聖奈と離れて三か月、待ちに待った以前オファーをもらった仕事の収録の日がやってきた。今度の役は目的のためなら手段を選ばないサイコパスな敵役だ。アルとは雰囲気の百八十度違う役を演じる。
「桐原君、迫真の演技でしたね。とても新人とは思えません」
「ありがとうございます、光栄です」
収録が終わり、帰り際にベテランの鏑木さんに褒められた。三か月、練習を頑張った甲斐があった。いつか聖奈に再会した時に誇れる自分でいたい。
聖奈と二人で過ごした秘密基地にはあれ以来一度も行っていない。がむしゃらに毎日を過ごしていたら、いつの間にか校舎の一般開放の期間は終わっていた。明後日には校舎そのものが取り壊しになるらしい。
聖奈のラインアカウントは危惧していた通り渡墺翌日に消えてしまった。巴セナの
新しい歌のアップロードも未だにない。きっと今はインプットの時期なのだろう。聖奈もきっと海の向こうで頑張っている。だから俺も頑張れる。
巴セナが過去にネットにあげた歌はいつでも聴けるのだ。今日も聖奈の歌を聴いて、エネルギーを補充してから現場に来た。これからも聖奈の声は俺の燃料であり続けるだろう。
『ドクター・ゼータ』でゼータ役を演じた鏑木さんには、共演以来何かと気にかけてもらっている。しばらく談笑した後、ふと思い立ち質問してみる。
「鏑木さん、前にドイツ映画の吹き替えされてましたよね?」
「はい、もう二年ほど前の話ですが」
「ちょっとわからないドイツ語があって、教えていただいてもいいですか?」
身の回りにドイツ語が分かる人はあまりいない。この機会に聞いてみることにした。
「構いませんよ。と言っても、少ししか分かりませんが」
「ありがとうございます! Ich liebte dichとLebe wohlってどういう意味ですか?」
鏑木さんが少し考え込む。
「Ich liebe dichが愛してる、ですからliebteだとその過去形に当たりますね。和訳するなら、愛してた、でしょうか」
聖奈がわざわざ過去形にした意図がわからなかった。俺の聞き間違いとも思えない。何度もメッセージを聴いたが、聖奈は明らかにtの音を発音していた。もしかして俺はずっと聖奈の言葉の真意を取り違えていたのだろうか。
「Lebe wohlはさようならという意味ですが、あまりメジャーな言葉ではありませんね」
「え?」
ドイツ語初心者の聖奈が、メジャーではない言い回しをするという状況に違和感を覚えた。
「フランス語のau revoirとadieuのようなものです。普段の挨拶ならAuf wiedersehenが一般的で、Lebe wohlは永遠のお別れのニュアンスを含みますよ」
永遠の別れという言葉を意図的に選んだ。嘘だ。だって、約束した。お互い夢を叶えてまた会おうって。「さよなら修斗、愛してた」なんて、そんなのまるで……。
「お役に立てましたか?」
鏑木さんに聞かれる。はっと我に返った。
「はい……ありがとうございました」
解散してビルを出てすぐに、巴セナの動画配信サイトを確認した。確か宣伝用のSNSと連携していたはずだ。聖奈と話がしたい。連絡を取りたい。
しかし、SNSの連携は解除されていた。動画の概要欄からなら飛べると思い、動画を開く。驚いたことに、コメント欄が閉鎖されていた。概要欄に書いてあるURLをタップしても、「このアカウントは削除されています」と表示されるだけだった。聖奈が意図的に連絡経路を遮断していることに他ならなかった。
どうやって家に帰ったかは覚えていない。ただ、夢中で家まで帰って、SDカードのメッセージを再生した。何度聞いても聖奈は過去形で「愛してた」と僕に告げていた。すべてのメッセージがこれまでと違って聞こえた。
聖奈と仲が良かった女子と担任に片っ端から連絡して聖奈の新しい連絡先を聞いた。しかし、誰一人知らないようだった。
翌日、幸いにも学校は休みだった。俺は朝からパソコンにかじりついて、ウィーンの高校を片っ端からリストアップしていた。膨大な数だが、この中のどこかに聖奈がいる。向こうの個人情報保護法がどうなっているかはわからないが、どうにかして聖奈に取り次いでもらう方法を考えなければ。
午後、母から電話がかかってきた。
「もしもし修斗? お財布忘れちゃったの。リビングにあるから、病院まで届けてくれる? 今日お仕事の後の用事で必要なんだけど、一回家帰る時間もなさそうなの」
母は家から少し離れた場所の総合病院で看護師をしている。
「バスどうやって乗ったんだよ」
「今日はバスがストライキで動いてないの。だから車で出勤したの。というわけで、お願い!」
バスなら数分だが、歩くとなると絶妙に面倒な距離だ。しかし、困っている母を見捨てるほど薄情ではない。母の財布を持って病院に向かった。
病院に行くと、母はちょうど忙しい時間だったので受付に財布を預けた。用事が終わったので、さっさと病院を出る。バスのストライキの影響でタクシー乗り場に行列ができていた。そこで信じられない光景を目にした。
「聖奈!」
見間違えるはずがない。ここにいるはずのない聖奈が、まさにタクシーに乗り込もうとしていた。俺の大声に並んでいた全員がこちらを見た。ただ一人、聖奈を除いて。聖奈は俺に一瞥もくれずにそのままタクシーに乗り込んだ。そしてそのまま発車した。
「待って、待って!」
俺はタクシーを追いかけた。しかし、車に追いつけるはずもなくそのまま置いて行かれた。今日に限ってバスは運休。タクシー代など当然持ち合わせていない。終点の聖奈の地元までは十キロ以上。タクシーは信号に引っかかることなく爆走し、あっという間に視界から消えてしまった。
聖奈はウィーンに行ったはずじゃなかったのか。ベートーヴェンの聖地で音楽を学んで、世界中の人を救う歌手になる。あれは嘘だったのか? 愛も夢も、全部過去形になってしまったのか? 聖奈は俺を見ることすらしなかった。
いや、違う。俺は一つの可能性に気づく。いや、まさか。この仮説が外れていてほしいと願いながら、俺は再び走り出した。
なぜ聖奈はあんな遺書みたいなメッセージを残したのか。
思えばおかしなところはたくさんあった。妙な時期にいきなり決まる海外転勤とそれに伴う転校。ウィーン行なんて最初から嘘だったんだ。
気づく機会はいくらでもあったはずじゃないか。あの時もあの時も、無視されたんじゃない。聖奈は反応しなかったんじゃない。できなかったんだ。
今までの不可解な出来事から導き出される、聖奈が病院にいた理由。聖奈は病気で聴力を失いつつある。
「桐原君、迫真の演技でしたね。とても新人とは思えません」
「ありがとうございます、光栄です」
収録が終わり、帰り際にベテランの鏑木さんに褒められた。三か月、練習を頑張った甲斐があった。いつか聖奈に再会した時に誇れる自分でいたい。
聖奈と二人で過ごした秘密基地にはあれ以来一度も行っていない。がむしゃらに毎日を過ごしていたら、いつの間にか校舎の一般開放の期間は終わっていた。明後日には校舎そのものが取り壊しになるらしい。
聖奈のラインアカウントは危惧していた通り渡墺翌日に消えてしまった。巴セナの
新しい歌のアップロードも未だにない。きっと今はインプットの時期なのだろう。聖奈もきっと海の向こうで頑張っている。だから俺も頑張れる。
巴セナが過去にネットにあげた歌はいつでも聴けるのだ。今日も聖奈の歌を聴いて、エネルギーを補充してから現場に来た。これからも聖奈の声は俺の燃料であり続けるだろう。
『ドクター・ゼータ』でゼータ役を演じた鏑木さんには、共演以来何かと気にかけてもらっている。しばらく談笑した後、ふと思い立ち質問してみる。
「鏑木さん、前にドイツ映画の吹き替えされてましたよね?」
「はい、もう二年ほど前の話ですが」
「ちょっとわからないドイツ語があって、教えていただいてもいいですか?」
身の回りにドイツ語が分かる人はあまりいない。この機会に聞いてみることにした。
「構いませんよ。と言っても、少ししか分かりませんが」
「ありがとうございます! Ich liebte dichとLebe wohlってどういう意味ですか?」
鏑木さんが少し考え込む。
「Ich liebe dichが愛してる、ですからliebteだとその過去形に当たりますね。和訳するなら、愛してた、でしょうか」
聖奈がわざわざ過去形にした意図がわからなかった。俺の聞き間違いとも思えない。何度もメッセージを聴いたが、聖奈は明らかにtの音を発音していた。もしかして俺はずっと聖奈の言葉の真意を取り違えていたのだろうか。
「Lebe wohlはさようならという意味ですが、あまりメジャーな言葉ではありませんね」
「え?」
ドイツ語初心者の聖奈が、メジャーではない言い回しをするという状況に違和感を覚えた。
「フランス語のau revoirとadieuのようなものです。普段の挨拶ならAuf wiedersehenが一般的で、Lebe wohlは永遠のお別れのニュアンスを含みますよ」
永遠の別れという言葉を意図的に選んだ。嘘だ。だって、約束した。お互い夢を叶えてまた会おうって。「さよなら修斗、愛してた」なんて、そんなのまるで……。
「お役に立てましたか?」
鏑木さんに聞かれる。はっと我に返った。
「はい……ありがとうございました」
解散してビルを出てすぐに、巴セナの動画配信サイトを確認した。確か宣伝用のSNSと連携していたはずだ。聖奈と話がしたい。連絡を取りたい。
しかし、SNSの連携は解除されていた。動画の概要欄からなら飛べると思い、動画を開く。驚いたことに、コメント欄が閉鎖されていた。概要欄に書いてあるURLをタップしても、「このアカウントは削除されています」と表示されるだけだった。聖奈が意図的に連絡経路を遮断していることに他ならなかった。
どうやって家に帰ったかは覚えていない。ただ、夢中で家まで帰って、SDカードのメッセージを再生した。何度聞いても聖奈は過去形で「愛してた」と僕に告げていた。すべてのメッセージがこれまでと違って聞こえた。
聖奈と仲が良かった女子と担任に片っ端から連絡して聖奈の新しい連絡先を聞いた。しかし、誰一人知らないようだった。
翌日、幸いにも学校は休みだった。俺は朝からパソコンにかじりついて、ウィーンの高校を片っ端からリストアップしていた。膨大な数だが、この中のどこかに聖奈がいる。向こうの個人情報保護法がどうなっているかはわからないが、どうにかして聖奈に取り次いでもらう方法を考えなければ。
午後、母から電話がかかってきた。
「もしもし修斗? お財布忘れちゃったの。リビングにあるから、病院まで届けてくれる? 今日お仕事の後の用事で必要なんだけど、一回家帰る時間もなさそうなの」
母は家から少し離れた場所の総合病院で看護師をしている。
「バスどうやって乗ったんだよ」
「今日はバスがストライキで動いてないの。だから車で出勤したの。というわけで、お願い!」
バスなら数分だが、歩くとなると絶妙に面倒な距離だ。しかし、困っている母を見捨てるほど薄情ではない。母の財布を持って病院に向かった。
病院に行くと、母はちょうど忙しい時間だったので受付に財布を預けた。用事が終わったので、さっさと病院を出る。バスのストライキの影響でタクシー乗り場に行列ができていた。そこで信じられない光景を目にした。
「聖奈!」
見間違えるはずがない。ここにいるはずのない聖奈が、まさにタクシーに乗り込もうとしていた。俺の大声に並んでいた全員がこちらを見た。ただ一人、聖奈を除いて。聖奈は俺に一瞥もくれずにそのままタクシーに乗り込んだ。そしてそのまま発車した。
「待って、待って!」
俺はタクシーを追いかけた。しかし、車に追いつけるはずもなくそのまま置いて行かれた。今日に限ってバスは運休。タクシー代など当然持ち合わせていない。終点の聖奈の地元までは十キロ以上。タクシーは信号に引っかかることなく爆走し、あっという間に視界から消えてしまった。
聖奈はウィーンに行ったはずじゃなかったのか。ベートーヴェンの聖地で音楽を学んで、世界中の人を救う歌手になる。あれは嘘だったのか? 愛も夢も、全部過去形になってしまったのか? 聖奈は俺を見ることすらしなかった。
いや、違う。俺は一つの可能性に気づく。いや、まさか。この仮説が外れていてほしいと願いながら、俺は再び走り出した。
なぜ聖奈はあんな遺書みたいなメッセージを残したのか。
思えばおかしなところはたくさんあった。妙な時期にいきなり決まる海外転勤とそれに伴う転校。ウィーン行なんて最初から嘘だったんだ。
気づく機会はいくらでもあったはずじゃないか。あの時もあの時も、無視されたんじゃない。聖奈は反応しなかったんじゃない。できなかったんだ。
今までの不可解な出来事から導き出される、聖奈が病院にいた理由。聖奈は病気で聴力を失いつつある。



