翌週、放課後約束通りに信楽聖奈改め巴セナの歌を堪能した。日の入り前に切り上げて、いつものようにバス停まで信楽を送る。あの後二回ほど帰宅時間がかぶり、その時もそうしていたからだ。
「やあ、最高だった。やっぱセナちゃんしか勝たんわ。あ……ごめん」
 今日に至るまで巴セナのアップした歌を何度も聞いて来た。コメント欄では大体下の名前で「セナ様」「セナちゃん」と呼ばれていたからそれにつられてしまった電話で感想を伝えるときは気を付けていたけれど、つい気が抜けてしまった。これはセクハラになるかもしれない。
「謝んないでいいよー。名前呼びの方が好きだし」
 焦る僕を信楽が笑い飛ばし、ほっとする。
「じゃあ、聖奈って呼ぶわ」
 ちゃん付けはガチ恋っぽいし、様付けしているところをクラスメイトに聞かれでもしたら正気を疑われる。
「いいよ。私も修斗って呼んでいい? あれ、桐原君って芸名どうする予定なんだっけ? そっちで呼んだ方がいい?」
「修斗でいいよ。本名のままでいくつもりだし」
 そう答えた瞬間、いつものグラウンドからサッカーボールが飛んでくるのが見えた。咄嗟に信楽に当たらないように庇い、ボールをトラップする。
「あっぶね。大丈夫だった?」
「うん、ありがと」
 グラウンドの方を見ると今日は老若男女が入り混じった社会人サークルらしき団体がサッカーをしていた。
「すみませーん!」
 母と同年代くらいのおばさんが大きな声で叫んだ。俺はグラウンドに向けてボールを蹴り返した。またボールが飛んできてはたまらないので、グラウンドの前を足早に通り抜ける。
「サッカーうまいんだね」
「幼稚園から十年やらされてたからな」
「やらされてた……?」
 つい、口が滑った。しかし、これは俺の声優を目指すきっかけにも関わってくる話だ。お互い夢を追いかけている身としてはいつか話すことになるだろう。
「少し、時間ある?」
 聖奈が頷く。河原に腰掛けて、沈む夕日を眺めながら昔話を始める。
「元々は親父が幼稚園から大学までずっとサッカーやってたんだ。プロになりたかったんだって。今はメーカー勤めだけど」
 この話も当然今まで誰にも話したことはない。同じく夢追い人の聖奈だから話せることだ。
「よくあるじゃん。自分が叶えられなかった夢を子供に代わりに叶えてもらうってやつ。シュートって名前も俺の親父の夢の残骸みたいなもん」
 サッカーをする前提で名づけられた名前が嫌いだった。子供を使って敗者復活戦をする父を軽蔑していた。
「親父いい大学の体育会出てるからさ、ドがつくほどのホワイト企業で、基本定時帰りなんだよ」
 少し離れたグラウンドに目を向ける。ボールは飛んでこない距離だが、「ナイスシュート!」と盛り上がる声が聞こえてくる。
「この辺、社会人のサッカーサークル多いだろ。サッカーやろうと思えばいつだってできるのに、親父がサッカーの話をするときは全部過去形なんだよ。夢だった、全国大会に行きたかった、あの頃は楽しかった、って」
 サッカーを語る父はみっともない負け組だった。それでも父を心の底からは嫌いになれなかった。
「たぶん俺、親父と同じ職業目指せって言われたら受け入れてたと思うんだよな。詳しいこと知らないけど、親父特許何個も取っててさ。仕事の話してる親父は生き生きしてた」
 思い出の中の父は小学校の自由研究を手伝ってくれた。「修斗は発明の天才だな」と褒めてくれた。自由研究では毎年賞をとれた。親子ともども運動よりは科学の方面に才能があったのだと思う。
「でもさ、親父に言われて始めたとはいえ、スポーツやってりゃ負ける悔しさとかからは逃れられないわけで」
 昔取った杵柄で体育の授業程度なら「サッカーの上手い人」でいられる。でも、クラブでは後から入ってきた人に抜かれる劣等感を抱くことも多々あった。
「幼稚園の終わりくらいの頃から、サッカーのアニメやってたの覚えてる?」
「うん、内容全部は覚えてないけど」
「そこにはさ、親の期待背負ってサッカーしてる子とか、負けて悔しがってる子とか、俺みたいな子がいた。すっげー共感した。悩んでるの俺だけじゃないんだ、って救われた」
 テレビの中に広がる世界は単なる絵じゃなかった。彼らの人生が交差して紡がれる物語に没頭した。
「最後の方には親にサッカーやること反対されてる子が親を説得するシーンとかもあってさ。俺、それ見て勇気が出たんだ。声優になりたいって、親に言えた」
 人の人生を変えるのは文字か、声か。俺は声だと思う。目から入る情報よりも耳から入る言葉の方が脳に直接届くような気がする。少なくとも、あの頃泣いていた俺にとってはそうだった。
「だから、今度は俺が声優になって、俺の声でどこかで悩んでる子たちの心を救いたい。文字が読めない子とか、漫画買う金ない子も含めてな」
「素敵な夢だね、修斗ならできるよ。あ、ごめん……名前呼び、やっぱり嫌だよね?」
「いや、今は親父とも和解してるし。その辺の生い立ち全部ひっくるめて俺だから、声優は本名でやろうと思ってる。だからいいよ、修斗で」
「修斗は強いね」
 聖奈に人生を肯定された。また少し強くなれた気がした。話してよかったのだと思う。
「聖奈はどうして歌手になりたいって思ったか聞いてもいい?」
「最初のきっかけはおばあちゃんが褒めてくれたからかな。聖奈ちゃんはお歌が上手ねって。五歳の時に死んじゃったんだけどね」
 触れてはいけないことに触れてしまったのだろうか、言葉を失った。
「うちは親両方ともものすごく忙しかったから、ほとんどおばあちゃんに育てられたようなもので。結構寂しさを抱えた子供だったわけですよ。あ、親と仲悪いわけじゃないよ。録音機材とかお願いすれば何でも買ってくれるし、ボイトレ教室だって通わせてくれてるし」
 聖奈が慌てて親をフォローした。
「で、私の場合は心を救ってくれたのが音楽だったんだよね。だから、私も音楽で世界の誰かの心を救いたいの」
「そっか。似た者同士だったんだな、俺たち」
 聖奈が夢を語ったときに湧いた親近感の正体が分かった。承認欲求に基づいた夢ではなく、かつての自分と同じように、世界のどこかで悩んでいる誰かの心を救うという夢。
「絶対、お互いに夢叶えような」
 握り拳を聖奈の方に突き出してグータッチを求める。俺の手に聖奈の手がこつんと触れた。