『ドクター・ゼータ』第一話の濃密な三十分が終わり、エンディングが流れ出す。クレジットのアル役に桐原修斗の名前が映ったタイミングで父に声をかけられた。
「また見てるのか。本当に飽きないな」
父からは仕事帰りの匂いがした。テレビの画面を見て父が苦笑する。『ドクター・ゼータ』は見るたびに新しい発見がある名作だ。今まで幾度となく見てきたが、今日も演じる上でまた新たな発見をした。
「リメイクに出演するなら、前作にリスペクトを持つのは当然のことだろ」
ドヤ顔で答えてやった。かつての覇権アニメ『ドクター・ゼータ』はこのたびキャストを一新してリメイクされた。今をときめく超人気覆面音楽集団・ポエニクスが主題歌を歌うと発表され、その事実もSNSでトレンド入りした。そして俺は主人公のゼータ役を演じる。実に誇らしいことだ。
「そうだな」
父は既に俺の出演情報を知っている様子だった。やわらかな笑みを浮かべたと思ったら、急にかしこまって問いかけられる。
「声優の仕事、楽しいか?」
「うん、楽しいよ」
俺は即答した。エンディングが終わったのでいったん再生をやめ、体を父の方に向ける。
「よかった」
「何でそんなこと聞くんだよ」
「いや、お前が声優になりたいって言い出した日のこと思い出してな。親の夢を息子に背負わせるなんて親失格だったかなって、何度も悩んだよ」
子供は親の影響を強く受ける。それは職業選択においても例外ではないだろう。父がかつて追いかけていた夢の話は何度も母から聞いた。
「確かに、声優目指したのは親父の影響だけど、押し付けられたなんて感じたこと、一回もないっての。俺が勝手に憧れたんだよ、アルさん」
父が十七歳の時に演じた役名で呼ぶと、露骨に赤面した。幼い頃、このDVDを父と一緒に見た。声優になる夢を決定づけたのは『ドクター・ゼータ』だが、原体験はもっと前だ。
激務に追われる日々でも、休みの日は何冊も俺に絵本を読んでくれた。父の声が紡ぐ世界は文字が読めない俺を物語の世界に没入させた。その声ひとつで何人ものキャラクターを演じる父は輝いていた。俺自身が父の背中から演じる楽しさを勝手に学んだ。だから、若き日の父の夢を代わりに叶えた形になったのは単なる結果論だ。
「そうはいっても、本当は他の道に進みたかったのに空気を読ませてしまったんじゃないかって思うことはあるんだよ」
「親父だって、じいちゃんにサッカー選手になれって言われても無視したんだろ。親父の息子なんだから空気なんて読まないって。あ、でも一時期ちょっとだけ声優以外の道もありかなって思ったことはあるけど」
「え?」
初耳だ、といった様子で父が目を丸くする。その時、玄関から母のアラフィフとは思えない若々しく高い声が響いた。
「うっそー、聖弥帰ってたの? 言ってよ。そしたらスケジュール調整したのにー」
「えー、父さんには帰るって昨日伝えてたんだけどー」
玄関に向かって声を張る。
「ご飯もう食べた? 何か作ろうか?」
「まだ。お願いしまーす」
「はーい」
返事の後、洗面所から手を洗う水音が聞こえ始めた。会話が遮られていたことを思い出し、父の顔を見る。何の話だったっけ、と言おうとして、父の服についた病院の匂いで直前のやり取りを思い出した。
「医者と迷ったんだよ」
俺が子供の頃、母は耳が聞こえなかった。病気で高校生の頃に聴力を失ったらしい。その病気の治療法を確立し、母の世界に音を取り戻したのは父だ。俺が小学生、母が四十歳の頃のことだ。医者としての父を心の底から尊敬し、医学の道に憧れを抱いた。最終的に天秤は声優の方に傾いたけれども。
「ただいまー」
「おかえり」
リビングに来た母に挨拶を返す。
「おかえり」
父が優しい声で母に言う。これほど優しい響きの「おかえり」を俺は他に知らない。人生経験の違いと言われてしまえばそれまでだが、それを埋めるのがプロの仕事だ。ただ、父の境地にまでたどり着けるかと言われれば、やはり父は遠い存在であり今でも俺の目標だ。
「もう、聖弥が帰ってくることくらいちゃんと教えてよ、ばかばか」
「拗ねるなって、子供じゃないんだから」
母がむくれている。こんな小競り合いをしているが、これほど愛し合っている夫婦は他にいないと思う。父は母がいつか音を取り戻した時のために、たくさんの音を記録していた。俺の産声からお遊戯会、日常のささいな会話にいたるまで録音された大量のSDカードは父の愛の証だ。
聴力を取り戻した母は空白の時間を埋めるようにたくさんの音を浴びた。そして一度は諦めた音楽の道に進んだ。母はインターネットの海を漂う一人の歌い手として一からやり直した。
「どうせ近いうちに仕事で一緒になるだろ」
母の歌声に一人のボカロPが偶然目をつけて結成された音楽集団がポエニクスだ。メンバーの年齢も経歴もすべてが謎のミステリアスなプロジェクト。母はSenaの名義でポエニクスのボーカルを務めている。
父は多くを語らないから、俺は母の視点でしか桐原修斗と信楽聖奈がかつて描いた夢の話を知らない。好きな子が主題歌を歌うアニメの主人公を演じる、かつての父の夢は母の口から聞いた。
かつて屋上から飛び降りて死のうとした少女は今、その歌声でたくさんの人に希望を与えている。
「死にたかったけどポエニクスの歌を聞いてもう少し生きてみようと思えた」
ポエニクスで検索すればそんな声が溢れている。
父が生涯で唯一愛した歌姫が主題歌を歌うアニメで、奇しくも俺は主演を務める。父の夢を図らずも継いだ形になったが、声優は俺自身の夢だ。桐原修斗の息子ではなく、桐原聖弥として役を全うしようと思う。
父は才能があったから、そのまま声優の道に進んでいたらレジェンドと呼ばれる人たちに肩を並べていただろう。
でも、ネームドの役をもらい拓けた道を捨てて医学の道に進んだ父の選択は決して間違っていなかった。
その何よりの証として母は今、生きている。そして俺が今、ここにいる。
「また見てるのか。本当に飽きないな」
父からは仕事帰りの匂いがした。テレビの画面を見て父が苦笑する。『ドクター・ゼータ』は見るたびに新しい発見がある名作だ。今まで幾度となく見てきたが、今日も演じる上でまた新たな発見をした。
「リメイクに出演するなら、前作にリスペクトを持つのは当然のことだろ」
ドヤ顔で答えてやった。かつての覇権アニメ『ドクター・ゼータ』はこのたびキャストを一新してリメイクされた。今をときめく超人気覆面音楽集団・ポエニクスが主題歌を歌うと発表され、その事実もSNSでトレンド入りした。そして俺は主人公のゼータ役を演じる。実に誇らしいことだ。
「そうだな」
父は既に俺の出演情報を知っている様子だった。やわらかな笑みを浮かべたと思ったら、急にかしこまって問いかけられる。
「声優の仕事、楽しいか?」
「うん、楽しいよ」
俺は即答した。エンディングが終わったのでいったん再生をやめ、体を父の方に向ける。
「よかった」
「何でそんなこと聞くんだよ」
「いや、お前が声優になりたいって言い出した日のこと思い出してな。親の夢を息子に背負わせるなんて親失格だったかなって、何度も悩んだよ」
子供は親の影響を強く受ける。それは職業選択においても例外ではないだろう。父がかつて追いかけていた夢の話は何度も母から聞いた。
「確かに、声優目指したのは親父の影響だけど、押し付けられたなんて感じたこと、一回もないっての。俺が勝手に憧れたんだよ、アルさん」
父が十七歳の時に演じた役名で呼ぶと、露骨に赤面した。幼い頃、このDVDを父と一緒に見た。声優になる夢を決定づけたのは『ドクター・ゼータ』だが、原体験はもっと前だ。
激務に追われる日々でも、休みの日は何冊も俺に絵本を読んでくれた。父の声が紡ぐ世界は文字が読めない俺を物語の世界に没入させた。その声ひとつで何人ものキャラクターを演じる父は輝いていた。俺自身が父の背中から演じる楽しさを勝手に学んだ。だから、若き日の父の夢を代わりに叶えた形になったのは単なる結果論だ。
「そうはいっても、本当は他の道に進みたかったのに空気を読ませてしまったんじゃないかって思うことはあるんだよ」
「親父だって、じいちゃんにサッカー選手になれって言われても無視したんだろ。親父の息子なんだから空気なんて読まないって。あ、でも一時期ちょっとだけ声優以外の道もありかなって思ったことはあるけど」
「え?」
初耳だ、といった様子で父が目を丸くする。その時、玄関から母のアラフィフとは思えない若々しく高い声が響いた。
「うっそー、聖弥帰ってたの? 言ってよ。そしたらスケジュール調整したのにー」
「えー、父さんには帰るって昨日伝えてたんだけどー」
玄関に向かって声を張る。
「ご飯もう食べた? 何か作ろうか?」
「まだ。お願いしまーす」
「はーい」
返事の後、洗面所から手を洗う水音が聞こえ始めた。会話が遮られていたことを思い出し、父の顔を見る。何の話だったっけ、と言おうとして、父の服についた病院の匂いで直前のやり取りを思い出した。
「医者と迷ったんだよ」
俺が子供の頃、母は耳が聞こえなかった。病気で高校生の頃に聴力を失ったらしい。その病気の治療法を確立し、母の世界に音を取り戻したのは父だ。俺が小学生、母が四十歳の頃のことだ。医者としての父を心の底から尊敬し、医学の道に憧れを抱いた。最終的に天秤は声優の方に傾いたけれども。
「ただいまー」
「おかえり」
リビングに来た母に挨拶を返す。
「おかえり」
父が優しい声で母に言う。これほど優しい響きの「おかえり」を俺は他に知らない。人生経験の違いと言われてしまえばそれまでだが、それを埋めるのがプロの仕事だ。ただ、父の境地にまでたどり着けるかと言われれば、やはり父は遠い存在であり今でも俺の目標だ。
「もう、聖弥が帰ってくることくらいちゃんと教えてよ、ばかばか」
「拗ねるなって、子供じゃないんだから」
母がむくれている。こんな小競り合いをしているが、これほど愛し合っている夫婦は他にいないと思う。父は母がいつか音を取り戻した時のために、たくさんの音を記録していた。俺の産声からお遊戯会、日常のささいな会話にいたるまで録音された大量のSDカードは父の愛の証だ。
聴力を取り戻した母は空白の時間を埋めるようにたくさんの音を浴びた。そして一度は諦めた音楽の道に進んだ。母はインターネットの海を漂う一人の歌い手として一からやり直した。
「どうせ近いうちに仕事で一緒になるだろ」
母の歌声に一人のボカロPが偶然目をつけて結成された音楽集団がポエニクスだ。メンバーの年齢も経歴もすべてが謎のミステリアスなプロジェクト。母はSenaの名義でポエニクスのボーカルを務めている。
父は多くを語らないから、俺は母の視点でしか桐原修斗と信楽聖奈がかつて描いた夢の話を知らない。好きな子が主題歌を歌うアニメの主人公を演じる、かつての父の夢は母の口から聞いた。
かつて屋上から飛び降りて死のうとした少女は今、その歌声でたくさんの人に希望を与えている。
「死にたかったけどポエニクスの歌を聞いてもう少し生きてみようと思えた」
ポエニクスで検索すればそんな声が溢れている。
父が生涯で唯一愛した歌姫が主題歌を歌うアニメで、奇しくも俺は主演を務める。父の夢を図らずも継いだ形になったが、声優は俺自身の夢だ。桐原修斗の息子ではなく、桐原聖弥として役を全うしようと思う。
父は才能があったから、そのまま声優の道に進んでいたらレジェンドと呼ばれる人たちに肩を並べていただろう。
でも、ネームドの役をもらい拓けた道を捨てて医学の道に進んだ父の選択は決して間違っていなかった。
その何よりの証として母は今、生きている。そして俺が今、ここにいる。



