日が落ちていく中、ひたすら走る。体力はもう限界だが、それでも走り続ける。
どうして別れの日に聖奈を追いかけなかった? 絶対に手を離してはいけなかったのに。どうして何をおいてでも聖奈の見送りに行かなかった? そうすれば聖奈の嘘に気づけたのに。
距離が近くなったのはそうしないと聞こえないからだ。髪を下ろすようになったのは補聴器を隠すためだ。呑気なことを考えていたあの頃の自分を殺したい。
聖奈が嘘の行き先に、ベートーヴェンが聴力を失っていく自分に苦悩し遺書を書いた地であるウィーンを選んだのは偶然か、無意識か、それともSOSだったのか。今となっては分からない。でも、確かなことがある。
ある日突然にすべての音を奪われる。その苦悩は想像を絶するものだ。音の無い世界で生きろと言われたら、俺なら耐えられない。それほどの聖奈の痛みにすら気づけなかった。勝手に聖奈を神格化して、わかったつもりになって、俺は馬鹿だ。
明日から俺たちの秘密基地の取り壊し工事が始まる。思い出の場所が消える。最悪の場合、聖奈は愛した音が溢れる場所との心中を選ぶかもしれない。
やっと校舎に辿り着く。ちょうどその時、遠くで夕方五時のチャイムの音が鳴り始めた。校門には立ち入り禁止のテープが貼られていたが、飛び越えて敷地に入る。頼む、間に合ってくれ。時報代わりの鐘の音と煽るような烏の鳴き声が遠く聞こえる中、俺は最後の力を振り絞って階段を駆け上がった。
「聖奈!」
屋上の扉を開けると、聖奈はフェンスの向こう側で一人たたずんでいた。大急ぎでフェンスによじ登り、反対側に着地する。聖奈の腕を掴むと、聖奈が心底驚いた様子で俺を見た。そのまま腕を引き寄せて、聖奈に詰め寄って声を張り上げる。
「聖奈、聞こえてる?」
「……この距離で大きな声で喋ってくれれば、右耳はかろうじて」
久しぶりに聞いた機械越しでない聖奈の声からはかつて俺が見た光が消えていた。あのきらめきはすべて絶望と諦めに塗りつぶされていた。聖奈の髪を耳にかけると補聴器が見えた。
「いつから?」
「九月くらいから違和感はあったかな。十月に病院行ったら、耳が聞こえなくなる病気だってわかったの。今の医学じゃ治せないんだって。今日、あと一か月もしないうちに右耳も完全に聞こえなくなるって言われた」
聖奈の声は今にも泣きそうなほど震えていた。最悪の予想が当たってしまった。覚悟はしていたはずなのに、改めて言葉にされるとあまりに重い現実だ。
「神様も意地悪だよね。心臓が止まる病気ならさ、最期まで夢に生きて綺麗に散れるのに。よりにもよって音だけ奪われて死なせてもくれないんだもん。だから、全部自分で終わりにするしかないんだ。知ってる? ここ明日で取り壊しになるんだよ。だから、思い出の場所で、最後のチャイムと一緒に死のうと思ったの」
聖奈の頬を涙が伝った。聖奈が死のうとしている。止めなくちゃ。俺は必死で聖奈を励ました。
「夢が終わったなんていうなよ。ベートーヴェンは耳聞こえなくなって一度は死のうとしたけど、そのあと二十五年生きて、たくさん名曲作っただろ!」
「でも私はベートーヴェンじゃない!」
聖奈が悲痛な叫び声をあげた。
「私だって、一度は頑張ろうと思ったよ。だから、オーディションも行った。勝っても負けても、ちゃんと歌えたら、耳が聞こえなくなっても死ぬまで歌い続けるつもりだった。でもね、ダメだった。そりゃそうだよね、伴奏聞こえないし、自分の声も時々飛ぶから頭で思ってる音と実際に出してる声が同じか違うかもわからないし。私はもう歌えない。巴セナとしての私は死んだんだよ」
聖奈が一気にまくしたてる。どうしよう、聖奈が泣いている。このままでは聖奈が死んでしまう。どうにかして説得しないといけない。とにかく俺は必死だった。
「やめろよ、本当に死んでどうするんだよ。死んだら全部終わりだけど、生きてさえいれば、希望はあるって。今この瞬間治療法がないってだけで、明日突然治療法見つかるかもしれないだろ」
「他人事だから簡単に言えるんだよ」
たった一言、聖奈はそう言った。何を話しても無駄、そんな失望が溢れた声が胸に突き刺さる。
「ごめん、そんなつもりじゃなくて」
俺は言葉の選択肢を間違えたのだと気付いた。ショックを受けた俺の顔を見て、聖奈が「あ」と呟いた。
「ごめんね、言い方きつかったよね。もうこれ以上話すのやめよう。修斗には私が元気だったころの声だけ覚えててほしい。晩節を汚す人生なんてまっぴらなの」
「だから、晩節とか言うなって! 無神経なこと言ったことは謝るから、死なないでくれよ!」
必死に叫ぶが、気の利いた言葉が出てこない。アニメならここでヒロインが思いとどまってハッピーエンドなのに、現実は残酷だ。聖奈は目の前にいるのに、俺の声は聖奈に届いていない。
「修斗は何も悪くないよ。そういう運命だったってだけ。だからもう終わりにしよう。ほら、前にお願いしたでしょ? 私が私だった頃の声聞いて上書きして、今日の私の声なんて忘れてよ」
「嫌だ、死ぬな! それに俺が聖奈の声忘れるなんてことあるわけないだろ!」
「忘れるよ」
きっぱりはっきりと聖奈は言い切った。有無を言わさない雰囲気に、背筋が凍り付いた。
「小学校低学年の頃に絡みがなかったクラスメイトの顔、思い出せるだけ思い出してみて」
出席番号順に名前を思い出しながら、顔を思い浮かべていく。おぼろげだがなんとなくの雰囲気は覚えている気がする。
「今、頭に浮かんだ人の声を思い出せる? 顔と名前は思い出せるのに、声を思い出せない人、何人かいるんじゃない?」
ガツンと頭を殴られたような衝撃が走る。図星だった。たとえば今当時の音声を聞かされたとして、どれが誰の声だかわからない。耳はいい方なのに、音や声に対して人より深く向き合ってきたはずなのに、本当に何も思い出せない。
「人は人を忘れるとき、声から忘れていくんだよ。だから、修斗は私の声を忘れるよ」
何も言い返せなかった。聖奈の言っていることは全部正論だ。
「忘れないなんて無理なんだ。だからデータで残したんだよ。巴セナとして歌う声も、信楽聖奈として話す声も。機械越しの偽物の声だけどね」
俺が毎日大事に聞いていた歌もメッセージも、聖奈にとっては妥協の産物だったのだ。本当に俺は聖奈のことを何もわかっていなかった。
「そんな顔しないで。ごめんね、責めてるわけじゃないよ」
聖奈はまっすぐ俺を見つめた。その目は光を失っていた。
「声から忘れていくのは私も同じ。私はもうおばあちゃんの声を覚えていない」
聖奈の声から温度が消えた。冷たい風が吹き付ける。ひたすらに胸が痛かった。まるで気管を締め付けられているように苦しくて、声が出ない。
「あんなに大好きだったのに、忘れちゃったんだよ。だから、私は修斗の声もいつか忘れるよ。修斗が私の声を忘れた後に聞けるのも偽物の声だけなんだよ。私の声を忘れていく修斗を目の当たりにしながら、修斗の声も二人で過ごした秘密基地の音も忘れて音の無い世界で生きていくなんて、私には耐えられない」
聖奈が泣いている。何か言わないといけないのに、何も言えなかった。
「ねえ、どうして人は声から忘れられていく運命なのに、修斗は声優になろうと思ったの? どうせ忘れられちゃうのに」
答えられなかった。反論の余地がなかった。そんな現実も知らずに、向こう見ずな夢を追いかけていた俺は馬鹿だ。
「答えられないよね? だって私もわからないもん。どうせ忘れられちゃうから意味ないのに、なんで私は音楽で世界を救えるなんて勘違いしてたんだろうね」
やめてくれ俺たちの夢を否定しないでくれ、昨日までの俺ならそう叫んでいただろう。でも、今の俺には言う資格がない。この声でたくさんの人を救いたくて声優になったはずなのに、世界どころか目の前の一番大事な人を救えない。俺は無力だ。
どうして別れの日に聖奈を追いかけなかった? 絶対に手を離してはいけなかったのに。どうして何をおいてでも聖奈の見送りに行かなかった? そうすれば聖奈の嘘に気づけたのに。
距離が近くなったのはそうしないと聞こえないからだ。髪を下ろすようになったのは補聴器を隠すためだ。呑気なことを考えていたあの頃の自分を殺したい。
聖奈が嘘の行き先に、ベートーヴェンが聴力を失っていく自分に苦悩し遺書を書いた地であるウィーンを選んだのは偶然か、無意識か、それともSOSだったのか。今となっては分からない。でも、確かなことがある。
ある日突然にすべての音を奪われる。その苦悩は想像を絶するものだ。音の無い世界で生きろと言われたら、俺なら耐えられない。それほどの聖奈の痛みにすら気づけなかった。勝手に聖奈を神格化して、わかったつもりになって、俺は馬鹿だ。
明日から俺たちの秘密基地の取り壊し工事が始まる。思い出の場所が消える。最悪の場合、聖奈は愛した音が溢れる場所との心中を選ぶかもしれない。
やっと校舎に辿り着く。ちょうどその時、遠くで夕方五時のチャイムの音が鳴り始めた。校門には立ち入り禁止のテープが貼られていたが、飛び越えて敷地に入る。頼む、間に合ってくれ。時報代わりの鐘の音と煽るような烏の鳴き声が遠く聞こえる中、俺は最後の力を振り絞って階段を駆け上がった。
「聖奈!」
屋上の扉を開けると、聖奈はフェンスの向こう側で一人たたずんでいた。大急ぎでフェンスによじ登り、反対側に着地する。聖奈の腕を掴むと、聖奈が心底驚いた様子で俺を見た。そのまま腕を引き寄せて、聖奈に詰め寄って声を張り上げる。
「聖奈、聞こえてる?」
「……この距離で大きな声で喋ってくれれば、右耳はかろうじて」
久しぶりに聞いた機械越しでない聖奈の声からはかつて俺が見た光が消えていた。あのきらめきはすべて絶望と諦めに塗りつぶされていた。聖奈の髪を耳にかけると補聴器が見えた。
「いつから?」
「九月くらいから違和感はあったかな。十月に病院行ったら、耳が聞こえなくなる病気だってわかったの。今の医学じゃ治せないんだって。今日、あと一か月もしないうちに右耳も完全に聞こえなくなるって言われた」
聖奈の声は今にも泣きそうなほど震えていた。最悪の予想が当たってしまった。覚悟はしていたはずなのに、改めて言葉にされるとあまりに重い現実だ。
「神様も意地悪だよね。心臓が止まる病気ならさ、最期まで夢に生きて綺麗に散れるのに。よりにもよって音だけ奪われて死なせてもくれないんだもん。だから、全部自分で終わりにするしかないんだ。知ってる? ここ明日で取り壊しになるんだよ。だから、思い出の場所で、最後のチャイムと一緒に死のうと思ったの」
聖奈の頬を涙が伝った。聖奈が死のうとしている。止めなくちゃ。俺は必死で聖奈を励ました。
「夢が終わったなんていうなよ。ベートーヴェンは耳聞こえなくなって一度は死のうとしたけど、そのあと二十五年生きて、たくさん名曲作っただろ!」
「でも私はベートーヴェンじゃない!」
聖奈が悲痛な叫び声をあげた。
「私だって、一度は頑張ろうと思ったよ。だから、オーディションも行った。勝っても負けても、ちゃんと歌えたら、耳が聞こえなくなっても死ぬまで歌い続けるつもりだった。でもね、ダメだった。そりゃそうだよね、伴奏聞こえないし、自分の声も時々飛ぶから頭で思ってる音と実際に出してる声が同じか違うかもわからないし。私はもう歌えない。巴セナとしての私は死んだんだよ」
聖奈が一気にまくしたてる。どうしよう、聖奈が泣いている。このままでは聖奈が死んでしまう。どうにかして説得しないといけない。とにかく俺は必死だった。
「やめろよ、本当に死んでどうするんだよ。死んだら全部終わりだけど、生きてさえいれば、希望はあるって。今この瞬間治療法がないってだけで、明日突然治療法見つかるかもしれないだろ」
「他人事だから簡単に言えるんだよ」
たった一言、聖奈はそう言った。何を話しても無駄、そんな失望が溢れた声が胸に突き刺さる。
「ごめん、そんなつもりじゃなくて」
俺は言葉の選択肢を間違えたのだと気付いた。ショックを受けた俺の顔を見て、聖奈が「あ」と呟いた。
「ごめんね、言い方きつかったよね。もうこれ以上話すのやめよう。修斗には私が元気だったころの声だけ覚えててほしい。晩節を汚す人生なんてまっぴらなの」
「だから、晩節とか言うなって! 無神経なこと言ったことは謝るから、死なないでくれよ!」
必死に叫ぶが、気の利いた言葉が出てこない。アニメならここでヒロインが思いとどまってハッピーエンドなのに、現実は残酷だ。聖奈は目の前にいるのに、俺の声は聖奈に届いていない。
「修斗は何も悪くないよ。そういう運命だったってだけ。だからもう終わりにしよう。ほら、前にお願いしたでしょ? 私が私だった頃の声聞いて上書きして、今日の私の声なんて忘れてよ」
「嫌だ、死ぬな! それに俺が聖奈の声忘れるなんてことあるわけないだろ!」
「忘れるよ」
きっぱりはっきりと聖奈は言い切った。有無を言わさない雰囲気に、背筋が凍り付いた。
「小学校低学年の頃に絡みがなかったクラスメイトの顔、思い出せるだけ思い出してみて」
出席番号順に名前を思い出しながら、顔を思い浮かべていく。おぼろげだがなんとなくの雰囲気は覚えている気がする。
「今、頭に浮かんだ人の声を思い出せる? 顔と名前は思い出せるのに、声を思い出せない人、何人かいるんじゃない?」
ガツンと頭を殴られたような衝撃が走る。図星だった。たとえば今当時の音声を聞かされたとして、どれが誰の声だかわからない。耳はいい方なのに、音や声に対して人より深く向き合ってきたはずなのに、本当に何も思い出せない。
「人は人を忘れるとき、声から忘れていくんだよ。だから、修斗は私の声を忘れるよ」
何も言い返せなかった。聖奈の言っていることは全部正論だ。
「忘れないなんて無理なんだ。だからデータで残したんだよ。巴セナとして歌う声も、信楽聖奈として話す声も。機械越しの偽物の声だけどね」
俺が毎日大事に聞いていた歌もメッセージも、聖奈にとっては妥協の産物だったのだ。本当に俺は聖奈のことを何もわかっていなかった。
「そんな顔しないで。ごめんね、責めてるわけじゃないよ」
聖奈はまっすぐ俺を見つめた。その目は光を失っていた。
「声から忘れていくのは私も同じ。私はもうおばあちゃんの声を覚えていない」
聖奈の声から温度が消えた。冷たい風が吹き付ける。ひたすらに胸が痛かった。まるで気管を締め付けられているように苦しくて、声が出ない。
「あんなに大好きだったのに、忘れちゃったんだよ。だから、私は修斗の声もいつか忘れるよ。修斗が私の声を忘れた後に聞けるのも偽物の声だけなんだよ。私の声を忘れていく修斗を目の当たりにしながら、修斗の声も二人で過ごした秘密基地の音も忘れて音の無い世界で生きていくなんて、私には耐えられない」
聖奈が泣いている。何か言わないといけないのに、何も言えなかった。
「ねえ、どうして人は声から忘れられていく運命なのに、修斗は声優になろうと思ったの? どうせ忘れられちゃうのに」
答えられなかった。反論の余地がなかった。そんな現実も知らずに、向こう見ずな夢を追いかけていた俺は馬鹿だ。
「答えられないよね? だって私もわからないもん。どうせ忘れられちゃうから意味ないのに、なんで私は音楽で世界を救えるなんて勘違いしてたんだろうね」
やめてくれ俺たちの夢を否定しないでくれ、昨日までの俺ならそう叫んでいただろう。でも、今の俺には言う資格がない。この声でたくさんの人を救いたくて声優になったはずなのに、世界どころか目の前の一番大事な人を救えない。俺は無力だ。



