――『それじゃあ芽衣、これ、後夜祭の俺たちのステージの最前列のチケット。芽衣には一番前で俺のことを見てほしいんだ』

 そう言って冬真から手渡されたチケット。それを手に、芽衣は教室に戻るために一人で廊下を歩いていた。
 時刻はそろそろ夕方。グラウンドに沿って作られた窓から射しこむ夕陽が、場内を橙色に染め上げている。どのクラスの模擬店もそろそろ店じまいだ。各教室は片付けをする生徒たちの姿が散見された。
 もうすぐ昼間の文化祭は終わりで、後夜祭が始まる。グラウンドに作られた野外ステージで、各有志のグループが今まで練習してきた腕を披露する。本格的なパフォーマンスが始まるのだ。
 冬真たちのグループはたしかラストステージを飾るはず。みんなの期待値も高い。

(冬真くん、かっこいいだろうなあ……)

 ステージで光を纏いながら歌っている冬真を想像する。そしてさきほど彼と唇を重ねたことを思いだして、芽衣はじわじわと顔が熱くなってしまった。
 ……いまだに、信じられないのだ。
 彼も自分もお互いのことが好きで、彼と恋人同士になっただなんて。
 そもそも自分に彼氏ができたということ自体が、ちょっと信じられない。それなのに、その相手がまさか『Honey Blue』の鳴海 冬真だなんて。

「……や、やっぱり私、身の程知らずだったんじゃ……」

 いまさら不安になってくる。これからどうなっていくのだろう。悶々と考えながら自分の教室の戸を開ける。

「あれ、誰もいない……?」

 教室内は、粗方片付けが済んでいるようだった。机も椅子もきちんと元の位置に戻してある。間仕切りに使っていたパーテーションが少し残されているだけだった。
 もしかしたら、みんな片づけを早めに終えて後夜祭を見にグラウンドに行っているのかもしれない。

(杏がいたら一緒に後夜祭に行こうって声かけようと思ったんだけど……)

 いないなら、ひとりで行くしかないだろう。
 そう思いながら、芽衣はふとベランダから見える夕暮れの学校風景に目を向ける。遠目に見えるグラウンドには少しずつ明かりが灯り始め、これからの後夜祭の準備が着々と進んでいることを思わせた。

(急がないと、後夜祭が始まっちゃうかな……)

 そう思いながらも、芽衣はなんとなく考えに耽りたくてベランダへまろび出る。
 髪をなでていく夕暮れ時の優しい風が心地良い。紫に暮れていく空がもうすぐ来る夜の訪れを告げてくれる。

 ……冬真と両想いになった自分は、これからどうなっていくのだろう。

 親、学校、冬真の事務所、そういったところに事情を説明することになるのだろうか。
 それとも、そこまでの大ごとにはならないのだろうか……。
 自分の気持ちに正直になって彼に好きだと伝えてしまった。けれど、取り返しのつかないことをしてしまったんじゃ……という不安はぬぐえないのだった。

 ――私は本当に、冬真くんの彼女になってよかったのかな……。

 こんなことを聞けば、きっと冬真を困らせてしまうかもしれないけれど。
 意気地のない自分が情けなくて、短く息を吐きだしたそのときだった。
 がらり、と教室の扉が開かれる。誰だろうと振り向いた芽衣の視界に、暗い目つきをした美香が戸口に立っている姿が映った。特に後ろめたいことなどないのに、なぜか嫌な予感がして芽衣は息を呑む。

「あ、小林さ――」

 芽衣が教室の中に戻ろうとした瞬間だった。眉をつり上げた美香が勢いよく駆けだしたのだ。呆気に取られている芽衣の目の前で、美香はベランダの戸をぴしゃりと閉めた。そしてすぐに鍵をかける。

 ――えっ……?

 目の前で閉められたガラス張りの扉。うつむいている美香をガラス越しに見て、芽衣は目を白黒させることしかできなかった。
 何が起こったのだろう。

「小林さん……? 何をして――」

 ひやり、と冷や汗が頬を伝った瞬間だった。戸口の鍵に手をかけたままうつむいていた美香が、眉をきつく寄せて怒りに燃えた顔をあげた。

「鳴海くんのこと、あんたなんかに渡さないからっ……!」
「え……?」
「あたし、知ってるんだから! あんたと鳴海くんが、さっき、そういう話をしてたこと!」
(え―――……!)

 芽衣は、ガラス越しに驚愕の表情を向ける。

「……まさか小林さん、見てたの……?」

 いや、充分にあり得ることだ。
 皆が通りかかるようなところで二人で話していたのだから。誰に見られていてもおかしくはない。
 芽衣は、どう答えていいものかわからなくてうつむく。この場でどう答えることが正解なのかわからない。
 美香が憤りを抑えきれない様子でまくし立てる。

「そもそもっ、あんたなんかが鳴海くんとつりあうわけないでしょ! これからどんどん人気になってく鳴海くんと、一般人のあんたが付き合ったって上手くいくはずないじゃない!」
「それ、は……」

 ――上手くいくはずがない。

 それは、自分がずっと恐れていることだった。
 冬真が人気になっていけばいくほど、自分は彼に釣り合わなくなっていくのではないか。
 いつか、置いていかれてしまうのではないか。
 そうして自分は、やっぱり彼にはふさわしくなかったんじゃないかと、傷つくだけなんじゃないだろうか……。
 彼が好きだという素直な気持ちだけに従ってしまったけれど、本当はそれは間違いだったんじゃないかって、心の隅で思っている部分もあるのだ。きっとこれは、ずっと自分が抱えていかなければならない問題なのだろう。
 芽衣は一度息を吸い込むと、目の前の美香をまっすぐに見つめた。

「……わかってるよ、そんなことはわかってる。私も、自分が冬真くんと釣り合ってないって思ってるけど……。でもそれは、冬真くんと私が選んだ道が違うだけであって、釣り合うかどうかの問題じゃないと思ったんだ」

 冬真はボーカリストとして自分の道を生きていくことを決めた。対して自分は、おそらく普通に高校を卒業して大学に進んで会社員になる道を選ぶことになるのだと思う。
 ボーカリストと会社員、自分が稼いで生きていくために選んだ道が違うのであって、そこを比べても仕方ないと思ったのだ。
 ボーカリストの冬真が人から注目されて人気になるのはあたりまえのことで、それも仕事のうちなのだと思う。人気者であることは、ぱっと見うらやましく見えるかもしれないけれど、人気を保ち続けるということはとても大変なプレッシャーだと思うのだ。
 つまり、彼は自分の仕事をきちんとこなしているからこそ、みんなから注目されて愛される人物でいる。
 彼の名声は、彼が仕事に誇りをもって取り組んで勝ち取っているものであって、それに対して、冬真が望んでもいないのにそれに負い目を感じて彼と自分が釣り合うかどうかを考えてしまうのは、彼に対して失礼だと思ったのだ。

 ――だから。

 迷うこともあるけれど、自分は、それを恐れて冬真と距離をとってしまってはいけないと思った。
 自分は冬真のことが好きで、彼も自分を好いてくれている。
 その事実と、冬真に名声があることを混同して考えてはいけない気がしたのだ。
 芽衣はあらためてその考えを心に思い起こす。しっかりと意思のこもった目で美香を見返した。

「だから私、もう冬真くんの凄さのことで悩むことはやめたんだ。ボーカリストの彼のことを尊敬しながら、私は素の彼を好きでいたいって、彼のそばにいたいって思った。だから、冬真くんのことは譲れない」

 きっぱりと言いきる。美香は一度、悔しそうに唇を噛みしめた。
 そして、振りきるようにして教室を飛びだしていった。

「待っ、待って、小林さんっ……!」

 芽衣は鍵が閉められたままの扉に手をかけて、ばんばんと軽く叩く。
 静まり返った校舎内。きっと中に残っている人などいないかもしれない。助けを呼んでも誰も来てはくれない。

 ――閉じ込められちゃった……。

 何度か扉を叩いて誰かを呼んでみたけれど、誰かが気づいてくれる気配はない。
 お腹がひやりと冷たくなって、芽衣はその場にぺたんと座り込んだ。
 このままじゃ、私……!

『芽衣には一番前で俺のことを見てほしいんだ』

 そう言って最前列のチケットを渡してくれた冬真の笑顔を思いだす。
 制服のポケットを探ればそのチケットがしっかりとしまわれていて――芽衣は、それを両手で握りしめて唇をかむことしかできなかった。
 このまま、誰も来てくれなかったら……。
 後夜祭に間に合わないかもしれない。
 冬真との約束を守れないかもしれない。

「楽しみに、してたのにっ……」

 それに、このまま誰にも気づかれないままここにいたら、たくさんの人に迷惑をかけてしまうことになる。

 ――自分でなんとかしなくちゃ……!

 立ち上がってベランダから後方を振り返る。二階にある教室からではとてもではないが飛び降りられる高さではない。
 やはり、声を出し続けて誰かに気づいてもらうしかないだろうか。

「それとも、なにか鍵をこじ開けられるものとかないかな?」

 芽衣は、チケットを大切にポケットにしまう。ベランダになにか目ぼしいものが置かれていないか探し回る。

 ……なんとしても。
 ――なんとしても、後夜祭までに、ここを抜けださなくちゃ……!