聖奈の腕を確かに掴んでいるはずなのに、聖奈はすぐにこの手をすり抜けて消えてしまいそうに錯覚する。いや、これは錯覚ではない。きっと飛び降りを力尽くで止めたところで、聖奈は舌を噛み切るなりして他の手段で死を選ぶ。俺に聖奈の心を繋ぎとめる力がないからだ。
 聖奈は最終下校時刻のチャイムが鳴ったら死ぬと言っていた。タイムリミットまでほとんど時間は残されていない。なのに言葉が出てこない。目の前にいるのに、聖奈が遠い。
「だから、私が全部忘れちゃう前に終わりにするの」
 聖奈はそう言った瞬間、最終下校時刻を告げるチャイムが鳴りだした。
「さよなら、修斗。大好きだったよ」
 その瞬間、ここで聖奈と過ごした数々の思い出が走馬灯のように流れ出した。聖奈の無邪気な笑い声。その声にずっと支えられてきた。何度も惚れた聖奈の歌声。その声に勇気づけられた。聖奈と夢を語らった日々が、今の俺を作っている。初めて恋をした日から想いは色あせることなく、今も俺は聖奈に変わらず恋をしている。

 考えるより先に体が動いた。空中へと足を踏み出そうとする聖奈の肩を強く掴んだ。死んでも離さない。もう片方の方も掴んで、フェンスに詰め寄った。
「忘れねえし、忘れさせねえよ」
 至近距離に聖奈の顔がある。聖奈は俺の豹変に驚いていた。
 俺は馬鹿だ。人の心に響くのはありきたりな言葉や理屈じゃない。大切なことは全部聖奈が教えてくれたじゃないか。俺はそれを返すだけだ。恋に落ちた瞬間流れていた音楽を葬送曲になんてさせない。ありったけの声で叫んだ。
「声を忘れても、その言葉を聞いたときの気持ちが消えるわけじゃないだろ!」
 だって俺はまだ覚えている。子供の頃に見たアニメにどれほど救われたか。聖奈の歌を初めて聞いたとき、どれほど魅了されたか。どれほど聖奈の声にドキドキしていたか。
「おばあさんに歌声を褒められて嬉しかったから、その気持ちをずっと覚えてたから、音楽の道を歩み続けたんだろ」
 聖奈が眉をぴくっとさせる。俺の想いよ、どうか聖奈の心に届いてくれ。
「俺は絶対忘れない! 三十年後に俺が聖奈の歌声を忘れても、俺が聖奈の歌声に救われたことも、その時の気持ちも、死んでも忘れるもんか!」
 聖奈はこの場所で「運命は自分で作るものでしょ?」と言った。あの時の決意は今も鮮明だ。俺たちの声で世界を救う。そう誓った。
「そうやって声で誰かの気持ちを動かすのが、俺たちの夢だったはずだろ。巴セナの歌を聴いた人たちが、いつか声そのものを忘れても、歌を聴いたときの感動は消えない。機械越しの声だって、絶対偽物じゃない! セナの歌を聴いた時の、心臓掴まれたみたいな衝撃はまぎれもなく本物だ。聖奈だって、俺が出てるアニメで機械越しの声を聴いて泣いてくれただろ。あれは嘘だったのかよ?」
「違っ……そんなつもりじゃ……」
 聖奈が途端に焦った様子を見せた。繋いだ聖奈の手に力が籠るのを感じる。「機械越しの偽物の声」はあくまで聖奈自身に対する言葉であり、俺のアニメ出演を貶めるつもりはないだろう。
 本来の意図と異なる形で俺に伝わったかもしれないと気にする姿。自分が生きるか死ぬかの話の時にそんなことを気にするなんて、聖奈はやっぱり優しい。俺が好きになったあの時から、根っこの部分は何も変わっていない。
「わかってるよ。過去になるのが怖かったんだよな。だから使ったんだろ、一生のお願い」
 聖奈が頷く。次から次へと新しいコンテンツが供給される時代だ。何も生み出せなくなったクリエイターは、過去の人になって、やがて人々の記憶から消えていく。録音した声が過去の遺物になっていくことを聖奈は恐れたのだろう。
「なあ、聖奈。俺は聖奈を過去になんてしないよ。だから、俺にも一生のお願い使わせてくれ」
 目をまっすぐ見て、俺の心からの言葉を誠心誠意伝える。
「三十年、いや二十五年……俺にくれ! ベートーヴェンが遺書を書いてから病気で死ぬまでの時間と同じ時間。細かく計算してないけど、五歳から十七歳までの体感時間と十七歳からの二十五年間って大体同じくらいだったはず。聖奈が俺の声を忘れるまでの時間を俺に預けてくれ」
 誰かの心を救うために声優を目指した。この声で世界を救うヒーローになりたかった。肝心な時に、世界で一番大切な人に声が届かないのならば俺の人生は無意味だ。
 聖奈は俺に恋を教えてくれた。夢を支えてくれた。俺にとって聖奈は世界そのものだ。今、この瞬間に俺の世界を救うために俺は今日まで生きてきた。
「耳が聞こえない状態でプロになれなんて無理難題ふっかけたりしない。聖奈は生きていてくれるだけでいい!」
 思えば簡単な話だった。俺たちがなぜアニメの登場人物に共感できるのか。それは彼らが行動しているからだ。行動しているから、言葉や声に説得力が生まれる。
 俺の言葉が聖奈に届かないのも当たり前だ。何も行動せずに並べた言葉が響くわけがない。だから、俺は俺の誠意を行動で示す。
「俺は医者になる。それで聖奈の病気の治療法見つけて、聖奈の世界に音を取り戻す」
 これが俺の答えだ。俺の世界は、俺自身の手で守る。その決意を聖奈に伝えるために、俺の声はあったんだ。
「ダメだよ! 修斗は声優にならなきゃいけないの! 高校生でデビューってすごいことだよ? これからって時に、その未来を捨てるなんて絶対間違ってる!」
 聖奈が声を荒らげて反対した。確かにこれは今までの人生を全部捨てる行為だ。これからの長い人生で進むルートを今この瞬間に決めるのは大きな決断だ。でも、絶対に間違ってはいない。
「人生の一つも懸けられないで何が愛だよ!」
 更に大声で言い返す。俺の夢は誰かを救うこと。俺がたまたま先人の声に救われたから、その道を選んだだけ。一番救いたい人を救う、それが俺の望む人生だ。
「世の中にお医者さんはたくさんいるのに、わざわざ修斗がやる必要ないじゃん」
「そうだな、俺が進路変更しなくても誰かがやってくれるかもしれない。でも、聖奈が目の前で苦しんでるのに何もしないなんて、俺にはできない」
「だからって、せっかく才能あるのにもったいないよ」
「もしも神様が同じように『こいつは声優をやるべきだ』って思ってくれたら、明日急に治療法発見されるかもな」
 神様なんて本気で信じているわけではない。俺が治療法を発見するなんて客観的に見て無謀な挑戦だ。それでも、ほんのわずかでも可能性が上がるならそれに賭ける道を選ぶ。
「なにその突拍子もない発想……」
「こちとら新技術の発明家の家系なんでね」
 学校の成績が少しいい、発明家の血筋、自信なんてたったそれだけの薄い根拠しかない。でも、できるかできないかじゃない。やるんだ、人生を懸けて。
「無謀だよ。ダメだったら本当に何も残らないよ。人生棒に振ることになったらどうするの?」
 聖奈はやっぱり優しい。生きるか死ぬかの瀬戸際で、俺の心配をしてくれている。聖奈が俺の声に価値を見出して、俺の声を愛してくれた。それで充分だ。
「その時はそういう運命だと思って一緒に死んでやるよ。死ぬときは一緒だ」
 男に二言はない。
「でもな、そんな運命になんてさせない。絶対治療法見つけるか、神様を惚れさせてやるよ」
 はっきりと新しい目標を口にした。聖奈の声はあの日俺に夢が叶う魔法をかけてくれた。聖奈が自分の目標をたびたび口にしていたのは、自分を鼓舞するためでもあったのだろう。だから、俺も進むべき道を声に出す。俺の声よ、俺に魔法をかけてくれ。これが俺の声優としての最後の仕事だ。
「運命は自分で作るもんだろ」
 俺がそう言うと、聖奈の目からまた涙があふれた。
「修斗……」
 聖奈が俺の名前を呼んだ。その声にはかすかに俺が心を丸ごと奪われた赤い光が宿っていた。一瞬の間の後、抱き着かれる。
「酷いこと言ってごめんなさい……」
「いいよいいよ。長い人生、そういう日もあるだろ」
 泣きじゃくる聖奈を抱きしめてなだめた。
「聖奈、好きだよ。俺と一緒に生きてくれるか?」
 俺の腕の中で聖奈がこくんと頷いた。屋上に静寂が訪れる。すっかり暮れた空に真っ赤なベテルギウスが煌めいていた。