それから数日間、他のクラスや学年から俺を見に来る生徒が後を絶たなかった。何かと落ち着かない日々だったが、聖奈はいつも通りだった。しいて言うならば、バス停まで一緒に歩く時の物理的な距離が縮んだくらい。顔が近くなると、意外と睫毛が長いんだな、とか色々なことに気づいてまた意識してしまった。
半月もすれば、俺に対する芸能人フィーバーも落ち着いた。ちょうどそのころ、聖奈がポニーテールをやめて髪を下ろすようになった。最近肌寒いので仕方ないことではあるが、聖奈が髪を結びなおす仕草も好きだったのだと今更気づいた。
「オーディションに専念するから、しばらく歌みた上げるのお休みするかも」
「いいんじゃね? そっち一本に絞る方が勝率高いっしょ」
巴セナの投稿がパタリと途絶えた。あれもこれもと欲張って全部中途半端になるより、目の前にある夢へのチケットを掴むことに全力投球する方がいい。背水の陣で戦う聖奈はかっこいいと思った。神格化しすぎるのもよくないが、巴セナというミューズは絶対に勝てると信じている。
「頑張れよ、聖奈」
だから、秘密基地に行く時間がなくなっても応援する。ボイトレもさらに遅くの時間までやるようになったらしく、帰りの時間がかぶらなくなった。でも、オフの日はバス停まで一緒に帰ったし、家で通話もしていたから寂しくはなかった。
そんな日々が続き、十一月も終わりに近づいていた。オーディションの詳しい日程は聞いていない。終わったのか、受かったのか、落ちたのか。俺からは聞けなかった。守秘義務があるかもしれないし、落ちていたとしてそれを言葉にすることに抵抗があるのは俺が一番よくわかっていたからだ。両親への落選報告は苦手だ。
珍しく聖奈が学校を休んだ。体調不良なのかオーディション絡みの用事なのか分からなかったので、「大丈夫?」と一言だけメッセージを送ったが既読無視状態のまま帰りのホームルームの時間になった。担任の言葉が右耳から左耳に抜けていく。
「で、ここから大切な話だ。本日を持って、信楽聖奈が転校することになりました」
「はあ⁉」
突然の爆弾発言に、俺は思わず立ち上がった。椅子が倒れた音も霞むくらい大きな声が出た。こんなの青天の霹靂だ。
「桐原、座りなさい。みんなも静かに。なんでも親御さんの仕事の都合で海外に行くそうで。信楽の意思を尊重して今日まで言わなかったけど、まさか最終登校日に休むとは……先生も驚いてます」
かつてないほど教室はざわついている。収拾がつかないままチャイムが鳴りだすが、そんなことは知ったことではなかった。転校なんて聞いてない。しかも海外だなんて。俺は立ったまま固まっていた。それどころか女子たちまで立って身を乗り出して騒ぎ始めた。
「以上でホームルームを終わります。あー、慌ただしくてすまん。以上!」
担任は大きめの声でそう言うと教室を出ていった。慌ただしいどころの騒ぎではない。泣き出す女子もいれば、今まで黙っていた担任への暴言を吐く女子もいる。「信楽のことちょっといいなって思ってたのに」と言い出す男子まで現れる。その間、俺はずっと呆然と立ち尽くしていた。
「修斗お前どうしたん? もしかして信楽のこと好きだったん?」
辻浦の言葉に反応する余力もなかった。
「あー、俺帰るわ。また明日な」
期待していた反応を得られなかった辻浦は気まずそうにフェードアウトしていった。それを皮切りに何人かが帰り始める。そのタイミングでポケットのスマホが振動した。
聖奈からかもしれない。俺は急いで画面を確認する。
「秘密基地で待ってる」
メッセージは聖奈からだった。
「おい、聖奈! 色々言いたいことあんだけど」
待ち合わせ場所に着くと聖奈が駆け寄ってきた。手を合わせて上目遣いでまくしたてられる。
「ごめんね! 親の転勤自体は前から決まってたんだけど、ついていくかは本当に直前まで決められなかったの。修斗ならわかってくれるよね?」
わかる。その意味も、はっきりした言葉を使わない心理も。オーディションに受かったなら意地でも一人で日本に残る、ダメなら両親と海外に行く。つまり、今年はダメだったのだ。
「行くなよ……来年があんだろ」
未成年が一人で残るなんてあまり現実的でない。わかってはいるけど懇願してしまう。
「それもそうなんだけど、行先ウィーンなんだよね。ベートーヴェンの聖地じゃん? 『田園』とかそこで生まれた曲だし。だから、音楽の勉強するならいい環境かなって」
罰が悪そうにうつむいて言われた。行先も初耳だった。
「聖奈、ドイツ語喋れんの?」
「挨拶しかわかんない! でもNo problem! 音楽は世界の共通言語だからね!」
聖奈は親指を立てた。呆れた。行き当たりばったりがすぎるだろ。一周廻って笑えて来た。
「ははっ、聖奈らしいわ」
聖奈はそういう人だ。どんな状況でも自分の手で未来を切り開く人だ。だから、俺が欠けるべき言葉は「行くな」じゃない。
「ビッグになって帰って来いよ。そっちに俺の名前も声もバンバン届くくらい俺も頑張るからさ」
「うん、修斗なら絶対なれるよ。たくさんの人を救える声優に」
聖奈がそう言ってくれるならなれる気がする。いや、なる。俺の声で世界を救う。
「これ、餞別。家で聴いてね」
SDカードを渡された。これを渡すために呼び出されたのだろうか。
「スマホ海外用に変えるからラインアカウントも消えちゃうかもしれないし、たてこんでるから巴セナのアカウントも更新できなくなっちゃうだろうけど、アーカイブはちゃんと残すから、たまには聴いてよ」
「毎日聴くっての。最後列彼氏面オタク舐めんな」
「なにそれ」
「なんなら見送りも行くつもりだけど」
「えー、野暮でしょ。縁もゆかりもない空港でバイバイなんてさ。最後は思い出の場所で締める方がよくない?」
芸術の世界に生きる者として、粋であるか否かは重要なファクターだ。聖奈は骨の髄までエンターテイナーなのだろう。また聖奈を深く尊敬した。
「それもそうだな。野暮だからさよならも言わない。次会うときは歌手と声優として、何かのアニメで待ち合わせな」
「やっぱり修斗はかっこいいね。うん、私もさよならは言わない」
聖奈は噛みしめるように呟いた。
「最後に修斗の声聞けて良かった。今までありがとね」
そう言って手を振ると聖奈は屋上を去った。階段を駆け下りていく音だけが響いていた。追いかけるのは無粋だと思った。次に会うときは、二人の夢が叶うときだ。
家に帰って、パソコンにSDカードを差し込む。Mp3ではなく高音質のwavファイルのデータが一つだけ入っていた。ヘッドホンをつけてメッセージを再生する。
「Hi, Shuto! 聖奈です」
クリアな音声が耳に飛び込んでくる。だいぶ高性能なマイクでバイノーラル録音したのだろう。まるで聖奈が目の前にいるかのように鮮明な声だ。
「まず初めに。ありがとう。修斗がいたから私はまっすぐ前だけを見て夢に生きられたよ。修斗と同じ夢を見て、たくさん勇気をもらって……一人で夢を見ていた時の私じゃ絶対知らなかった世界を見せてくれた」
世界を教えてくれたのは聖奈の方じゃないか。あの日君が俺を秘密基地に連れて行ってくれなかったら、今の俺はいない。
「世界にはたくさんの音が溢れてるけど、私は修斗の声が一番好き。だからね、いっぱい歌を褒めてくれた人はいたけど、修斗が私の歌を褒めてくれた時が一番嬉しかった。あの日、声をかけてくれてありがとう。私の歌、好きって言ってくれてありがとう」
いつの間にか頬を涙が伝っていた。馬鹿、泣かせんなよ。
「だから、一生のお願い。私の声をずっと好きでいて。修斗が好きになってくれた今この瞬間の十七歳の私の声を忘れないで」
言われなくたって忘れるもんか。次に聖奈の声を聴くとき、聖奈は何歳になっているんだろう。声は顔ほどでもないが緩やかに変わる。でも、何歳の聖奈の声も、俺はきっとまた好きになる。その時の聖奈の声も、十七歳の聖奈の声も死ぬまで愛し続ける。
「忘れないように、時々は聴いてね。巴セナの歌も、信楽聖奈のこのメッセージも。約束だよ」
聴くなって言われたって勝手に聴いてやる。
「Lebe wohl, Shuto. Ich liebte dich.」
たぶん、ドイツ語だよな。最後にかっこつけやがって。聖奈の声だから許される行為だ。そこらの人間がやったらただのキザになる。
大体、ドイツ語で言われてもスペルがわからないと意味が調べられない。Lebe wohlは「さよなら」だろうか? 文脈的にギリギリ「ありがとう」もありえるか? 周期表の語呂合わせで知ったがリーベはドイツ語で愛と言う意味だ。後半部分はたぶん、「愛してる」だろう。
「ウィーンより愛を込めて、なんちゃって」
少しの間の後、その言葉でメッセージが終わった。
「これ収録してんの日本だろうが」
思わず呟く。
「See you, Sena. I love you.」
意趣返しの愛の言葉は聖奈には届かない。でも、いつか俺の声を届けてみせる。聖奈が世界中のどこにいても。
半月もすれば、俺に対する芸能人フィーバーも落ち着いた。ちょうどそのころ、聖奈がポニーテールをやめて髪を下ろすようになった。最近肌寒いので仕方ないことではあるが、聖奈が髪を結びなおす仕草も好きだったのだと今更気づいた。
「オーディションに専念するから、しばらく歌みた上げるのお休みするかも」
「いいんじゃね? そっち一本に絞る方が勝率高いっしょ」
巴セナの投稿がパタリと途絶えた。あれもこれもと欲張って全部中途半端になるより、目の前にある夢へのチケットを掴むことに全力投球する方がいい。背水の陣で戦う聖奈はかっこいいと思った。神格化しすぎるのもよくないが、巴セナというミューズは絶対に勝てると信じている。
「頑張れよ、聖奈」
だから、秘密基地に行く時間がなくなっても応援する。ボイトレもさらに遅くの時間までやるようになったらしく、帰りの時間がかぶらなくなった。でも、オフの日はバス停まで一緒に帰ったし、家で通話もしていたから寂しくはなかった。
そんな日々が続き、十一月も終わりに近づいていた。オーディションの詳しい日程は聞いていない。終わったのか、受かったのか、落ちたのか。俺からは聞けなかった。守秘義務があるかもしれないし、落ちていたとしてそれを言葉にすることに抵抗があるのは俺が一番よくわかっていたからだ。両親への落選報告は苦手だ。
珍しく聖奈が学校を休んだ。体調不良なのかオーディション絡みの用事なのか分からなかったので、「大丈夫?」と一言だけメッセージを送ったが既読無視状態のまま帰りのホームルームの時間になった。担任の言葉が右耳から左耳に抜けていく。
「で、ここから大切な話だ。本日を持って、信楽聖奈が転校することになりました」
「はあ⁉」
突然の爆弾発言に、俺は思わず立ち上がった。椅子が倒れた音も霞むくらい大きな声が出た。こんなの青天の霹靂だ。
「桐原、座りなさい。みんなも静かに。なんでも親御さんの仕事の都合で海外に行くそうで。信楽の意思を尊重して今日まで言わなかったけど、まさか最終登校日に休むとは……先生も驚いてます」
かつてないほど教室はざわついている。収拾がつかないままチャイムが鳴りだすが、そんなことは知ったことではなかった。転校なんて聞いてない。しかも海外だなんて。俺は立ったまま固まっていた。それどころか女子たちまで立って身を乗り出して騒ぎ始めた。
「以上でホームルームを終わります。あー、慌ただしくてすまん。以上!」
担任は大きめの声でそう言うと教室を出ていった。慌ただしいどころの騒ぎではない。泣き出す女子もいれば、今まで黙っていた担任への暴言を吐く女子もいる。「信楽のことちょっといいなって思ってたのに」と言い出す男子まで現れる。その間、俺はずっと呆然と立ち尽くしていた。
「修斗お前どうしたん? もしかして信楽のこと好きだったん?」
辻浦の言葉に反応する余力もなかった。
「あー、俺帰るわ。また明日な」
期待していた反応を得られなかった辻浦は気まずそうにフェードアウトしていった。それを皮切りに何人かが帰り始める。そのタイミングでポケットのスマホが振動した。
聖奈からかもしれない。俺は急いで画面を確認する。
「秘密基地で待ってる」
メッセージは聖奈からだった。
「おい、聖奈! 色々言いたいことあんだけど」
待ち合わせ場所に着くと聖奈が駆け寄ってきた。手を合わせて上目遣いでまくしたてられる。
「ごめんね! 親の転勤自体は前から決まってたんだけど、ついていくかは本当に直前まで決められなかったの。修斗ならわかってくれるよね?」
わかる。その意味も、はっきりした言葉を使わない心理も。オーディションに受かったなら意地でも一人で日本に残る、ダメなら両親と海外に行く。つまり、今年はダメだったのだ。
「行くなよ……来年があんだろ」
未成年が一人で残るなんてあまり現実的でない。わかってはいるけど懇願してしまう。
「それもそうなんだけど、行先ウィーンなんだよね。ベートーヴェンの聖地じゃん? 『田園』とかそこで生まれた曲だし。だから、音楽の勉強するならいい環境かなって」
罰が悪そうにうつむいて言われた。行先も初耳だった。
「聖奈、ドイツ語喋れんの?」
「挨拶しかわかんない! でもNo problem! 音楽は世界の共通言語だからね!」
聖奈は親指を立てた。呆れた。行き当たりばったりがすぎるだろ。一周廻って笑えて来た。
「ははっ、聖奈らしいわ」
聖奈はそういう人だ。どんな状況でも自分の手で未来を切り開く人だ。だから、俺が欠けるべき言葉は「行くな」じゃない。
「ビッグになって帰って来いよ。そっちに俺の名前も声もバンバン届くくらい俺も頑張るからさ」
「うん、修斗なら絶対なれるよ。たくさんの人を救える声優に」
聖奈がそう言ってくれるならなれる気がする。いや、なる。俺の声で世界を救う。
「これ、餞別。家で聴いてね」
SDカードを渡された。これを渡すために呼び出されたのだろうか。
「スマホ海外用に変えるからラインアカウントも消えちゃうかもしれないし、たてこんでるから巴セナのアカウントも更新できなくなっちゃうだろうけど、アーカイブはちゃんと残すから、たまには聴いてよ」
「毎日聴くっての。最後列彼氏面オタク舐めんな」
「なにそれ」
「なんなら見送りも行くつもりだけど」
「えー、野暮でしょ。縁もゆかりもない空港でバイバイなんてさ。最後は思い出の場所で締める方がよくない?」
芸術の世界に生きる者として、粋であるか否かは重要なファクターだ。聖奈は骨の髄までエンターテイナーなのだろう。また聖奈を深く尊敬した。
「それもそうだな。野暮だからさよならも言わない。次会うときは歌手と声優として、何かのアニメで待ち合わせな」
「やっぱり修斗はかっこいいね。うん、私もさよならは言わない」
聖奈は噛みしめるように呟いた。
「最後に修斗の声聞けて良かった。今までありがとね」
そう言って手を振ると聖奈は屋上を去った。階段を駆け下りていく音だけが響いていた。追いかけるのは無粋だと思った。次に会うときは、二人の夢が叶うときだ。
家に帰って、パソコンにSDカードを差し込む。Mp3ではなく高音質のwavファイルのデータが一つだけ入っていた。ヘッドホンをつけてメッセージを再生する。
「Hi, Shuto! 聖奈です」
クリアな音声が耳に飛び込んでくる。だいぶ高性能なマイクでバイノーラル録音したのだろう。まるで聖奈が目の前にいるかのように鮮明な声だ。
「まず初めに。ありがとう。修斗がいたから私はまっすぐ前だけを見て夢に生きられたよ。修斗と同じ夢を見て、たくさん勇気をもらって……一人で夢を見ていた時の私じゃ絶対知らなかった世界を見せてくれた」
世界を教えてくれたのは聖奈の方じゃないか。あの日君が俺を秘密基地に連れて行ってくれなかったら、今の俺はいない。
「世界にはたくさんの音が溢れてるけど、私は修斗の声が一番好き。だからね、いっぱい歌を褒めてくれた人はいたけど、修斗が私の歌を褒めてくれた時が一番嬉しかった。あの日、声をかけてくれてありがとう。私の歌、好きって言ってくれてありがとう」
いつの間にか頬を涙が伝っていた。馬鹿、泣かせんなよ。
「だから、一生のお願い。私の声をずっと好きでいて。修斗が好きになってくれた今この瞬間の十七歳の私の声を忘れないで」
言われなくたって忘れるもんか。次に聖奈の声を聴くとき、聖奈は何歳になっているんだろう。声は顔ほどでもないが緩やかに変わる。でも、何歳の聖奈の声も、俺はきっとまた好きになる。その時の聖奈の声も、十七歳の聖奈の声も死ぬまで愛し続ける。
「忘れないように、時々は聴いてね。巴セナの歌も、信楽聖奈のこのメッセージも。約束だよ」
聴くなって言われたって勝手に聴いてやる。
「Lebe wohl, Shuto. Ich liebte dich.」
たぶん、ドイツ語だよな。最後にかっこつけやがって。聖奈の声だから許される行為だ。そこらの人間がやったらただのキザになる。
大体、ドイツ語で言われてもスペルがわからないと意味が調べられない。Lebe wohlは「さよなら」だろうか? 文脈的にギリギリ「ありがとう」もありえるか? 周期表の語呂合わせで知ったがリーベはドイツ語で愛と言う意味だ。後半部分はたぶん、「愛してる」だろう。
「ウィーンより愛を込めて、なんちゃって」
少しの間の後、その言葉でメッセージが終わった。
「これ収録してんの日本だろうが」
思わず呟く。
「See you, Sena. I love you.」
意趣返しの愛の言葉は聖奈には届かない。でも、いつか俺の声を届けてみせる。聖奈が世界中のどこにいても。



