制服が夏服になるころには、電話で話すことも帰り道におしゃべりをすることも日課になっていた。巴セナのチャンネルの登録者数は着実に増えてはいるが、決定的なバズはない。アーティストの道は運が絡む世界だ。特にネットの世界では、いくら実力があっても埋もれてしまう人もいる。
「でもさ、そういうの全部実力でぶち抜いていくのが主人公ってものでしょ?」
そう力強い声で言ってのける聖奈を心底尊敬していた。聖奈は絶対に音楽で世界を救う歌手になれると信じていた。眩しいくらいの“赤”にあてられて俺もいっそうレッスンに身が入った。
「修斗は最近どう? なんかそわそわしてる感じするけど」
実力があるのに巡り合わせが悪い聖奈とは対照的に、俺は千載一遇のチャンスが目の前に到来していた。秋アニメ『ドクター・ゼータ』に出演する。しかも、奇跡的にネームドの役をもらうことができた。その収録が三日後に迫っている。
「もしかして主役決まったとか?」
「そうだったらよかったけど、仮にそうなったらプレッシャーで死ぬわ……」
半分嘘だ。既にプレッシャーに押しつぶされかけている。緊張でろくに眠れていない。元々主人公のゼータ役のオーディションを受けていて、ゼータ役は別の人に決まったが、声が別の役のイメージにぴったりだということでアルという少年の役に抜擢された。
「既に目にクマできてるけど」
「正直、プチ不眠症」
「まあ、言えないこともあるよね」
聖奈も芸能界進出を目指しているということもあり、理解が早くて助かる。それ以上詳しくは聞いてこなかった。
「ねえ、この後時間ある?」
バス停につくなり、突然質問される。レッスンはないし、このまま家に帰って自主練をしても行き詰まる予感しかしなかった。
「うん、平気」
「じゃあ、ちょっと付き合ってよ」
「どこに?」
「元気が出る、とっておきの場所!」
聖奈に連れられてバスに乗る。聖奈は優しい。俺が悩んでいるのを察して、理由も聞かずに励ましてくれる。
聖奈の声は聴いていて元気が出る。ただ、聖奈と話していて楽しいのはそれだけが理由ではない。夢の本質が同じだけあって、聖奈とは価値観が合う。だから、話していて楽しい。それが夢の話でも、アニメの感想や考察でも、教室で起こった他愛のない出来事の共有であっても。
守秘義務さえなければ、真っ先に聖奈に話して相談したと思う。俺は巴セナのファンであり、巴セナは同じ夢を見る同志だ。そして、信楽聖奈は俺の友達だ。
『ドクター・ゼータ』は異世界転生する医者の物語だ。俺が演じるアルは同じ病気の少女に恋する少年患者。出番は第一話だけだが、重要な役だ。俺なりに原作と台本を読み込み、アルという人間を解釈して演技に落とし込んだ。ただ、はじき出した答えが正解なのか分からない。俺は恋をしたことがないからだ。収録日が間近に迫り、自信がなくなって不安に襲われている。
車窓からは手を繋いで歩く学生カップルが見える。彼らなら、正解がわかるんだろうか。聖奈の横顔をちらっと見る。聖奈は恋をしたことがあるのだろうか。
頭の中がぐるぐるしているうちに、終点に着いた。聖奈に連れられて辿り着いた先は小学校。おそらく廃校になったという聖奈の母校だろう。聖奈は躊躇なく校門に入っていく。
「入っていいの?」
「うん。二月までは取り壊さないで、思い出の場所的な感じで開放するんだって」
よく見ると校庭で子供が遊んでいるし、校舎に入れば色々な教室から談笑している声がする。
「ここ、穴場なんだよ」
聖奈が案内したのは屋上だった。先客はいない。
「目、瞑ってみてよ」
言われるがままに目を瞑る。視覚をシャットアウトすると聴覚がより鋭敏になる。名も知らない鳥の声。風で木々がざわめく音。時折、子供たちが「鬼切った」と叫んでいる。懐かしい響きだ。少しの間、音の波に身をゆだねた。
「なんか、癒されない? こういう音って」
聖奈に突然声をかけられる。しかし、その声も自然と調和していた。
「うん、癒される。今夜はよく眠れるかも」
少しだけぼんやりした頭のまま答える。
「私の昔話、するね。寝ちゃってもいいよ。親が忙しいから、放課後は学童にいたんだ」
仲が良かった友達の話、優しい先生の話、合唱コンクールの話……。夢現で聖奈の生まれ育った街の音を聞きながら、聖奈の昔話を聞けば頭に情景が浮かぶ。聖奈の思い出の物語のはずなのに、なぜかそこに俺がいた。これが現実ならよかったのに。もしも聖奈と幼馴染になれていたら。もっとたくさん聖奈と話ができた。もっと早く出会いたかった。
ふっと突然眠気が消える。目を開けて、はっきりとした意識で聖奈を見つめると聖奈が視線に気づいた。
「起きた?」
「おかげさまで。だいぶ回復しました」
「じゃあ今から少しだけ、未来の話をするね」
聖奈はそう前置きをした。
「そう遠くない未来に修斗はアニメの主演声優になって、そのアニメで私が主題歌を歌う。そんな未来があったら素敵じゃない?」
それが実現するかはわからない。でも、もしそれが叶ったとしたら、これほど素敵なことはないと思う。二人で力を合わせて誰かの心を救う未来、声の力で一緒に世界を変える未来。
「うん、いつか……な」
「っていっても、私は修羅の道三歩進んで二歩下がってる状態だけどねー」
「いやいや、聖奈が先にプロになってるかもしれないじゃん。案外、一年後にはアニソン歌って紅白出てたりしてな」
綺麗な約束だけれども、聖奈が妙に弱気なのが気になった。
「いやー、厳しいよ。私、作詞作曲の才能はないもん。イメージに合う曲ドンピシャで作れる人には勝てないっしょ」
聖奈の言うことには一理あった。巴セナのアップしたカバー曲に比べて、オリジナルソングは目に見えて再生数が低く反応が悪い。聖奈の歌唱力のおかげで聴けるクオリティではあるが、聖奈の魅力を生かしているとは正直言い難い。
「あはは、茨の道ですよー。歌えるだけじゃなくて曲もちゃんと作れないと必要とされないよね」
「そんなことない。誰かに届く言葉を考える原作者や脚本家と、それを演じる声優にどっちが上とか下とかないだろ。音楽だって、作詞作曲する人と、それを歌って誰かに届ける人に優劣つけるなんてナンセンスじゃね?」
俺は聖奈の目を見てハッキリ言った。
「それに聖奈の才能は本物だから、聖奈の歌声に惚れて聖奈のための曲を書いてくれる人といつか必ず出会えるはずだ。それに、ネットからシンガーソングライターとして成り上がらなくたって、オーディションとかいくらでも方法はある」
声に自然と感情がこもった。しばらくの沈黙のあと、聖奈が呟く。
「そうだよね」
その声には、いつもの聖奈の色が宿っていた。希望の色。未来の色。この夕焼けと同じ赤。
「諦めるなんて、私らしくないよね! 自分を信じなきゃダメだよね! うん、何年先になっても絶対私、プロになる。それで修斗が主役のアニメの主題歌を歌って、世界中の人を音楽で救う!」
その声を聞いて確信した。聖奈は絶対にこの未来を有言実行すると。
「だから修斗は夢の先で待っててね」
そして俺も目が覚めた。大事なのは自信だ。そして、それは今の俺に足りなかったものだ。
「そしたら私、必ずその夢を運命にするから」
せっかくのチャンスに怖気づいている場合ではない。自分の練習の成果に自信を持て。
「運命は自分で作るものでしょ?」
聖奈がそう言った瞬間、風が木々を揺らす音がして、それに合わせて聖奈のポニーテールが揺れた。直後にアニメのエンディングのように音楽が流れ始めた。初めて聞くメロディが屋上に設置されたスピーカーから流れている。
今なら何でもできる気がした。無敵感に満ち溢れていた。俺は今の聖奈の声とそれに連なる一連の音を生涯忘れないだろう。
「これね、校歌。最終下校時刻のチャイムはこの音なんだ」
どこかノスタルジックに響く音。夕日の中でポニーテールを揺らして笑う聖奈は美しかった。愛しいと思った。
ようやく気付いた。俺は聖奈が好きだ。
最初は声が好きなだけだった。巴セナの歌声を純粋に綺麗だと思い、推し活の真似事をしていた。それがいつからか「声を聞いていて楽しい」から「話していて楽しい」に変わっていた。もっと一緒に話したい。もっと同じ時間を過ごしたい。一秒でも長く一緒にいたい。いつしか俺は信楽聖奈という一人の人間に恋をしていた。
「でもさ、そういうの全部実力でぶち抜いていくのが主人公ってものでしょ?」
そう力強い声で言ってのける聖奈を心底尊敬していた。聖奈は絶対に音楽で世界を救う歌手になれると信じていた。眩しいくらいの“赤”にあてられて俺もいっそうレッスンに身が入った。
「修斗は最近どう? なんかそわそわしてる感じするけど」
実力があるのに巡り合わせが悪い聖奈とは対照的に、俺は千載一遇のチャンスが目の前に到来していた。秋アニメ『ドクター・ゼータ』に出演する。しかも、奇跡的にネームドの役をもらうことができた。その収録が三日後に迫っている。
「もしかして主役決まったとか?」
「そうだったらよかったけど、仮にそうなったらプレッシャーで死ぬわ……」
半分嘘だ。既にプレッシャーに押しつぶされかけている。緊張でろくに眠れていない。元々主人公のゼータ役のオーディションを受けていて、ゼータ役は別の人に決まったが、声が別の役のイメージにぴったりだということでアルという少年の役に抜擢された。
「既に目にクマできてるけど」
「正直、プチ不眠症」
「まあ、言えないこともあるよね」
聖奈も芸能界進出を目指しているということもあり、理解が早くて助かる。それ以上詳しくは聞いてこなかった。
「ねえ、この後時間ある?」
バス停につくなり、突然質問される。レッスンはないし、このまま家に帰って自主練をしても行き詰まる予感しかしなかった。
「うん、平気」
「じゃあ、ちょっと付き合ってよ」
「どこに?」
「元気が出る、とっておきの場所!」
聖奈に連れられてバスに乗る。聖奈は優しい。俺が悩んでいるのを察して、理由も聞かずに励ましてくれる。
聖奈の声は聴いていて元気が出る。ただ、聖奈と話していて楽しいのはそれだけが理由ではない。夢の本質が同じだけあって、聖奈とは価値観が合う。だから、話していて楽しい。それが夢の話でも、アニメの感想や考察でも、教室で起こった他愛のない出来事の共有であっても。
守秘義務さえなければ、真っ先に聖奈に話して相談したと思う。俺は巴セナのファンであり、巴セナは同じ夢を見る同志だ。そして、信楽聖奈は俺の友達だ。
『ドクター・ゼータ』は異世界転生する医者の物語だ。俺が演じるアルは同じ病気の少女に恋する少年患者。出番は第一話だけだが、重要な役だ。俺なりに原作と台本を読み込み、アルという人間を解釈して演技に落とし込んだ。ただ、はじき出した答えが正解なのか分からない。俺は恋をしたことがないからだ。収録日が間近に迫り、自信がなくなって不安に襲われている。
車窓からは手を繋いで歩く学生カップルが見える。彼らなら、正解がわかるんだろうか。聖奈の横顔をちらっと見る。聖奈は恋をしたことがあるのだろうか。
頭の中がぐるぐるしているうちに、終点に着いた。聖奈に連れられて辿り着いた先は小学校。おそらく廃校になったという聖奈の母校だろう。聖奈は躊躇なく校門に入っていく。
「入っていいの?」
「うん。二月までは取り壊さないで、思い出の場所的な感じで開放するんだって」
よく見ると校庭で子供が遊んでいるし、校舎に入れば色々な教室から談笑している声がする。
「ここ、穴場なんだよ」
聖奈が案内したのは屋上だった。先客はいない。
「目、瞑ってみてよ」
言われるがままに目を瞑る。視覚をシャットアウトすると聴覚がより鋭敏になる。名も知らない鳥の声。風で木々がざわめく音。時折、子供たちが「鬼切った」と叫んでいる。懐かしい響きだ。少しの間、音の波に身をゆだねた。
「なんか、癒されない? こういう音って」
聖奈に突然声をかけられる。しかし、その声も自然と調和していた。
「うん、癒される。今夜はよく眠れるかも」
少しだけぼんやりした頭のまま答える。
「私の昔話、するね。寝ちゃってもいいよ。親が忙しいから、放課後は学童にいたんだ」
仲が良かった友達の話、優しい先生の話、合唱コンクールの話……。夢現で聖奈の生まれ育った街の音を聞きながら、聖奈の昔話を聞けば頭に情景が浮かぶ。聖奈の思い出の物語のはずなのに、なぜかそこに俺がいた。これが現実ならよかったのに。もしも聖奈と幼馴染になれていたら。もっとたくさん聖奈と話ができた。もっと早く出会いたかった。
ふっと突然眠気が消える。目を開けて、はっきりとした意識で聖奈を見つめると聖奈が視線に気づいた。
「起きた?」
「おかげさまで。だいぶ回復しました」
「じゃあ今から少しだけ、未来の話をするね」
聖奈はそう前置きをした。
「そう遠くない未来に修斗はアニメの主演声優になって、そのアニメで私が主題歌を歌う。そんな未来があったら素敵じゃない?」
それが実現するかはわからない。でも、もしそれが叶ったとしたら、これほど素敵なことはないと思う。二人で力を合わせて誰かの心を救う未来、声の力で一緒に世界を変える未来。
「うん、いつか……な」
「っていっても、私は修羅の道三歩進んで二歩下がってる状態だけどねー」
「いやいや、聖奈が先にプロになってるかもしれないじゃん。案外、一年後にはアニソン歌って紅白出てたりしてな」
綺麗な約束だけれども、聖奈が妙に弱気なのが気になった。
「いやー、厳しいよ。私、作詞作曲の才能はないもん。イメージに合う曲ドンピシャで作れる人には勝てないっしょ」
聖奈の言うことには一理あった。巴セナのアップしたカバー曲に比べて、オリジナルソングは目に見えて再生数が低く反応が悪い。聖奈の歌唱力のおかげで聴けるクオリティではあるが、聖奈の魅力を生かしているとは正直言い難い。
「あはは、茨の道ですよー。歌えるだけじゃなくて曲もちゃんと作れないと必要とされないよね」
「そんなことない。誰かに届く言葉を考える原作者や脚本家と、それを演じる声優にどっちが上とか下とかないだろ。音楽だって、作詞作曲する人と、それを歌って誰かに届ける人に優劣つけるなんてナンセンスじゃね?」
俺は聖奈の目を見てハッキリ言った。
「それに聖奈の才能は本物だから、聖奈の歌声に惚れて聖奈のための曲を書いてくれる人といつか必ず出会えるはずだ。それに、ネットからシンガーソングライターとして成り上がらなくたって、オーディションとかいくらでも方法はある」
声に自然と感情がこもった。しばらくの沈黙のあと、聖奈が呟く。
「そうだよね」
その声には、いつもの聖奈の色が宿っていた。希望の色。未来の色。この夕焼けと同じ赤。
「諦めるなんて、私らしくないよね! 自分を信じなきゃダメだよね! うん、何年先になっても絶対私、プロになる。それで修斗が主役のアニメの主題歌を歌って、世界中の人を音楽で救う!」
その声を聞いて確信した。聖奈は絶対にこの未来を有言実行すると。
「だから修斗は夢の先で待っててね」
そして俺も目が覚めた。大事なのは自信だ。そして、それは今の俺に足りなかったものだ。
「そしたら私、必ずその夢を運命にするから」
せっかくのチャンスに怖気づいている場合ではない。自分の練習の成果に自信を持て。
「運命は自分で作るものでしょ?」
聖奈がそう言った瞬間、風が木々を揺らす音がして、それに合わせて聖奈のポニーテールが揺れた。直後にアニメのエンディングのように音楽が流れ始めた。初めて聞くメロディが屋上に設置されたスピーカーから流れている。
今なら何でもできる気がした。無敵感に満ち溢れていた。俺は今の聖奈の声とそれに連なる一連の音を生涯忘れないだろう。
「これね、校歌。最終下校時刻のチャイムはこの音なんだ」
どこかノスタルジックに響く音。夕日の中でポニーテールを揺らして笑う聖奈は美しかった。愛しいと思った。
ようやく気付いた。俺は聖奈が好きだ。
最初は声が好きなだけだった。巴セナの歌声を純粋に綺麗だと思い、推し活の真似事をしていた。それがいつからか「声を聞いていて楽しい」から「話していて楽しい」に変わっていた。もっと一緒に話したい。もっと同じ時間を過ごしたい。一秒でも長く一緒にいたい。いつしか俺は信楽聖奈という一人の人間に恋をしていた。



