いたくない僕は彼女の要求を受け入れる。
僕が「わかったよ」と肯定した瞬間、彼女は子供のように飛び跳ねて喜んだ。無邪気すぎて眩しい。可愛いというより……あざとい、という表現のほうが正しいのかもしれない。もちろん本人にそんな自覚はないようだが……。
境内に続く階段を二人並んで登る。足元は街灯の光も届かず暗い。しかも石段は高さも奥行きも不規則で、油断すれば転げ落ちそうだ。僕は一段ごとに注意を払う。
対照的に彼女は一段飛ばしをしたり、リズムを刻むように軽快に進んでいく。案の定つまずいてよろける場面もあったが、転んでも立ち上がるその姿は妙に楽しげだった。
本殿までたどり着き、僕たちは並んで手を合わせる。夜気がひんやりと肌を撫で、時折強い風が吹き抜けるたび、彼女の長い髪がふわりと横に流れた。ほのかに甘いシャンプーの香りが漂い、僕の鼻腔を刺激する。
その香りすら、今の僕には生の象徴のように思えて、心臓の奥をざわつかせる。
僕は神に祈った。……無事に、後遺症なく死ねますように。
宗教なんて信じていない。神がいるとも思っていない。けれど、祈ったところでマイナスにはならない。空っぽの願いを、僕は空っぽの神に押し付けた。
手を下ろすと、彼女はにこやかに僕を見上げた。 ……まるで恋人と初詣に来ているような錯覚。だが違う。僕たちはただ、最期を共にするためにここにいるのだ。
結局、彼女の希望で家まで送っていくことになった。もうここまで来たら、大した手間ではない。
「忙しい中わざわざ送ってくれてありがとうね。あ、どうせ大和君も私も暇だから大丈夫か」
「浪人生を舐めないでもらえる。僕は日々の勉強で忙しくて、猫の手も借りたいくらいだよ」
「嘘。図書館に来ても勉強してないの知ってるんだから。本を読み漁るか、私と喋ってるだけでしょ」
もちろん、僕が勉強に打ち込んでいるなんていうのは真っ赤な嘘だ。
もう二度と受験するつもりはない。だから机に向かう意味なんてない。ただ、親に怪しまれないために図書館に通うふりをしているだけだ。
「大和くんは、何をお願いしたの?」
境内の静けさに溶けるような声で、彼女が僕に尋ねてきた。
「僕? ……君と一緒に死ぬのが、ちゃんと成功するようにって」
口にした瞬間、自分でも妙に律儀な願いだと思った。
「へぇ、意外。てっきり手を合わせるだけで何も祈らないと思ってた。神様を信じてるタイプだったんだね」 彼女は冗談めかして笑った。でも、その笑みはどこか弱々しい。
「勘違いしないで。僕は神様なんて信じてない。ただ、お願いするだけならタダだからね。その程度さ。……で、君は?」
「私はね、死ぬまでに美味しいものをいっぱい食べられますようにってお願いした」
「……ずいぶんと手頃だね。今すぐ叶いそうなことばかりじゃないか」
「大きなお願いをしても、現実は変わらないよ。叶わなかったとき、神様のせいにしたくないし。だったら自分の力で叶えられることを祈ったほうがいい。もしそれが叶ったら、私も神様も少しは救われるでしょ」
彼女の声は明るく装っていたけど、ふと横顔を見たとき、その悲しげな影が夜の闇に溶けていくのがわかった。
「君の考え方だと、結局“未来は全部決まってる”って話になるね。ラプラスの悪魔を肯定するみたいに」
「ラプラスの悪魔?」
「世界のすべてを知って、未来を完全に予測できる存在。つまり……僕らの結末すら、最初から決まってるってこと」
「じゃあ、私たちが死ぬかどうかも、もう決まってるってこと?」
「いや、実際にはそんなものは不可能だって証明された。だから僕らの未来は……まだ定まってない。不確定なんだ」
「……ってことは、私たちがちゃんと生き延びて、老人になる未来もあるかもしれないんだ」
「……やめろよ。そんな未来、考えるだけで息が詰まる」
「なら、一緒に“確実に死ねる未来”を選び取るために……努力しなきゃね」
彼女の声は不思議なほど明るかった。僕は無言で自転車を押しながら、その言葉に静かにうなずいた。
途中の道端で大量の花束と共に祭壇ができていた。その中には遺影もある。数日前、ここで交通事故で亡くなった人を弔うために作られたものと思われる。
立ち止まった翠は、しばらくその遺影を見つめていた。
「……この人も、急に終わっちゃったのかな」
「多分ね」
濡れた花束を見下ろしながら、翠は小さく呟く。 「でもさ、こうして花を置いてくれる人がいるんだね」
「そりゃいるでしょ」
「そっか」 翠は少しだけ笑った。
「……私たちのときはどうなるんだろうね」
その言葉に、僕は一瞬だけ言葉を失う。
「さあ。ニュースにもならないかもね」
「かもね」 翠はあっさり頷いた。 「でも、誰か一人くらいは覚えててくれるかな」
「覚えてるよ」
「誰が?」
「僕が」
僕がそう言うと、翠はくすっと笑った。
「その時は大和君も死んでるから、意味ないじゃん」
「まあね」
少しの沈黙のあと、翠が突然何かを思いついたみたいに言った。
「私の遺影撮ってよ」
「僕なんかでいいの?」
「僕なんかじゃないよ大和君。他でもない君だから私は撮って欲しいと頼んでいるんだよ」
そういうと彼女は自分のスマホを僕に差し出した。
「どうせ最後の写真になるかもしれないし」
「……縁起でもないこと言うなよ」
「でも本当じゃない?」 翠は肩をすくめる。 「遺影って、最後に残る顔なんだよ」
僕達は人気のない堤防の近くに移動して写真を撮る。近所のパチンコ屋のネオンサインが光源となって彼女の顔を際立たせる。 赤や青の光が断続的に明滅して、彼女の表情を何度も塗り替える。
どこか儚げさを宿しながらも、それを必死に隠すように笑顔を浮かべる彼女がそこにはあった。
僕はシャッターを押した。
「ねえ、ちゃんと撮れてる?」
「うん。……普通にいい写真だよ」
「普通ってなにそれ」 彼女はスマホを覗き込みながら笑う。
「我ながら可愛くていい写真だね。欲を言うともう少し写真写りのいいカメラ使いたかったな」
「別に死んだ後に皆が見るんだから。写真の出来とかどうでもいいでしょ」
「本当に大和君は乙女心をわかってないな。女の子はいつまでも美しいと思われたいの」
少しだけ画面を見つめたまま、ぽつりと言った。
「……この写真なら、ちゃんと私って分かるかな」
「当たり前だろ」
「そっか」 彼女は満足そうに笑った。
「大和君のも撮ってあげようか?」
「僕はいいよ。きっと両親が適当な写真を選んでくれるだろうから」
「そっか」
彼女はスマホをポケットにしまいながら言った。
「じゃあ、この写真は消さないでね」
「なんで?」
彼女は少しだけ考えてから、静かに言った。
「……最後の私だから」
遺影の写真を撮ったあと、僕たちは堤防沿いの道を歩いていた。 夜風は冷たく、川面を渡ってくる湿った空気が服の奥まで入り込んでくる。
「なんか変な気分だね」 彼女がぽつりと言う。
「何が?」
「自分の遺影、先に撮っちゃうなんてさ」
「普通は死んだあとに用意されるものだからね」
彼女は小さく笑った。 「でもさ、大和君に撮ってもらえたなら悪くないかも」
そのときだった。
「……あれ?」 後ろから声がした。
「翠?」
振り向くと、制服姿の女子が立っていた。その少し後ろには、同じ制服の女子がもう二人ほど立っていて、こちらの様子を不思議そうに見ている。
「あっ……」
彼女の足が止まる。 一瞬だけ、困ったような表情が浮かんだ。
「やっぱり翠だ!」
声をかけてきた女子が嬉しそうに駆け寄ってくる。後ろの二人も少し遅れて歩み寄ってきた。
「久しぶり!」
「……久しぶり」
彼女は笑顔を作った。 でも、その笑顔はどこかぎこちなかった。
僕は少し離れた場所で四人を見ていた。 どうやら翠の同級生らしい。
「全然学校来なくなったからさ、みんな心配してたんだよ」
後ろにいた女子も頷く。
「そうそう。クラスでも“翠どうしたんだろう”ってずっと話してた」
「そうなんだ」
「最初は体調崩して休んでるって聞いてたけどさ」
最初に話しかけた女子が少し声を落とす。
「そのあと退学したって聞いて、クラスみんなびっくりしてた」
彼女はすぐには答えなかった。 視線が足元に落ちる。
「……うん」
小さく頷く。
「ていうかさ」
同級生は少し眉を寄せる。
「連絡も全然つかないし」
後ろの女子も続ける。
「LINEしても既読つかないし、電話しても出ないしさ」
「グループLINEでもさ、“誰か翠と連絡取れてる?”ってずっと言ってたんだよ」
彼女の肩がわずかに揺れた。
「……ごめん」
彼女は小さく言った。
「みんな“何かあったのかな”って言ってたんだよ」
責めている声ではなかった。 本当に心配していた声だった。
「ごめんね」
彼女はまた同じ言葉を繰り返した。
「ちょっと……色々あって……それで学校辞めちゃった」
同級生たちは顔を見合わせる。
「まあ、無事ならいいんだけどさ」
「うん」
「ていうかさ」
同級生は翠の顔をじっと見た。
「ちょっと痩せた?」
「そうかな」
「うん、前より」
後ろの女子も頷く。
「なんか顔小さくなった気がする」
「気のせいだよ」
彼女は笑った。
「最近あんまり動いてないから」
「ちゃんと食べてる?」
「うん。食べてるよ」
二人……いや、三人の会話はどこか懐かしい空気だった。 僕の知らない時間を共有してきた人たちの会話だ。
「でも会えてよかった」
同級生はほっとしたように言う。
「みんな本当に心配してたんだからね」
「今度クラスの子にも会ったって言っとくね。絶対みんな安心するから」
彼女は小さく頷いた。
「……ありがとう」
「また連絡してよ」
彼女は少しだけ間を置いた。
「うん」
その返事は、どこか遠い場所から聞こえるようだった。
「またね翠。次は一緒にご飯でも行って、また前みたいにゲラゲラ笑おう!」
「うん。またね」
同級生たちは手を振りながら去っていく。 三人の背中が見えなくなるまで、翠はしばらくその場に立ち尽くしていた。
やがて、小さく息を吐く。 そのとき、ほんの一瞬だけ、口元の力が抜けたように見えた。さっきまで浮かべていた笑顔が、ようやく崩れたみたいに。
けれどすぐに、何事もなかったかのように表情を戻す。
さっきのやり取りを思い返す。
あの子たちは、きっと本気で心配していた。 声の調子や表情を見れば、それくらいはわかる。
いい人たちなんだと思う。
それでも、翠はあの輪の中に戻ることはもうないのだと、どこかで分かっているように見えた。 「またね」と言いながら、その「また」が来ないことを知っているみたいに。
ふと、以前の翠の言葉が頭をよぎる。
――私、友達いないんだよね。
たしか、そんなことを言っていた気がする。
けれど、今の光景を見る限り、少なくともああして声をかけてくれる人はいる。 わざわざ駆け寄ってきて、心配していたと言っていたくらいだ。
もしかしたら、あの子たちがたまたま残っていた数少ない友達なのかもしれない。 それか、「友達がいない」というのは翠のいつもの自虐だろう。
自分のことを悪く言う癖は、彼女には前からある。
きっと、その程度の意味なんだと思った。
そう考えたとき、不意にさっきの翠の表情が頭に引っかかった。
笑っていたはずなのに、どこか噛み合っていないような、ほんのわずかな違和感。
うまく言葉にできないまま、僕はそれ以上考えるのをやめた。
「……全日制時代の友達?」
僕が聞くと、翠は少し笑った。
「うん」
「君のことを本気で心配してくれてたいい子達だったね」
「うん、みんなすごく優しい子。私には勿体無いくらい優しくて、他人の喜びを心から喜べて、悲しみを一緒に悲しんでくれる子達……」
彼女は川の方を見ながら、その子への申し訳なさを込めながらつぶやいた。
「だからさ」
少し困ったように笑う。
「連絡返さなかったの、ちょっと申し訳ないな……」
風が吹いた。
彼女はその風を受けながら、小さく呟く。
「……どうせ、もう会えないのに『またね』なんて言っちゃて私バカだな」
そのあと、僕たちはまた歩き出した。 さっきまで聞こえていた同級生の足音も、もう完全に夜の中に消えている。
堤防沿いの道には、街灯が等間隔に並んでいた。 その下を通るたび、彼女の影が伸びたり縮んだりする。
僕たちはほとんど何も話さなかった。 さっきまでの会話が嘘みたいに、周囲は静まり返っている。
彼女も何も言わない。 ただ、時々ポケットの中のスマホを指で触っているのが見えた。
あの同級生から連絡が来ているのかもしれない。 けれど彼女は、それを確認しようとはしなかった。
しばらくの間、僕たちは何も言わずに歩いていた。さっきまでの空気がまだどこかに残っている気がして、会話を切り出すタイミングが見つからない。 夜の街は昼間とは別の顔をしていた。店の明かりがぽつぽつと灯り、遠くでは車の走る音が低く響いている。遺影を撮った帰り道だという事実が、妙に現実感を持って胸の奥に残っていた。
ついさっきまで、僕たちは笑いながら写真を撮っていた。まるで普通の記念写真みたいに。 でもあれは、本当は——死んだあとに飾られる写真だ。
ふと、彼女が口を開いた。
「ねえ、大和君」
「ん?」
彼女は前を向いたまま、小さく笑う。
「さっきの写真さ、結構いい感じだったよね」
僕は少し考えてから答える。
「……そうかも……ね」
「でしょ?」
彼女は少し嬉しそうに笑った。
「ちゃんと遺影っぽかったよね」
軽い口調だったけれど、その言葉は思ったよりも重く響いた。 僕たちは、本当にそんな写真を撮ってしまったのだ。
少しの沈黙が流れる。 やがて彼女は、少しだけ困ったように笑った。
「……でもさ」
僕は隣を歩く彼女の横顔をそっと見た。夜の住宅街へと続く道は静まり返り、遠くで車の走る音だけが微かに響いている。街灯の淡い光が一定の間隔で足元を照らし、僕たちの影を長く引き延ばしていた。彼女はその光の中をゆっくりと歩きながら、ふっと歩幅を落とす。俯いた顔に街灯の光がかかり、長いまつ毛の影が頬に落ちていた。
「ちょっと怖いんだよね」
「何が?」
僕の問いに、彼女はすぐには答えなかった。数歩分の沈黙が夜の空気の中に落ちる。遠くの信号機が赤に変わり、かすかな電子音が鳴っている。彼女はその音を聞くみたいに少しだけ顔を上げ、それからまた視線を落とした。
「死ぬのが」
その言葉は、思ったよりもずっと静かな声でこぼれ落ちた。夜の空気に吸い込まれるように、重くも軽くもない、不思議な響きで僕の耳に届く。
さっき撮った写真のことを思い出してしまう。ネオンサインの光を背にして笑っていた彼女の顔。あれが本当に「遺影」になるのだと思うと、胸の奥がわずかにざわついた。
僕は何も言えなかった。
言葉を探している間に、彼女が先に小さく笑う。困ったように、でもどこか諦めたみたいな笑い方だった。
「でもさ……」
そう言って、ちらりと僕のほうを見る。街灯の光が彼女の瞳に反射して、ほんの一瞬だけきらりと光った。
「大和くんがいるから、まだ平気」
その声は、冗談みたいにも聞こえるし、本音みたいにも聞こえる曖昧な調子だった。軽く言ったつもりなのかもしれない。でも、言葉の奥にはほんのわずかな震えが残っている気がした。
「ひとりだったら、たぶんもう逃げてたと思う」
そう言ってから、彼女は少し黙った。 住宅街へ続く夜道は静かで、街灯の光が等間隔に地面を照らしている。昼間は人通りの多い道なのに、この時間になると妙に広く感じられた。
遠くで車が通り過ぎる音がして、また静けさが戻る。
彼女は前を向いたまま歩いていた。 さっきまで冗談みたいに話していたのに、その横顔は少しだけ真面目に見えた。
やがて、彼女がふっと小さく笑う。
「ねえ」
「ん?」
「もしさ、私が普通に生きてたら……」
そこで一度言葉を切る。
その間が、妙に長く感じられた。
「……大和くんのこと、好きになってたかもね」
あまりにも軽い口調だったので、冗談にしか聞こえなかった。
「……何それ」
僕がそう言うと、翠は肩をすくめる。
「いや、なんとなく!? 大和君ってさ変な人だけど、嫌いじゃないし」
「変な人は余計だよ」
彼女は先ほどの言葉を誤魔化したいかのように早口だ。その言葉がどこまで本気なのか、僕にはわからなかった。 からかっているだけのようにも聞こえるし、そうじゃないような気もする。
どう返していいのかわからず、曖昧に視線を逸らした。
彼女はそれ以上何も言わない。 またいつものように歩き続ける。
街灯の下を通り過ぎたとき、彼女の横顔が一瞬だけ見えた。 その表情がどんなものだったのか、うまく言葉にできない。
ただ、さっきまでとは少しだけ違う気がした。
でも、それがどう違うのかまではわからない。
僕が何か言う前に、彼女はいつもの調子に戻る。
「いや、今さらだけどね、ここまで計画しておいて怖いとか、意味わかんないよね」
「そこは安心して。僕が生きたいと思うことなんて二度とないからさ」
僕がそう言うと、翠は「そっか」とだけ小さく答えた。
やがて道は少しずつ狭くなり、周囲の建物も低い家ばかりになっていく。遠くに見えていたネオンの光はもう届かず、代わりに等間隔の街灯だけが静かな住宅街を照らしていた。
僕たちはしばらく言葉を交わさないまま、その光の下を並んで歩き続けた。
やがて住宅街に入る。 見慣れた道を曲がり、いくつかの家の灯りを通り過ぎる。窓から漏れる暖かい光や、どこかの家から漂ってくる夕食の匂いが、この街に確かな生活があることを静かに伝えていた。
彼女の家はもうすぐだった。
僕たちは本格的に帰路に着いた。彼女の家の前に着くと、そこで立ち止まる。
「今日はありがとう。大和くん、おやすみ」 彼女は笑顔を見せた。その笑みはいつもと同じように柔らかいのに、さっきの会話を思い出してしまうと、どこか無理をしているようにも見えた。けれど僕には否定することができなかった。
「……おやすみ」
互いに淡々と告げる。 でも、彼女も僕も「さようなら」は言わない。 別れの言葉なんて飛び降りる寸前だけでいい。
そして、そのときの彼女の言葉が冗談だったのかどうか、僕には最後までわからなかった。
ただ、そのときの彼女の背中は、どこか申し訳なさそうに見えた。

