玲はアトリエに入って行った。
玲になんて声をかけたらいいかわからなかった。
今の玲にその場凌ぎの慰めの言葉をかけても意味がないと思った。
 第一玲がそんな慰めを望んでいないだろう。
けれど放っておくことも出来ず、玲に続いてアトリエの中に入って行った。

 「玲………」

 俺は声をかけた瞬間、自分の目に飛び込んできた光景に息を飲んだ。

 前に玲が描いていた、大きな"夜の絵"だった。
いつのまにか、玲はこの大きな絵を完成させていた。
 俺はこの絵の中に引き摺り込まれる様に、全てを奪われた気がした。
どこまでも続くような暗闇の中、星や街の光が人間の"命"のように光輝いている。

 これは暗闇の中の希望だ。
見つけられそうで、見つける事が出来ない。掴めそうで、掴めない。
そんなもどかしさや、焦燥感を感じる。

 これは、玲の願望なのかもしれない。
深い暗闇の中で、自分の希望を見つけ出したい、けれど絶対に手にする事は出来ない。玲はそれを絵に描いているのだと思った。

 玲はアトリエの椅子の所に屈んで泣いていた。
俺は側にいって玲の頭を撫でた。
こんな小さな身体に何処からあの絵を描くパワーが出るんだろうか。

 「玲、、、。そんなに東京に行きたいのか?」

 うずくまって泣いていた玲が顔を上げて俺の方へ向く。
玲の目は赤く、ポロポロと雨粒のように涙が溢れていた。

 「行きたい。シンジ、、、私ずっと問いかけてるの」

拭っても拭っても溢れ出てくる涙を手で拭きながら玲が話す。

 「私、何の為に生まれたの?
どうして神様は私に絵の才能をくれたの?
才能があっても、発揮できないんじゃそんなの全く意味がないじゃない」

 「そんな事ないだろ。こうやって、折末さんが世間に玲の絵を広めてくれたら、沢山の人間が玲の絵を見て、感動したり好きになったりしてくれるんだぞ」

 玲は違うと首を振る。
ここにいたって、沢山の人に絵を届ける事は出来ると俺は感じていた。けれど、玲の意見は違うようだった。

 「私は直接この目で見てみたいの。
大きな美術館で、私の描いた絵がピカピカの壁に飾られて、沢山の人が私の絵を見て感想を言っていくの。そして皆んなに言いたいの。
『この絵は私が、命をかけて描いた絵です』って」

 沢山の人に囲まれて、綺麗な服を着た玲が自分の絵の前でインタビューを受けている姿を俺は想像してみた。
いつもの玲とは違って、よそ行きの少し大人っぽいメイクをして、堂々と質問に答える姿を想像すると妙にしっくりときた。

 「私が描いたの、、、。
この絵は小岩井玲と言う、病気を持ちながら、なんとかこの年まで生き伸びて、私の全てを注ぎこんで描いてきた。
一生に一度くらい、生きた証を御披露目する時間を味わってもいいでしょ?
その為に私は今まで、全ての事を我慢して生きてきた気がするの」

 本音を言えば、俺は東京なんかに行ってほしくなかった。何よりも玲の身体が大切だった。
熊さんと同じ意見だ。

 けれど、俺が玲の立場ならどう考えただろうか。
自分の才能が認められて、スポットライトをあびる瞬間を味わえる人間なんて、この世の人の中に一体何人いるんだろうか。

 俺も玲の立場なら東京へ行ったかもしれない。
玲の人生の中には絵しかないんだ。俺にギターしかなかったように。

 自分の絵がスポットライトを浴びている所を見てみたい。

その最高の瞬間が味わえるなら、今まで我慢してきた沢山の事も無駄じゃなかったと思えるだろう。

 それは玲にとって、命にも変え難いほどの願望なのかもしれない。