いつになるかわからないと思っていた“次”は予想外にすぐ訪れた。翌日の夕方、養成所のレッスンが終わると偶然信楽と出会った。学校と養成所はそう遠く離れていないので信楽がここにいることは不思議なことではないが、何か運命めいたものを感じた。
「お疲れ。部活帰り?」
「部活は入ってないよ。あそこのボイトレ教室に通ってるの。桐原君は家、この辺なんだっけ?」
そう言って信楽が向かいのビルを指さした。この間、徒歩通学だと言ったことを覚えてくれていることが嬉しかった。
「うん、この辺。てか、信楽さんボイトレ通ってたんだ。道理で歌、神懸かってると思った」
「嬉しい、ありがと!」
信楽はそう言って笑った。
「もっと言って!……なんちゃって」
悪戯っぽく舌を出す。歌っている時の信楽は人間離れした風格があるのに、普段の信楽はお茶目な面もあるのだなと意外に感じた。
「実際、お世辞抜きに俺、信楽さんの歌好きだよ」
「ありがと! 桐原君イケボだから褒められると耳の保養って感じ」
俺が信楽を褒めたはずなのに、気づけば俺が褒められていた。
「どうも……」
「実は今まで誰にも言ってないんだけどね、私、ネットで歌い手やってるの」
「え、何て名前?」
「巴セナ。ほら、これ」
信楽はスマホで配信用アカウントを見せてきた。かなりの頻度で投稿しているようだ。登録者数は千くらいだ。もっと多くてもいいだろ。信楽ほどの逸材が埋もれていていいはずがない。
「まだ数字全然取れてないけど、いつかは世界中の人が私の歌、聞いてくれたらいいなって思ってるんだ。って、調子乗りすぎちゃったかな? 桐原君なら私の夢、笑わないで聞いてくれる気がしたから」
「笑わないよ。信楽さんなら絶対、夢叶えられるよ」
信楽の目を見て、はっきり言った。
「俺も、声優目指してるんだ」
隠しているつもりはなかったが、わざわざ友人に言ったこともない。でも、信楽なら絶対笑わないという核心があった。何より、彼女の声には俺と同じような大きな志がこもっていた。
「すごい、天職だね! 桐原君なら絶対なれるよ」
初めて信楽の声を聞いた時よりもさらに強く心臓を鷲掴みにされた。
「ありがとう」
信楽の声が発する熱に浮かされて、それだけ言うのがやっとだった。
どちらからともなく、昨日と同じようにバス停へと歩き出した。河原のグラウンドでは昨日より少し年齢層の高いおじさんたちがサッカーをしていた。信楽と話すのは楽しかった。信楽の歌声はもちろん最強だけれど、信楽が普通に話している声も好きだからだ。
「じゃあ、桐原君は中学の時から養成所通ってるんだ。私も中学からボイトレ通ってたからもしかしたらニアミスしてたかもね」
「バスで? 遠くない?」
「ちょっと遠いけど、地元に音楽教室みたいなところないから。バスで三十分の距離でこんなに違う? ってくらい栄え方違うもん」
バスの終点が示す地名は、畑と田んぼしかない村という印象だ。
「本当に田舎だよ。通ってた小学校、今年の春に廃校になっちゃったし。正式には合併らしいんだけど」
信楽は自分の地元がいかに田舎かをものすごい熱量で語った。
「まあ、人はあったかくて優しくて、いいところなんだけどね」
バスが来たので信楽が会話を閉じた。
「あのさ、今日教えてもらったアカウントで載せてた歌、聞いてもいいかな?」
別れ際、バスのステップを上る信楽の背中に問いかける。
「大歓迎!」
信楽は振り返ってそう答えると小さく手を振った。
家に帰って、さっそく巴セナのアカウントを検索し、アップされている最新の曲を聴いた。僕の好きなアニメソングのカバー。やっぱり彼女の歌には色がついている。俺は既に巴セナのファンになっていた。
バズには至っていないものの、俺と同じように巴セナに脳を焼かれたファンは多いようだ。一度掴んだファンは離さない魅力が彼女の声にはある。コメント欄ではファンマークをつけた古参ファンが「セナちゃん神」と大量のハートマークとともにコメントしていた。
巴セナの歌を聞いて心が動かされた。それを伝えるための文章を個人ラインのトーク欄に下書きしたが、どうにも気持ち悪かった。俺は文章を書くのが苦手だ。言葉を選ぶことと、それに気持ちを乗せて話すことは別の才能が必要だと思う。
迷った末、信楽に電話をかけた。文字だけのコミュニケーションよりもちゃんと今の気持ちを伝えられる気がしたからだ。
「もしもし、信楽さん? 今、大丈夫?」
「桐原君? どうしたの?」
「聞いたよ、巴セナの歌。すっごくよかった。この間生歌タダで聞かせてもらったの申し訳ないくらいだわ」
「えー、嬉しい。私こそ、声優の卵と電話なんかしてたら未来のファンに怒られちゃうかも」
「いや、声優だって電話くらいするだろ。歌手の卵の歌に対応すんのってシチュエーションボイスとかじゃね?」
「やっば。そんなんされたら惚れちゃいそう。私、声フェチなんだよね」
「え、今の振り?」
フレンドリーな女子の言葉はどの程度真に受けていいかいまいちよくわからない。声が好き、とか言われたら勘違いして暴走する男も少なくないだろう。
「え、いいの?」
たぶん、実際にそれっぽいことを言ってもドン引きはされなさそうだ。信楽は耳がいい。信楽から客観的な感想をもらえたら、今後の演技に役立てることができるのではないだろうか。
「あ、じゃあ、デートに誘うってシチュでいいっすか」
「うん」
あまり生々しくないものを選んだ。息を整えて、全力の演技をする。
「セナちゃん、次のオフ遊びに行かない? 二人きりで、さ」
スマホの向こう側から、キャーという声と手足をバタバタさせているような音がした。
「破壊力やっば! これは沼るって!」
信楽の言葉で、俺は自分の声に自信が持てた。信楽の声にはそういう魔力があるようだ。
「え、ちなみに今のセナちゃんは、巴セナに対してですか? 信楽聖奈に対してですか?」
電話の向こうで悶えているような口調で質問される。その言葉に、ほんの少しだけ欲が出た。先ほどと同じ声で押してみた。
「巴セナに対してだって言ったら、カラオケで俺のために歌ってくれる?」
またもキャーキャーという声が聞こえた後、しばらくして小さな声で聞かれた。
「これ、本気にしてもいい?」
つまり誘いはOKということ。巴セナの歌声聴き放題のボーナスタイムが降ってきた。
「もちろん」
いつもの俺の素の口調で答えた。約束成立。通話を切った後も、信楽が放つ赤い光の余韻が残っていた。
「お疲れ。部活帰り?」
「部活は入ってないよ。あそこのボイトレ教室に通ってるの。桐原君は家、この辺なんだっけ?」
そう言って信楽が向かいのビルを指さした。この間、徒歩通学だと言ったことを覚えてくれていることが嬉しかった。
「うん、この辺。てか、信楽さんボイトレ通ってたんだ。道理で歌、神懸かってると思った」
「嬉しい、ありがと!」
信楽はそう言って笑った。
「もっと言って!……なんちゃって」
悪戯っぽく舌を出す。歌っている時の信楽は人間離れした風格があるのに、普段の信楽はお茶目な面もあるのだなと意外に感じた。
「実際、お世辞抜きに俺、信楽さんの歌好きだよ」
「ありがと! 桐原君イケボだから褒められると耳の保養って感じ」
俺が信楽を褒めたはずなのに、気づけば俺が褒められていた。
「どうも……」
「実は今まで誰にも言ってないんだけどね、私、ネットで歌い手やってるの」
「え、何て名前?」
「巴セナ。ほら、これ」
信楽はスマホで配信用アカウントを見せてきた。かなりの頻度で投稿しているようだ。登録者数は千くらいだ。もっと多くてもいいだろ。信楽ほどの逸材が埋もれていていいはずがない。
「まだ数字全然取れてないけど、いつかは世界中の人が私の歌、聞いてくれたらいいなって思ってるんだ。って、調子乗りすぎちゃったかな? 桐原君なら私の夢、笑わないで聞いてくれる気がしたから」
「笑わないよ。信楽さんなら絶対、夢叶えられるよ」
信楽の目を見て、はっきり言った。
「俺も、声優目指してるんだ」
隠しているつもりはなかったが、わざわざ友人に言ったこともない。でも、信楽なら絶対笑わないという核心があった。何より、彼女の声には俺と同じような大きな志がこもっていた。
「すごい、天職だね! 桐原君なら絶対なれるよ」
初めて信楽の声を聞いた時よりもさらに強く心臓を鷲掴みにされた。
「ありがとう」
信楽の声が発する熱に浮かされて、それだけ言うのがやっとだった。
どちらからともなく、昨日と同じようにバス停へと歩き出した。河原のグラウンドでは昨日より少し年齢層の高いおじさんたちがサッカーをしていた。信楽と話すのは楽しかった。信楽の歌声はもちろん最強だけれど、信楽が普通に話している声も好きだからだ。
「じゃあ、桐原君は中学の時から養成所通ってるんだ。私も中学からボイトレ通ってたからもしかしたらニアミスしてたかもね」
「バスで? 遠くない?」
「ちょっと遠いけど、地元に音楽教室みたいなところないから。バスで三十分の距離でこんなに違う? ってくらい栄え方違うもん」
バスの終点が示す地名は、畑と田んぼしかない村という印象だ。
「本当に田舎だよ。通ってた小学校、今年の春に廃校になっちゃったし。正式には合併らしいんだけど」
信楽は自分の地元がいかに田舎かをものすごい熱量で語った。
「まあ、人はあったかくて優しくて、いいところなんだけどね」
バスが来たので信楽が会話を閉じた。
「あのさ、今日教えてもらったアカウントで載せてた歌、聞いてもいいかな?」
別れ際、バスのステップを上る信楽の背中に問いかける。
「大歓迎!」
信楽は振り返ってそう答えると小さく手を振った。
家に帰って、さっそく巴セナのアカウントを検索し、アップされている最新の曲を聴いた。僕の好きなアニメソングのカバー。やっぱり彼女の歌には色がついている。俺は既に巴セナのファンになっていた。
バズには至っていないものの、俺と同じように巴セナに脳を焼かれたファンは多いようだ。一度掴んだファンは離さない魅力が彼女の声にはある。コメント欄ではファンマークをつけた古参ファンが「セナちゃん神」と大量のハートマークとともにコメントしていた。
巴セナの歌を聞いて心が動かされた。それを伝えるための文章を個人ラインのトーク欄に下書きしたが、どうにも気持ち悪かった。俺は文章を書くのが苦手だ。言葉を選ぶことと、それに気持ちを乗せて話すことは別の才能が必要だと思う。
迷った末、信楽に電話をかけた。文字だけのコミュニケーションよりもちゃんと今の気持ちを伝えられる気がしたからだ。
「もしもし、信楽さん? 今、大丈夫?」
「桐原君? どうしたの?」
「聞いたよ、巴セナの歌。すっごくよかった。この間生歌タダで聞かせてもらったの申し訳ないくらいだわ」
「えー、嬉しい。私こそ、声優の卵と電話なんかしてたら未来のファンに怒られちゃうかも」
「いや、声優だって電話くらいするだろ。歌手の卵の歌に対応すんのってシチュエーションボイスとかじゃね?」
「やっば。そんなんされたら惚れちゃいそう。私、声フェチなんだよね」
「え、今の振り?」
フレンドリーな女子の言葉はどの程度真に受けていいかいまいちよくわからない。声が好き、とか言われたら勘違いして暴走する男も少なくないだろう。
「え、いいの?」
たぶん、実際にそれっぽいことを言ってもドン引きはされなさそうだ。信楽は耳がいい。信楽から客観的な感想をもらえたら、今後の演技に役立てることができるのではないだろうか。
「あ、じゃあ、デートに誘うってシチュでいいっすか」
「うん」
あまり生々しくないものを選んだ。息を整えて、全力の演技をする。
「セナちゃん、次のオフ遊びに行かない? 二人きりで、さ」
スマホの向こう側から、キャーという声と手足をバタバタさせているような音がした。
「破壊力やっば! これは沼るって!」
信楽の言葉で、俺は自分の声に自信が持てた。信楽の声にはそういう魔力があるようだ。
「え、ちなみに今のセナちゃんは、巴セナに対してですか? 信楽聖奈に対してですか?」
電話の向こうで悶えているような口調で質問される。その言葉に、ほんの少しだけ欲が出た。先ほどと同じ声で押してみた。
「巴セナに対してだって言ったら、カラオケで俺のために歌ってくれる?」
またもキャーキャーという声が聞こえた後、しばらくして小さな声で聞かれた。
「これ、本気にしてもいい?」
つまり誘いはOKということ。巴セナの歌声聴き放題のボーナスタイムが降ってきた。
「もちろん」
いつもの俺の素の口調で答えた。約束成立。通話を切った後も、信楽が放つ赤い光の余韻が残っていた。



