退院してから二週間が経った。穏やかな春の陽気が満ちていた三月下旬とは異なり、四月に入った街には、どこか殺伐とした空気が漂い始めている。桜並木には真新しい制服やスーツを着た人々が行き交い、希望に満ちた笑顔が眩しかった。新しい生活を始める人々の熱気と、その裏に潜む競争の匂いが、僕にはどこか息苦しく感じられた。もう関係のないはずの世界なのに、その空気から逃れることはできなかった。
名目上は浪人生となった僕は、勉強に勤しむふりをして毎日図書館に通っていた。実際には参考書を開くこともなく、有り余る時間を読書や動画視聴に費やしていた。親には予備校に通うよう勧められたが、どうせ受験を迎える前に死ぬ人間に高額なお金をかける意味はない。そう思って適当な理由をつけて断った。あれだけ普段から「電気代がもったいない」「水道代を節約しろ」と小言ばかり言っていた父が、当然のように高額な予備校代を出そうとしてくれたことに違和感を覚えた。僕にそこまでの価値があるとは思えなかったし、その優しさがかえって重く感じられた。もちろん、両親は僕の自殺の意思など知らないし、伝えるつもりもなかった。
平日の図書館の自習室は、僕のような予備校に行っていない浪人生や、老後の時間を勉強に充てる老人たちが数人いるだけで、静かで平和そのものだ。窓から差し込む春の光が、埃の舞う自習室をぼんやりと照らしていた。
彼女も僕と同じ境遇なのか、平日は常に図書館に来て時間を潰していた。そのため図書館で顔を合わせる機会も多く、自然と一緒に過ごす時間が増えていった。
「君は学校に行かなくていいの? 十七歳だってこの前言っていたから、年齢的に高校生だよね?」
僕たちは、自習室近くの休憩スペースで言葉を交わす。誰もいないその場所は、いつしか僕と彼女だけの談笑のスペースになっていた。二人の手の中には、自動販売機で買った缶ジュースがある。
彼女は制服を纏っていた。だからこそ、平日の昼間から図書館にいる姿は、異質に見えた。
「私、通信制高校に通ってるから、基本は学校に行かなくていいんだ。与えられた課題を期限までにやればいいから、こうやって毎日図書館に来てこなしてるの。制服はないんだけど、少しでもJK気分を味わいたくて、ネットで買ったコスプレ用の制服を着てるんだ。だって、たった一度きりの女子高生生活を、みんなみたいに楽しまないと、もったいないでしょ?」
コスプレ用の制服と言っても、その仕立ては驚くほど精巧で、本物と見分けがつかない。制服を身につけた彼女は、入院着姿の時とはまるで別人だった。研ぎ澄まされた顔立ち、すらりとした体躯、そして風に揺れる髪。彼女はまさに「華の女子高生」という概念を具現化したかのような美しさを放っていた。
「今さらだけど、僕と君は契約を結んだけれど、まだ死に向けて何も行動していないよね。一体いつになったら動き出すの?」
僕は、まるで思い出のページのしおりを挟むかのように、契約の話を切り出した。
彼女は天井を見上げながら、どこかぼんやりとした眼差しで応じる。
「大和君と出会った日から、私ずっと考えていたの……どこで最期を迎えるのが一番良くて、君と残りの短い時間で何をすればいいのかって……」
「僕と君は、飛び降り自殺という最期を共有している。なら、その場所を探しに行くのが、ごく自然な流れじゃないか?」
「そもそも、若い男女が最期の場所を探しに行くこと自体、普通じゃないって!」
彼女は声を弾ませ、僕の言葉に軽やかにツッコミを入れた。
病院の屋上で出会った時は、僕と同じく感情の起伏に乏しい、淡白な人だと思っていた。けれど、それは大きな誤解だった。彼女は僕の暗さが際立つほどに明るく、とても死を決意した人間だとは思えなかった。
「なら私たちの最終目標は飛び降りる場所を探すってことにしよう」
「君の中でどこか候補はあるの?」
「うーん。無難に病院の屋上とか? あ、でもせっかく男の子と飛び降りるのならロマンチックなところがいいな……夜景に輝く東京タワーとか」
「随分と乙女みたいな考えを君は持っているんだね。それに東京タワーみたいなセキュリティーの高い建物から飛び降りるだなんて現実的じゃないよ」
「みたいなって何よ! 私は正真正銘乙女です! それにさらっと私の理想的なシチュエーションを否定しないでよ」
「君が女性として可愛いのは認めるよ……可愛いのは……ただ君の天真爛漫で時折危なげな言動から乙女要素は感じれなくて……」
「可愛いだなんて嬉しい事言ってくれるじゃん。大和君が言うと裏がありそうで怖いな」
「裏なんてないよ。僕は君の容姿を客観的に評価したに過ぎない……どうせすぐに死ぬのだから嘘をつく必要も好かれる必要もないしね。君の容姿なら褒められ慣れているような気がするけど……」
「まあ、確かにこれまでに何回も言われたことあって、交際を申し込まれたことも幾重としてある。もちろんその事実は嬉しいんだけど……大体の男は下心丸出しで近づいてくるから萎えちゃって……。その点大和君は純粋な気持ちで褒めてくれる気がするから、他の人から言われた時とは全く違う嬉しさがある……」
意図的に余韻を残すかのように彼女は最後の言葉を濁した。僕はその発言について深くは考えない。考えたところで、純粋な心を持っているであろう彼女の気持ちなど理解できるはずがなかった。
数瞬の間を置いた後、彼女は突然ベンチから立ち上がり、僕の目の前に優しく立つ。自動販売機の光が、逆光となって彼女を照らしていた。
「もしかして、私のこと、恋愛的に好きになっちゃったとか?」
ニヤリと不気味な笑みを浮かべながら、僕の顔を覗き込んでくる。
僕は迷うことなく否定した。
「勘違いしていたら申し訳ないけど、僕は君のことを好きじゃない」
「うわー、そんなにキッパリと斬られると、さすがに傷つく」
言葉とは裏腹に、彼女は声を弾ませて笑っているので、本心ではないのだろう。
笑っていた彼女の顔から、ふっと表情が消えた。まるで、水面に落ちた波紋が静かに広がるように、彼女の瞳の奥に寂しさが滲む。風が吹き抜け、彼女の髪がふわりと揺れた。
「……君は、私のこと、好きにならないでね……」
「それって、どういう意味?」
「深い意味はないよ……辞書通りの意味。だって、好きな人をこの世に残したまま自殺するなんて、嫌じゃない?」
僕は、返す言葉が見つからなかった。
僕は人を恋愛的に好きになったことがない。だから、彼女の言葉にわずかに含まれた、その本心を見抜くことができなかった。ふと彼女の顔を見ると、どこか悲しげな表情をしていた。人の心を読むのが苦手な僕には、その意図がわからなかった。
どんな言葉をかければいいのか考えていると、彼女の方から口を開いた。
「私の発言全部に意味があると思ったら、大間違いだよ」
先ほどとは一転、笑顔が彼女を彩っていた。しかし、その笑顔はぎこちなく、まるで作り物。自分の本当の気持ちに蓋をしているのが見て取れた。
「とりあえず、私たちの当面の目標は、最期の場所を探すことだね!」
張り詰めた空気を破るためか、彼女は無理やり話をまとめた。
そして、思いついたように言葉を続ける。
「そうだ。今から近くのホームセンターに行こうよ」
「君は本当に唐突だね。僕は余生の趣味として園芸や工作をするつもりはないし、そんなことに時間を使うなら、ここで本を読んでいたい」
「ちゃんと、契約に関する目的があるの」
彼女は僕の腕を掴み、外へ誘った。詳しい目的は全く話してくれなかった。
出会ってしばらく経つが、僕はまだ早乙女翠という人間がよく掴めなかった。
僕と同じく自殺願望がある時点で普通の考え方の人間ではないということは理解できた。ただ、僕とは違い彼女は純粋な気持ちも持ち合わせている。
だからこそ、不思議でたまらなかった……彼女が死にたいと思っていることが……。
雲一つない青空がどこまでも広がっていた。春の光が地面に降り注ぎ、僕たちはその中を歩幅を揃えて進む。車の音も人々の話し声も、まるで遠い世界のことのように聞こえた。注意散漫な彼女は、道端に咲く小さな花や、壁に絡みつくツタ、風に揺れる木々の枝にまで目を輝かせ、その都度僕に話しかけてくる。僕は彼女の命令で、スマホを使って植物の名前や建物の歴史を調べる係になった。心底面倒だと思いながらも、純粋な好奇心に満ちた瞳で話を聞く彼女を見ていると、この苦労も悪くないと思えた。
二十分ほど歩いて、近くのホームセンターに到着した。自動ドアが開くと、木材やペンキ、肥料、そして様々な金属が放つ独特な匂いが混じり合い、鼻をつく。彼女はここへ来た理由をまだ明かさない。本当に掴みどころのない人だ。
平日の昼間ということもあり、店内はまばらだった。作業服を着た現場作業員や、時間を余らせた老人が、ゆっくりと商品を吟味している。そんな人々を横目に、僕は彼女の後を追った。
しばらく店内を散策した後、彼女は店員を見つけて声をかけた。
「すみません。自殺用のロープってどこにありますか?」
その発言の内容とは裏腹に、彼女の声は明るく、まるで道案内を尋ねるかのように軽やかだった。
店員は言葉を失い、呆然とした顔を浮かべている。当然だ。心の準備ができていなければ、自分の耳を疑うような言葉を彼女は平然と口にしたのだから。
僕はこれ以上大事にしたくない一心で、慌ててフォローに入った。
「すいません、この子、受験勉強のしすぎで頭がおかしくなっちゃって。気にしないでください」
僕のフォローに、店員は半信半疑の顔を浮かべている。
「普通のロープを探しているんです。柵を固定するために使うので。案内してもらえますか?」
僕は強引に話の軌道を変えた。これ以上、店員と彼女を接触させないように、僕は彼女の前に出て物理的な距離を取らせる。何度も不審者を見るような目で店員が見てきたが、彼女があんなことを言ったのだから仕方ない。
僕たちは店内奥にあるロープ売り場へと案内された。
棚に所狭しと並んだロープは、僕の脳裏に首吊り自殺の光景を連想させる。もしこの方法を選んだら、どんな景色を見るのだろうか……。
深夜、家族が寝静まったのを確認して、引き出しに隠しておいたロープを取り出す。事前に調べておいた、僕の体重にも耐えられる結び方で準備をする。部屋の明かりはつけず、勉強机の光源だけを頼りに、ロープをドアにかける。遺書を足元に置き、椅子に登り、首にロープをかける。そして、頚椎を折るつもりで一気に椅子から飛び降りる。意識が徐々に遠のいていき、肺が酸素を求める。かすかな光が眩しく感じる。手足が自分のものじゃないかのように制御不能になり、もう足掻くことも、抵抗することもできない。生きる道に戻ることもできない。苦しい感覚だけが鋭くなっていき、しばらくすると……。
そんな光景が浮かび、首吊りはしたくないと改めて思った。もしロープが途中で切れたり、家族に見つかって中途半端に終わるのだけは絶対に避けたい。後遺症が残り、五体不満足の状態で生きるのはごめんだ。
やはり、僕と彼女が飛び降りを選択しようとするのは合理的だ。
「ねえ、大和君。君は首吊りするなら、どのロープを選ぶ?」
彼女は腰を下ろして、商品棚の下段にあるロープを比較している。これがケーキやコスメを選ぶ姿だったら、絵になるのに。男女二人が制服姿で買い物をしている姿は、周りから見れば付き合っているように見えるかもしれない。でも、実際には自殺道具について吟味しているのだから、なんとも奇妙な光景だ。
「僕だったらこれかな」
彼女の質問に、僕は真面目に答えなかった。選んだのは、最初に目についたロープ。よく見ると細く、頼りない。首吊りには向いていない。
「じゃあ、これ買うね」
僕が指差した商品を、彼女は迷わずカゴに入れた。自殺に使うものではないだろうから、何か趣味で使うのだろうと推測した。
その後、僕たちは練炭を見に行くために売り場を移した。
その際も、彼女は「自殺用の練炭はどこに売っていますか?」と大きな声で店員に聞いていた。僕は再びフォローを入れ、大きな問題になることはなかった。
「君さ、もう少し聞き方を勉強した方がいいよ」
「聞き方って?」
天然なのか、それともネタで聞き返しているのか僕はまだわからない。
「僕達はお互いが確実に死ぬために契約を結んだ。君が自殺の意思を赤の他人だろうが他者に拡散することによって確実に死ねる確率が減少するんだよ。君がこういう行動を続けるのなら僕は契約を解除したい」
これは本心だ。彼女の言動は全般的に危険すぎる。これ以上一緒にいると僕に危害が発生しそうでならない。
「わかったごめんごめん。これからは軽率な行動をしないように気を付ける……」
彼女は僕の主張をすんなり聞き入れてくれた。根は真面目な子らしい。
それから僕達は店員の指示に従って練炭売り場へと向かった。そこは照明が他のエリアと比べれば暗く、店内BGMは全く聞こえない店内の奥に追いやられている。練炭、木炭、七輪、点火剤などが僕の視界を埋める。商品を見てると自殺してくださいと書いてあるように思えた。
「練炭一個700円か。思った以上に高いんだね」
「七輪も買わないといけないから練炭自殺への初期投資は高いと思うよ。それに一個じゃ多分足りない」
「そうなんだ。てっきり一個あれば十分だと思ってた」
「できなくはないと思うけど、一個だと不完全燃焼時に発生する一酸化炭素の排出量が少なく、苦しむ時間が長くなる可能性がある。最悪の場合、死ぬのに必要な一酸化炭素濃度に到達する前に練炭が燃え尽きて後遺症だけが残る可能性がある」
「詳しいね大和君。ってことはたくさんの練炭を一気に燃やして、一酸化炭素濃度を急激に高めて一気に意識を飛ばすのが最善ということだね」
「練炭自殺をやるなら車みたいに中から鍵をかけられる密室の空間がいんだけど、車なんて持ってないし……君だったらどこでする?」
「私だったらテントを買ってその中で練炭を焚くかな。自分の部屋にテント設営するだけなら移動の心配いらないし」
「部屋でやるのは愚行だと思うよ。火災報知器が作動し、中途半端な状態で終わったらそれこそアウトだ。また、テントや部屋から万一にも漏れた一酸化炭素が家族を巻き込むかもしれない。関係ない人を巻き込むのは自殺志願者としていけないと僕は思うよ」
「大和君って意外にも色々なリスクを考えて選択してるんだね。私だったら気がつかないような視点ばっかり」
「自殺のリスク管理で褒められても全く嬉しくないね。君の危機管理がなってないというか……自殺志願者としての当事者意識がなさすぎるんだよ」
「そうかな……危機管理がないことはともかく当事者意識はあると思うけれど」
「当事者意識のある人間は自殺願望を言いふらさないよ」
確かにその通りだと言わんばかりの表情を彼女は浮かべていた。僕の言動に一喜一憂して反応する初々しい様子は彼女が本当に死にたいと願っているのか疑わしくなるほどだった。僕みたく現世での幸せを諦めた自殺志願者は喜怒哀楽が豊かにならない。普通なら美味しいと感じる食事に幸せを感じない。普通なら楽しいと感じる友人との会話に楽しさを感じない。ただ一人でいるのが落ち着くというのが感情の臨界点だ。それ以上の感情は全く湧かない。
「じゃあさ、大和君が練炭自殺するとしたらどうやってやる?」
「僕も自動車を持っていないから練炭を焚くとしたらテントの中かな」
「テントを設営するとしたら自宅の庭とか?」
「いや、庭だと見つかるリスクがあるから、人目のない山奥で設営するかな」
「人目がない場所っていったら私は離島選ぶかな。離島で最期ってかっこよくない」
生産性のない自殺トークを僕たちは繰り広げた。
結局彼女はロープ一本、練炭四つ、七輪を購入した。値段は五千円くらいだった。彼女が財布を開いている間、レジ係の人がカゴに入った商品を凝視していた。怪しいラインラップだったからだろう。僕は会計が済んだのを確認するとすぐに袋に詰めて退店する。それを彼女は早足で追いかける。
「女の子の荷物を自然と持ってくれるなんて大和君彼氏としては有料物件だね。あ、でも、女の子がオシャレのために背負っている鞄を持つのはダメだからね」
「『としては』が余計だよ。その言い方だと友達としては良くない風に聞こえる。それに僕は君を喜ばせるために袋を持ったんじゃなくて、店員さんからこれ以上好奇な目で見られるのを避けたかったからだよ」
「そんなに変な目で見られてた?」
「変な目で見られてたらまだいい方だよ。こんな買い物今から死にますって宣言してるみたいだからワンチャン通報されていたよ」
「通報までは言い過ぎでしょ〜」
半分冗談を交えた警告に彼女は笑い返してくれた。
ホームセンターを後にした僕たちは図書館に戻らずに帰路に着いた。まだ正午を過ぎたばかりで小腹が空くような時間だ。食へのこだわりはないが、帰宅してから何をしようかと思案していると彼女が提案をしてきた。
「もしよっかたらこの後私の家でご飯を食べない?」
「確認だけど、君と僕は契約関係であり恋人ではないよね」
彼女はキョトンとした感情を浮かべる。彼女の表情を見た僕は発言を後悔する。
「あはははははははは。何言ってるの大和君。もちろん私たちは恋人じゃないよ。もしかして家に誘ったくらいで私と付き合えたと思っちゃたの」
道路中に響き渡る笑い声をあげ、彼女は腹を押さえ笑う。僕は彼女の笑点が一ミリも理解できない。
「君は随分と自分の価値を評価するね。まあ、君の女子としての魅力は否定しないけど」
「まあ性格は置いておいて、この見た目で『私可愛くない』とか『全然モテない』とかいう方がおかしいと思っているから。大和君が言ってくれたみたいな褒め言葉は素直に受け取るようにしてる。それにさっきも言ったけど、君の発言は他の男とは違って下心がなさそうだから信用できる」
確かに彼女は出るところはしっかり出て、引っ込むところはしっかりと引っ込んでいる女子からすると理想の体型を維持していた。このスタイルに加えて顔面も非の打ちどころがないほどに美しい。長いまつ毛にきめ細やかい肌は洗練された長い黒髪によって際立っていた。これで自分の容姿を否定する方がタチが悪い。
「まあ冗談は置いておいて……」
ここまでの夫婦漫才風の会話はなんだったのか……。
ツッコミを入れたい気持ちを抑える。
「私はもっと君のことが知りたいんだよ」
「大和君がどういう境遇でこれまで生きてきて、そしてなんで自殺を選択したのか……多分大和君も私という人間について少しは知りたいんじゃない」
図星だった。僕は早乙女翠という存在について、彼女は宇佐美大和という存在について知りたがっていることを再認識した。
互いの意思を確認した僕たちは彼女の家へと足を進める。途中、お昼ご飯の食材がないということで帰路の途中にあるスーパーで買い物をする。どうやら僕は人生で初めて女子高生の手作り料理を食べることができるらしい。
「大和君は何食べたい?」
「僕の要望を聞いてくれるなんて君は随分と優しいね。断っておくけど僕からお金を搾り取ろうと思っても微々たる額しか出てこないよ」
「私は金の亡者じゃないよ。せっかく料理を振る舞うんだから大和君の喜んだ顔が見たいの! だから君の好物を聞いてる」
僕の前を、彼女は後ろで手を組みながら歩く。カートを僕が押し、その前を彼女が歩く構図は、まるでドラマに出てくる新婚夫婦のようだ。彼女の制服姿が、その光景をより一層際立たせる。
僕は彼女のサービス精神に応え、「親子丼が食べたい」と正直に答えた。材料を買い、お互いに未練を残さないようにと、割り勘にした。彼女が料理を作ってくれる人件費として、僕が少し多めに支払った。どちらかが一方的に全てを支払うと、この世に何か大きな忘れ物を残すような気がしたからだ。神や宗教は信じていないが、天国での安らかな生活への保険として、彼女の「割り勘にしたい」という意思を尊重した。
彼女の家は、スーパーから歩いて十五分ほどの閑静な住宅街にあった。平日の昼間だからか、通り過ぎる家からは物音が全く聞こえず、時折聞こえる鳥のさえずりがやけに大きく響く。
彼女の家は、住宅街の奥にひっそりと佇んでいた。ごく普通の家。日本のサラリーマンが、家族のために頑張って建てたような、そんな印象を受けた。
彼女に続いて家に入る。玄関を開けると、薄暗い空間が広がっていた。両親は仕事に出ているらしく、時計の針の音だけが響いていた。
僕はリビングに通され、促されるままソファに腰掛ける。部屋の奥の棚には家族写真が立てかけられていた。満面の笑みを浮かべたたくさんの写真が、家族の幸福を確かに物語っている。彼女の自殺理由が家族間の問題だと思っていたが、どうやら違うらしい。
彼女が料理を作っている間、特にやることもない僕は、鞄から読みかけの本を取り出して読み始めた。
親切心からか、彼女はコーヒーを出してくれた。さすがにすべて任せるのは申し訳なく、料理の手伝いを申し出たが、「大和君がやると、逆に散らかるからいいよ」と、偏見を押し付けられ、僕は大人しく客に徹することにした。
エプロンをつけて料理をする女子高生の姿は、男子にとっては目の保養だろう。あの容姿に、ポニーテールのエプロン姿が似合わないはずがない。まるでアニメや漫画から抜け出してきたかのような完璧な佇まいだ。しかし、彼女に性的な魅力を感じていなかった僕は、ただただ、出てくる料理を楽しみにしていた。
しばらくすると、親子丼と味噌汁が食卓に並んだ。完璧な見た目をしている親子丼は、食べなくても美味しさが伝わってくる。僕たちは向かい合って食事をする。彼女はエプロン姿のままだった。
「この場面だけ切り取ったら私たちって新婚に見えるのかな」
「僕が思っても言わなかったことを君はよく恥ずかしげもなく言えるね」
「私結構こういうの憧れてたよ……男子と二人きりで食卓を囲むの」
「それは遠回しに僕に告白しているのかな。君は綺麗で女子力も高いから優良物件だと思うけど、あいにく僕は死ぬ身だから余計な人間関係は作りたくない。だから君とは付き合えない。ごめんなさい」
僕の容姿を褒めた発言に彼女は少し顔を赤らめる。
「うわーなんか勝手に振られて負けた気分。その言い方だと、もし大和君が普通に生きるのを決意したら、私と交際する可能性があることを示唆しているね」
「まあそういう可能性はゼロではないね」
この返答に時に意味はない。
確かに、彼女には魅力が溢れている。圧倒的な容姿に加えて、無邪気で明るい内面は、男子なら誰でも惹かれるだろう。もし、僕が生きているうちに彼女と……そんなことを考えても意味はない。無駄なことを考えても、ただ疲れが増すだけだ。僕にとって、未来なんて存在しないのだから。
「それで、感想は?」
彼女は不満そうに親子丼を指さしながら言った。その瞳は、早く感想を聞きたいという期待に満ちている。
「ごめん、まだ味噌汁しか飲んでないんだ」
「メインの親子丼を食べないで、先に味噌汁を飲むなんて、大和君って変わってるね」
料理の順番なんて気にしたことがなかったけれど、彼女が言うならきっと正しいのだろう。そんなことを考えながらも、僕は彼女の不満げな顔を無視して、味噌汁をすすった。そして、彼女は自分の親子丼に手をつけることなく、じっと僕を見つめている。どうやら、僕が感想を言うまで食べる気はなさそうだ。その真剣な表情がなんだかおかしくて、思わず笑みがこぼれそうになった。
ついに、僕は親子丼を口に運んだ。予想通り、美味しいだろうと思っていたが、その味は予想を遥かに超えていた。まるで専門店で出てくるような味が、僕の舌を刺激する。
「すごく美味しいよ。正直、期待以上だ。君、料理の才能あるね」
「大和君に言われると、なんか照れるな」
彼女は照れくさそうに笑ったが、少し嬉しそうな表情も浮かべていた。
「本心だよ。僕、親子丼に関しては結構厳しい方なんだけど、君の作った親子丼は完璧だよ。鶏肉の大きさや火の通り具合、卵のふわふわ感、どれも素晴らしい。今まで食べた中で一番だよ」
「大和君って、料理評論家なの?」
「親子丼評論家、かな」
そう言って笑いながら、僕たちは食事を続けた。家では、いつも家族に笑顔を見せながらも、心の中では死にたいと思っていたから、最近は食事があまり楽しくなかった。むしろ、家族と顔を合わせるのが面倒に感じていた。でも、彼女と一緒にいると、何故だか自然に食事が楽しめている自分がいた。それは、彼女がきっと僕と同じような思いを抱えているからかもしれない。彼女と過ごす時間には、久しぶりに幸せな気持ちが芽生えていた。
気づけば、あっという間に食べ終わっていた。食器を片付けながら、僕はふと今日ここに来た目的を思い出す。
「あ、そういえば、僕が今日君の家に来た理由、まだ言ってないよね?」
彼女は洗い物を終えて、エプロンを外しながら歩き出した。蛇口から落ちる水滴の音が、静かな部屋に心地よく響いている。
「私の部屋で話そうか」
僕は二階にある彼女の部屋に招かれた。四畳ほどのこじんまりとした部屋だ。カーテンは固く閉じられ、陽光はほとんど差し込んでいなかった。まるで外の世界を拒絶しているかのようだ。部屋は整理整頓され、無駄なものは一切ない。華やかな装飾品はほとんど見当たらず、他の部屋とは違い、まるで時が止まっているかのようにさえ思えた。まるで僕と同じように、いつでも死ねるように身辺整理を済ませ、あとはその瞬間を待っているかのようだ。
僕は、何が彼女に死を決意させたのだろうと思い始めた。他人に興味などない僕だが、同じ志を持つ彼女の自殺理由には、強烈な関心を抱いた。
「そこに座って」
彼女が指差した椅子に腰掛ける。彼女は「お茶を取ってくる」と言い、部屋を出ていった。
部屋を改めて見渡すと、その殺風景さがより一層強く感じられた。埃をかぶっている場所も多く、物の整理には興味があるが、掃除には興味がないことが窺える。生活の痕跡を一つでも残さないようにしているかのようだ。僕の部屋も似たような雰囲気だ。自死を前にして生きる人間は、自然とこうなるのだと悟った。
しばらくして、お盆に急須と湯呑みを二つ載せた彼女が戻ってきた。急須からは湯気が立ち上っている。
急須から湯呑みにお茶が注がれる。烏龍茶のような香りが、僕の嗅覚を刺激した。
「いい匂いのお茶だね」
「お父さんの台湾の出張土産なの」
一口飲むと、まろやかな風味が口の中に広がった。今まで飲んだお茶の中で、間違いなく一番美味しい。死ぬ前にこれを飲めた僕は、もしかしたら幸せ者なのかもしれない。
二人の間に沈黙が流れる。お茶を嗜んでいる間も、これといった会話はなかった。
きっと、お互い何から話せばいいのか迷っていたのだろう。
先に口を開いたのは僕だった。
「君は、どうして死のうと思ったの?」
僕が彼女にずっと聞きたかったこと。ついに、彼女の心の核心に触れる。
「大和君は、想像以上にズバッと聞くんだね」
「こういうのは、単刀直入に聞いた方がいいと思って。それに、もう僕たちの間に、余計な遠慮は不要だと信じている」
これは僕の本心だ。僕たちは死という最終地点を自らの意思で選び、お互いの最期を共有することを約束した。もう、僕と彼女の間には、遠慮も嘘も仮面も必要ない。
理性と焦燥の狭間で揺れていたのだろうか。どこか虚ろな顔色を纏い、彼女は悩んでいた。僕はただ黙って待った。ここで回答を急かせるのは違うと思ったからだ。
そして、彼女は何かを振り切ったような表情を浮かべ、ゆっくりと話し始めた。
「端的に言うなら、人間関係かな……。この前、私が通信制高校に通ってるって話をしたと思うけど、元々は全日制に通ってたの。でも、女子特有の陰湿な空気がきっかけでいじめられて、それが原因で学校に行けなくなった。それで、このままだと中卒になっちゃうから、仕方なく通信制に転校した感じ。それでも心の疲れが回復することはなくて、もうこの世から消えてなくなった方が楽なのではって思い始めて、だんだんとその思いが強くなって、自殺を選んだ感じかな……」
まるで原稿を読んでいるかのように、彼女は淡々と語った。そこに感情はこもっていなかった。自殺理由という、他人に触れてほしくないことなのだから、当然なのかもしれない。
家族の問題でなければ、友人関係だろうと予想はしていた。しかし、いざ現実として聞くと、胸が締め付けられるような痛みを感じた。僕が詳細を尋ねれば、きっと彼女は答えてくれるだろう。でも、彼女の表情は、これ以上言及してほしくないという意思を間接的に示していた。聞きたいことは山ほどあったが、僕は自分の欲望を抑えることを決めた。
「次は大和君の番ね……」
彼女は自分の話を誤魔化すように切り上げ、僕に言葉のバトンを渡した。
「大和君の番」という彼女の言葉に、僕はどこか気落ちした。
僕も彼女と同じで、自分の自殺理由にはあまり触れてほしくない。言葉にするだけでも、胸の奥が締め付けられるように辛い。いや、それよりも、大学受験に失敗したという過去の過ちを認めるのが嫌だという方が近いかもしれない。その事実を口にするだけで、自分の無力さや情けなさが蘇ってくる。
それでも、彼女が話してくれたのだから、僕には話す義務があるし、彼女には聞く権利がある。お互いの最期の一端を担う者として、それぞれの自殺理由は知っておいた方がいいだろう。僕は心の中で、これから話す内容を整理した。
「僕の年齢、覚えてる?」
自分の口から「大学に落ちた」という事実を言いたくなかったから、数学の問題のように、彼女を誘導する形で質問を投げた。
「私の一つ上だったから……十八歳」
彼女の声は静かで、僕の言葉を待っていた。
「普通の十八歳は、今頃何をしていると思う?」
「働くか、専門学校か、大学か……」
「僕はそのどこにも属していない……」
過去と向き合うためには必要なことだと、自分に言い聞かせる。死への願望と生への絶望を知っている彼女なら、僕の自殺理由をしっかりと受け止めてくれる。そう信じて、僕は核心を話す決意をした。
「実を言うと、第一志望の大学受験に失敗したんだ」
「そうなんだ……」
彼女は反応に困っていたが、当然だ。他人の自死理由を聞いて、いい気持ちになるはずがない。僕は否定さえされなければ、それでいいと割り切っていた。共感など、最初から求めていなかった。
「もともと、衰退していくのが目に見えている日本で生きていくことに、大きな不安を感じていた。そして、自分のすべてをかけた大学受験に失敗したら死のうと決意して、受験に臨んだんだ。結果はさっき言った通り、不合格……親には浪人してもう一度挑戦させてほしいと頼んだけど、受験の前に自殺は実行するつもりだよ……」
「意外と単純な理由なんだね。大和君のことだから、不治の病みたいな、もっと大きな理由かと思った」
彼女の口からふいに漏れた「単純」という言葉に、僕の胸は大きくざわついた。
たったひとこと。ほんの些細な言葉の選び方。けれど、それは僕にとって刃物より鋭い傷になった。
――まるで、僕が死を選んだ理由なんて、大したことないと言われているみたいじゃないか。
理屈では、そんなつもりがなかったのだと理解している。彼女が僕を傷つけようとしているわけじゃないことも、頭ではちゃんとわかっている。
けれど心は、そんな理屈を無視して激しく揺さぶられる。胸の奥から、説明のつかない怒りがせり上がってくる。言葉にならないのに、確かに存在する、黒い塊のような感情が腹の底で燃え上がる。
僕は机の上に置いていた荷物をゆっくりまとめ始めた。
「ごめん……帰る」
出てきた言葉はそれだけだった。怒鳴ることよりも、この場を離れることが正しいと思ったからだ。感情をそのまま吐き出せば、彼女との関係は一瞬で壊れてしまう。だから逃げるように席を立った。
しかし僕の行動に気づいた彼女は、目を丸くして声を上げた。
「え、なんで急に帰るの?」
その問いかけが耳に届いても、僕は聞こえないふりをした。
今ここで彼女の目を見てしまったら、心の堰が切れる。冷静さなんて一瞬で吹き飛び、感情のままに彼女を責めてしまうだろう。だから僕は振り向かず、ただ玄関へと歩を進めた。
だがそのとき、強い力が僕の腕を掴んだ。
思っていた以上に力強い。か弱い印象しかなかった彼女の意外な抵抗に、僕は一瞬だけ動きを止める。
「待って!」
必死さの滲む声が、耳の奥に響いた。
振り向くな……。
心の中で何度も自分に言い聞かせる。振り向けばすべてをぶちまけてしまう。振り向いた瞬間、もう二人の関係は取り返しのつかないところに行ってしまう。
……そうわかっていたのに……。
僕は結局、振り向いてしまった。
そこにいたのは、謝罪の色を浮かべる彼女ではなかった。ただ、困惑に眉を寄せている彼女の姿だった。なぜ僕が怒っているのか理解できない、そんな顔。
その瞬間、胸の奥でどうにか抑え込んでいた怒りが、一気に弾けた。
「ふざけるな……」
低い声で漏れ出た言葉は、自分でも抑えが効かないほど震えていた。
彼女の表情がはっきりと変わる。さっきまで浮かんでいたかすかな笑みが跡形もなく消え去り、代わりに恐怖の色が浮かぶ。
「え……大和君、私、何か悪いことした?」
――彼女は悪くない。
そんなこと、頭では痛いほど理解している。悪意があったわけじゃない。ほんの軽い言葉の行き違い。ただそれだけのはずだ。
けれど僕の心は、もう理屈を受けつけてくれなかった。
感情の奔流は止められず、喉の奥から次々に怒りの言葉があふれ出していく。
「君! 自分が何を言ったか覚えてる? いや、きっと覚えてないよね! 君は僕が人生をかけて挑んだ受験を、あっさりと“単純な理由”だと切り捨てた! それは僕という人間そのものを否定したのと同じだ! 君にとっては冗談だったのかもしれない。でも僕には違う! 僕は死ぬほど勉強して、命を削って大学受験に挑んだんだ! その重さを、受験してない君にはわからないだろ!」
叫んだ瞬間、自分の声の鋭さにぞっとする。
怒鳴るなんて、自分の主義に反する行為だった。感情で相手を圧倒するのは愚かだと、今までずっと思ってきた。けれど、このときばかりは我慢できなかった。
僕の言葉に、彼女は床に崩れ落ちた。大きな瞳から涙があふれ、頬を濡らしていく。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
震える声が部屋に響く。けれど僕の心には届かなかった。
謝罪の言葉は耳に入っても、意味を結ばない。雑音のようにただ通り過ぎていく。
「互いを信用できないなら、もう終わりだ。僕は一人で死ぬ」
吐き捨てるように告げて、彼女の手を乱暴に振り払った。
そのまま玄関の扉を開けると、世界は轟音の雨に包まれていた。
激しい雨粒が地面を叩きつける音は、まるで僕の怒りを代弁しているかのようだった。
それでも僕は傘を持たずに、ただ雨の中へと歩き出した。
背後から足音が追ってくる。焦りと戸惑いを含んだ音。
「大和君……ごめん……」
涙に濡れた声が届いた瞬間、胸の奥が揺れそうになった。
それでも振り返らない。振り返れば、本当の意味で負ける気がしたから。
雨に打たれながら歩き続ける。冷たさも重さも、今の僕には感じられなかった。むしろ、この雨が怒りの熱を少しでも洗い流してくれることを願っていた。
家に着いたときには、全身びしょ濡れで、肌に張り付く服が不快だった。両親がまだ仕事で帰っていないことだけが救いだった。こんな姿を見られたら、余計な問いかけを受けてしまう。
シャワーを浴びながら、今日の出来事が脳裏に次々と蘇る。
怒鳴る自分。涙を流し、僕を引き止めようとした彼女。
困惑に揺れる瞳。泣きながら謝罪を繰り返す声。
思い返すほどに、胸が締めつけられる。
――もしかしたら、言いすぎたのかもしれない。
――あそこまで感情をぶつけなくてもよかったのかもしれない。
それでも、後悔はなかった。
むしろ、正直な気持ちをぶつけられなかったら、きっともっとひどい形で関係が壊れていた。
そう思えば思うほど、胸の奥に渦巻く痛みは消えなかった。
母に言われた一言は、胸の奥を不意に突き刺した。
「あんた、最近表情が柔らかくなったわね」
「え……」
夕食の食卓。父は出張で不在。二人きりの静かな食卓に、味噌汁の湯気が立ちのぼり、魚の照り焼きの匂いが漂っていた。テレビもつけていないから、箸が器に触れる音が妙に大きく響く。そんな沈黙を破るように、母はぽつりと呟いた。
僕は平然を装っていたつもりだった。無理やり明るく振る舞い、冗談を混ぜ、元気に見せる演技を繰り返してきた。だが母の一言で、全てが見透かされていたのだと悟る。
「気づいてないと思った? あんた、浪人を決めてからずっと元気なかったでしょ」
その声音は、静かで優しい。責める調子は微塵もなかった。けれどその優しさこそが、僕には苦しかった。母親という存在の恐ろしさを改めて思い知る。心の奥まで正確に言い当てられたわけじゃない。けれど、仮面の下に隠してきた“無理して笑う自分”を、やすやすと見抜かれていた。
僕は箸を止め、視線をお椀から母へと移す。母はただ真っ直ぐに僕を見ていた。
「言葉には出さなかったけど、ずっと心配してたの。……いつかふと、いなくなっちゃうんじゃないかって……」
胸の奥が一気に冷たくなる。
それは、僕自身がずっと隠してきた決意に、母の言葉が触れてしまったからだ。
「でも、最近は少し違うわ。前より表情が柔らかくなった。誰かいい友達でもできたのかしら?」
母の声音には安堵がにじんでいた。僕は反射的に視線を逸らす。
――母の言う“友達”。それはきっと翠のことだ。
翠と一緒に過ごす時間の中で、僕は確かに変わっていた。彼女と交わす何気ない会話、時折見せる真剣な眼差し。あの瞬間だけは、僕の中の「死」への渇望を忘れていられた。
彼女と向き合う時、僕は気づかぬうちに表情を緩めていたのだろう。だから母に気取られたのだ。
「その子のこと、大切にしなさいよ」
母はそう言って、にこりと笑った。その笑みには、心から僕の未来を願う気持ちが込められていた。
――けれど、胸が痛い。
母の望む未来と、僕の選ぼうとしている未来は、あまりにもかけ離れているから。
「何か困ったことがあるなら言いなさいよ……親としてはお金を出して子供の成功を祈ることでしか受験を応援できないんだから」
「ありがとう……もし困ったら、その時は言うよ。今はまだ大丈夫」
声は自然に出たが、中身は空虚だった。母に心配をかけたくなかった。ただそれだけだ。ここで自殺の意思を汲み取られてしまったら、きっと母はものすごい形相で僕を止め、自殺という結論に至らせてしまった自分を責めるだろう。
親が悲しむ姿など見たくない。せめて悲しむのなら自分が物理的に観測できないところで悲しんでほしい。
夜。布団に潜り、電気を落とす。遮光カーテンに覆われた部屋は真っ暗で、天井の輪郭すら確認できなかった。闇が僕を押し潰す。
胸を締めつけるのは、やはり喪失感だった。
翠という存在が、僕の中でどれほど特別だったか。母の言葉で改めて痛感させられた。彼女と過ごした時間が、僕にとって幸せを感じる細い糸だった。だがその糸はもう切れてしまった。
――僕たちの契約は、ここで終わる。
そして僕は、一人で死ぬ。
母の温もりに包まれた言葉を受けた直後だというのに、僕の心は冷たい空洞のままだった。むしろ母の優しさは、その空洞をより際立たせた。
喪失感に駆られていた。それは多分彼女という特別な存在を失ったからだと思う。しかし、この感情に恋愛的な意味はなく、自分の大切にしていたものが突然消えてしまって、もう戻ってこない喪失感に近い。
きっと僕達の契約はここで終わる……そして僕は一人で死ぬ……。
今後の短い人生での生き方について目を瞑りながら考えていると、僕はいつの間にか眠りへと落ちいていた。
眠りについた時間が早かったせいか、ふと目を覚ますとまだ五時前だった。
部屋は真っ暗だが、時計の針は確かに動いている。胸の奥に重く沈んだ感覚を抱えたまま、布団を抜け出し、窓を開ける。東の空には、淡く滲むような朱が差し込んでいた。四月とはいえ、早朝の冷気は容赦なく頬を刺す。吐いた息が白く揺れ、やけに孤独を強調した。
その時、机の上に置いていたスマホが目に入る。ためらいながら手を伸ばすと、ロック画面には彼女――翠からの通知が並んでいた。
>昨日はごめん
>無責任な言動で大和君を傷つけて
>ちゃんと謝りたい
>大雨の中帰っていったけど風邪引かなかった?
>大丈夫?
>図々しいお願いかもしれないけれど先に死なないでほしい
>私は大和君と死にたい
僕は既読をつけない。画面を見つめるだけで胸が締めつけられる。まだ昨日の出来事を整理できていなかったからだ。翠の言葉は確かに僕を傷つけた。しかし同時に、自分が彼女を拒絶した瞬間の記憶も、頭から離れてくれない。
――もし、昨日の出来事で彼女との関係が終わるのなら、それまでだ。
そう割り切るように自分に言い聞かせる。お互いの顔色を窺い、ご機嫌を取り合うだけの表面的な関係を続けるくらいなら、いっそここで終わった方がいい。僕はそう思ったし、きっと彼女も同意するはずだ。
それから一週間、僕は家から一歩も出なかった。何をして過ごしていたのか、自分でもよく覚えていない。時計の針の音がやけに大きく聞こえる部屋で、ただただ時間に身を任せ、自分の気持ちが自然に変わるのを待っていた。
母には心配された。けれど僕は「季節の変わり目で風邪を引いただけ」と言い訳をしてやり過ごした。父は出張から帰宅するや否や、「体調管理がなってないからだ」と叱責した。僕の弱さよりも、自己管理の甘さを責める父らしい反応だった。けれど、その言葉が胸に刺さる余裕すらなかった。
その間も、スマホには彼女からの通知が残り続けていた。画面を開くたび、そこにある文字列を見ないふりをする自分が情けなくて、ただ目を逸らした。あれ以降、彼女からの連絡は途絶えている。
――もしかして、もう先に自殺してしまったのではないか。
その考えが何度も脳裏をかすめるたび、息が詰まった。けれど確認する勇気もなかった。もしそれが真実だったら、僕はどうすればいいのか分からなかったからだ。
彼女と最後に会ってから、十日が過ぎた。
その朝、僕はようやくスマホを手に取り、震える指で画面を開いた。長く放置していた通知に既読をつける。心臓が強く跳ねる。
そして、ためらいがちに文字を打ち込み、送信した。
>連絡をしばらく無視していてごめん
返信はすぐにあった。
>良かった生きてて。私に黙って勝手に契約解除したかと思ったよ……そして改めて言うけどあの日は本当にごめん
>あの日は僕も言いすぎた。君が悪意なく言ったのくらいわかってたのに……あの時は頭がいっぱいいっぱいで……
>大和君は悪くない。君が本気で悩んでいた自殺理由をバカにした私に責任がある……こんな私を許してほしい。そして私との契約を続行してほしい
文字からでも、彼女が必死に反省しているのが伝わってきた。言葉のひとつひとつに、後悔や不安や、僕を繋ぎ止めようとする焦りがにじんでいた。
けれど、スマホの画面に並ぶ平坦な文字列だけでは、彼女の本当の感情を掴みきれない。彼女がどんな声色で、どんな表情でこの言葉を発しているのか……僕には想像するしかなく、それが余計に胸をざわつかせた。
きっと会わなければならない。そうでなければ、僕は前へ進めない。
死ぬにしても、生きるにしても、彼女と顔を合わせて話さなければ……。
だから僕は、まだ自殺できない。
それは彼女との契約を続行するにしても、解除するにしても同じだった。彼女と向き合い、互いの存在を確かめた上でなければ、終わりを選ぶことすらできないのだ。
>君と契約を続けるかどうかにはついては保留にしたい……そして、一度会って話して結論を出したい
>わかった
>今から図書館で会える?
>大丈夫だよ
>なら今から会おう
僕はすぐに支度をした。不要なものは一切持って行かない。ただスマホと財布だけをポケットに突っ込んだ。
自転車を漕ぎ出すと、冷たい風が肌を打った。十日ぶりに目にする街並みは、どこか眩しく見えた。決して季節や天気のせいではない。ただ停滞していた時間が、ようやく動き始めたように思えたのだ。胸の奥で燻っていたものが、今ようやく燃え上がろうとしている……そんな錯覚すら覚えた。
図書館に着くと、僕は足早にいつもの休憩スペースへと向かった。階段を駆け上がり、最後の角を曲がる。そこに、彼女はいた。
うつむき加減で座っていた彼女は、僕に気づいた瞬間、大きく息を呑み、まるで堰が切れたかのように立ち上がった。
「本当に……あの日はごめん。私なんて……大和君に謝ったらいいのか……」
僕に近づくや否や、彼女は謝罪から入った。
涙目で僕を見上げるその姿は、痛々しいのに、同時に目を離せないほど美しかった。
胸の奥に硬くしまっていた言葉が、不意に口をついて出る。
「……メッセージでも言ったけど、僕も大袈裟に解釈した。だからその点は謝る、ごめん。でも、同志である君に、自殺理由を否定されたことは想像以上に堪えた。君にとってはくだらないことでも、僕にとっては人生を懸けてきたものなんだ。その重さだけは忘れないでほしい」
あの日、絶対に謝らないと決めていたのに、気がつけば「ごめんなさい」を口にしていた。きっと、彼女の誠意に僕の頑なな決意が崩されたのだろう。
僕の言葉を聞いた瞬間、彼女は堪えきれずに泣き崩れた。膝をつき、両手で目をこすりながら、子どものように嗚咽を漏らす。その姿に僕の胸は締めつけられ、自然と手が伸びていた。頭に触れ、髪を優しく撫でる。彼女の震えが、掌を通して心臓にまで伝わってくる。
「……良かった。本当に良かった。もし大和君に先に死なれてたら、私……。君と会えない十日間で、どれだけ大和君が私の余生を支えてくれてたか思い知った。もう、大和君と最期まで離れたくない」
普通の人からすれば、この言葉は限りなく恋の告白に近いのかもしれない。だが僕にとっては、それ以上に重い意味を持っていた。
――彼女は、死という最後の瞬間まで僕と共にいることを望んでいる。
その事実は、僕の中で決して軽くない、ひとつの“救い”だった。
「僕も君としばらく離れて、気がついたよ。早乙女翠は……僕にとって、とても大切な存在だって」
言葉にした瞬間、自分の胸の奥にずっとあった確信が、はっきり形になった気がした。
翠は涙で濡れた頬を上げ、真っ直ぐに僕を見る。
「それって……恋愛的な意味で?」
わずかに期待を滲ませた声音。けれど僕は、苦笑いを浮かべて首を振る。
「断固として違う。……せっかくいい雰囲気だったのに、君が恋愛をねじ込んだせいで台無しだよ」
皮肉を込めて笑い飛ばすと、翠は「知ってる」とあっさり肯定し、袖で涙を拭った。
そのやり取りの軽さに、胸の奥が少しだけ温かくなる。
二人でベンチに腰を下ろすと、彼女はぽつりと呟いた。
「……既読つかない間、本当に心配したんだからね。大和君が契約破棄して、先に死んだんじゃないかって」
先に死んだんじゃないか心配していたのは僕の方だよ、とは言わない。
「僕は契約を守っただけだよ。君と契約を解除しない限り、僕は先に死んだりしない」
翠は目を見開き、かすかな笑みを浮かべる。
「あの約束……覚えててくれたんだ」
屋上で交わした三つの約束。
一つ目は、断りなしに先に死んではいけないこと。
二つ目は、もし生きる気持ちが芽生えたなら、迷わず契約を解除すること。
三つ目はお互いを好きなってはいけないこと。
忘れるはずがない。忘れてはいけない。
こうして再び確かめ合った。
――お互いが互いにとって大切な存在であること。
――それでもなお「死にたい」という衝動がお互いに消えていないこと。
その矛盾を抱えながらも、僕の心は奇妙に澄んでいた。契約を最後まで遂行し、彼女と共に終わりを迎える――その思いは、むしろ以前よりも強く、揺るぎないものになっていた。
名目上は浪人生となった僕は、勉強に勤しむふりをして毎日図書館に通っていた。実際には参考書を開くこともなく、有り余る時間を読書や動画視聴に費やしていた。親には予備校に通うよう勧められたが、どうせ受験を迎える前に死ぬ人間に高額なお金をかける意味はない。そう思って適当な理由をつけて断った。あれだけ普段から「電気代がもったいない」「水道代を節約しろ」と小言ばかり言っていた父が、当然のように高額な予備校代を出そうとしてくれたことに違和感を覚えた。僕にそこまでの価値があるとは思えなかったし、その優しさがかえって重く感じられた。もちろん、両親は僕の自殺の意思など知らないし、伝えるつもりもなかった。
平日の図書館の自習室は、僕のような予備校に行っていない浪人生や、老後の時間を勉強に充てる老人たちが数人いるだけで、静かで平和そのものだ。窓から差し込む春の光が、埃の舞う自習室をぼんやりと照らしていた。
彼女も僕と同じ境遇なのか、平日は常に図書館に来て時間を潰していた。そのため図書館で顔を合わせる機会も多く、自然と一緒に過ごす時間が増えていった。
「君は学校に行かなくていいの? 十七歳だってこの前言っていたから、年齢的に高校生だよね?」
僕たちは、自習室近くの休憩スペースで言葉を交わす。誰もいないその場所は、いつしか僕と彼女だけの談笑のスペースになっていた。二人の手の中には、自動販売機で買った缶ジュースがある。
彼女は制服を纏っていた。だからこそ、平日の昼間から図書館にいる姿は、異質に見えた。
「私、通信制高校に通ってるから、基本は学校に行かなくていいんだ。与えられた課題を期限までにやればいいから、こうやって毎日図書館に来てこなしてるの。制服はないんだけど、少しでもJK気分を味わいたくて、ネットで買ったコスプレ用の制服を着てるんだ。だって、たった一度きりの女子高生生活を、みんなみたいに楽しまないと、もったいないでしょ?」
コスプレ用の制服と言っても、その仕立ては驚くほど精巧で、本物と見分けがつかない。制服を身につけた彼女は、入院着姿の時とはまるで別人だった。研ぎ澄まされた顔立ち、すらりとした体躯、そして風に揺れる髪。彼女はまさに「華の女子高生」という概念を具現化したかのような美しさを放っていた。
「今さらだけど、僕と君は契約を結んだけれど、まだ死に向けて何も行動していないよね。一体いつになったら動き出すの?」
僕は、まるで思い出のページのしおりを挟むかのように、契約の話を切り出した。
彼女は天井を見上げながら、どこかぼんやりとした眼差しで応じる。
「大和君と出会った日から、私ずっと考えていたの……どこで最期を迎えるのが一番良くて、君と残りの短い時間で何をすればいいのかって……」
「僕と君は、飛び降り自殺という最期を共有している。なら、その場所を探しに行くのが、ごく自然な流れじゃないか?」
「そもそも、若い男女が最期の場所を探しに行くこと自体、普通じゃないって!」
彼女は声を弾ませ、僕の言葉に軽やかにツッコミを入れた。
病院の屋上で出会った時は、僕と同じく感情の起伏に乏しい、淡白な人だと思っていた。けれど、それは大きな誤解だった。彼女は僕の暗さが際立つほどに明るく、とても死を決意した人間だとは思えなかった。
「なら私たちの最終目標は飛び降りる場所を探すってことにしよう」
「君の中でどこか候補はあるの?」
「うーん。無難に病院の屋上とか? あ、でもせっかく男の子と飛び降りるのならロマンチックなところがいいな……夜景に輝く東京タワーとか」
「随分と乙女みたいな考えを君は持っているんだね。それに東京タワーみたいなセキュリティーの高い建物から飛び降りるだなんて現実的じゃないよ」
「みたいなって何よ! 私は正真正銘乙女です! それにさらっと私の理想的なシチュエーションを否定しないでよ」
「君が女性として可愛いのは認めるよ……可愛いのは……ただ君の天真爛漫で時折危なげな言動から乙女要素は感じれなくて……」
「可愛いだなんて嬉しい事言ってくれるじゃん。大和君が言うと裏がありそうで怖いな」
「裏なんてないよ。僕は君の容姿を客観的に評価したに過ぎない……どうせすぐに死ぬのだから嘘をつく必要も好かれる必要もないしね。君の容姿なら褒められ慣れているような気がするけど……」
「まあ、確かにこれまでに何回も言われたことあって、交際を申し込まれたことも幾重としてある。もちろんその事実は嬉しいんだけど……大体の男は下心丸出しで近づいてくるから萎えちゃって……。その点大和君は純粋な気持ちで褒めてくれる気がするから、他の人から言われた時とは全く違う嬉しさがある……」
意図的に余韻を残すかのように彼女は最後の言葉を濁した。僕はその発言について深くは考えない。考えたところで、純粋な心を持っているであろう彼女の気持ちなど理解できるはずがなかった。
数瞬の間を置いた後、彼女は突然ベンチから立ち上がり、僕の目の前に優しく立つ。自動販売機の光が、逆光となって彼女を照らしていた。
「もしかして、私のこと、恋愛的に好きになっちゃったとか?」
ニヤリと不気味な笑みを浮かべながら、僕の顔を覗き込んでくる。
僕は迷うことなく否定した。
「勘違いしていたら申し訳ないけど、僕は君のことを好きじゃない」
「うわー、そんなにキッパリと斬られると、さすがに傷つく」
言葉とは裏腹に、彼女は声を弾ませて笑っているので、本心ではないのだろう。
笑っていた彼女の顔から、ふっと表情が消えた。まるで、水面に落ちた波紋が静かに広がるように、彼女の瞳の奥に寂しさが滲む。風が吹き抜け、彼女の髪がふわりと揺れた。
「……君は、私のこと、好きにならないでね……」
「それって、どういう意味?」
「深い意味はないよ……辞書通りの意味。だって、好きな人をこの世に残したまま自殺するなんて、嫌じゃない?」
僕は、返す言葉が見つからなかった。
僕は人を恋愛的に好きになったことがない。だから、彼女の言葉にわずかに含まれた、その本心を見抜くことができなかった。ふと彼女の顔を見ると、どこか悲しげな表情をしていた。人の心を読むのが苦手な僕には、その意図がわからなかった。
どんな言葉をかければいいのか考えていると、彼女の方から口を開いた。
「私の発言全部に意味があると思ったら、大間違いだよ」
先ほどとは一転、笑顔が彼女を彩っていた。しかし、その笑顔はぎこちなく、まるで作り物。自分の本当の気持ちに蓋をしているのが見て取れた。
「とりあえず、私たちの当面の目標は、最期の場所を探すことだね!」
張り詰めた空気を破るためか、彼女は無理やり話をまとめた。
そして、思いついたように言葉を続ける。
「そうだ。今から近くのホームセンターに行こうよ」
「君は本当に唐突だね。僕は余生の趣味として園芸や工作をするつもりはないし、そんなことに時間を使うなら、ここで本を読んでいたい」
「ちゃんと、契約に関する目的があるの」
彼女は僕の腕を掴み、外へ誘った。詳しい目的は全く話してくれなかった。
出会ってしばらく経つが、僕はまだ早乙女翠という人間がよく掴めなかった。
僕と同じく自殺願望がある時点で普通の考え方の人間ではないということは理解できた。ただ、僕とは違い彼女は純粋な気持ちも持ち合わせている。
だからこそ、不思議でたまらなかった……彼女が死にたいと思っていることが……。
雲一つない青空がどこまでも広がっていた。春の光が地面に降り注ぎ、僕たちはその中を歩幅を揃えて進む。車の音も人々の話し声も、まるで遠い世界のことのように聞こえた。注意散漫な彼女は、道端に咲く小さな花や、壁に絡みつくツタ、風に揺れる木々の枝にまで目を輝かせ、その都度僕に話しかけてくる。僕は彼女の命令で、スマホを使って植物の名前や建物の歴史を調べる係になった。心底面倒だと思いながらも、純粋な好奇心に満ちた瞳で話を聞く彼女を見ていると、この苦労も悪くないと思えた。
二十分ほど歩いて、近くのホームセンターに到着した。自動ドアが開くと、木材やペンキ、肥料、そして様々な金属が放つ独特な匂いが混じり合い、鼻をつく。彼女はここへ来た理由をまだ明かさない。本当に掴みどころのない人だ。
平日の昼間ということもあり、店内はまばらだった。作業服を着た現場作業員や、時間を余らせた老人が、ゆっくりと商品を吟味している。そんな人々を横目に、僕は彼女の後を追った。
しばらく店内を散策した後、彼女は店員を見つけて声をかけた。
「すみません。自殺用のロープってどこにありますか?」
その発言の内容とは裏腹に、彼女の声は明るく、まるで道案内を尋ねるかのように軽やかだった。
店員は言葉を失い、呆然とした顔を浮かべている。当然だ。心の準備ができていなければ、自分の耳を疑うような言葉を彼女は平然と口にしたのだから。
僕はこれ以上大事にしたくない一心で、慌ててフォローに入った。
「すいません、この子、受験勉強のしすぎで頭がおかしくなっちゃって。気にしないでください」
僕のフォローに、店員は半信半疑の顔を浮かべている。
「普通のロープを探しているんです。柵を固定するために使うので。案内してもらえますか?」
僕は強引に話の軌道を変えた。これ以上、店員と彼女を接触させないように、僕は彼女の前に出て物理的な距離を取らせる。何度も不審者を見るような目で店員が見てきたが、彼女があんなことを言ったのだから仕方ない。
僕たちは店内奥にあるロープ売り場へと案内された。
棚に所狭しと並んだロープは、僕の脳裏に首吊り自殺の光景を連想させる。もしこの方法を選んだら、どんな景色を見るのだろうか……。
深夜、家族が寝静まったのを確認して、引き出しに隠しておいたロープを取り出す。事前に調べておいた、僕の体重にも耐えられる結び方で準備をする。部屋の明かりはつけず、勉強机の光源だけを頼りに、ロープをドアにかける。遺書を足元に置き、椅子に登り、首にロープをかける。そして、頚椎を折るつもりで一気に椅子から飛び降りる。意識が徐々に遠のいていき、肺が酸素を求める。かすかな光が眩しく感じる。手足が自分のものじゃないかのように制御不能になり、もう足掻くことも、抵抗することもできない。生きる道に戻ることもできない。苦しい感覚だけが鋭くなっていき、しばらくすると……。
そんな光景が浮かび、首吊りはしたくないと改めて思った。もしロープが途中で切れたり、家族に見つかって中途半端に終わるのだけは絶対に避けたい。後遺症が残り、五体不満足の状態で生きるのはごめんだ。
やはり、僕と彼女が飛び降りを選択しようとするのは合理的だ。
「ねえ、大和君。君は首吊りするなら、どのロープを選ぶ?」
彼女は腰を下ろして、商品棚の下段にあるロープを比較している。これがケーキやコスメを選ぶ姿だったら、絵になるのに。男女二人が制服姿で買い物をしている姿は、周りから見れば付き合っているように見えるかもしれない。でも、実際には自殺道具について吟味しているのだから、なんとも奇妙な光景だ。
「僕だったらこれかな」
彼女の質問に、僕は真面目に答えなかった。選んだのは、最初に目についたロープ。よく見ると細く、頼りない。首吊りには向いていない。
「じゃあ、これ買うね」
僕が指差した商品を、彼女は迷わずカゴに入れた。自殺に使うものではないだろうから、何か趣味で使うのだろうと推測した。
その後、僕たちは練炭を見に行くために売り場を移した。
その際も、彼女は「自殺用の練炭はどこに売っていますか?」と大きな声で店員に聞いていた。僕は再びフォローを入れ、大きな問題になることはなかった。
「君さ、もう少し聞き方を勉強した方がいいよ」
「聞き方って?」
天然なのか、それともネタで聞き返しているのか僕はまだわからない。
「僕達はお互いが確実に死ぬために契約を結んだ。君が自殺の意思を赤の他人だろうが他者に拡散することによって確実に死ねる確率が減少するんだよ。君がこういう行動を続けるのなら僕は契約を解除したい」
これは本心だ。彼女の言動は全般的に危険すぎる。これ以上一緒にいると僕に危害が発生しそうでならない。
「わかったごめんごめん。これからは軽率な行動をしないように気を付ける……」
彼女は僕の主張をすんなり聞き入れてくれた。根は真面目な子らしい。
それから僕達は店員の指示に従って練炭売り場へと向かった。そこは照明が他のエリアと比べれば暗く、店内BGMは全く聞こえない店内の奥に追いやられている。練炭、木炭、七輪、点火剤などが僕の視界を埋める。商品を見てると自殺してくださいと書いてあるように思えた。
「練炭一個700円か。思った以上に高いんだね」
「七輪も買わないといけないから練炭自殺への初期投資は高いと思うよ。それに一個じゃ多分足りない」
「そうなんだ。てっきり一個あれば十分だと思ってた」
「できなくはないと思うけど、一個だと不完全燃焼時に発生する一酸化炭素の排出量が少なく、苦しむ時間が長くなる可能性がある。最悪の場合、死ぬのに必要な一酸化炭素濃度に到達する前に練炭が燃え尽きて後遺症だけが残る可能性がある」
「詳しいね大和君。ってことはたくさんの練炭を一気に燃やして、一酸化炭素濃度を急激に高めて一気に意識を飛ばすのが最善ということだね」
「練炭自殺をやるなら車みたいに中から鍵をかけられる密室の空間がいんだけど、車なんて持ってないし……君だったらどこでする?」
「私だったらテントを買ってその中で練炭を焚くかな。自分の部屋にテント設営するだけなら移動の心配いらないし」
「部屋でやるのは愚行だと思うよ。火災報知器が作動し、中途半端な状態で終わったらそれこそアウトだ。また、テントや部屋から万一にも漏れた一酸化炭素が家族を巻き込むかもしれない。関係ない人を巻き込むのは自殺志願者としていけないと僕は思うよ」
「大和君って意外にも色々なリスクを考えて選択してるんだね。私だったら気がつかないような視点ばっかり」
「自殺のリスク管理で褒められても全く嬉しくないね。君の危機管理がなってないというか……自殺志願者としての当事者意識がなさすぎるんだよ」
「そうかな……危機管理がないことはともかく当事者意識はあると思うけれど」
「当事者意識のある人間は自殺願望を言いふらさないよ」
確かにその通りだと言わんばかりの表情を彼女は浮かべていた。僕の言動に一喜一憂して反応する初々しい様子は彼女が本当に死にたいと願っているのか疑わしくなるほどだった。僕みたく現世での幸せを諦めた自殺志願者は喜怒哀楽が豊かにならない。普通なら美味しいと感じる食事に幸せを感じない。普通なら楽しいと感じる友人との会話に楽しさを感じない。ただ一人でいるのが落ち着くというのが感情の臨界点だ。それ以上の感情は全く湧かない。
「じゃあさ、大和君が練炭自殺するとしたらどうやってやる?」
「僕も自動車を持っていないから練炭を焚くとしたらテントの中かな」
「テントを設営するとしたら自宅の庭とか?」
「いや、庭だと見つかるリスクがあるから、人目のない山奥で設営するかな」
「人目がない場所っていったら私は離島選ぶかな。離島で最期ってかっこよくない」
生産性のない自殺トークを僕たちは繰り広げた。
結局彼女はロープ一本、練炭四つ、七輪を購入した。値段は五千円くらいだった。彼女が財布を開いている間、レジ係の人がカゴに入った商品を凝視していた。怪しいラインラップだったからだろう。僕は会計が済んだのを確認するとすぐに袋に詰めて退店する。それを彼女は早足で追いかける。
「女の子の荷物を自然と持ってくれるなんて大和君彼氏としては有料物件だね。あ、でも、女の子がオシャレのために背負っている鞄を持つのはダメだからね」
「『としては』が余計だよ。その言い方だと友達としては良くない風に聞こえる。それに僕は君を喜ばせるために袋を持ったんじゃなくて、店員さんからこれ以上好奇な目で見られるのを避けたかったからだよ」
「そんなに変な目で見られてた?」
「変な目で見られてたらまだいい方だよ。こんな買い物今から死にますって宣言してるみたいだからワンチャン通報されていたよ」
「通報までは言い過ぎでしょ〜」
半分冗談を交えた警告に彼女は笑い返してくれた。
ホームセンターを後にした僕たちは図書館に戻らずに帰路に着いた。まだ正午を過ぎたばかりで小腹が空くような時間だ。食へのこだわりはないが、帰宅してから何をしようかと思案していると彼女が提案をしてきた。
「もしよっかたらこの後私の家でご飯を食べない?」
「確認だけど、君と僕は契約関係であり恋人ではないよね」
彼女はキョトンとした感情を浮かべる。彼女の表情を見た僕は発言を後悔する。
「あはははははははは。何言ってるの大和君。もちろん私たちは恋人じゃないよ。もしかして家に誘ったくらいで私と付き合えたと思っちゃたの」
道路中に響き渡る笑い声をあげ、彼女は腹を押さえ笑う。僕は彼女の笑点が一ミリも理解できない。
「君は随分と自分の価値を評価するね。まあ、君の女子としての魅力は否定しないけど」
「まあ性格は置いておいて、この見た目で『私可愛くない』とか『全然モテない』とかいう方がおかしいと思っているから。大和君が言ってくれたみたいな褒め言葉は素直に受け取るようにしてる。それにさっきも言ったけど、君の発言は他の男とは違って下心がなさそうだから信用できる」
確かに彼女は出るところはしっかり出て、引っ込むところはしっかりと引っ込んでいる女子からすると理想の体型を維持していた。このスタイルに加えて顔面も非の打ちどころがないほどに美しい。長いまつ毛にきめ細やかい肌は洗練された長い黒髪によって際立っていた。これで自分の容姿を否定する方がタチが悪い。
「まあ冗談は置いておいて……」
ここまでの夫婦漫才風の会話はなんだったのか……。
ツッコミを入れたい気持ちを抑える。
「私はもっと君のことが知りたいんだよ」
「大和君がどういう境遇でこれまで生きてきて、そしてなんで自殺を選択したのか……多分大和君も私という人間について少しは知りたいんじゃない」
図星だった。僕は早乙女翠という存在について、彼女は宇佐美大和という存在について知りたがっていることを再認識した。
互いの意思を確認した僕たちは彼女の家へと足を進める。途中、お昼ご飯の食材がないということで帰路の途中にあるスーパーで買い物をする。どうやら僕は人生で初めて女子高生の手作り料理を食べることができるらしい。
「大和君は何食べたい?」
「僕の要望を聞いてくれるなんて君は随分と優しいね。断っておくけど僕からお金を搾り取ろうと思っても微々たる額しか出てこないよ」
「私は金の亡者じゃないよ。せっかく料理を振る舞うんだから大和君の喜んだ顔が見たいの! だから君の好物を聞いてる」
僕の前を、彼女は後ろで手を組みながら歩く。カートを僕が押し、その前を彼女が歩く構図は、まるでドラマに出てくる新婚夫婦のようだ。彼女の制服姿が、その光景をより一層際立たせる。
僕は彼女のサービス精神に応え、「親子丼が食べたい」と正直に答えた。材料を買い、お互いに未練を残さないようにと、割り勘にした。彼女が料理を作ってくれる人件費として、僕が少し多めに支払った。どちらかが一方的に全てを支払うと、この世に何か大きな忘れ物を残すような気がしたからだ。神や宗教は信じていないが、天国での安らかな生活への保険として、彼女の「割り勘にしたい」という意思を尊重した。
彼女の家は、スーパーから歩いて十五分ほどの閑静な住宅街にあった。平日の昼間だからか、通り過ぎる家からは物音が全く聞こえず、時折聞こえる鳥のさえずりがやけに大きく響く。
彼女の家は、住宅街の奥にひっそりと佇んでいた。ごく普通の家。日本のサラリーマンが、家族のために頑張って建てたような、そんな印象を受けた。
彼女に続いて家に入る。玄関を開けると、薄暗い空間が広がっていた。両親は仕事に出ているらしく、時計の針の音だけが響いていた。
僕はリビングに通され、促されるままソファに腰掛ける。部屋の奥の棚には家族写真が立てかけられていた。満面の笑みを浮かべたたくさんの写真が、家族の幸福を確かに物語っている。彼女の自殺理由が家族間の問題だと思っていたが、どうやら違うらしい。
彼女が料理を作っている間、特にやることもない僕は、鞄から読みかけの本を取り出して読み始めた。
親切心からか、彼女はコーヒーを出してくれた。さすがにすべて任せるのは申し訳なく、料理の手伝いを申し出たが、「大和君がやると、逆に散らかるからいいよ」と、偏見を押し付けられ、僕は大人しく客に徹することにした。
エプロンをつけて料理をする女子高生の姿は、男子にとっては目の保養だろう。あの容姿に、ポニーテールのエプロン姿が似合わないはずがない。まるでアニメや漫画から抜け出してきたかのような完璧な佇まいだ。しかし、彼女に性的な魅力を感じていなかった僕は、ただただ、出てくる料理を楽しみにしていた。
しばらくすると、親子丼と味噌汁が食卓に並んだ。完璧な見た目をしている親子丼は、食べなくても美味しさが伝わってくる。僕たちは向かい合って食事をする。彼女はエプロン姿のままだった。
「この場面だけ切り取ったら私たちって新婚に見えるのかな」
「僕が思っても言わなかったことを君はよく恥ずかしげもなく言えるね」
「私結構こういうの憧れてたよ……男子と二人きりで食卓を囲むの」
「それは遠回しに僕に告白しているのかな。君は綺麗で女子力も高いから優良物件だと思うけど、あいにく僕は死ぬ身だから余計な人間関係は作りたくない。だから君とは付き合えない。ごめんなさい」
僕の容姿を褒めた発言に彼女は少し顔を赤らめる。
「うわーなんか勝手に振られて負けた気分。その言い方だと、もし大和君が普通に生きるのを決意したら、私と交際する可能性があることを示唆しているね」
「まあそういう可能性はゼロではないね」
この返答に時に意味はない。
確かに、彼女には魅力が溢れている。圧倒的な容姿に加えて、無邪気で明るい内面は、男子なら誰でも惹かれるだろう。もし、僕が生きているうちに彼女と……そんなことを考えても意味はない。無駄なことを考えても、ただ疲れが増すだけだ。僕にとって、未来なんて存在しないのだから。
「それで、感想は?」
彼女は不満そうに親子丼を指さしながら言った。その瞳は、早く感想を聞きたいという期待に満ちている。
「ごめん、まだ味噌汁しか飲んでないんだ」
「メインの親子丼を食べないで、先に味噌汁を飲むなんて、大和君って変わってるね」
料理の順番なんて気にしたことがなかったけれど、彼女が言うならきっと正しいのだろう。そんなことを考えながらも、僕は彼女の不満げな顔を無視して、味噌汁をすすった。そして、彼女は自分の親子丼に手をつけることなく、じっと僕を見つめている。どうやら、僕が感想を言うまで食べる気はなさそうだ。その真剣な表情がなんだかおかしくて、思わず笑みがこぼれそうになった。
ついに、僕は親子丼を口に運んだ。予想通り、美味しいだろうと思っていたが、その味は予想を遥かに超えていた。まるで専門店で出てくるような味が、僕の舌を刺激する。
「すごく美味しいよ。正直、期待以上だ。君、料理の才能あるね」
「大和君に言われると、なんか照れるな」
彼女は照れくさそうに笑ったが、少し嬉しそうな表情も浮かべていた。
「本心だよ。僕、親子丼に関しては結構厳しい方なんだけど、君の作った親子丼は完璧だよ。鶏肉の大きさや火の通り具合、卵のふわふわ感、どれも素晴らしい。今まで食べた中で一番だよ」
「大和君って、料理評論家なの?」
「親子丼評論家、かな」
そう言って笑いながら、僕たちは食事を続けた。家では、いつも家族に笑顔を見せながらも、心の中では死にたいと思っていたから、最近は食事があまり楽しくなかった。むしろ、家族と顔を合わせるのが面倒に感じていた。でも、彼女と一緒にいると、何故だか自然に食事が楽しめている自分がいた。それは、彼女がきっと僕と同じような思いを抱えているからかもしれない。彼女と過ごす時間には、久しぶりに幸せな気持ちが芽生えていた。
気づけば、あっという間に食べ終わっていた。食器を片付けながら、僕はふと今日ここに来た目的を思い出す。
「あ、そういえば、僕が今日君の家に来た理由、まだ言ってないよね?」
彼女は洗い物を終えて、エプロンを外しながら歩き出した。蛇口から落ちる水滴の音が、静かな部屋に心地よく響いている。
「私の部屋で話そうか」
僕は二階にある彼女の部屋に招かれた。四畳ほどのこじんまりとした部屋だ。カーテンは固く閉じられ、陽光はほとんど差し込んでいなかった。まるで外の世界を拒絶しているかのようだ。部屋は整理整頓され、無駄なものは一切ない。華やかな装飾品はほとんど見当たらず、他の部屋とは違い、まるで時が止まっているかのようにさえ思えた。まるで僕と同じように、いつでも死ねるように身辺整理を済ませ、あとはその瞬間を待っているかのようだ。
僕は、何が彼女に死を決意させたのだろうと思い始めた。他人に興味などない僕だが、同じ志を持つ彼女の自殺理由には、強烈な関心を抱いた。
「そこに座って」
彼女が指差した椅子に腰掛ける。彼女は「お茶を取ってくる」と言い、部屋を出ていった。
部屋を改めて見渡すと、その殺風景さがより一層強く感じられた。埃をかぶっている場所も多く、物の整理には興味があるが、掃除には興味がないことが窺える。生活の痕跡を一つでも残さないようにしているかのようだ。僕の部屋も似たような雰囲気だ。自死を前にして生きる人間は、自然とこうなるのだと悟った。
しばらくして、お盆に急須と湯呑みを二つ載せた彼女が戻ってきた。急須からは湯気が立ち上っている。
急須から湯呑みにお茶が注がれる。烏龍茶のような香りが、僕の嗅覚を刺激した。
「いい匂いのお茶だね」
「お父さんの台湾の出張土産なの」
一口飲むと、まろやかな風味が口の中に広がった。今まで飲んだお茶の中で、間違いなく一番美味しい。死ぬ前にこれを飲めた僕は、もしかしたら幸せ者なのかもしれない。
二人の間に沈黙が流れる。お茶を嗜んでいる間も、これといった会話はなかった。
きっと、お互い何から話せばいいのか迷っていたのだろう。
先に口を開いたのは僕だった。
「君は、どうして死のうと思ったの?」
僕が彼女にずっと聞きたかったこと。ついに、彼女の心の核心に触れる。
「大和君は、想像以上にズバッと聞くんだね」
「こういうのは、単刀直入に聞いた方がいいと思って。それに、もう僕たちの間に、余計な遠慮は不要だと信じている」
これは僕の本心だ。僕たちは死という最終地点を自らの意思で選び、お互いの最期を共有することを約束した。もう、僕と彼女の間には、遠慮も嘘も仮面も必要ない。
理性と焦燥の狭間で揺れていたのだろうか。どこか虚ろな顔色を纏い、彼女は悩んでいた。僕はただ黙って待った。ここで回答を急かせるのは違うと思ったからだ。
そして、彼女は何かを振り切ったような表情を浮かべ、ゆっくりと話し始めた。
「端的に言うなら、人間関係かな……。この前、私が通信制高校に通ってるって話をしたと思うけど、元々は全日制に通ってたの。でも、女子特有の陰湿な空気がきっかけでいじめられて、それが原因で学校に行けなくなった。それで、このままだと中卒になっちゃうから、仕方なく通信制に転校した感じ。それでも心の疲れが回復することはなくて、もうこの世から消えてなくなった方が楽なのではって思い始めて、だんだんとその思いが強くなって、自殺を選んだ感じかな……」
まるで原稿を読んでいるかのように、彼女は淡々と語った。そこに感情はこもっていなかった。自殺理由という、他人に触れてほしくないことなのだから、当然なのかもしれない。
家族の問題でなければ、友人関係だろうと予想はしていた。しかし、いざ現実として聞くと、胸が締め付けられるような痛みを感じた。僕が詳細を尋ねれば、きっと彼女は答えてくれるだろう。でも、彼女の表情は、これ以上言及してほしくないという意思を間接的に示していた。聞きたいことは山ほどあったが、僕は自分の欲望を抑えることを決めた。
「次は大和君の番ね……」
彼女は自分の話を誤魔化すように切り上げ、僕に言葉のバトンを渡した。
「大和君の番」という彼女の言葉に、僕はどこか気落ちした。
僕も彼女と同じで、自分の自殺理由にはあまり触れてほしくない。言葉にするだけでも、胸の奥が締め付けられるように辛い。いや、それよりも、大学受験に失敗したという過去の過ちを認めるのが嫌だという方が近いかもしれない。その事実を口にするだけで、自分の無力さや情けなさが蘇ってくる。
それでも、彼女が話してくれたのだから、僕には話す義務があるし、彼女には聞く権利がある。お互いの最期の一端を担う者として、それぞれの自殺理由は知っておいた方がいいだろう。僕は心の中で、これから話す内容を整理した。
「僕の年齢、覚えてる?」
自分の口から「大学に落ちた」という事実を言いたくなかったから、数学の問題のように、彼女を誘導する形で質問を投げた。
「私の一つ上だったから……十八歳」
彼女の声は静かで、僕の言葉を待っていた。
「普通の十八歳は、今頃何をしていると思う?」
「働くか、専門学校か、大学か……」
「僕はそのどこにも属していない……」
過去と向き合うためには必要なことだと、自分に言い聞かせる。死への願望と生への絶望を知っている彼女なら、僕の自殺理由をしっかりと受け止めてくれる。そう信じて、僕は核心を話す決意をした。
「実を言うと、第一志望の大学受験に失敗したんだ」
「そうなんだ……」
彼女は反応に困っていたが、当然だ。他人の自死理由を聞いて、いい気持ちになるはずがない。僕は否定さえされなければ、それでいいと割り切っていた。共感など、最初から求めていなかった。
「もともと、衰退していくのが目に見えている日本で生きていくことに、大きな不安を感じていた。そして、自分のすべてをかけた大学受験に失敗したら死のうと決意して、受験に臨んだんだ。結果はさっき言った通り、不合格……親には浪人してもう一度挑戦させてほしいと頼んだけど、受験の前に自殺は実行するつもりだよ……」
「意外と単純な理由なんだね。大和君のことだから、不治の病みたいな、もっと大きな理由かと思った」
彼女の口からふいに漏れた「単純」という言葉に、僕の胸は大きくざわついた。
たったひとこと。ほんの些細な言葉の選び方。けれど、それは僕にとって刃物より鋭い傷になった。
――まるで、僕が死を選んだ理由なんて、大したことないと言われているみたいじゃないか。
理屈では、そんなつもりがなかったのだと理解している。彼女が僕を傷つけようとしているわけじゃないことも、頭ではちゃんとわかっている。
けれど心は、そんな理屈を無視して激しく揺さぶられる。胸の奥から、説明のつかない怒りがせり上がってくる。言葉にならないのに、確かに存在する、黒い塊のような感情が腹の底で燃え上がる。
僕は机の上に置いていた荷物をゆっくりまとめ始めた。
「ごめん……帰る」
出てきた言葉はそれだけだった。怒鳴ることよりも、この場を離れることが正しいと思ったからだ。感情をそのまま吐き出せば、彼女との関係は一瞬で壊れてしまう。だから逃げるように席を立った。
しかし僕の行動に気づいた彼女は、目を丸くして声を上げた。
「え、なんで急に帰るの?」
その問いかけが耳に届いても、僕は聞こえないふりをした。
今ここで彼女の目を見てしまったら、心の堰が切れる。冷静さなんて一瞬で吹き飛び、感情のままに彼女を責めてしまうだろう。だから僕は振り向かず、ただ玄関へと歩を進めた。
だがそのとき、強い力が僕の腕を掴んだ。
思っていた以上に力強い。か弱い印象しかなかった彼女の意外な抵抗に、僕は一瞬だけ動きを止める。
「待って!」
必死さの滲む声が、耳の奥に響いた。
振り向くな……。
心の中で何度も自分に言い聞かせる。振り向けばすべてをぶちまけてしまう。振り向いた瞬間、もう二人の関係は取り返しのつかないところに行ってしまう。
……そうわかっていたのに……。
僕は結局、振り向いてしまった。
そこにいたのは、謝罪の色を浮かべる彼女ではなかった。ただ、困惑に眉を寄せている彼女の姿だった。なぜ僕が怒っているのか理解できない、そんな顔。
その瞬間、胸の奥でどうにか抑え込んでいた怒りが、一気に弾けた。
「ふざけるな……」
低い声で漏れ出た言葉は、自分でも抑えが効かないほど震えていた。
彼女の表情がはっきりと変わる。さっきまで浮かんでいたかすかな笑みが跡形もなく消え去り、代わりに恐怖の色が浮かぶ。
「え……大和君、私、何か悪いことした?」
――彼女は悪くない。
そんなこと、頭では痛いほど理解している。悪意があったわけじゃない。ほんの軽い言葉の行き違い。ただそれだけのはずだ。
けれど僕の心は、もう理屈を受けつけてくれなかった。
感情の奔流は止められず、喉の奥から次々に怒りの言葉があふれ出していく。
「君! 自分が何を言ったか覚えてる? いや、きっと覚えてないよね! 君は僕が人生をかけて挑んだ受験を、あっさりと“単純な理由”だと切り捨てた! それは僕という人間そのものを否定したのと同じだ! 君にとっては冗談だったのかもしれない。でも僕には違う! 僕は死ぬほど勉強して、命を削って大学受験に挑んだんだ! その重さを、受験してない君にはわからないだろ!」
叫んだ瞬間、自分の声の鋭さにぞっとする。
怒鳴るなんて、自分の主義に反する行為だった。感情で相手を圧倒するのは愚かだと、今までずっと思ってきた。けれど、このときばかりは我慢できなかった。
僕の言葉に、彼女は床に崩れ落ちた。大きな瞳から涙があふれ、頬を濡らしていく。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
震える声が部屋に響く。けれど僕の心には届かなかった。
謝罪の言葉は耳に入っても、意味を結ばない。雑音のようにただ通り過ぎていく。
「互いを信用できないなら、もう終わりだ。僕は一人で死ぬ」
吐き捨てるように告げて、彼女の手を乱暴に振り払った。
そのまま玄関の扉を開けると、世界は轟音の雨に包まれていた。
激しい雨粒が地面を叩きつける音は、まるで僕の怒りを代弁しているかのようだった。
それでも僕は傘を持たずに、ただ雨の中へと歩き出した。
背後から足音が追ってくる。焦りと戸惑いを含んだ音。
「大和君……ごめん……」
涙に濡れた声が届いた瞬間、胸の奥が揺れそうになった。
それでも振り返らない。振り返れば、本当の意味で負ける気がしたから。
雨に打たれながら歩き続ける。冷たさも重さも、今の僕には感じられなかった。むしろ、この雨が怒りの熱を少しでも洗い流してくれることを願っていた。
家に着いたときには、全身びしょ濡れで、肌に張り付く服が不快だった。両親がまだ仕事で帰っていないことだけが救いだった。こんな姿を見られたら、余計な問いかけを受けてしまう。
シャワーを浴びながら、今日の出来事が脳裏に次々と蘇る。
怒鳴る自分。涙を流し、僕を引き止めようとした彼女。
困惑に揺れる瞳。泣きながら謝罪を繰り返す声。
思い返すほどに、胸が締めつけられる。
――もしかしたら、言いすぎたのかもしれない。
――あそこまで感情をぶつけなくてもよかったのかもしれない。
それでも、後悔はなかった。
むしろ、正直な気持ちをぶつけられなかったら、きっともっとひどい形で関係が壊れていた。
そう思えば思うほど、胸の奥に渦巻く痛みは消えなかった。
母に言われた一言は、胸の奥を不意に突き刺した。
「あんた、最近表情が柔らかくなったわね」
「え……」
夕食の食卓。父は出張で不在。二人きりの静かな食卓に、味噌汁の湯気が立ちのぼり、魚の照り焼きの匂いが漂っていた。テレビもつけていないから、箸が器に触れる音が妙に大きく響く。そんな沈黙を破るように、母はぽつりと呟いた。
僕は平然を装っていたつもりだった。無理やり明るく振る舞い、冗談を混ぜ、元気に見せる演技を繰り返してきた。だが母の一言で、全てが見透かされていたのだと悟る。
「気づいてないと思った? あんた、浪人を決めてからずっと元気なかったでしょ」
その声音は、静かで優しい。責める調子は微塵もなかった。けれどその優しさこそが、僕には苦しかった。母親という存在の恐ろしさを改めて思い知る。心の奥まで正確に言い当てられたわけじゃない。けれど、仮面の下に隠してきた“無理して笑う自分”を、やすやすと見抜かれていた。
僕は箸を止め、視線をお椀から母へと移す。母はただ真っ直ぐに僕を見ていた。
「言葉には出さなかったけど、ずっと心配してたの。……いつかふと、いなくなっちゃうんじゃないかって……」
胸の奥が一気に冷たくなる。
それは、僕自身がずっと隠してきた決意に、母の言葉が触れてしまったからだ。
「でも、最近は少し違うわ。前より表情が柔らかくなった。誰かいい友達でもできたのかしら?」
母の声音には安堵がにじんでいた。僕は反射的に視線を逸らす。
――母の言う“友達”。それはきっと翠のことだ。
翠と一緒に過ごす時間の中で、僕は確かに変わっていた。彼女と交わす何気ない会話、時折見せる真剣な眼差し。あの瞬間だけは、僕の中の「死」への渇望を忘れていられた。
彼女と向き合う時、僕は気づかぬうちに表情を緩めていたのだろう。だから母に気取られたのだ。
「その子のこと、大切にしなさいよ」
母はそう言って、にこりと笑った。その笑みには、心から僕の未来を願う気持ちが込められていた。
――けれど、胸が痛い。
母の望む未来と、僕の選ぼうとしている未来は、あまりにもかけ離れているから。
「何か困ったことがあるなら言いなさいよ……親としてはお金を出して子供の成功を祈ることでしか受験を応援できないんだから」
「ありがとう……もし困ったら、その時は言うよ。今はまだ大丈夫」
声は自然に出たが、中身は空虚だった。母に心配をかけたくなかった。ただそれだけだ。ここで自殺の意思を汲み取られてしまったら、きっと母はものすごい形相で僕を止め、自殺という結論に至らせてしまった自分を責めるだろう。
親が悲しむ姿など見たくない。せめて悲しむのなら自分が物理的に観測できないところで悲しんでほしい。
夜。布団に潜り、電気を落とす。遮光カーテンに覆われた部屋は真っ暗で、天井の輪郭すら確認できなかった。闇が僕を押し潰す。
胸を締めつけるのは、やはり喪失感だった。
翠という存在が、僕の中でどれほど特別だったか。母の言葉で改めて痛感させられた。彼女と過ごした時間が、僕にとって幸せを感じる細い糸だった。だがその糸はもう切れてしまった。
――僕たちの契約は、ここで終わる。
そして僕は、一人で死ぬ。
母の温もりに包まれた言葉を受けた直後だというのに、僕の心は冷たい空洞のままだった。むしろ母の優しさは、その空洞をより際立たせた。
喪失感に駆られていた。それは多分彼女という特別な存在を失ったからだと思う。しかし、この感情に恋愛的な意味はなく、自分の大切にしていたものが突然消えてしまって、もう戻ってこない喪失感に近い。
きっと僕達の契約はここで終わる……そして僕は一人で死ぬ……。
今後の短い人生での生き方について目を瞑りながら考えていると、僕はいつの間にか眠りへと落ちいていた。
眠りについた時間が早かったせいか、ふと目を覚ますとまだ五時前だった。
部屋は真っ暗だが、時計の針は確かに動いている。胸の奥に重く沈んだ感覚を抱えたまま、布団を抜け出し、窓を開ける。東の空には、淡く滲むような朱が差し込んでいた。四月とはいえ、早朝の冷気は容赦なく頬を刺す。吐いた息が白く揺れ、やけに孤独を強調した。
その時、机の上に置いていたスマホが目に入る。ためらいながら手を伸ばすと、ロック画面には彼女――翠からの通知が並んでいた。
>昨日はごめん
>無責任な言動で大和君を傷つけて
>ちゃんと謝りたい
>大雨の中帰っていったけど風邪引かなかった?
>大丈夫?
>図々しいお願いかもしれないけれど先に死なないでほしい
>私は大和君と死にたい
僕は既読をつけない。画面を見つめるだけで胸が締めつけられる。まだ昨日の出来事を整理できていなかったからだ。翠の言葉は確かに僕を傷つけた。しかし同時に、自分が彼女を拒絶した瞬間の記憶も、頭から離れてくれない。
――もし、昨日の出来事で彼女との関係が終わるのなら、それまでだ。
そう割り切るように自分に言い聞かせる。お互いの顔色を窺い、ご機嫌を取り合うだけの表面的な関係を続けるくらいなら、いっそここで終わった方がいい。僕はそう思ったし、きっと彼女も同意するはずだ。
それから一週間、僕は家から一歩も出なかった。何をして過ごしていたのか、自分でもよく覚えていない。時計の針の音がやけに大きく聞こえる部屋で、ただただ時間に身を任せ、自分の気持ちが自然に変わるのを待っていた。
母には心配された。けれど僕は「季節の変わり目で風邪を引いただけ」と言い訳をしてやり過ごした。父は出張から帰宅するや否や、「体調管理がなってないからだ」と叱責した。僕の弱さよりも、自己管理の甘さを責める父らしい反応だった。けれど、その言葉が胸に刺さる余裕すらなかった。
その間も、スマホには彼女からの通知が残り続けていた。画面を開くたび、そこにある文字列を見ないふりをする自分が情けなくて、ただ目を逸らした。あれ以降、彼女からの連絡は途絶えている。
――もしかして、もう先に自殺してしまったのではないか。
その考えが何度も脳裏をかすめるたび、息が詰まった。けれど確認する勇気もなかった。もしそれが真実だったら、僕はどうすればいいのか分からなかったからだ。
彼女と最後に会ってから、十日が過ぎた。
その朝、僕はようやくスマホを手に取り、震える指で画面を開いた。長く放置していた通知に既読をつける。心臓が強く跳ねる。
そして、ためらいがちに文字を打ち込み、送信した。
>連絡をしばらく無視していてごめん
返信はすぐにあった。
>良かった生きてて。私に黙って勝手に契約解除したかと思ったよ……そして改めて言うけどあの日は本当にごめん
>あの日は僕も言いすぎた。君が悪意なく言ったのくらいわかってたのに……あの時は頭がいっぱいいっぱいで……
>大和君は悪くない。君が本気で悩んでいた自殺理由をバカにした私に責任がある……こんな私を許してほしい。そして私との契約を続行してほしい
文字からでも、彼女が必死に反省しているのが伝わってきた。言葉のひとつひとつに、後悔や不安や、僕を繋ぎ止めようとする焦りがにじんでいた。
けれど、スマホの画面に並ぶ平坦な文字列だけでは、彼女の本当の感情を掴みきれない。彼女がどんな声色で、どんな表情でこの言葉を発しているのか……僕には想像するしかなく、それが余計に胸をざわつかせた。
きっと会わなければならない。そうでなければ、僕は前へ進めない。
死ぬにしても、生きるにしても、彼女と顔を合わせて話さなければ……。
だから僕は、まだ自殺できない。
それは彼女との契約を続行するにしても、解除するにしても同じだった。彼女と向き合い、互いの存在を確かめた上でなければ、終わりを選ぶことすらできないのだ。
>君と契約を続けるかどうかにはついては保留にしたい……そして、一度会って話して結論を出したい
>わかった
>今から図書館で会える?
>大丈夫だよ
>なら今から会おう
僕はすぐに支度をした。不要なものは一切持って行かない。ただスマホと財布だけをポケットに突っ込んだ。
自転車を漕ぎ出すと、冷たい風が肌を打った。十日ぶりに目にする街並みは、どこか眩しく見えた。決して季節や天気のせいではない。ただ停滞していた時間が、ようやく動き始めたように思えたのだ。胸の奥で燻っていたものが、今ようやく燃え上がろうとしている……そんな錯覚すら覚えた。
図書館に着くと、僕は足早にいつもの休憩スペースへと向かった。階段を駆け上がり、最後の角を曲がる。そこに、彼女はいた。
うつむき加減で座っていた彼女は、僕に気づいた瞬間、大きく息を呑み、まるで堰が切れたかのように立ち上がった。
「本当に……あの日はごめん。私なんて……大和君に謝ったらいいのか……」
僕に近づくや否や、彼女は謝罪から入った。
涙目で僕を見上げるその姿は、痛々しいのに、同時に目を離せないほど美しかった。
胸の奥に硬くしまっていた言葉が、不意に口をついて出る。
「……メッセージでも言ったけど、僕も大袈裟に解釈した。だからその点は謝る、ごめん。でも、同志である君に、自殺理由を否定されたことは想像以上に堪えた。君にとってはくだらないことでも、僕にとっては人生を懸けてきたものなんだ。その重さだけは忘れないでほしい」
あの日、絶対に謝らないと決めていたのに、気がつけば「ごめんなさい」を口にしていた。きっと、彼女の誠意に僕の頑なな決意が崩されたのだろう。
僕の言葉を聞いた瞬間、彼女は堪えきれずに泣き崩れた。膝をつき、両手で目をこすりながら、子どものように嗚咽を漏らす。その姿に僕の胸は締めつけられ、自然と手が伸びていた。頭に触れ、髪を優しく撫でる。彼女の震えが、掌を通して心臓にまで伝わってくる。
「……良かった。本当に良かった。もし大和君に先に死なれてたら、私……。君と会えない十日間で、どれだけ大和君が私の余生を支えてくれてたか思い知った。もう、大和君と最期まで離れたくない」
普通の人からすれば、この言葉は限りなく恋の告白に近いのかもしれない。だが僕にとっては、それ以上に重い意味を持っていた。
――彼女は、死という最後の瞬間まで僕と共にいることを望んでいる。
その事実は、僕の中で決して軽くない、ひとつの“救い”だった。
「僕も君としばらく離れて、気がついたよ。早乙女翠は……僕にとって、とても大切な存在だって」
言葉にした瞬間、自分の胸の奥にずっとあった確信が、はっきり形になった気がした。
翠は涙で濡れた頬を上げ、真っ直ぐに僕を見る。
「それって……恋愛的な意味で?」
わずかに期待を滲ませた声音。けれど僕は、苦笑いを浮かべて首を振る。
「断固として違う。……せっかくいい雰囲気だったのに、君が恋愛をねじ込んだせいで台無しだよ」
皮肉を込めて笑い飛ばすと、翠は「知ってる」とあっさり肯定し、袖で涙を拭った。
そのやり取りの軽さに、胸の奥が少しだけ温かくなる。
二人でベンチに腰を下ろすと、彼女はぽつりと呟いた。
「……既読つかない間、本当に心配したんだからね。大和君が契約破棄して、先に死んだんじゃないかって」
先に死んだんじゃないか心配していたのは僕の方だよ、とは言わない。
「僕は契約を守っただけだよ。君と契約を解除しない限り、僕は先に死んだりしない」
翠は目を見開き、かすかな笑みを浮かべる。
「あの約束……覚えててくれたんだ」
屋上で交わした三つの約束。
一つ目は、断りなしに先に死んではいけないこと。
二つ目は、もし生きる気持ちが芽生えたなら、迷わず契約を解除すること。
三つ目はお互いを好きなってはいけないこと。
忘れるはずがない。忘れてはいけない。
こうして再び確かめ合った。
――お互いが互いにとって大切な存在であること。
――それでもなお「死にたい」という衝動がお互いに消えていないこと。
その矛盾を抱えながらも、僕の心は奇妙に澄んでいた。契約を最後まで遂行し、彼女と共に終わりを迎える――その思いは、むしろ以前よりも強く、揺るぎないものになっていた。

