ふと見上げた夜空は、雲ひとつなく澄み渡っていた。
 満月はあまりに明るく、星々の存在をかき消すほどに輝いている。その光は冷たく硬質で、まるで僕を一人照らし出し、逃げ場のない孤独を突きつけてくるようだった。
 市民病院の屋上は、ただ風の音だけが支配している。病棟の窓にはいくつか明かりが点いているが、そこにいる人の気配は僕には届かない。
 屋上に続くただ一つのドアを閉めた瞬間、僕はすべての人間から切り離されたような感覚に陥った。世界に取り残されているのは、僕ひとりだけだ。
 眼下に広がる街の灯りは無数に瞬き、道路を走る車やバスは絶え間なく行き交っている。だがそのすべては遠すぎて、僕にはただ小さな点が動いているようにしか見えない。笑い声も話し声も届かない。確かにあの光の中で人々は生きているのに、僕には決して触れることのできない別の世界の出来事に思えた。
 夜風が頬を打つたびに、体の芯まで冷たさが染み込んでいく。上着を持ってこなかったことを後悔しつつも、いまさら意味はない。むしろ、この寒さは僕がひとりであることを教えてくれる。慰めも、温もりも、ここには存在しない。
 見下ろせば、車も人も、どれも豆粒ほどの光。そこに確かに生きる人々がいて、それぞれに夢や不安を抱えているのだろう。春を迎えた街は、新しい出会いに胸を躍らせる者もいれば、未知の環境に怯える者もいるはずだ。それでも彼らは歩き続ける。未来を信じて、明日を信じて。
 ……だけど、僕は違う。

 彼らの持つ明日が、僕にはもうない。

 胸の奥に渦巻くのは、ただひとつ。
 早く終わらせたい……。

 僕の人生を……自分の手で……。


 死にたい気持ちが芽生え始めたのはそう遠くない。
 大学受験の勉強を始めたあたりであろうか、世の中に対する知識をつけるにつれて自分が生きる未来に大きな不安を抱くようになった。年金問題、少子高齢化、地球温暖化……。自分の努力ではとうに解決できない問題で溢れかえる暗い未来で生きようとは思えなくなっていった。仮に第一志望の大学に受かって、いい企業に就職できたとしても、幸せ以上に、苦痛と不安は際限なく生じる。
 僕はこの二つを早めに取り除きたいと願った。そして、そのための最善の手段は「死」しかない。そう結論づけた。
 しかし、僕も人間だ。いざ自分の手で人生を終わらせようとしたことが何度かあった。誰もいない深夜のマンション屋上の柵を飛び越え、飛び降り自殺を試みてみたり、駅のホームから通過電車に飛び込もうと決意したはいいが、言語化できない死の恐怖が本能的に体を乗っ取った。あと一歩踏み出せばこの世から消えることができるのに体が動かない。心や脳は恐怖を強制的に忘れ、飛び込めと命令している。あとほんの少し……本当に僅かな勇気を搾り出せば、待ち望んだ死を自分のものにすることができる。そんなこと自分でもわかっている……だが本能は嫌というほど正直だった。意思に反して体は脳の指令を拒否し続けた。脳と体の生をかけた葛藤は結局体が勝ち、気がついた時には帰路についていた。帰路の途中は声を出さずに泣いていた。自分の死ぬ瞬間すら自分で決定することができない意思の弱さに心底嫌気がさした。
 家に帰ってから自室の電気を全て消して夜な夜な枕に向かって泣き続けた。親にバレないように声は抑えて……。
 死への恐怖を思い出したからではなく、自分の決定能力の無さに絶望してだ。そしてまたこの絶望が死にたい欲をさらに加速させる。
 死を固く決意し、死の直前まで行くのだが、結局自殺は実行できない。この悪循環によって自己肯定感など完全に消えていた。
 いつの日か第一志望に落ちたら死のうと思い始めた。死を願うのは受験のストレスと不合格への拒絶だと信じていたからだ。合格すれば自己肯定感が回復し、生きたいと思えるに違いない……。不合格のときは自分の思うがままにうんと高い建物から飛び降りよう。
 死にたいという感情に無理やり蓋をし、勉強を淡々と続けた。この感情が原因で、勉強が疎かになり不合格とならないよう自分を誤魔化し続けた。
 手応えはあった。もちろん希望的観測も含まれていたかもしれない。入試が全て終わった後、会場の外で仰いだ夜空は曇っており、月や星の光はなかったが、今まで見上げてきた夜空の中でも最も美しかった。この夜空の元、自分は春から大学生になるのだと勝手な期待をふくらませていた。
 結果、画面に映ったのは「不合格」の文字だった。一文字余計だった。自分の努力やかけてきた時間が全て否定された気がした。不合格という客観的な結果だからこそ言い訳などできるはずない。しかし、自然と後悔や悔しさは湧いてこなかった。むしろこれでようやく不安と苦痛に満ち溢れた世界から旅立つことができるという嬉しささえあった。生と死の間で揺れ動いていた僕の感情は死への願望に振り切れた。もう戻ることはないだろう。
 親には浪人してもう一年チャレンジさせてほしいと土下座して頼み込んだが、もちろんそんな意志など全くなく、形式上の土下座に過ぎなかった。額を床につけているその瞬間も僕は楽に確実に死ねる方法を頭の中でシュミレーションしていた。
 父親からは金銭面で大きく責められた。予備校代や受験費用諸々を合計すると百五十万をゆうに越えている。「お前にいくら金をかけたと思ってるんだ! 返せ!」と執拗に怒鳴られた。子供にはどうにもならないお金のことを持ち出されたら何も言い返せないので、僕はひたすら謝るだけだった。
 母親は僕の努力を擁護してくれた。「子供の前でお金の話しないで」と反論してくれたが、稼ぎが少なく立場が弱いため結局父親の批判は無くならなかった。それに加えて、僕の不合格以降父親はずっと機嫌が悪く、家庭内の空気はどんどん悪化していった。気を休めるはずの自宅がいつの日か父親の言動を伺い、忖度する地獄の空間に変わった。ただ僕には父親の気持ちも理解できる。自分が一生懸命稼いだお金が紙切れになったのに加えて、期待を寄せていた息子が最悪の結果で終わったんだ。そして、来年も受験をするとなるとさらにお金を要する。私立大学の理系学部にでも進学するのならば高額の学費がかかる。不況や物価高に加え、父親は定年が近いため給料面での心配も大きいのが伺い知れた。僕にも金銭面でこれ以上親に負担をかけたくない気持ちが芽生え、これも自殺の意思を加速させる大きな一因になった。
 列車への飛び込み、首吊り、練炭自殺、入水自殺と様々な自殺方法があるが、後遺症が残りにくく一瞬で逝ける飛び降り自殺を僕は選んだ。そして、「今度こそは成功させてやる」という決意を心の奥底で静かに燃やし、ずっと屋上から飛び降りるタイミングを見計らっていた。近所のマンションの屋上から飛び降りてもよかったのだが、自殺したという噂が広がり、僕の死後に家族の肩身が狭くなるのだけは避けたかった。自分の死によって他人の安念を脅かしたくないのが僕のポリシーだ。
 自殺の瞬間をずっとうかがっていた。



 神様は僕に味方してくれたらしい。
 三月下旬、みぞうち付近の痛みを覚えた僕は近くにある市民病院を受診した。軽い盲腸と診断され、手術のため二日間入院することになった。病気を知った母親は命に別状がないにもかかわらず過剰に心配してくれた。父親は僕の体よりも治療に関わる諸々の費用を危惧しているようだった。
 当人の僕は自分でも怖いぐらい落ち着いていた。「死」について膨大な時間をかけて検討し、覚悟ができていたため体にメスを入れることぐらいなんてことない。むしろ、命を脅かす大病であることを密かに祈りながら診断結果を聞いていた。大病ならば自殺よりリスクを取らずに確実に死ぬことができるし、周りの人間にあらぬ心配をかけなくて済む。だが結局、自分の手で最期を決めなければならないので、神は肝心な所で意地悪だ。
 じきに死ぬのだから手術は必要ないとは当然言えず、僕は医者に従って入院する運びとなった。意味のない入院費でまた親に迷惑をかけてしまう……。
 手術の前夜に自殺しようと決めた。
 病室を去る時、母親はただただ「手術頑張ってね」と声をかけてくれた。これが最期に交わす言葉なのかと思案すると少しだけ申し訳なさが芽生えてきたが、その思いに蓋をして「頑張ってくる」と嘘の笑顔と決意を振りまく。
 セットした目覚ましのバイブ音が、浅い眠りについている僕の鼓膜を刺激する。目覚ましといっても今は朝ではない。まだ覚め切っていない目を擦りながらスマホで時刻を確認すると深夜の二時をさしていた。なんでこんな時間に目覚ましをセットしたのだろうかと一瞬思案したが、当初の目的を思い出し、眠気が一気に過去のものとなった。そう、自殺を決行するためにこんな深夜に起きたのだ。
 病室には心電図の機械音だけが一定のリズムで空気を揺らしていた。同室の患者全員が寝静まったのを確認して音を立てずに部屋を出る。
 封筒を携行して屋上に向かった。封筒には病室で密かに書いた遺書が入っている。
 ちゃんと飛び降りることができるかの不安、ようやく生を切り捨てることができる期待、自分の体が地面に打ちつけられる恐怖、あの世に行くことができる高揚……。
 せめぎ合い且つ相反するこの不可思議な気持ちに名前をつけたかった。
 昼間に下見で確認したため、多少暗くても屋上までの順路は無事確保できた。屋上に続く最後の扉を開けた瞬間、強風が顔を直撃し、髪を吹き上げる。あまりの強さに思わず目を細めてしまった。
 屋上のフェンスに手をかけて屋上から街を見下ろす。高さは二メートルほどあるが有刺鉄線はないので越えることは容易い。このフェンスを超え、数歩進むと真っ逆さまに落下してしまう。
 下では、街灯や車のテールランプが小さな光の粒となって動き回っていた。人々は忙しそうに行き交い、どの顔もそれぞれの人生を必死に生きている。そんな光景を眺めながら、僕は思わず小さく笑った。どうせ誰もが最後は消えてしまうのに……。
 フェンスを越えようとしたその時、不意に気配を感じた。
 ……まさか、僕を止めに誰かが追いかけてきた?
 胸が跳ねる。フェンスの先をよく見ると、そこに立っていたのは入院着を着た一人の人影だった。既にフェンスを乗り越えており、屋上のヘリギリギリに立っている。
 風に髪が揺れ、夜空の下でその背中はやけに儚く見えた。後ろ姿はどこかぎこちないが、何かを決心したかのように実際より大きくも見える。僕と同じく、まるで今から自殺するかのように……。
 腰まで届く長い髪が、強い夜風にあおられて唸りを上げる。月夜に光り輝いた横顔はあどけなさを残していて、きっと僕と同じくらいの年頃だろうと直感した。

 その姿には、どこか現実離れした神秘と美しさが宿っていた。
 僕が声をかけるべきか迷っていると、先に彼女の方が口を開いた。

「君も……私と同じで、ここに来たのは死ぬため?」
 あまりにもはっきりとした言葉に、喉が詰まる。
 どう返していいかわからなかった。

 彼女の声は今にも風にさらわれて消えてしまいそうなほど透明で、希薄で儚い。
 僕は顔を向けて意志の疎通を図る。
 視線を合わせた瞬間、心臓が跳ねた。大きな瞳が月明かりを映し、白い肌は陶器のように傷一つない。さらさらと流れる髪からはほのかに甘い香りがして、夜風がその香りを僕のもとへと運んでくる。

月に照らされるその姿は、まるで辞書に載っている「美しい」という言葉の見本そのものだった。

 僕の人生で出会った誰よりも……間違いなく、彼女は一番整った存在だった。
 ただ、僕は彼女の容姿に見惚れていたわけではない。すぐに本来の目的を思い出す。
「そうだよ……僕は自殺するためにここに来た。どうやら君も同じみたいだね」
 彼女の静かな雰囲気から警察や病院の関係者を呼ばれ、自殺を止められることはないだろう。直感的にそう感じた。そして、彼女からは僕と同じ、死の匂いがする。それは自殺を決意した人にしか決してわからないどこか冷たくて投げやりな気配。
 だから正直な気持ちを吐露してもいいと思った。死への憧れと、生きる辛さを知っている自殺志願者なら僕の自殺を阻止することなどしないはずだ。
「ならさ、少し話そうよ」
 意外だった。質問の解答を得て満足した彼女はすぐに飛び降りると予想していた。まさか、対話を提案してくるなんて……。
 僕は「わかった」と頷き、彼女の提案に乗る。
 きっと僕は興味本位から彼女の言葉を受け入れたのだろう。
 自分と同じく自らの手で生を捨てようとしてる同胞に三次元で初めて直面した。今までは同じ気持ちを共有している人を一方的にネットで探し、一時的な安心感を覚えていたが、長期的には周りに相談しなかったため疎外感を感じていた。だからこそ、こうして対面で出会った自殺志願者である彼女に強烈な親近感と安堵を覚える。まるで、ずっと一人だと思っていた暗い部屋に、もう一人、同じ光を灯した人が現れたみたいに……。
 ほんの少し生きる時間が伸びるだけだ……話すだけなら損はないだろう……。
 彼女はフェンスを乗り越えて、はだけた入院着を整えながら僕に近寄る。
 僕たちは近くのベンチに肩を寄せ合うように座った。まるで通勤電車の中みたいに、僕たちの間にはわずかな隙間しかなかった。
 近くで見ると、彼女の容姿の良さが一層はっきりとわかった。雑誌やテレビに出てくる芸能人が、そのまま現実に出てきたような気分だ。けれど、その完璧な美しさを打ち消すほど、彼女の表情はぼんやりとしていた。それは、自殺を寸前で思いとどまった時に、鏡に映った自分と同じ顔。ドラマやアニメに出てくるような作り物の表情とは違い、本当に生気が失われている。当然だ、彼女はついさっきまで、本気で自分の命を断とうとしていたのだから。心は死を望んでも、体がそれを拒絶する感覚を、僕はよく知っている。
 何から話せば良いのかと考えていると、先に彼女が口を開いた。
「君の名前は?」
 その美しく非の打ち所のない容姿に違わない透き通った声だった。声からも美しさが漏れている。
 一瞬、自分の名前を言うのをためらった。でも、彼女の記憶なんて、僕らの命とともにすぐに消えてしまう。そう思ったら、言ってもいいかと思えた。
宇佐美大和(うさみやまと)。君の名前は?」
早乙女翠(さおとめすい)。年齢は十七歳。君は何歳?」
「僕は十八歳」
 かなり大人びていたため、僕より年下の高校生には見えなかった。年上だと言われても違和感がないくらいだ。大学生だと言われた方がしっくりくる。でも、どこか危うくて、まるでガラス細工のように儚い雰囲気があった。
 しばらくの間、沈黙が僕たちの間を埋め尽くした。
 こんな風に誰かと向き合って話すのは、いつぶりだろう。不合格を突きつけられてしばらくの間、ずっと孤独だった。自分の心を隠して、誰にも見せないように生きてきた。だから、こうして同じ気持ちを共有する相手が目の前にいることが、不思議で、少しだけ嬉しかった。この短い時間だけが、僕にとっての最後の救いになるのかもしれない。
 そして、僕たちの短い関係は、これで終わりだろうと思っていた。自殺を決行する前に、同じ気持ちを持つ人と出会えた。この少しだけ新鮮な思い出を胸に、苦痛のない場所へ行けるだろうと……。
 しかし、そんな僕の安らぎの地への片道切符は、彼女の次の言葉で消え失せた。
「私たち、契約を結びましょう」
 契約?
 この二文字が頭の中を何度も反芻した。
 この子は何を言っているんだ……。僕の頭は混乱した。死の直前に、なぜそんな言葉が出てくるんだ。
 僕は冷静に突っ込む。
「嫌だよ。僕は今からこの世を去るんだ。契約なんてお断りだ。現世に余計な荷物は残したくない」
 嫌な予感がした。彼女はきっと、僕の死を邪魔するつもりだ。そう思った瞬間、僕は反射的に内容に関係なく否定した。合理的かどうかなんて、どうでもいい。死への障害となるものは、すべて排除する。
「今から言うことは、あなたにとっても打算的だと思う」
 彼女は椅子から立ち上がり、僕に手を差し出した。
 照明に照らされ、彼女の顔がより鮮明に見えた。その瞳の奥に、死を決意した者だけが持つ、強い光が宿っているのを感じた。
「私たち、一緒に死にましょ」
 彼女は「一緒に死ぬ」という恐ろしい提案を、まるで何でもないことのように躊躇なく口にした。僕はその態度に呆然とする。普通、「死」について話すときは、誰にも知られたくない秘めた思いを伝えるように囁くものだ。しかし、彼女はその価値観をぶち壊し、さらに笑顔まで浮かべている。その笑みに、僕は寒気すら覚えた。僕とは違い、彼女の「死」への覚悟は振り切れている。そう思わざるを得なかった。
 沈黙が僕の心を駆け巡る。時間が止まったような感覚。視界から色が失われ、世界がモノクロに変わる。きっと、彼女のとんでもない提案を脳が理解しきれなかったからだ。
 一緒に死ぬ……この子、何を言ってるんだ……。
 一見変わって、彼女は真剣な表情を宿し、僕の目をじっと見つめていた。その瞳の奥には、どこか冷たく、決意に満ちた光が宿っている。
「契約を結んで……そして私たちは一緒に自殺する。最期を一緒に迎えるの」
 言葉の意味を理解するのに、数秒かかった。
 僕の心臓がどくりと大きく脈打つ。それは、恐怖とも怒りともつかない、不快な動悸だった。
「嫌だよ。僕にとってメリットが何もない。君のせいで、僕の安らかな最期が邪魔されるリスクさえある」
 僕の精一杯の抵抗に、彼女の表情は微動だにしなかった。彼女はきっと、僕の言葉を「理解」しようとはしていない。ただ、自分の計画を遂行することだけを考えている。まるで、僕という存在が、彼女の物語の脇役にすぎないかのように……。
 生殺与奪の権を、他人に与えるのは嫌だ。生まれる権利すら与えられなかったのだから、死ぬ権利くらいは自分で守りたい。僕はただ、静かに、誰にも邪魔されずに、この世界から姿を消したかった。それなのに、彼女は僕の最後の自由さえも奪おうとしている。
「大和君は、どうやって死ぬつもりなの?」
 彼女の質問は、あまりにも唐突で、そして、僕の心の中の弱々しい抵抗をあざ笑うかのようだった。
「屋上から飛び降りるつもりだけど」
 素っ気ない返事しかできなかった。僕は、彼女の視線から逃れるように、そっと目をそらす。すると彼女は、まるで僕の選択を品定めするかのように、さらに深く問いかけてきた。
「なんで、その方法を選んだの?」
 静かに問いかける彼女の声に、僕は答えを返せない。彼女は僕の孤独に寄り添うふりをしながら、僕の秘密を暴こうとしている。その行為が、僕にはたまらなく恐ろしかった。
「即死できて、後遺症が残るリスクが一番少ない方法が飛び降りだと確信しているから」
 僕はこの結論に至るまでに、様々な方法を考えた。
 自殺において最も怖いのが意識が飛ぶまで感じ続ける痛みと、失敗した時に残る後遺症だ。特に後者は絶対に避けなければならない。後遺症が残った状態でさらに生き抜くなんて想像もしたくない……。いかに即死でき、後遺症が残らず、そして家族に迷惑がかからないかを軸に思案した結果、導き出した最適解が飛び降りだ。
「全く私と同じ考えだね。やっぱり希死念慮ある人って同じ結論に辿り着くのかな」
「いや、そんなことはないと思うよ。屋内で死にたい人は首吊りを選択するだろうし、綺麗な状態で家族に死体を残したい人は練炭を選択するだろうし、賠償金関連で家族に迷惑かけたくない人は電車への飛び込み自殺は選択しないと思う。結局みんな何かしら自分が死んだ後の現世を考えて最期を選択するんだよ」
 僕だってそうだ。両親への恨みはいくらかあるができるだけ迷惑はかけたくない。迷惑をかけない一番の方法は自殺をしないことだ。だが、それはできない。生きたくない……死にたい……。
「金言だね。私は自分中心で考えちゃうから死後に家族や友人がどう思うかなんて考えなかったな。他人の悲しみを考えて行動できる人は尊敬しちゃうな」
「そもそも家族や友人の悲しみを考えるのなら自殺なんて選択してない。みんな妥協できる最大限の選択を選んでるに過ぎないよ。死後の遺族や友人の悲しみを考えるのなら自殺しないのが最良策だけど、それができないから他のところで配慮を示してるにすぎないんだよ」
「大和君は私と違って、自分の選択肢を最大限に考えて意思を決定できている。その点で君は優秀な自殺志願者だよ」
 自殺について同じような考えを持つ彼女に、僕はどんどん親近感を覚える。そして、やはり彼女は僕の自殺を止める存在ではないと確信した。むしろ、僕の孤独と恐怖を埋めてくれる、最後の同伴者になってくれるのかもしれない。
 彼女の提案には乗り気じゃなかったけど、話を聞いて損はないだろう。どうせもうすぐ死ぬんだから……。
 そう思いながらも、心の奥底では、その提案に少しだけ期待している自分がいた。もちろん、そんな感情は表には出さないが……。
 僕の考えは、彼女の影響で、ゆっくりと、しかし確実に変わり始めていた。まるで凍てついていた心に、小さな火が灯ったみたいに……。
「それで、早乙女さんの提案する契約の詳しい内容を聞かせてもらえないかな」
 僕の言葉に、彼女はきょとんとした顔をした。さっきまで否定しかしてこなかった僕が、いきなり興味を示したことに驚いたのだろう。その表情が、ほんの少しだけ幼く見えて、胸の奥がきゅんとした。
 彼女は原稿を読むように淡々と提案を述べた。
「これからしばらくの間、私たちは一緒に行動する。そして、より楽に、より確実に死ねる方法を探し出して、お互いが同意したらそれを実行する。それ以上でもそれ以下でもない……」
 悪くない提案だ。でも、自殺方法の最適解を導き出した今の僕にとって、この契約のメリットはかなり薄い。
「今のところ、君と僕は飛び降りが一番確実に死ねるって結論を出している。なのに、わざわざ生きる期間を延長してまで、君と契約を結ぶ利点があるとは思えない」
 僕の意見を聞いた彼女は、ニヤリと笑った。あざとさ全開で、下から僕の顔を覗き込んでくる。僕は反射的にのけぞる。
「一人じゃなくて、誰かと最期を迎えられる。こんな素敵なこと、ないと思わない、大和君」
 僕は否定できなかった。
 マンションの屋上から飛び降りようとした時、足がすくんで実行できなかった悔しさ、死への恐怖、自分への絶望は今でも鮮明に覚えている。もし、誰かと一緒だったら……。その考えが、僕の心を揺さぶった。二人なら、あの恐怖に打ち勝てるかもしれない。二人でなら、きっと確実に死ねる。
 気づけば、僕は彼女の提案に、そしてその考えに、惹かれてしまっていた。それは、理屈ではなく、感情だった。もう一人じゃない、という安堵。同じ痛みを分かち合える人がいる、という喜び。
「わかった……僕は早乙女さんと一緒に死ぬという契約を結ぶよ」
 僕は結局、同意してしまった。それは、死への恐怖から逃れるためでもあり、彼女という存在に、わずかでも希望を見出してしまったからかもしれない。
 彼女は少しだけ晴れた顔をした。先ほどのうつろな表情とは違い、どこか人間らしさがにじみ出ている。でも、僕は違和感を拭い去れなかった。
 死ぬのを思いとどまった直後の自分の顔を鏡で見たことのある僕にはわかる。彼女のその表情は、これから死のうと決意した人間が浮かべるものとは違う。まるで、何か大きな不安から解き放たれたような、ほっとした安堵。でも、なぜそんな顔をしているのか、僕はわかっていた。自分の苦しくて塞ぎ込んだ気持ちを理解してくれるのは、同じ同志しかいない。誰にも言えない痛みを、誰にもわからない孤独を、ずっと一人で抱えてきた。死にたい気持ちを理解してくれない人に話したところで、楽になるどころか、考え方まで否定されて咎められる。そんな悪循環に陥るからこそ、僕たちみたいな人間は、誰にも相談できない。だから、同じ意見を共有できる相手に出会った時の喜びは計り知れない。それは、まるで暗闇の中で、自分と同じ光を見つけたような感覚。自分はおかしくなんかない、孤独じゃない。そう認識できたことが、何よりも嬉しかった。
「それから、契約を結ぶ上で三つの約束を守ってほしい。一つ目は、断りなしに先に死なないこと。二つ目は、もし生きる気持ちが芽生えたら、この契約はすぐに解除すること。三つ目は……お互いを好きになってはいけないこと」
 右手の人差し指と中指で二を作り、それを僕に向けた。彼女の眼差しは真剣そのものだった。
 契約内容をすべて聞いたが、特に大きなデメリットは見当たらない。これなら契約しても問題なさそうだ。

「少なくとも最後の二つに関しては、ありえないから安心してほしい。僕は死への思いを固めたから、生きようと気持ちが変わるなんてことはないし、君を好きになるなんてもっとない」

 僕がきっぱり否定すると、翠はほんの一瞬だけ目を瞬かせ、それから小さく肩をすくめた。

「そっか。……ちょっとくらい期待したのにな」

 わざと軽口を叩いたように見せながら、その瞳の奥にかすかな影が揺れた気がした。
「……でもね、大和君を選んだのは、そういう君だからなんだ」

 翠はふと、淡々と告げる。

「下手に優しくされたり、仲良くなりすぎたりしたら、きっと現世に未練が残っちゃう。だから、君となら余計なものを作らずに最後まで一緒にいられる気がしたの。……女の直感だけどね」

 その言葉は、冗談めかした調子に隠されながらも、かすかに胸の奥を締めつけるものがあった。
 口では笑っていたけれど、三つ目の条件だけは胸の奥に小さな棘のような違和感を残した。彼女と僕が互いを好きになるなんて、現実味はまるでない。恋愛に心を割く余裕なんて、とっくに置き去りにしてきたはずだ。――それでも、彼女のまっすぐな瞳を見ていると、その可能性を最初から封じられることが、なぜかほんの少しだけ寂しく思えた。
「なら、契約成立だね、宇佐美大和君。これから死ぬまでの短い期間、契約者としてよろしくね」
 そう言って、彼女は握手を求めてきた。だが僕はそれに応じなかった。自分の死を完全に他人に委ねるような行為は、まだどうしても受け入れられなかったからだ。
 その日は連絡先を交換して解散となり、彼女は病院のどこかへ消えていった。



 僕は無事盲腸の手術を終え、退院した。
 平静を装いしばらく生きることを決意した。
 あの日以降、彼女との再会はまだ果たしていない。